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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/


東洋医学は、先秦時代に誕生し、漢代にまとめられ、人間学、養生医学として現代に伝えられています。天地を一つの器とし、人身を一小天地と考えた天人相応の概念を基礎とし、それをよりよく理解するために陰陽五行の方法を古人は生み出しました。臓腑経絡学は、あるがままの生命である「一」天人相応の「一」を実戦的に表現した、核となる身体観となっています。

天地を「一」とし、人を小さな天地である「一」とするという発想が正しいか否かということは検証されなければなりません。

これは東洋思想の基盤である「体験」から出ています。

この「一」の発想は、古くは天文学とそれにともなう占筮からでています。また、多くの仏教者はこのことを「さとり」として体験しています。止観を通じて自己を脱し「今ここ」の全体性を体験しているわけです。そして多くの儒学者の中でも突出した実践家である王陽明は明確に、「万物一体の仁」という言葉で、この「一」を表現しています。日本においては、古代から江戸時代へと続く、神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く視座となっています。


視座とは、ものごとを理解し体験するための基本的な視点の位置のことです。東洋思想の真偽を見極めるためには、この「視座」を獲得する必要があります。それは、真実を求めつづける求道の精神を持ち続けることによってしか得ることはできません。この姿勢は実は、科学的な真理を求める人々に共通する心の姿勢です。実事求是―事実を探究し正否を定めていく上での基本的な姿勢です。

この心の位置を始めにおいて、我々はまた歩き始めます。東西の思想や医学を洗い直し、新たな一歩をすすめようとしているわけです。

医学や思想の基盤を問うこと、ここにー元流の本質は存在します。

体験しそれを表現する。その体験の方法として現状では体表観察に基づいた弁証論治を用い、臨床経験を積み重ねています。それを通じて浮かび上がってくるものが、これからの臨床を支える基盤となります。いわば今この臨床こそが医学の始まりです。

我々の臨床は自身のうちに蓄積された東西両思想、東西両医学の果てにあるものです。そして、この場こそが、まさに思想と医学が再始動する場所です。

臨床において我々は、何を基礎とし、何を目標とし、何を実践しているのでしょうか。この問いは、古典をまとめた古人も問い続けた、始まりの位置です。この始まりの問いに、再度、向き合っていこうではありませんか。
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目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。

方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。

第一期 期限:2020年10月10日

■参加方法■

■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。

■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。

■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。

■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。

■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。

■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
   出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。


懸賞金

■特別賞:十万円

■優秀賞:一万円

■奨励賞:五千円

選者:伴 尚志

送付先:ban1gen@gmail.com

受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。

各賞の受賞本数は定めません。


【参考論文】

参考論文として私の発表しているものを提示しておきます。この参考論文は、私の興味の及んだ範囲ですので、狭いと思います。世界がもっと拡がると嬉しいです。

自分の井戸を掘る、ただし独断ではなく他の人々が理解できるように。ということを目標にしていただけると幸甚です。

【一元流鍼灸術とは何か】 一元流鍼灸術の道統
【奇経一絡脉論とその展望】 奇経を絡脉の一つとした人間構造
【『難経』は仏教の身体観を包含していた】  『難経』に描かれている身体観
【日本型東洋医学の原点】 江戸時代初期の医学について
【本居宣長の死生観】 死生観について
【鍼灸医学のエビデンス】 エビデンスを磨く上での課題と目標
人間理解としての気一元の観点


一元流鍼灸術では、気一元の観点に立って人間を観、治療していくということを基本姿勢としています。

この「観点に立つ」ということはどのような意味か、ここが意外と問題になるようですので説明しておきます。

一元流鍼灸術は、東洋医学の観点に立った治療技術です。その基本は人間理解にあります。気一元の観点に立つということはどういう意味かというと、生きて動いている生命そのものの観点に立って観るということです。

患者さんは治療院に来院される際、多くの場合、病気や苦痛を訴えています。治療院に対して求めるものがそれに対する解決です。その訴えをそのまま聞いていると、病気の側に立ち病気に対してだけ治療を進めるという姿勢が出てきます。

病気の原因を探求し、それがその人の心身の中でどのような位置づけになっているのか。これを解決するにはどうすればよいのか。これが悪化するとどういうことになるのか、というような全人的な人間理解の観点はここからは出てこなくなってしまいます。けれどもこの全人的な人間理解の観点はこそが、実は東洋医学の観点なのです。

このため一元流鍼灸術では、気一元の観点という言葉が大切にされているわけです。
観るということ―章門を契機にして


> 章門を見るのは何を見てるのでしょうか?
> 章門、脾の募穴?臓会など、ありましたが。
> お願いします。


章門に限らず、「見る」という時、ただ見るということが基本になります。

ただ、ただ見るというだけでは見る目標が定まりませんし、何も見ていないのと同じようになってしまいます。

そのため、全体を診てその身体の歪みがどのあたりにあるのだろうかということを調べていきます。それが弁証論治の全行程です。

それでは、弁証論治の全行程の中で体表観察はどのような位置を占めるのでしょうか。

それは、実際に身体に表れている、その表情を読んでいく、そこから情報を読み返していく、という位置となります。この意味については後述しています。

問診や時系列の問診では言葉のやりとりですので頭の中で考え整理していくこととなります。

それに対して切診では、実際に体表に現れているものを見るということになります。

ただ見て、何かを感じ取った時、それが「なぜそこに表現されているのだろう?」という方向から考えていくわけです。ここが大切なところです。

章門が臓会であったり脾の募穴であったりという情報は後付けのものです。参考程度にしかなりません。その患者さんの全体の身体の中のその位置にどうして今その表情が出ているのか、ということが考えなければならないことです。章門は肝の相火の上辺にありますので、肝の相火の問題と考えることもできます。肝経上の経穴ですのでそれとの関係で考えることもできます。帯脉の上に位置しますのでそれとの関係とも考えられます。大包の下にありますので脾の大絡との関係と考えることもできます。右の衝門は肝臓の位置するところですので肝臓の反応が出ている。左の章門は膵臓の位置するところですので膵臓の反応が出ている。そんな風な発想をすることもできるでしょう。

