一元流鍼灸術 勉強会のお知らせ。
一元流鍼灸術では、勉強会の場処を移動したのに伴い、常時勉強会への参加を受
け付けることになりました。ご希望の方は、はつき(pxl02541@nifty.ne.jp)ま
でメールください。
日時:毎月 第三日曜日 午後2時から
会費;1年 1万円
一回のみの参加 5000円
場処:「南馬込文化センター」です。
大森駅から来ると、春日橋の高架の信号をくぐってから環状七号線
を右に曲がり、ガソリンスタンドをこえた一本目の路地を左折突き
当りを右折して坂の上り口の三叉路を左にとり、次の右に入る路地
を右折すると着きます。グーぐるマップは以下。
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8C%BA%E5%8D%97%E9%A6%AC%E8%BE%BC3-24-9
荏原町方面行きのバス停の、坂上の隣のバス停で馬込循環に乗り、
中央一丁目で降りると、上記「春日橋の高架の信号をくぐってから
環状七号線を右に曲が」った位置まできます。そのまま、まっすぐ
大通りをきて、一本内側に入るという感じです。
コースはふたつです。
新規参加のかたは、メインコースとなります。
その後、ステップアップのためのコースとしてサブコースも開催しています。
一元流鍼灸術では、勉強会の場処を移動したのに伴い、常時勉強会への参加を受
け付けることになりました。ご希望の方は、はつき(pxl02541@nifty.ne.jp)ま
でメールください。
日時:毎月 第三日曜日 午後2時から
会費;1年 1万円
一回のみの参加 5000円
場処:「南馬込文化センター」です。
大森駅から来ると、春日橋の高架の信号をくぐってから環状七号線
を右に曲がり、ガソリンスタンドをこえた一本目の路地を左折突き
当りを右折して坂の上り口の三叉路を左にとり、次の右に入る路地
を右折すると着きます。グーぐるマップは以下。
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8C%BA%E5%8D%97%E9%A6%AC%E8%BE%BC3-24-9
荏原町方面行きのバス停の、坂上の隣のバス停で馬込循環に乗り、
中央一丁目で降りると、上記「春日橋の高架の信号をくぐってから
環状七号線を右に曲が」った位置まできます。そのまま、まっすぐ
大通りをきて、一本内側に入るという感じです。
コースはふたつです。
新規参加のかたは、メインコースとなります。
その後、ステップアップのためのコースとしてサブコースも開催しています。
◇ メインコースの内容は以下のとおりです。
● 行うこと
全体として一年を目途としたルーティーンとする
テキスト「一元流鍼灸術の門」を繰り返し読む
体表観察の習練をする
自らをモデル患者として弁証論治を作り上げる
他の参加者の弁証論治をともに考える。
このため、メイリングリストを多用しています。
パソコン環境にないと継続的な参加は難しいです。
● メインコースの参加の心構えには二層二段階あります
目標:臨床家となるための基本的な所作の獲得
言葉の学習
気一元で見る
臓腑経絡学
実践の学習
体表観察
弁証論治
処置に関して悩める段階と悩み方まで
批判的な眼差しで先輩の方法を見学する段階
教わる段階
自ら参加して行う段階
参加し習練する段階
● 行うこと
全体として一年を目途としたルーティーンとする
テキスト「一元流鍼灸術の門」を繰り返し読む
体表観察の習練をする
自らをモデル患者として弁証論治を作り上げる
他の参加者の弁証論治をともに考える。
このため、メイリングリストを多用しています。
パソコン環境にないと継続的な参加は難しいです。
● メインコースの参加の心構えには二層二段階あります
目標:臨床家となるための基本的な所作の獲得
言葉の学習
気一元で見る
臓腑経絡学
実践の学習
体表観察
弁証論治
処置に関して悩める段階と悩み方まで
批判的な眼差しで先輩の方法を見学する段階
教わる段階
自ら参加して行う段階
参加し習練する段階
気一元の観点というのは、観るところにその中心があるのではなく、観る姿勢にその中心があります。観る姿勢とは何かというと、観る前に心を定めるということであり、観ている時にもその定めた位置から離れないということです。とうぜんそれは、弁証論治を立て、治療を進めていく際にも常時離れていないことを確認し続ける位置です。一点の場所、それは臍下丹田です。
臍下丹田の位置というのは味わってみるとご理解できると思いますが、生命そのものを確認することのできる唯一の精神の位置なのです。生まれ落ちて以来、私はこの生命を維持するため、環境との調和を維持するために、不安と戦いながら外の世界のことを学び続けてきました。その手段には、テレビや書物の他、五巻を尽くしてたどり着くことのできた、自分の行為に対する他者〔注:その初期は家族〕の反応を盗み候うということがありました。私の存在は赦されているのか否か、それが意外と課題となりました。
そのような生活姿勢を継続することによって私は大切なものを気づかないまま失っていきました。それは、今、自分が生きているという実感です。幼稚園の頃までは確かにあった生命に触れる喜びを、いつの間にか見失い、文字に流され、映像に流され、他者の言葉に囚われて、いつの間にか操り人形のようになってしまって、今ここに生命そのものを感じとるという生命感覚を失っていったのでした。
このこと、この同じことが東洋医学の勉強の中で、あるいは日々の弁証論治の中で、あるいは日々の臨床の中で繰り返されている可能性があります。
それは、別の言葉で言うと、中心を忘れて些末なものに囚われるということです。言葉というもので表現されると、それが些末なことでも大切なことのように見えるものです。愚劣なテレビや新聞であっても、その報道を目にするとさも大切なことのように思えてしまうことと同じです。情報に振り回され、言葉に振り回されて、今生きて存在している生命と生命との出会いの場を、忘れてしまうのです。その忘却の原因は何よりも自身の生命へのリアリティの欠如にあります。
リアリティとは何か。これが問題です。先ほど、臍下丹田と述べました。意識の位置を臍下丹田に置くと、思考と感情が止まります。思考と感情が止まったそのままの状態で目を上げると、自身の生命そのものの姿が見えてきます。あまりにも美しい生命そのもの、繊細で輝かしくけなげで力強いそこに、意識を解放してみると、それまでの拘りや執着がまるで背広についた埃のように取れていくことがわかります。そして理解すべきことは、言葉以前の絶対の場所が人間にはあるのだということです。