大切なことは今なぜそこに反応を出しているのだろうかとそれを不思議に思う気持ちです。この気持ち―違和感を大切にしながら、他の弁証論治の項目や体表観察と組み合わせて身体の状態を理解していこうとするわけです。


一元流鍼灸術勉強会に入会希望の方からいただいたメールです。
気づいたことなどお裾分けさせていただきます。


| 患者さんの生命をシステムに当てはめるのではなく、ありのまま診て治療
| できるようになるにはどのように勉強し経験を積んで行けば良いのかを学
| 生時代からずっと考えていました。

ありのままに診、治療する。ということはまさに一元流鍼灸術で目的として
いることです。
そして、ここには乗り越えなければならない大きな課題があります。

その一つは、ありのままに診るというとき、それを行う際の治療者側の心の
姿勢が問われるということです。

患者さんが治療を受けにやってくる際、多くの場合は、症状をとってほしい
という目的で来院されます。そうすると、患者さんの要求に応じようと術者
の側も症状をとるために身体を診、症状をとるための処置穴を捜すというこ
とをやりがちになります。

これでは、ありのままに診るということにはなりません。
目的を持って診るということはありのままに診るということとはまったく異
なる行為だからです。
ですから、ありのままに診、治すというとき、これをやりがちになる自身の
心の持ち方を、しっかり根本から問い直す必要があります。

さらに深く思いを凝らすと、ありのままに診るためには、術者の心が安定し
ている必要があります。
診れないのではないか。治せなかったらどうしよう。うまく治すにはどうす
ればいいのだろう。
心が乱れていると脉も経穴も分からなくなってしまいます。
心を乱さず、過度に入れ込まず、淡々と。
まるでスクリーニングの作業をするかのように診て処置を施し、施した処置
が患者さんにどのような影響を与えたのか確認する作業をしていく。
その一連の作業の積み重ねが大切です。

診る際、患者さんが生きている人間であるということを忘れてはなりません。
患者さんが生きている人間であるということはどういうことかというと、そ
の身体が毎瞬々々変化していく、ということです。
今回勉強会で比較舌診をしました。その中には、診るたびに舌の状態がよく
なっていく人がいました。
生きているのですから、そのように変化していくわけです。
固定した死物を診ているのではないということは、とても大切なことです。
変化していく中の、今の瞬間を切り取ってみている。
その中で処置すべき経穴を見つけてそこに処置していくわけです。


あるがままに診、治療していくというときに再度大切になることは、患者さ
んの症状に囚われていてはあるがままに診ることができないということです。
これは患者さんの立場からすると、症状をなおしてもらいに治療院に行った
のに、関係ない処置をされて帰される可能性があるということです。
このことについて深く考えてみる必要があります。

症状が、全身状態を反映されて出ているということであれば、あるがままに
診ている状態と処置穴とが一致しやすくなります。
内傷病で全身状態とリンクして症状が出ているものがそれです。

これに対して、外傷などによるものの場合は、全身状態とリンクしていない
場合が多くなります。
そのため、あるがままに診ても、症状をとることにつながらなくなります。
症状をとろうとするためには、治療方針は別に立てる必要が出てきます。

生きている人間にはこの両者―内傷病と外感病とが同時に複雑に絡み合った
状態で発現している場合が多いのです。

症状が起こっている場所が身体であり、内傷と外感相方を取っていく力があ
るのは「生命力の充実」以外のなにものでもありません。
このことに思い至る時、あるがままに診、治療するということは、養生の手
助けをするということともっとも親和性が高いということに思い至ります。
そこに考えが至ると、生活指導が非常にたいせつであるということが理解で
きるようになります。
生活指導なしに養生治療は成立しないと言うこともできます。
治療処置とともに治療頻度および生活全般の指導ということが、鍼灸治療に
おいて実は非常に大切になるのはこのような理由によります。

あるがままに診、治療していくということに関連していくつかの注意すべき
ことについて触れてみました。


| 鍼灸師としてのスタートを切ったばかりで手探り状態ですが、人体の生命
| 観をしっかりと捉えられるよう勉強していきたいと思っています。

おっしゃるとおり、生命観はとても大切です。
テキストには、脾胃を中心とした生命観、腎を中心とした生命観などが掲載
されています。
どのような生命観が臨床に使いやすく効果が上がりやすいのかということを
考えて、一元流鍼灸術では現在、難経鉄鑑の六十六難の図(テキスト192頁)
にいたり、さらに肝木の図の発想を中心として考えています。

沢田健先生は、難経鉄鑑の六十六難の図を「黙って座って視、元気の流行と
栄衛の往来を省察しなさい。そうして身中における一太極を理解しなさい。
それができれば、自然に万象の妙契〔伴注:すべての事象の妙なる関係性〕
を貫穿(かんせん)する〔伴注:明確に理解する〕ことができます。」と述
べています。

肝木の図に関してはテキストにはまだ掲載されていません。
東洋医学で人を見るというフェイスブックの頁に簡単な解説が記されていま
す。
眺めて理解を深めていただけると幸甚です。

あるがままに観る

一元流鍼灸術では、あるがままのものをあるがままに観て、あるがままそれを理解しようとします。そのためにこのテキストの第一章で示されたような発想法や、一元流の弁証論治を提供しているわけです。

そこにある生命そのものを丸ごと一つのものとしてみようとする東洋医学では、そこに存在する生命に触れるという謙虚さと、対象を損傷させない用心深さとが要請されます。あるがままにみようとするということは、対象となる生命にそのままそっと触れ「みさせていただく」という姿勢が必要なわけです。

感覚が鈍っていると、よくみえないために思わず力をこめてしまい、それが観ることであると誤解しがちになります。よりよく観ようとしてさらに力を込めていくため、観る対象を損傷し、ありのままにあるものではなく、自身の観ようとする行為によって変容させられた残骸しかみえなくなってしまいます。そこからは、患者さんのありのままの状態を観るということは到底不可能になってしまいます。

観る前に手をできる限り作っておくこと、これは勉強会に際してよく言っていることです。手を作るということは、実際的に手を暖め、安定した感覚にしておくということの他に、上記のような観る心の姿勢をきちんと定めるということがあります。

その上で、実際に観るときには、その手を信頼して、観れる範囲で観ていくわけです。ここに「全てをみたい」などという欲望が入ると、指に力が入り対象を変容させてしまうため、観ることはできなくなります。



鍼灸医学は、東洋思想に基づいた人間学にしたがって人間を見つめることを通じて、その生命医学・実証医学としての体系を作り上げてきました。

この基本とは何かというと、観ることです。観て考え、考えてまた観る。事実とは何かということを観る、とともにその底流に流れる生命原理について思いを尽す。その無窮の作業の果てに、現在古典として伝えられている『黄帝内経』などの書物が出来上がっているわけです。

鍼灸師としての我々はそれらの書物を基にしてふたたび無窮の実態、古典を古典としてあらしめたものそのものである、目の前に存在する人間そのものに向かっていくわけです。そして、どうすればよりよくそれを理解できるだろうか、どうすればその生命状況をよりよい状態へともっていくことができるだろうかと探求しているわけです。


古典というものは、いわば身体を旅するための地図の役割をしています。時代によって地域によって違いはあります。けれどもその時代その地域において、真剣に人間を見続けたその積み重ねが、現在我々が手にすることのできる資料として言葉で残されているわけです。これはまさにありがたいことであると思います。

この深く重厚な歴史の積み重ねは、東洋医学の独壇場ともいえるでしょう。けれどもその書物の山に埋もれることなくそれを適宜利用していけるような人材を作るということが、学校教育に求められています。外野としての私は、その支援の一つとして、中心概念をここに明確にしています。それが気一元として人間を見るということと、その古代哲学における展開方法としての陰陽と五行の把握方法をお伝えすることであるわけです。


古典という地図には読み方があります。そもそもの原典であり古典である患者さんの身体は、時代や地域によって異なります。現代には現代の古典となるべき地図が、実は必要です。現代の人間観、宇宙観にしたがいながらも、目の前に存在している人間を観ることに徹底することによってはじめて、古典を綴った古人とつながることができます。この心意気は必ずや、現代における未来への古典が綴られることにつながっていくでしょう。これこそが澤田健先生の言われた、「死物である書物を、活物とする」技となります。


思えば、古典を読むという際の白紙の心と、目の前の患者さんの身体に向かう際の白紙の心とは同じ心の状態です。無心に謙虚に、対象をありのままに尊崇する心の姿勢が基本となります。


このあたりのことが、『鍼道秘訣集』に書かれている心がけの大事ということになります。

初原の門

東洋医学を勉強したり治療において症状の解決技術に着目したりしていると見失われてくるものが全体観、気一元の観点から観るという視座です。昔、学園闘争華やかなりし時代に、東大の教授が専門のことしか知らないことから「専門ばか」と揶揄されていましたが、彼らが見失っていたものがそれです。学問の細かい世界においては、顕微鏡を覗くような、重箱の隅をつつくようなものを積み重ねて検証していくということは必要です。しかし臨床においては、全体観を見失うことは許されることではありません。この端的な例が、手術には成功したけれども患者さんは亡くなってしまったという言いわけです。よりよく生きるということを目指すべき医療において、生命力をどのようにつけていくのかという観点がおろそかになっているため、このような事態を引き起こし、このような言いわけが通用すると考えてしまうわけです。


見ることを始める位置。初原の位置は、ぼやっとはしているけれども、生命そのものの交歓を眺めうる視座(視点の位置)です(いわゆる子供の視座)。そこから生命って何だろう?人はどうやって生きているのだろう?この症状を取るにはどうすればいいだろう?東洋医学って何だろう?という疑問と好奇心が始まります。ところが徐々に、生命の交歓から離れ、書かれているものを読み、全身の状態を離れて局所の(にあると思っている)症状にとらわれていくことになってしまうわけです。とらわれているという点で、これは罠であると言うこともできるでしょう。


もともと生命そのものを喜び慈しみあう美しさに充ちた世界を、さらによく理解したいという興味、好奇心から始まった言葉の世界が、知るという喜びからわれわれの心を引き離してしまう。この罠は、「知恵の木の実」をたべてエデンの園から追放されたアダムとイブが引っかかった、蛇の罠のようです。


「一元流鍼灸術の門」は、その罠に陥った中医学や東洋医学を学ぶ方々へ、ふたたび立ち戻る位置を示したものです。気一元の観点に立脚してきちんと観ていくということは、まさに生命そのものを問い続ける作業でです。このゼロの位置とは何か。初原の位置とは何か。何を自分は観ようとしていたのか。それを思い起こし再び臨床と勉強に臨んでいく「初心の門」こそが「一元流鍼灸術の門」であるわけです。