ここに意識の位置を置きます。そのまま身の回りに起こる現象を眺めていきます。患者さんの訴えを聞き病因病理を考えて弁証論治を立てるということは、このような精神の位置において行なわれるべきことです。文字を読み取り東洋医学の概念を学ぶことは、このような精神の位置において行なわれるべきことです。言葉というものはそれが原初的なものであればあるほど、述べられている言葉の前提としてこのリアリティが存在しています。言葉という不自由な表現方法をとりながら、それをも使って、感じ取ったこと見取ったこと理解したことを残したかった。その誠実さは古人においてより切実だったからでしょう。
私どもはそのようにして遺されている言葉から学んでいます。学んでいるのですが、言葉に先を越されがちになるのは、自身の中にリアリティを欠いているためです。そして迷い始めるのです。けれども、今ここに私どもは存在し、その存在のリアリティは古代も現代もありません。古人も現代人もなく、そこから言葉を紡ぎ出そうとする時、我々は苦悶しながら生命の一言を吐き出すのです。その一言のリアリティは、古人のもつものと何ら変わりがありません。それほどの誠実さを私は持ち、それほどの存在へのリアリティを私は持っているということが大切なことであり、そのことをこそ私どもは自分自身に対して毎瞬問い続けていることなのです。
弁証論治をたてる際に、確かなものを中心として考えを構築していくという
ことをよくお話します。けれどもこの「確かなもの」というのが何かという
ことは、なかなかわかりにくいのです。どうしてかというと、まじめであれ
ばあるほど細かい違いを問題にし、詳細な記述に走りやすいためです。その
ほうがわかった感を得やすいですしね。でもそうすると、記述のための記述
になり、生命の全体像を見失うことがあります。
生命の全体像というのは何なのでしょうか。眼差しとしてはひとつの生命を
括って、柔らかく愛おしむことです。これが一番最初の心。一の心です。善
悪や判断を越えて、病や生死を超えて、そこに存在している生命そのものを
愛おしむとこと。その美しさと出会ったことに感謝すること。同じ生命を自
分も保持させていただいていることに感謝することです。ここにすっぽりい
るとき、問題などは何もありません。
その次元で酔生夢死している意識を少し目覚めさせて、四診に入ります。問
題は何なのだろう、何がこの人の活力を奪っている中心なのだろう、よりよ
く生きるには何が必要なのだろう。そんな心です。まだまだ分析的ではなく、
よく聞いて心に映ったその人の姿を感じとりながら、痛みや悲しみや空洞感
を共有してみます。この時表現されているものはさまざまな症状であったり
怒りや嘆きや愚痴であったりする可能性はありますけれども、それに振り回
されないように注意して治療家の側の心を定めたまま耳を傾けます。聴く。
よりよく聴くということがこの際の課題となります。
充分に心に響いた所で記述そして五臓の弁別に、緩やかに入っていきます。
分けることが目的ではありません。理解することが目的でもありません。何
を感じたのか、何を観たのかを確かめるようにより分けていくわけです。そ
の時に、すでに言葉化されている情報に頼りすぎると、言葉化される以前の
感覚を忘れてしまいます。これが大切でこれがたいした問題ではないという
ことを、五臓の弁別をする前には確かに感じとっていたはずなのに、いつの
間にか見失ってしまうことがあります。これは、心に響いたことを忘れて理
屈に走ってしまうためによく起こる現象です。
(五臓の弁別の効用として、思い込みを排除して客観性を保つということが
あります。実はこの「心に響いた所」と「客観性」との淡いの一筋の糸の上
で五臓の弁別は記載されていきます。ここが難しい所なのですけれども、そ
れについてはまたの機会に。)
このままの感覚で病因病理を書いていくと、正しそうだけれども理屈っぽく
て、その患者さんの状態があまり浮き上がって見えてこないものとなります。
部分部分は正しそうな理屈をつけているわけですけれども、時間的空間的な
全体像を失っているものができあがるわけです。そしてこういう病因病理は、
まじめな人ほど陥りやすい罠なんですね。これは、心よりも理論を追い求め
るために起こる、深い問題です。言葉の罠とも言えます。
この解毒剤は、「充分に心に響いた所」の感覚を忘れないようにするところ
にあります。これが四診を通じて感じとった「確かなもの」を中心として論
理を構築していく病因病理につながっていきます。確かなものは、見えやす
い所にあります。無理なく見えるものを表現した言葉(大切)と、無理に見
たものを表現した言葉(あまり大切ではない)とには、軽重をつける必要が
あるわけです。けれども目の前に言葉として並んでいるとこれが難しくなり
ます。どうしてかというと、無理に見たものを表現した言葉の方が不安があ
る分だけ詳しく説明される必要があり、多くの言葉で飾られていて見栄えが
いいため、見た感じ重要に思えるためです。
このため、本当は大切な所から遠く離れている情報であっても大切に見えた
り、大切な情報であってもあまり大切ではないように見えたりします。「充
分に心に響いた所」の感覚、その心の位置をしっかりと踏み固め、近いもの
は明確にはっきりと見、遠いものは遠くに霞んで見えるという距離感を持て
るようにすると、より実態に合った弁証論治を構築していくことができるで
しょう。この遠近感は、記載されている言葉の多寡によるものではないので、
それに振り回されないよう注意する必要があるわけです。
ことをよくお話します。けれどもこの「確かなもの」というのが何かという
ことは、なかなかわかりにくいのです。どうしてかというと、まじめであれ
ばあるほど細かい違いを問題にし、詳細な記述に走りやすいためです。その
ほうがわかった感を得やすいですしね。でもそうすると、記述のための記述
になり、生命の全体像を見失うことがあります。
生命の全体像というのは何なのでしょうか。眼差しとしてはひとつの生命を
括って、柔らかく愛おしむことです。これが一番最初の心。一の心です。善
悪や判断を越えて、病や生死を超えて、そこに存在している生命そのものを
愛おしむとこと。その美しさと出会ったことに感謝すること。同じ生命を自
分も保持させていただいていることに感謝することです。ここにすっぽりい
るとき、問題などは何もありません。
その次元で酔生夢死している意識を少し目覚めさせて、四診に入ります。問