患者さんの身体から学ぶというとき、その方法論として現代医学では、臨床検査やレントゲンやCTなどを用います。筋肉骨格系を重視するカイロなどでは、その身体のゆがみや体運動の構造を観察する方法を用います。東洋医学では望聞問切という四診を基にしていきます。一元流でこの四診を基にし、生育歴(時間)と体表観察(空間)とがクロスする現在の人間の状態を把握します。

これらすべては、人間をいかに理解していくのか。どうすれば人間理解の中でその患者さんに発生している疾病に肉薄していけるか。そのことを通じて、その患者さんの疾病を解決する方法を探るために行われます。

一元流鍼灸術の特徴は、生きて活動している気一元の身体がそこに存在しているのであるということを基本に据え続けるというところにあります。


東洋医学はその発生の段階からこの全体観を保持していました。そして、体表観察を通じて臓腑の虚実を中心とした人間観を構成していきました。臓腑経絡という発想に基づいたこの人間観こそが東洋医学の特徴であり、他の追随を許さないところであると思います。

「患者さんの身体から学ぶ」この営為は、東洋医学の伝統となっています。そもそも、東洋医学の骨格である臓腑経絡学が構成されていった過程そのものがこの「患者さんの身体から学ぶ」という営為の積み重ねた末の果実なのですから。

ただ、この果実には実は一つの思想的な観点があります。生命そのものを観、それを解説するための観点。それが生命を丸ごと一つとして把え、それを陰陽という側面、五行という側面から整理しなおし再度注意深く観ることを行う、ということです。

この、実在から観念へ、観念から実在へと自在に運動しながら、真の状態を把握し解説しようとすることが、後世の医家がその臨床において苦闘しながら行ってきたことです。

一元流鍼灸術では、その位置に自身を置くこと、古典の研究家であるだけでなく、自身が後学のために古典を書き残せる者となることを求めているわけです。

古典を学び、それを磨いて後学に手渡すことを、法燈を繋ぐと言います。

この美しい生命の学が、さらなる輝きを21世紀の世界で獲得するために、今日の臨床を丁寧に誠実に行なっていきましょう。


古代の人間がどのように患者さんにアプローチしてきたのかというと、体表観察を重視し、決め付けずに淡々と観るということに集約されます。今生きている人間そのものの全体性を大切にするため、問診が詳細になりますし、患者さんが生きてきたこれまでの歴史をどのように把握しなおしていくのかということが重視されます。これが、時系列を大切にし、今そこにある身体を拝見していくという姿勢の基となります。

第一に見違えないこと、確実な状態把握を行うことを基本としていますので、病因病理としても間違いのない大きな枠組みで把握するという姿勢が中心となります。弁証論治において、大きく臓腑の傾きのみ示している理由はここにあります。そして治法も大きな枠組みを外れない大概が示されることとなります。

ここまでが基礎の基礎、臨床に向かう前提となる部分です。これをないがしろにしない。土台を土台としてしっかりと築いていく。それが一元流鍼灸術の中核となっています。


それでは、実際に処置を行うにはどうするべきなのでしょうか。土台が基礎となりますのでその土台の上にどのような華を咲かせるのか、そこが個々の治療家の技量ということになるわけです。

より臨床に密着するために第一に大切なことは、自身のアプローチの特徴を知るということです。治療家の技量はさまざまでして、実際に患者さんの身心にアプローチする際、その場の雰囲気や治療家の姿勢や患者さんとの関係の持ち方など、さまざまな要素が関わっています。また、治療家によっては外気功の鍛錬をしてみたり、心理学的な知識を応用してみたりと様々な技術を所持し、全人格的な対応を患者さんに対して行うこととなります。

病因病理を考え、弁証論治を行うという基礎の上に、その様々な自身のアプローチを組み立てていくわけです。早く良い治療効果をあげようとするとき、まず最初に大切なことは組み立てた基礎の上に自然で無理のないアプローチをするということです。ここまでが治療における基本です。

さらに効果をあげようとするとき、弁証論治の指示に従って様々な工夫を行うということになります。それは、正経の概念から離れて奇経を用いる。より強い傾きを患者さんにもたらすために、処置部位を限定し強い刺激を与える。一時的に灸などを使い補気して患者さんの全体の気を増し、気を動きやすくした上で処置部位を工夫する。外邪と闘争している場合、生命力がその外邪との闘争に費やされてしまいますので、それを排除することを先に行うと、理気であっても全身の生命力は補気されるということになり、気が動きやすく導きやすくなる。

といったように、気の離合集散、升降出入を見極めながら、弁証論治で把握した患者さんの身体の調整を行なっていくわけです。

一言で言えば、気一元の身体を見極めて、弁証論治に従いながら、さらにその焦点を明確にしていくことが、治療における応用の中心課題となるわけです。このあたりの方法論は古典における薬物の処方などで様々な工夫がされており、とくに傷寒論の方法論は参考になるものです。

一元流鍼灸術が描く未来像


■一元流鍼灸術の目指すもの

一元流鍼灸術の基本は、気一元の観点で観るというところにあります。

その際の人間理解における背景となる哲学のひとつに、天人合一論があります。これは、天地を気一元の存在とし、人間を小さな気一元の存在としていわばホログラムのような形で対応させて未知の身体認識を深めていこうとするものです。

天地を陰陽五行で切り分けて把握しなおそうとするのと同じように、人間も陰陽五行で切り分けて把握しなおそうとします。これは、気一元の存在を丸ごとひとつありのままにあるがままに把握しようとすることを目的として作られた方法論です。このことによく注意を向けていただきたいと思います。


この観点に立って、さらに詳しく診断をしていくために用いる手段として、体表観察を用います。体表観察していく各々の空間が、さらに小さな気一元の場です。天地を望み観るように身体を望み観、全身を望み観るように各診断部位を望み観る。この気一元(というどこでもドア)で統一された観点を、今日はぜひ持って帰っていただきたいと思います。

ここを基本として一元流鍼灸術では人間理解を進めていこうとしています。確固たる東洋医学的身体観に立って、過去の積み重ねの結果である「今」の人間そのものを理解していこうとしているわけです。

ここを基礎として、精神と身体を統合した総合的な人間観に基づいた大いなる人間学としての医学を構築していきたいと考えているわけです。

東洋医学の可能性の深さについて

一元流鍼灸術では、その初発の時点で「医学としての東洋医学」を目指していました。

けれども東洋医学の研究が深まってくると、病人と健康人との区別が明確ではない、食事と薬膳と漢方薬との区別が明確ではない、遊びと仕事との区別が明確ではない、傷つけることと治療との区別が明確ではないということに気づかされてきました。


このあたりのことは、「一元流鍼灸術の門」の「病理」、「鍛錬と疾病」に少し暗示的に書いてあるわけですが、健康と病気との間に分かれ目などないということ、鍛えるということと壊すということの間に分かれ目などないということは、詢に深い養生への視座を与えてくれるものでありまた、気を病まざる患者さんに無限の希望を与える視座でもあります。

行為の中心には人間が厳然と存在しています。それも、個々の、各々の肉体と精神を保持している人間。その各々の人に、肉体を鍛えることがあり精神を鍛えることがあるわけです。

同じ行為であっても、その強さが強すぎると肉体も精神も破壊されます。同じ行為であっても、その強さが弱すぎると肉体にも精神にもたいした影響を受けません。治療にもならず快感だけがある程度存在するという、中途半端な慰安的施術がそこに存在することとなります。

治療的な施術とはどのような場にあるのかというと、そこに存在する一元の場としての人体をしっかりと把握し、その気の偏在を調えるよう病因病理を探索し弁証論治を行い、その中心的な矛盾を打ち抜く!ように処置を施すところにあります。

このような生きている生命としての人間把握と、その動きに基づいた治療処置とは、西洋医学などの追随することのでき得ない場なのです。

東洋医学の治療効果を宣伝したいがあまり、治療技術という側面から東洋医学の秘伝を探求する傾向があります。他の手技や治療技術あるいは民間療法でも西洋医学でもこの同じ舞台、治療技術という側面から研究開発が行われています。それと張り合いたい東洋医学家がいるということなんですね。

けれども未病を治すという言葉があるとおり、東洋医学の本態は生命力を増進させるというところにあるのです。別の言葉を用いると、生命力の発条と病気とを分離せず、生命の中に病気があり生命の涯(はて)に死があるという考え方を東洋医学は基本的に採っているわけです。

生きている間は死んではいない、生きている。その生命をいかに生きるかというところが、今生きている人々の、個々人のお楽しみなわけですね。それに寄り添うようにより活発に生きることができるように励ましていくということが、東洋医学の本来の役目です。

そのために人間理解があり、そのために生命の中のどの部分がどのように病んでいるのかという病態把握があるわけです。そしてこの生命を理解する方法論を「弁証論治」と一元流鍼灸術では呼んでいます。病気はその生命の中の一部にすぎない。生きている生かされているから病があり困窮するところがあるのであって、その逆ではないということが基本的な発想となります。

東洋医学の病気治しの基本は、病気を治すことにあるのではなくて、生命力を増進させることによって増進された生命力が自然に病気を治していくと考えるところにあります。そのために「東洋医学の人間学」を学び構築していこうとしているわけです。
経絡治療が理論的に破綻している件

体表観察をおろそかにし、機械論的人間観しか持ち得ず、基礎理論と臨床各論との間に統一的視野が構築されていないという理由で中医学を批判しましたけれども、日本独特の鍼灸術ということでもっとも歴史のある経絡治療について一言。

経絡治療ということで一括りにされるべきではないほどの、理論的な積み重ねと、古典に対する真摯な取り組みが個々なされていることを、私は理解しています。が、しかし、経絡治療家のもっとも根源的な問題は、本治法という古典に本づいているとして構築した理論による治療と、標治法という局所治療あるいは症状取り治療とが断絶しているところにあります。

どのように古典を駆使して美しい本治法という理論を作り上げようとも、それに従うだけでは充分な治療効果をあげられないあるいは治療についての説明をすることができないということでは、それは欠陥理論であるといわなければなりません。問題なのは、古典の専門家とも言えるほど理論構築をされている方が平然と、本治法と標治法とを分けてしまうことです。けれどもそれは、少なくとも人間の全的に理解に本づく東洋医学の理論ではありません。単なる思いつきを組み合わせてそれに古典の言葉をつぎはぎでつけただけのものでしかありません。

なぜ、勉強家の皆様がなぜこのような愚かしいことを平然と続けているのでしょうか。とても不思議です。

基本的理論を中途半端にしか理解できていないために、三焦論を基にして陽経ですべての治療ができるなどと「豪語」する愚かなグループができあがるのです。

学問とは、自己変革のために存在するのであって、弱々しく愚かな自己を護るための言いわけをかき集めるためにあるわけではありません。


本治法と標治法の乖離について述べましたが、これを解決する概念は一元流においては存在します。そのことを全体と部分の関係がどうなのか、全身の生命力の状態と訴えている症状とをどのように位置づけて解釈するのか、ということに求めています。これは、病因病理を考える中からしか出てこないものです。その意味で、気一元の観点から人間をとらえた病因病理は非常に重要なわけです。
言葉の指す向き