題は何なのだろう、何がこの人の活力を奪っている中心なのだろう、よりよ
く生きるには何が必要なのだろう。そんな心です。まだまだ分析的ではなく、
よく聞いて心に映ったその人の姿を感じとりながら、痛みや悲しみや空洞感
を共有してみます。この時表現されているものはさまざまな症状であったり
怒りや嘆きや愚痴であったりする可能性はありますけれども、それに振り回
されないように注意して治療家の側の心を定めたまま耳を傾けます。聴く。
よりよく聴くということがこの際の課題となります。
充分に心に響いた所で記述そして五臓の弁別に、緩やかに入っていきます。
分けることが目的ではありません。理解することが目的でもありません。何
を感じたのか、何を観たのかを確かめるようにより分けていくわけです。そ
の時に、すでに言葉化されている情報に頼りすぎると、言葉化される以前の
感覚を忘れてしまいます。これが大切でこれがたいした問題ではないという
ことを、五臓の弁別をする前には確かに感じとっていたはずなのに、いつの
間にか見失ってしまうことがあります。これは、心に響いたことを忘れて理
屈に走ってしまうためによく起こる現象です。
(五臓の弁別の効用として、思い込みを排除して客観性を保つということが
あります。実はこの「心に響いた所」と「客観性」との淡いの一筋の糸の上
で五臓の弁別は記載されていきます。ここが難しい所なのですけれども、そ
れについてはまたの機会に。)
このままの感覚で病因病理を書いていくと、正しそうだけれども理屈っぽく
て、その患者さんの状態があまり浮き上がって見えてこないものとなります。
部分部分は正しそうな理屈をつけているわけですけれども、時間的空間的な
全体像を失っているものができあがるわけです。そしてこういう病因病理は、
まじめな人ほど陥りやすい罠なんですね。これは、心よりも理論を追い求め
るために起こる、深い問題です。言葉の罠とも言えます。
この解毒剤は、「充分に心に響いた所」の感覚を忘れないようにするところ
にあります。これが四診を通じて感じとった「確かなもの」を中心として論
理を構築していく病因病理につながっていきます。確かなものは、見えやす
い所にあります。無理なく見えるものを表現した言葉(大切)と、無理に見
たものを表現した言葉(あまり大切ではない)とには、軽重をつける必要が
あるわけです。けれども目の前に言葉として並んでいるとこれが難しくなり
ます。どうしてかというと、無理に見たものを表現した言葉の方が不安があ
る分だけ詳しく説明される必要があり、多くの言葉で飾られていて見栄えが
いいため、見た感じ重要に思えるためです。
このため、本当は大切な所から遠く離れている情報であっても大切に見えた
り、大切な情報であってもあまり大切ではないように見えたりします。「充
分に心に響いた所」の感覚、その心の位置をしっかりと踏み固め、近いもの
は明確にはっきりと見、遠いものは遠くに霞んで見えるという距離感を持て
るようにすると、より実態に合った弁証論治を構築していくことができるで
しょう。この遠近感は、記載されている言葉の多寡によるものではないので、
それに振り回されないよう注意する必要があるわけです。
二十年ほど前にお世話になった鍼灸の勉強会が
書籍の出版をたくさんしていたり、
当時ともに弟子だった人が、
新たに勉強会を立ち上げてがんばっているのをみたりすると
励みになるものです。
若い頃の努力が実を結ぶというのは、
金になるとか名誉を得るとかいうことだけじゃなくて、
高齢になってから、当時の努力を思い起こして、
生きることへの応援をもらうということもあるんですね
書籍の出版をたくさんしていたり、
当時ともに弟子だった人が、
新たに勉強会を立ち上げてがんばっているのをみたりすると
励みになるものです。
若い頃の努力が実を結ぶというのは、
金になるとか名誉を得るとかいうことだけじゃなくて、
高齢になってから、当時の努力を思い起こして、
生きることへの応援をもらうということもあるんですね
テキストには外因の問題について、239頁から書かれています。
(引用始め)
本来は生命力を育む外気がバランスを失って生命力を損傷する図は、
健康増進のためにはじめたスポーツをやりすぎ、かえって健康を損
なうことに似ています。
その、健康増進あるいは生命力を育む周辺状況はどのようなレベル
のものであるか、ということに関しては個人差が大きいものです。
そのため、私は器という概念を作り出して、これを「一元」の項目
の中で整理しました。
生命力が虚していなければ外邪が入ることはないということは、古
来言い習わされていることです。そのとおり、一元の気の器をでき
るだけ調えるということが、外邪に対する備えにはなります。けれ
ども、外邪が入るか入らないかということは、生命力の充実度とい
う要素の外に外邪の強さという要素がありますので、一概に言える
ものではありません。
「人事を尽くして天命をまつ」という言葉の生きてくるところです。
(引用終わり)
一元流鍼灸術というのは、患者さんをよりよく理解するために弁証
論治をたててその心身の状況を明確にしようとし、その方法論を語
っているものです。
一元流鍼灸術を構成していく時に大きな問題となったことの一つが
この外邪と内傷のことでした。中医学では何の基準もなくそれを弁
証論治の方法を分けて記載しているわけです。外邪であれば六経弁
証・衛気営血弁証・三焦弁証、内傷であれば臓腑弁証という具合で
す。
ところが、病んでいる身体は一つであり、病因はさまざまあるけれ
ども病位はこの身体の内部にあるわけです。外邪によるものである
とその侵襲速度は速く、内傷の場合よりも戦いすなわち瀉法に重き
を置く必要があります。内傷のものであればじわじわと広がる腐敗
なわけで、養いを主とする必要があります。そのような速度の違い
はあるけれども、病位はこの身体の内部にあるわけです。
さらに、内傷のある身体に外邪が侵襲した時どうなるのでしょうか。
そもそも内傷のない身体など存在しないわけですから、これは実際
の身体に外邪が侵襲した時にはどのように弁証論治すればよいのか、
という問題提起となります。
ここに考えが及んだ時、有名な「生命力が虚していなければ外邪が
入ることはない」という言葉に思い至るわけです。外邪は、虚して
いる部分を攻撃する、ということです。これは、直接虚している部
分に侵襲するという意味でもありますしまた、外邪が侵襲すると生
命力を大量に使ってそれを排泄しようとするため、虚している部分
がさらに疲れることとなるという意味でもあります。
鍼灸治療についてよく考えてみると、外邪の侵襲とか内生の邪の問
題と言ったとしても、治療対象にするものは患者さんの身体でしか
ありません。身体の抵抗力を上げることによって外邪に対処してい
くということが基本です。で、身体の抵抗力を上げる最大の方法が、
最も弱いところで動きそうなところを動かす、活性化させるという
ことです。
多くの場合、この場所が邪気の侵襲している場所、あるいは正邪が
闘争している場所となります。生命力が負けているとそれは邪気の
支配領域となり冷えて生命の動きも悪くなります。生命力ががんば
って対抗しているとそれはまさに闘争の熱気に包まれています。病
位というのはこのようなもののことを言うわけです。
お年寄りの場合、衛気が弱くなっていて風邪を引き込んだと自覚し
た時にはすでに深く風寒の邪が侵襲していることが多いものです。
そうすると正邪の闘争する場所と言うよりも、最終抵抗拠点として
の腎を保つことが重要になります。このあたりのことを『難経』で
は、腎間の動気を守邪の神と呼んで尊崇してもいるわけです。
(引用始め)
本来は生命力を育む外気がバランスを失って生命力を損傷する図は、
健康増進のためにはじめたスポーツをやりすぎ、かえって健康を損
なうことに似ています。
その、健康増進あるいは生命力を育む周辺状況はどのようなレベル
のものであるか、ということに関しては個人差が大きいものです。
そのため、私は器という概念を作り出して、これを「一元」の項目
の中で整理しました。
生命力が虚していなければ外邪が入ることはないということは、古
来言い習わされていることです。そのとおり、一元の気の器をでき
るだけ調えるということが、外邪に対する備えにはなります。けれ
ども、外邪が入るか入らないかということは、生命力の充実度とい
う要素の外に外邪の強さという要素がありますので、一概に言える
ものではありません。
「人事を尽くして天命をまつ」という言葉の生きてくるところです。
(引用終わり)
一元流鍼灸術というのは、患者さんをよりよく理解するために弁証
論治をたててその心身の状況を明確にしようとし、その方法論を語
っているものです。
一元流鍼灸術を構成していく時に大きな問題となったことの一つが
この外邪と内傷のことでした。中医学では何の基準もなくそれを弁
証論治の方法を分けて記載しているわけです。外邪であれば六経弁
証・衛気営血弁証・三焦弁証、内傷であれば臓腑弁証という具合で
す。
ところが、病んでいる身体は一つであり、病因はさまざまあるけれ
ども病位はこの身体の内部にあるわけです。外邪によるものである
とその侵襲速度は速く、内傷の場合よりも戦いすなわち瀉法に重き
を置く必要があります。内傷のものであればじわじわと広がる腐敗
なわけで、養いを主とする必要があります。そのような速度の違い
はあるけれども、病位はこの身体の内部にあるわけです。
さらに、内傷のある身体に外邪が侵襲した時どうなるのでしょうか。
そもそも内傷のない身体など存在しないわけですから、これは実際
の身体に外邪が侵襲した時にはどのように弁証論治すればよいのか、
という問題提起となります。
ここに考えが及んだ時、有名な「生命力が虚していなければ外邪が
入ることはない」という言葉に思い至るわけです。外邪は、虚して
いる部分を攻撃する、ということです。これは、直接虚している部
分に侵襲するという意味でもありますしまた、外邪が侵襲すると生
命力を大量に使ってそれを排泄しようとするため、虚している部分
がさらに疲れることとなるという意味でもあります。
鍼灸治療についてよく考えてみると、外邪の侵襲とか内生の邪の問
題と言ったとしても、治療対象にするものは患者さんの身体でしか
ありません。身体の抵抗力を上げることによって外邪に対処してい
くということが基本です。で、身体の抵抗力を上げる最大の方法が、
最も弱いところで動きそうなところを動かす、活性化させるという
ことです。
多くの場合、この場所が邪気の侵襲している場所、あるいは正邪が
闘争している場所となります。生命力が負けているとそれは邪気の
支配領域となり冷えて生命の動きも悪くなります。生命力ががんば
って対抗しているとそれはまさに闘争の熱気に包まれています。病
位というのはこのようなもののことを言うわけです。
お年寄りの場合、衛気が弱くなっていて風邪を引き込んだと自覚し
た時にはすでに深く風寒の邪が侵襲していることが多いものです。
そうすると正邪の闘争する場所と言うよりも、最終抵抗拠点として
の腎を保つことが重要になります。このあたりのことを『難経』で
は、腎間の動気を守邪の神と呼んで尊崇してもいるわけです。
刺鍼法や手技、使用する鍼についての質問にお答えして
「この本には刺鍼法や手技、使用する鍼などの記載はないのでしょうか?
一元流は中医学の流れのようなので太い鍼で鍼管を使わずというのが通常なのでしょうか?それとも手技や鍼はどのようなものを用いてもいい、ということなのでしょうか?先生方は通常どのような鍼をどのような刺し方をされ、どのような手技を加えておられるのでしょうか? 」
刺鍼法や手技、使用する鍼などの記載はありません。
その理由には、
1、東洋医学に基づく患者さんの見立て方を中心課題としている。
2、見立てをすると何をなすべきかは自然にわかる。
3、何をなすべきかがわかれば、鍼の番手や手技などは小手先の技に過ぎないことがわかる。
4、また、刺鍼法や手技などは、個人の能力によって大きく異なる
5、人によって見立てに関係なく治療効果を挙げることができる場合があるが、そのような属人的な能力によらない治療法を目指している。
6、逆に言えば、上手な技術者でもこれを基礎とすればさらに誤治のない名人になれるところのものがこの見立てである。
7、手技に拘わらないことを基本としている。見立てが正しいかどうか、その論理を探求しようとしているため、手技という個人技が入る余地がないように工夫している。そのため鍼は置鍼お灸はせんねん灸程度。
8、東洋医学的な見立てができれば、鍼灸に拘わらず、手技治療全般に応用することができる。
といったことが挙げられます。
一元流鍼灸術は、東洋医学のオーソドックスな見立て方を探求しているものです。普通に四診合参して見立てて治療しているわけです。けれども気一元の観点に立って見立て方を統合しているというところが不思議なことに現代の東洋医学の研究家の間では重視されていないようなので、敢えて名前を「一元流鍼灸術」とつけているわけです。
「この本には刺鍼法や手技、使用する鍼などの記載はないのでしょうか?