言葉、というものは恐ろしいものだと思います。
読む言葉、語る言葉に、指す言葉。
武士道における言葉は発するものの内側に肉薄する言葉でした。
他者に対するものではなく、己に対する諫言。

この同じ言葉が、他者に向けられたとき、それは他者を支配し傷つける刃となります。
けれどもそれが己に向けられたとき、己を磨く砥石となります。

この二者の差は歴然としているものです。

道徳を説くものの醜さは、己に向けられるべきこれらの言葉を他者に向けて発して、他者を支配しようとするところにあります。

己に向けられたものの美しさは、自身の切磋琢磨の目標としてこれらの言葉を用いるところにあります。

己に向けた言葉を他者に向けぬようくれぐれも注意していきたいものです。
一元流鍼灸術では文字で書かれている古典を読むことも大切にしています。けれどもその読み方には特徴があります。

以前触れましたが、究極の古典は目の前の患者さんの言葉化される以前の身体です。ですから、古典を読む時に念頭に置かなければならないもっとも大切なことは、目の前の患者さんの身体をどのように理解するのか、ということです。そのための道具として、先人が同じように目の前の患者さんの身体を理解しようとして、ひもとき綴ってきた古典を使用するわけです。

そのような姿勢に立つとき大切なことが、古人の視点に立ち返るということです。この古人の視点とは何かというと、天人相応に基づく陰陽五行論です。気一元の観点から把握しなおした陰陽と五行という視点を明らかにしない限り、古人の位置に立ち、古人とともに古典を形作る共同作業を担うことはできません。

ですから一元流鍼灸術のテキストではまず、「気一元の観点に立った陰陽と五行の把握方法」について語られています。


何かを解釈する際に基本的に大切なこととして、何を解釈しようとしているのか、その対象を明らかにする必要があります。ことに「天人相応の関係として捉えうる人間の範囲」とは何かということを規定しなければ、天人相応の関係を持つとすることが何を意味しているのかということや、気一元のものとして捉えるということが何を意味しているのかということを理解することはできません。

「場」の中身を陰陽の観点から五行の観点から把握し治すその前に、その場の状態―包括的な傾向を把握しておく発想が必要です。そのことを「器の状態」としてテキストでは述べています。生きている器の状態の動き方の傾向を把握しようとするわけです。その変化の仕方の傾向をどのように把握するのかという一段高い観点がテキストでは述べられています。それが、器の敏感さ鈍感さ、器の大きさ小ささ、器の脆さ緻密さという三方向からの観点です。テキストではこれを、人の生成病老死に沿って解説しています。陰陽と五行で把握するものは実は、そのような傾向を持つ器の「中身」の状態について考えているわけです。

生命が日々動いている場の状態を説明する際、その場=器の傾向を把握しておくことは、生きている生命の弁証論治をしていくうえで欠かすことのできないことです。この基礎の上に立つことによって初めて弁証論治を考えるという行為が成立するということを、一元流鍼灸術では明確にしています。


「場」の中身を陰陽の観点から五行の観点から把握し治すという行為はこの基礎の上に成立します。それは現在の気の濃淡の傾向を静的に分析するといった傾向を持ちます。その中でのバランスの崩れを時間の流れという動きの中から捉えていくわけです。


一元流鍼灸術で現在着々と積み重ねられている、このような基礎に立った弁証論治は、現在の目の前にある古典である患者さんの身体をいかに理解するのか、理解したかということを明らかにしているものです。積み重ねられた古典の情報を用いますけれども、実は今目の前にある患者さんを理解する、理解しようとするその熱が言葉になっているにすぎないとも言えます。

ですから、古典が時代とともに発展し変化してきたように、弁証論治も現時点でできあがった人間観や病理観を固定化し執着するものとしてはいけません。解釈はいつも仮の姿です。より真実に向けて、より実際の状態に向けて、弁証論治は深化し発展し続けなければならないものであると覚悟してかかるべきです。

このようにして初めて、次の時代に残すべき古典の原資を提供することができるわけです。


ですから一元流鍼灸術で古典を読む時、この同じ熱で古典が書かれているとして読んでいます。そのようにすると、文字に踊らされて綴られているにすぎない部分や、論理的な整合性を求めてまとめられたにすぎない部分や、とりあえず資料として収録されたにすぎない部分などが見えてきます。

古典を大切に思っていますので、その原資料を現代的な視点で解釈しなおしたり改変したりはしません。より書き手の心の奥に潜む情熱に沿うように読み取っていきます。読み取る際には私心をなくしてただ読みます。けれども、読み取ったものに対しては厳しい批判の眼差しを向けます。読み取る際には私心をなくしてただ読み取り、読み取ったものに対しては厳しい眼差しを向けるというこの姿勢は、実は我々が弁証論治を作成する際に自分自身に向ける眼差しと同じです。

これはすなわち一元流鍼灸術で古典を読むということなのです。
....言語を超えた理解を!