一元流は中医学の流れのようなので太い鍼で鍼管を使わずというのが通常なのでしょうか?それとも手技や鍼はどのようなものを用いてもいい、ということなのでしょうか?先生方は通常どのような鍼をどのような刺し方をされ、どのような手技を加えておられるのでしょうか? 」
刺鍼法や手技、使用する鍼などの記載はありません。
その理由には、
1、東洋医学に基づく患者さんの見立て方を中心課題としている。
2、見立てをすると何をなすべきかは自然にわかる。
3、何をなすべきかがわかれば、鍼の番手や手技などは小手先の技に過ぎないことがわかる。
4、また、刺鍼法や手技などは、個人の能力によって大きく異なる
5、人によって見立てに関係なく治療効果を挙げることができる場合があるが、そのような属人的な能力によらない治療法を目指している。
6、逆に言えば、上手な技術者でもこれを基礎とすればさらに誤治のない名人になれるところのものがこの見立てである。
7、手技に拘わらないことを基本としている。見立てが正しいかどうか、その論理を探求しようとしているため、手技という個人技が入る余地がないように工夫している。そのため鍼は置鍼お灸はせんねん灸程度。
8、東洋医学的な見立てができれば、鍼灸に拘わらず、手技治療全般に応用することができる。
といったことが挙げられます。
一元流鍼灸術は、東洋医学のオーソドックスな見立て方を探求しているものです。普通に四診合参して見立てて治療しているわけです。けれども気一元の観点に立って見立て方を統合しているというところが不思議なことに現代の東洋医学の研究家の間では重視されていないようなので、敢えて名前を「一元流鍼灸術」とつけているわけです。
数年前に書いた文章なのですが、読み直してなお新しいものなので採録しておきます。
難経鉄鑑の解釈文の一部です。
五行論と気一元
六九難を勉強するにあたり、気一元の観点から人体を見るということと、五行の相生相剋関係から人体を見るということとの違いを明確にしておきます。
◇五行の相生相剋の観点から人体を見るという場合にも全体性、胃の気というものの重要性は何にも増してあるものでありますけれども、《難経》においても、その全体性の重要さが多くの分量をもって説かれております。胃の気の大切さ・根としての腎気の大切さ・三焦の問題・奇経の問題などがそれです。
これらの問題を包含しながら人体そのものを気一元としてみていると、そこに《難経》の著者が大自然を観想していたのだとう姿勢が感じられます。大自然の縮図としての人間観が読み取れるわけです。
大自然。大いなる生命の恵み、生きとし生けるものがその中で存在し、その微細な生命を育むことを許されている壮大なドラマ。天地があり、その間に育まれている生命たち。この大いなる生命のドラマを、私は気一元という言葉で表現しています。
大いなる生命のドラマの中には、飢えがあったり農耕があったり共食いがあったり子孫ができることに対する本能的な歓喜があったりします。吾が小さな生命の中で、絶望や希望といった感情に揺れ動かされ、あるいは正義や礼儀という伝統に貫かれながら、通奏低音として、生命がある、ありつづけるという、この歓喜の中に生命の営みがあり続けています。
一元の気という観点とは、まずこの生命がありつづけているという所に視点を合わせて身体を見ていこうという、そういう位置のことを意味しています。
◇そこから五行の相生相剋を見ていくとそれはいかにもか細いひ弱な論理であると感じないわけにはいきません。まるで生命を剥ぎ取った骸骨がその大きくなった頭を振りながら青白い顔で悩んでいるといった図が眼前に浮かんでくるのです。
ひ弱な論理は複雑さによって自己を正当化しようとします。その行為が《鍼灸補瀉要穴の図》として結実し、また現代中医学として現われてきていると、私は考えています。論理は迷路を作り、迷路に迷って遊んでいるうちに生命そのものを見る、そこに歓喜するという、入り口でありかつ出口であるところのものを見失ってしまいます。
その自分自身で作り上げた迷妄の闇をさらに糊塗するために、さらなる論理の迷路を作り上げようとする。このはかなく愚かな営為を打ち破る観点が気一元の観点で身体を見るというところに存在していると私は思います。
◇言葉とはその中にそもそも論理性を含みます。そして一語一語はいつも不完全で未熟であって、言葉を発したときにすでにそれは自身の愚かさを露呈しているともいえます。
《黄帝内経》はしかし、百姓の困苦を救いたいという黄帝のやむなき思いに突き動かされて、多くの言葉を敢えて吐き出しました。慈悲が言葉を生み出し、言葉の海という愚かさに溺れながら、その奥にある真情・慈悲の道筋を開示してくれているわけです。
発せられた言葉をどう読むのか。吐き出された言葉の論理によって読むのか、黄帝の発せられた思いによって読むのか、そこに大きな分かれ目が存在します。私は黄帝の慈悲に感謝しながら、気一元の観点から読むということを選択しました。
言葉の森の迷妄に陥らないよう注意を喚起するために、この一文をしたためました。
難経鉄鑑の解釈文の一部です。
五行論と気一元
六九難を勉強するにあたり、気一元の観点から人体を見るということと、五行の相生相剋関係から人体を見るということとの違いを明確にしておきます。
◇五行の相生相剋の観点から人体を見るという場合にも全体性、胃の気というものの重要性は何にも増してあるものでありますけれども、《難経》においても、その全体性の重要さが多くの分量をもって説かれております。胃の気の大切さ・根としての腎気の大切さ・三焦の問題・奇経の問題などがそれです。
これらの問題を包含しながら人体そのものを気一元としてみていると、そこに《難経》の著者が大自然を観想していたのだとう姿勢が感じられます。大自然の縮図としての人間観が読み取れるわけです。
大自然。大いなる生命の恵み、生きとし生けるものがその中で存在し、その微細な生命を育むことを許されている壮大なドラマ。天地があり、その間に育まれている生命たち。この大いなる生命のドラマを、私は気一元という言葉で表現しています。
大いなる生命のドラマの中には、飢えがあったり農耕があったり共食いがあったり子孫ができることに対する本能的な歓喜があったりします。吾が小さな生命の中で、絶望や希望といった感情に揺れ動かされ、あるいは正義や礼儀という伝統に貫かれながら、通奏低音として、生命がある、ありつづけるという、この歓喜の中に生命の営みがあり続けています。
一元の気という観点とは、まずこの生命がありつづけているという所に視点を合わせて身体を見ていこうという、そういう位置のことを意味しています。
◇そこから五行の相生相剋を見ていくとそれはいかにもか細いひ弱な論理であると感じないわけにはいきません。まるで生命を剥ぎ取った骸骨がその大きくなった頭を振りながら青白い顔で悩んでいるといった図が眼前に浮かんでくるのです。
ひ弱な論理は複雑さによって自己を正当化しようとします。その行為が《鍼灸補瀉要穴の図》として結実し、また現代中医学として現われてきていると、私は考えています。論理は迷路を作り、迷路に迷って遊んでいるうちに生命そのものを見る、そこに歓喜するという、入り口でありかつ出口であるところのものを見失ってしまいます。
その自分自身で作り上げた迷妄の闇をさらに糊塗するために、さらなる論理の迷路を作り上げようとする。このはかなく愚かな営為を打ち破る観点が気一元の観点で身体を見るというところに存在していると私は思います。
◇言葉とはその中にそもそも論理性を含みます。そして一語一語はいつも不完全で未熟であって、言葉を発したときにすでにそれは自身の愚かさを露呈しているともいえます。