私どもは何を学ぼうとしているのでしょうか。何を形作ろうとしているのでしょうか。

中医学を学ぼうとしているわけではありません、経絡治療を学ぼうとしているわけではありません、漢方医学を学ぼうとしているわけではありません、東洋医学を学ぼうとしているわけではありません。

そうではなく、目の前にいる人間をよりよく見てよりよい治療を施すにはどうすればいいか、ということを学びたいわけです。

ということは、まず第一に、目の前にいる人間をどのように理解すればいいのか悩む必要があります。それがなければまず初発の心が起こりません。この道を続けていくことができません。もし人間に興味がないのであれば始めからこの道に入らないことです。

次に、どのようにすれば理解できるのだろうかという悩みに入ります。現代では医学というと西洋医学が主流ですので、それを学ぶのも一つの手です。解剖を学び生理を学びます。その精緻な分析的な手法に感動します。

けれどもそれで人間を捉えることができているのだろうか、本当にそれでいいのだろうかと悩みます。不自然な感じがするし肉体は救われるのかもしれないけれども心は救えないかも。病気は診ているかもしれないけれども人間を観てはいないのではないだろうか。そもそも人間を観るというのはどういうことだろう。

そこで東洋医学の一元的な人間観に出会うわけです。人と宇宙とを対応させて考えており、人間は小さな宇宙であるという。陰陽という物差し五行という物差しを使って、その宇宙をさまざまな角度から観ようとしているらしい。これって美しいかもと。

そこで勉強を始めます。すると、思いのほか大量の知識の集積の前に戸惑います。多くの言葉を記憶しなければそこに書いてあることを理解することすらできません。まじめな人はそこで苦労していく決意を固め、いわゆる東洋医学用語を定義しそれを使って表現する方法を学びます。そして古人の言葉を理解しその解説までつけられるようになります。そのような作業を続けて数十年が過ぎたころ運が良ければ再度深い迷いにはまり込むことにななります。

言葉は取りあえずわかったような気がするけれども、目の前の人間理解は進んでいるのだろうか。評価し分析することはできるようになっている気がするのだけれども、本当に理解しているのだろうか。と。


存在そのものへ、存在そのものの理解を、と思う時、実は言葉は邪魔なだけだったりします。言葉を通じて古人と対話し、言葉を通じて他者と対話することはできるわけですけれども、言葉以前に存在している人間そのものは言葉を格拒して〔注:きっぱりと拒絶して〕そこに存在しているのです。それをどう損壊しないようにありのままに把握していくのか。それが陰陽五行論の基本的な発想であったはずです。それなのに、いつの間にか陰陽の定義 五行の定義にはまり込んで、陰陽五行という自在な物差しの使い方がわからなくなってしまっています。定義された言葉がまるで存在そのものと自分の目の間に大きな黒い雲となって広がり、存在そのものが見えなくなってしまっているような感じです。

言葉はとても強いものなので、非常に危険です。言葉の危険のもっとも大きなものは、表現してしまうと理解できたような気がすることです。名前をつけてしまうとそれをわかったような気になってしまう。多くの言葉が積み重なっていると深い理解がそこにあるような気になってしまう。そして言葉という腐葉土の中で一生を終えることとなるわけです。

さて、一元流鍼灸術では、その言葉を使って勉強していくわけです。けれども、スタッフがいつも気をつけていることは、言葉におぼれない、言葉に踊らされない、存在そのものを理解しようとする姿勢を中心として言葉を理解し発しているということです。ですからまだ言葉を知らない初学の方々であったとしても、おかしいと思うことは積極的に発言していただくことで、スタッフの理解が進み一元流鍼灸術もさらに進歩していくことができます。

一元流鍼灸術の良さは実にここ、存在に対する謙虚さ、にあるわけです。


鍼灸医学のエビデンスをアップしました。
http://1gen.jp/1GEN/PDF06.HTM

生命の弁証論治を実践していく上で、技量を上げるということがエビデンスを磨くということに繋がります。
その時の問題点と目標とを記述しました。
朱子学も陽明学も、存在の本質とは何かということを探究しているものです。それを通じて正しく生きること、正しい社会認識を行い安定した政治をすることさらには他者に対する礼儀はいかなるものかといったことを、中国古典を通じて編み出そうとしてきたものです。

朱子学は宋代の革新的な思想であり、陽明学は朱子学の基盤のうえに咲いた明代の思想です。双方ともに当時の求道的な思想の影響を受けています。

求道的というのは何を意味するのでしょうか。それは、物事の本質を極めようとする姿勢のことを指しています。生活や自己保存を目標とするのではなく、正しさとは何か、正しさは何によって担保されるかということを極めることを、思考の基盤―人生の目標にしているわけです。

道を求める際、自己をまとめるために、静座を奨めていることも同じです。これは、禅の影響を強く受けているということを意味しています。朱子は禅を全否定しますけれども、その思想の基盤には禅があるのです。陽明はそこまでは禅を否定しませんけれども、儒教一般として、「禅に堕す」ことを忌避します。禅は、生命の学―実用の学ではないと考えているためです。けれども自分の心をまとめ鎮めていくことを通じて、あるがままの自己とは何かという問いに対する答えを、双方とも得ています。

実はこの答えが、朱子学と陽明学とでは少し異なるわけです。


朱子学でなぜ理気二元論のような形になったかというと、物事の本質が物そのものに備わっていると考えるためです。その背景には、存在するものを作ったものが「天」であるとする敬天思想があります。存在そのものにはすでに備わっている正しさがある。その正しい位置においてそのものを取り扱うことが、それの正しい取り扱いかたである、といった具合です。

このため、朱子学では、存在するもの(気)の背景に本来的な性質(性)があり、それを支えている理があるという論理構成となっています。これが性即理という言葉の意味です。

これに対して陽明学ではさらに、ものの本質をとらえている「自分自身は何か」といことへと問いが深化しています。そこまで問わなければものの本質をとらえることはできないのではないかという問題意識がそこにあるためです。

なぜかというと、物そのものの本質を見極めようとしているものは自分である。自分の軸が定まっていなければ物事の本質などみえるわけがない。そういう発想がここにはあるわけです。

この背景には大きく深い自己否定があります。自分の本質を見極めなければ物事の本質には至ることはできないだろう。しかし、その自分とはそもそも何なのだろうか。きちんと物そのものを見ることができるのだろうか。物を見ている自分の本質とは何なのだろう。ここを問い詰めていかなければならないためです。般若心経の眼耳鼻舌心意という自己の知覚の全否定につながる思想がここにはあります。

そしてそのような大き深い壁―自己への絶望にぶち当たったはて、ひたすら求道を光にすがって求めつづけていた底で、王陽明は大きな気づきを得ることとなりました。これが「龍場の大悟」といわれるものです。

その内容は何かというと、「天地万物一体の理」と呼ばれるものです。すべてのものは我が腹中において一体である。私こそがそれを見それらを位置づけているものであるという事実です。ここにおいて王陽明は自己を抜け出で、一体の世界のなかに自己を譲り渡し、そこから言葉を発するようになったわけです。

王陽明はもともと誠実な朱子学者であり、朱子の導きの手にしたがって歩み続けることを通じて、「龍場の大悟」に至り、朱子学の二元論を乗り越えて、万物一体の理のなかに住まうこととなりました。

自己の外に理はない、自分の内に理があるというその姿勢〔注:心即理〕を担保するものは、絶えず自己点検を怠らないということです〔注:致良知〕。ものごとの正誤を認識し決断するものは私でしかありません、そしてその責任を全うするためには自己の鍛錬を怠ることはできません。そのため王陽明は、積極的に人びとの中に入っていき、自己の理解を拡充することを通じて自己を変革しようとしました〔注:知行合一〕。自己の認識能力を厳しく鍛錬すること、そして決断は断固として行い責任をとること。それが陽明学の正しさを担保するものであると考えたわけです。

その正しさとは、「今ここ」における正しさでしかないということはやはり述べておく必要があるでしょう。状況が異なれば経験されることも異なり、決断もそれにつれて異なってくるからです。

一元流鍼灸術はこの王陽明の思想に従います。

長くなりましたので、これ以降は各自考えを深めていってください。注意すべきことは、万物一体の理、の外側には何もないということです。「すべてがこの理の内側にあり、例外はない」ということです。

場を設定し、それを気一元のものとして把握していく一元流鍼灸術の身体観の背景にある思想は、このようなものなのです。


なお、この文章は、以下の著書を参考にしています。


『朱子学と陽明学』小島毅著 ちくま学芸文庫
禅と陽明学との干渉については荒木見悟氏の諸著作
言葉を越えたリアリティを掴むというとき、そこには必ず幾ばくかの禅の悟りが入り込みます。悟りというと遠くにある太陽か月のようですけれどもそれは違います。ただ、ありのままにここにいてありのままに感じ取ること。当たり前の今を、すべての妄念を取り払って感じ取ろうとするその意識の位置のことを、禅の悟りと呼んでいます。

これが実は脉診に必要になるということは、勉強をし脉診を継続された方であれば容易に理解することができるでしょう。前提や思い込みがあると、必ず診誤まります。そして実はこれは、脉診ばかりではなく、体表観察などのすべての場面において必要になる姿勢です。


見ることができないうちに私たちは学校で言葉を学んでしまいます。そのため、見たものを言葉にあてはめようとしてしまいます。そうしないと安心できない、それができると安心できる。そういう癖を、言葉に使われている私たちはもってしまっています。

暝想は、その言葉を放擲して、リアリティーそのものに肉薄する練習です。仏教にも万巻の書物があります。それを一気に乗り越えて仏陀の悟りにその裸一貫の魂で肉薄しようとするものが禅です。言葉を越えて悟りの実態そのものへと参入していこうとするわけです。この姿勢を不立文字と呼びます。

実は、体表観察をする上で必要な姿勢はこれです。東洋医学にも万巻の書物があります。そのうち、脉診について専門に述べている書物だけでもたくさんあります。後進はその書物を読みこなし、脉診についてなんらかの知識を得、さらに理解を得ようとします。

けれども言葉に従っていては実は脉診は理解できないものなのです。後進は、文字に著されている脉状を、自分が診た脉状と比較しながら、診たものにつけられている名前を探し出そうとします。さらにはその名前で検索して、その脉状の意味を見つけ出そうとさえします。

けれどもそこには何の意味もありません。なぜなら、生命というものはもっともっと大きな流れだからです。大いなる生命の流れの中に私たち一人一人は存在しています。その一人一人の小さな生命の流れの中のごく一部の表現として脉診はあるにすぎません。

生命の大いなる流れの中の、ごく一部。ほんのわずかな表現にすぎないのです。そのため古来、脉に囚われるな、四診全体を見よというのです。四診を通じて全体の生命の流れを把握し、その全体の生命状況に従って現在の脉状の意味を考えていく。そのように発想の転換をしなければなりません。

四診を通じて全体の生命の流れを把握し、その全体の流れに従って四診それぞれに表現されていることの意味を考えていく。そのように発想の転換をしなければならないのです。

診ることが先、診えたものをどのように呼ぶかということは、後の問題です。その意味をどのように考えていくのかということは、さらにその後の問題なのです。

私たちはそのことを理解するために暝想をします。言葉のすべてを手放して、脉そのものを診れるように、体表観察そのものができるように、全体の生命状況を捉えられるように、暝想をします。

そうやって実は、古典の文言に縛られた東洋医学を乗り越えようとしているわけです。

そうやって実は、体表観察に基づいた医学を、現代に蘇らせようとしているわけです。

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