《黄帝内経》はしかし、百姓の困苦を救いたいという黄帝のやむなき思いに突き動かされて、多くの言葉を敢えて吐き出しました。慈悲が言葉を生み出し、言葉の海という愚かさに溺れながら、その奥にある真情・慈悲の道筋を開示してくれているわけです。
発せられた言葉をどう読むのか。吐き出された言葉の論理によって読むのか、黄帝の発せられた思いによって読むのか、そこに大きな分かれ目が存在します。私は黄帝の慈悲に感謝しながら、気一元の観点から読むということを選択しました。
言葉の森の迷妄に陥らないよう注意を喚起するために、この一文をしたためました。
サブコースの説明
●参加方法など
全体としてルーティーンではなく発展型で行う
記録を必ず残すようにする
無料(メインのまま)で参加者は許可制(気一元の観点から観た
陰陽五行をしっかり理解していないと混乱するため)
●後進養成への責任を伴う
サブコース参加者は次の段階へと進んでいくわけですけれども、後
進の疑問にメインの範疇で答えることによって、基本概念への理解
を深めるように努力します。
●自分の頭で考えて道を作っていけるようになる
メインで鍛えた型を、原理原則に基づいて破壊していくようにする。
原理原則とは、すべての概念を疑い、基本に立ち戻りながら何を自
分が考え理解しているのかということを再認識するということから
得られる。
●テキストの書き換え深化のためのテキストおよび古典の講読
『一元流鍼灸術の門』の講読
臓腑経絡学の再構築
『杉山流三部書』の講読
●選穴と処置の研究
私がまとめたものの批判的な講読が基礎。
古典に書かれている歌賦などについて、どのように考えていくか検
討する。
特効穴治療についての検討。
メインコースは診ることに特化し、臓腑経絡学の基本的な理解に基づいた
治療に視点を定め、これを基礎とします。
サブコースでは、この視野をさらに拡大していこうとします。
●経穴選択の概念と実際
それぞれの症例報告に基づいた、臨床の研究。
●一元流小里方式の応用
指の鍛錬
経穴の摸り方
経穴の状態とそれへのアプロ−チ
経穴の状態が変化するとはどういうことなのか
経穴の変化を持続させるためにはどうすればよいか
症状と経穴との関係はどれほどあるのか
●参加方法など
全体としてルーティーンではなく発展型で行う
記録を必ず残すようにする
無料(メインのまま)で参加者は許可制(気一元の観点から観た
陰陽五行をしっかり理解していないと混乱するため)
●後進養成への責任を伴う
サブコース参加者は次の段階へと進んでいくわけですけれども、後
進の疑問にメインの範疇で答えることによって、基本概念への理解
を深めるように努力します。
●自分の頭で考えて道を作っていけるようになる
メインで鍛えた型を、原理原則に基づいて破壊していくようにする。
原理原則とは、すべての概念を疑い、基本に立ち戻りながら何を自
分が考え理解しているのかということを再認識するということから
得られる。
●テキストの書き換え深化のためのテキストおよび古典の講読
『一元流鍼灸術の門』の講読
臓腑経絡学の再構築
『杉山流三部書』の講読
●選穴と処置の研究
私がまとめたものの批判的な講読が基礎。
古典に書かれている歌賦などについて、どのように考えていくか検
討する。
特効穴治療についての検討。
メインコースは診ることに特化し、臓腑経絡学の基本的な理解に基づいた
治療に視点を定め、これを基礎とします。
サブコースでは、この視野をさらに拡大していこうとします。
●経穴選択の概念と実際
それぞれの症例報告に基づいた、臨床の研究。
●一元流小里方式の応用
指の鍛錬
経穴の摸り方
経穴の状態とそれへのアプロ−チ
経穴の状態が変化するとはどういうことなのか
経穴の変化を持続させるためにはどうすればよいか
症状と経穴との関係はどれほどあるのか
一元流鍼灸術では「一」ということの理解を深めることが要求されているわけですけれども「一」というのはいったい何なのでしょう。何を意味しているものなのでしょうか。
来年私はある会で講演を頼まれていますので、その会で発行している資料をすべて取り寄せてみました。とてもよく勉強されていて、独創も多いのですが、ただ一点欠けているところがあって悲しくなりました。それが「一」の視点です。
東洋医学は汗牛充棟と言われるとおり、非常に多くの言葉が積み重ねられてきました。医学を支えている人間観ということから考えると、大陸の思想全体が網羅されてきますので、一つの大いなる文明そのものを学ばなければならないのではないかと気が遠くなってきます。まぁ実際その通りなのですが・・・
けれどもここで注意を払う必要があることは、言葉はただ「何者か」を指し示している符号に過ぎないということです。古代の発語の時点においては確かにその何者かを意識していたはずなのに、時代を下り言葉を連ねるのがうまくなるにつれて、徐々に言葉はそのリアリティーを失っていきます。そして、言葉に言葉を重ねて学者然とする一群の「偉い」人々が出現しました。もちろん彼らは時代を超えるミツバチのように言葉を運ぶことはできますし、彼らの影響で私どもは今勉強することができるわけですから、たくさんの感謝を捧げる必要があります。
けれども我々が学んでいく際、とても大切なことがここにあります。それは、時代を超えるミツバチは言葉を運んでいるのであって、発語のリアリティを運んでいるわけではないということです。発語のまさにその時のリアリティを感じとることができるかどうかはということは、現在生きている我々の意識にかかっているわけです。
ここに、心を沿わせる、という必要が出てきます。あらゆる迷妄を打ち破って初心に立ち返り、初めて出会ったものとして存在そのものを見つめ直す姿勢。そこに言葉を発する時のリアリティがあります。言葉を発する時というよりも、言葉を発する直前の何とも言えない感動、ここを表現しておきたいという強い思い。それがそこには存在していて、我々はそこに心を沿わせていくのです。
「一」とは何か、というと、この存在そのもののことです。記憶している言葉によって物事を評価し分析して理解できたことにして満足するのではなく、存在そのものへの驚きと畏れ、それと出会った時の感動に寄り添うということです。存在そのものに深く耳を傾けること。このことによってはじめて、言葉を発するまさにその時の感動が私どもの中によみがえってきます。そこ。言葉の側ではなく存在そのものの側に立ってそこに表現されている言葉を理解していく。この姿勢を保つことが、一元流鍼灸術の「一」の視点の立つということです。
今年の末に少しはまったのが、目次作り
収集しているデジタル古典の内、鍼灸に関係しそうなものを
整理して、目次をつけてみました。
あ、でも類経はまだ。2000頁以上あるので眩暈が・・・
それと医宗金鑑:東医宝鑑は、PDFのままで目次なし。
忘年会でみんなに、「古典に興味がある人いる?」
と聞いてみたけど、いなくてがっくし。
自分の勉強のための整理という感じになっちゃいました。
それにしてもネットって、便利なものです。ありがたや。
収集物は、ネットと、家にあるもののデジタル化したもの。
全部で六ギガほどになる画像資料です。
漢方関係を合わせると、この十倍ほどになります。
読み込むものはほんの少しであとは資料という感じになっていくのでしょうね。
それにしても、岡本一抱子には本当に驚かされます。
それぞれの書物のできの良さ丁寧さおもしろさを確保しながら
この大量の日本語化解説書の群れはいったい!
どんな怪物なのかと思う。敬服しています。
■■医学源流■■
日本医学史:富士川游
先哲医話:浅田宗伯
徂徠先生素問評
素問難経解題:丹波元簡
類経:張景岳
難経抄
勿聴子俗解八十一難経:熊宗立
難経本義鈔:寿徳菴玄由
難経註疏:名古屋玄医
難経鉄鑑:広岡蘇仙
難経経釈:徐大椿
難経小解:高井 晰斎
難経疏証:丹波元胤
医経解惑論:内藤希哲
■■養生など■■
陰虚本病
黄帝蝦蟇経
耆婆五臓経
五臟之守護并虫之圖
喫茶養生記:栄西
巻懐食鏡:香月牛山
病家須知:革谿道人
■■医学総合■■
医聖永田徳本伝
長田徳本翁遺説方
啓迪集:曲直瀬道三
師説筆記:後藤艮山
医学切要指南:岡本一抱子
医学正伝惑問諺解:岡本一抱子
医学入門諺解:岡本一抱子
医学三蔵弁解:岡本一抱子
和語医療指南:岡本一抱子
病因指南:岡本一抱子
病因精義:小森桃塢
医道日用綱目:本郷正豊
蕉窓雑話:和田東郭
叢桂亭医事小言:原南陽
医宗金鑑:東医宝鑑
■■診察術■■
脉経:王叔和
脉語:呉崑
百腹図説:一渓道三
腹診録:和田東郭
診極図説:瀬丘長圭
診病奇侅:多紀元堅
導引口訣鈔:養陽子
按腹図解:太田普斎
敖氏傷寒金鏡録
舌胎図説:土田敬之
■■経絡経穴■■
臓腑経絡詳解:岡本一抱子
十四経諺解:岡本一抱子
校正引経訣:岡本一抱子
牛山先生経絡図
十四経絡兪穴弁解:寺尾隆純
経絡発明:菊池玄蔵
経絡弁明:中島玄春
経穴彙解:原南陽
経穴纂要:小阪元祐
穴名備考:浅井図南
阿是要穴:岡本一抱子
経穴密語集:岡本一抱子
非十四経:広瀬白鱗
■■鍼灸術他■■
鍼灸集要:曲直瀬道三
啓迪庵日用灸法:曲直瀬道三
鍼灸要論:曲直瀬玄朔
鍼灸抜萃大成:岡本一抱子
杉山真伝流
鍼法弁惑:藤秀孟郡子
吉益家伝秘法
鍼灸説約:石坂宗哲
鍼灸則:菅沼周桂
鍼治極秘伝:木邨太仲
鍼治枢要:矢野白成
鍼治口訣鈔:養陽子
鍼術秘伝書
妙鍼流極秘書
鍼法一軸:福田氏道
鍼法弁惑:藤秀孟郡子
鍼論:葛西清希夷
鍼術秘要:坂井豊作
鍼灸備要:青山道醇
鍼灸明鑑:大石良輔
鍼灸要法指南:岩田利齋
活物実験禄:大須賀観界
黄帝明堂灸経:竇桂芳
名家灸選
巻懐食鏡:香月牛山
灸炳要覧:堀元厚
痧脹玉衡書:郭志邃
刺絡聞見録:三輪東朔
吐法編:萩野台州
■■婦人小児■■
産科彙篇:香川玄悦
産論:賀川玄悦
産論翼:賀川玄迪
産科発蒙:片倉鶴陵
顱顖経:小児科
収集しているデジタル古典の内、鍼灸に関係しそうなものを
整理して、目次をつけてみました。
あ、でも類経はまだ。2000頁以上あるので眩暈が・・・
それと医宗金鑑:東医宝鑑は、PDFのままで目次なし。
忘年会でみんなに、「古典に興味がある人いる?」
と聞いてみたけど、いなくてがっくし。
自分の勉強のための整理という感じになっちゃいました。
それにしてもネットって、便利なものです。ありがたや。
収集物は、ネットと、家にあるもののデジタル化したもの。
全部で六ギガほどになる画像資料です。
漢方関係を合わせると、この十倍ほどになります。
読み込むものはほんの少しであとは資料という感じになっていくのでしょうね。
それにしても、岡本一抱子には本当に驚かされます。
それぞれの書物のできの良さ丁寧さおもしろさを確保しながら
この大量の日本語化解説書の群れはいったい!
どんな怪物なのかと思う。敬服しています。
■■医学源流■■
日本医学史:富士川游
先哲医話:浅田宗伯
徂徠先生素問評
素問難経解題:丹波元簡
類経:張景岳
難経抄
勿聴子俗解八十一難経:熊宗立
難経本義鈔:寿徳菴玄由
難経註疏:名古屋玄医
難経鉄鑑:広岡蘇仙
難経経釈:徐大椿
難経小解:高井 晰斎
難経疏証:丹波元胤
医経解惑論:内藤希哲
■■養生など■■
陰虚本病
黄帝蝦蟇経
耆婆五臓経
五臟之守護并虫之圖
喫茶養生記:栄西
巻懐食鏡:香月牛山
病家須知:革谿道人
■■医学総合■■
医聖永田徳本伝
長田徳本翁遺説方
啓迪集:曲直瀬道三
師説筆記:後藤艮山
医学切要指南:岡本一抱子
医学正伝惑問諺解:岡本一抱子
医学入門諺解:岡本一抱子
医学三蔵弁解:岡本一抱子
和語医療指南:岡本一抱子
病因指南:岡本一抱子
病因精義:小森桃塢
医道日用綱目:本郷正豊
蕉窓雑話:和田東郭
叢桂亭医事小言:原南陽
医宗金鑑:東医宝鑑
■■診察術■■
脉経:王叔和
脉語:呉崑
百腹図説:一渓道三
腹診録:和田東郭
診極図説:瀬丘長圭
診病奇侅:多紀元堅
導引口訣鈔:養陽子
按腹図解:太田普斎
敖氏傷寒金鏡録
舌胎図説:土田敬之
■■経絡経穴■■
臓腑経絡詳解:岡本一抱子
十四経諺解:岡本一抱子
校正引経訣:岡本一抱子
牛山先生経絡図
十四経絡兪穴弁解:寺尾隆純
経絡発明:菊池玄蔵
経絡弁明:中島玄春
経穴彙解:原南陽
経穴纂要:小阪元祐
穴名備考:浅井図南
阿是要穴:岡本一抱子
経穴密語集:岡本一抱子
非十四経:広瀬白鱗
■■鍼灸術他■■
鍼灸集要:曲直瀬道三
啓迪庵日用灸法:曲直瀬道三
鍼灸要論:曲直瀬玄朔
鍼灸抜萃大成:岡本一抱子
杉山真伝流
鍼法弁惑:藤秀孟郡子
吉益家伝秘法
鍼灸説約:石坂宗哲
鍼灸則:菅沼周桂
鍼治極秘伝:木邨太仲
鍼治枢要:矢野白成
鍼治口訣鈔:養陽子
鍼術秘伝書
妙鍼流極秘書
鍼法一軸:福田氏道
鍼法弁惑:藤秀孟郡子
鍼論:葛西清希夷
鍼術秘要:坂井豊作
鍼灸備要:青山道醇
鍼灸明鑑:大石良輔
鍼灸要法指南:岩田利齋
活物実験禄:大須賀観界
黄帝明堂灸経:竇桂芳
名家灸選
巻懐食鏡:香月牛山
灸炳要覧:堀元厚
痧脹玉衡書:郭志邃
刺絡聞見録:三輪東朔
吐法編:萩野台州
■■婦人小児■■
産科彙篇:香川玄悦
産論:賀川玄悦
産論翼:賀川玄迪
産科発蒙:片倉鶴陵
顱顖経:小児科
最近古代中国思想について少し調べ物をしています。思想というものには流派というのがあるんですね。
儒家とか道家とか黄老道とか墨家とか法家とかさまざまに分けられています。これはもちろん当時最初からそれぞれの思想家群として分類されて別々に存在していたわけではなく、後世の人々がその思想傾向によって分類したものです。
戦国乱世の時代ですから、知識人や知恵ある者と自らを見せかけたかった人や仕官を望むだけの人も含めて、売り物になりそうな思想を構成して商売をしていたわけです。
本物の思想をもってすれば国が富み敵に打ち勝つことができると考えていたのか、敵に打ち勝ち得た思想こそが本物の思想であると考えたのかどうかはわかりませんが、諸子百家と後世呼ばれることとなる多種多様な思想家群がこの時期にできあがっています。
そして後世の学者は、それぞれの流派の発生時期から消滅時期までを特定しようと遺跡を発掘しながら一生懸命その能力を使っているわけです。
そういう書物やレポートを読んでいて、はて?と疑問に思ったことがあります。現代でも多くの思想家がおり、さまざまな流派があります。この時代に生きている私にとって必要なことは、本当の思想、より真実の思想であって、ある流派が生じ滅びるという経緯ではありません。そんなことどうでも良い。
今の時代に生きて、思想を実践しようとする―すなわち患者さんをいかに治すのかということに工夫を凝らそうとする―程度の私でさえこのように思うわけですから、まさに命がけで実戦的な知恵を求められる戦国時代の思想家たちはなおさら、自身の思想系統がどこに属するかということなどどーでもいいことでしょう。使える思想を手にしたい、役に立つ思想をもって売り込みたい。そうやって道を求め続けたことでしょう。
このように考えてみると、細かく文献に当たって分析を凝らして思想家の分類をすることになんの意味があるのだろうかという疑問が湧いてきます。大きな流れは思想潮流として存在するわけですから、いわば時代的な風景として捉えておくことは必要でしょうが、あまりに詳細な分析は、当時生きて他者と論争していたその思想家本人でさえ理解ができないものとなってしまうことでしょう。「俺はそんなことは言ってないのに」ってね。
学者として現代において認められるためにはこのような細かい分析能力が必要なのでしょう。学者ではない私にはそのような能力もなく、そのようなことをする必要性もないので、よかったなと思います。
正しい書籍・正しい分析が正しい判断(治療技術)を作るのではなく、正しさを求め続ける志のみが「そこ」(しっかりした治療技術)に近づくことができるのだと考えています。
学者と道を求める者とは根本的に異なる
学者は言葉におぼれ、言葉の解釈をしてその一生を過ごす。
道を求める者は言葉を体験し、それを自己の経験と照らし合わせて純化する。
学者にあっては、言葉はそのまま言葉であるが、道を求める者にあっては言葉は導きの光となり、体験によって言葉が浄化される。
日本において、儒教を越えて武士道が置かれたのは、この道を求める志が伝統的な言葉を越えて、新たな言葉を作ったためであろう。そこには、儒仏神の求道の魂の内における融合が存在する。
学者は、魂の言葉の番人、解説者にすぎない。それは、光り輝く言葉のそばに立ってその光を遮り、解説すると称してそれを「あるいはわかりやすい言葉に代えて」曇らせて悦に入っている人々のことである。
まさに言葉の牢獄の囚人でしかない。
学者は言葉におぼれ、言葉の解釈をしてその一生を過ごす。
道を求める者は言葉を体験し、それを自己の経験と照らし合わせて純化する。
学者にあっては、言葉はそのまま言葉であるが、道を求める者にあっては言葉は導きの光となり、体験によって言葉が浄化される。
日本において、儒教を越えて武士道が置かれたのは、この道を求める志が伝統的な言葉を越えて、新たな言葉を作ったためであろう。そこには、儒仏神の求道の魂の内における融合が存在する。
学者は、魂の言葉の番人、解説者にすぎない。それは、光り輝く言葉のそばに立ってその光を遮り、解説すると称してそれを「あるいはわかりやすい言葉に代えて」曇らせて悦に入っている人々のことである。
まさに言葉の牢獄の囚人でしかない。
丹田というと想起されるものは、孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)のいわゆる浩然の気です。けれどもこの言葉はもともと、丹田の力や肚の括りということを表現しているものではありません。
浩然の気(正義を行う勇猛果敢の気: 天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気: 物事にとらわれない、おおらかな心持ち)を養う方法について次のように語っています。「この気はいつも正義と人道とにつれそってこそ存在するものだから、この二つがなければ(すなわち正義と人道とにはずれたことをすれば)この気は飢えてしぼんでしまう。これはたえずこの道義を行っておるうちに自然と生まれてくるもので、外界からむりやりいっぺんに取りいれることができるものではない。」《孟子・公孫丑上:小林勝人訳注:岩波文庫》
吉田松陰はまたこれに注して、「浩然の氣は本と是れ天地間に充塞するところにして、人の得て氣とする所なり。故に人能く私心を除く時は、至大にして天地と同一體になるなり。」《講孟剳記:吉田松陰全集第三巻:岩波書店:昭和十四年刊》と述べています。
いずれにしても丹田を作るといった概念とは関係のないものということになります。
黄老道においても、丹田の概念はそこにはありません。シャーマニズム(護符や呪術)および食事療法(内服するために丹薬を作ることなど)を用いることによって延命長寿を得て仙人となろうとするものです。
〔注:ただし、戦国時代に作られた《行気玉器銘》あるいは《行気玉佩銘》には、自然界の気の運行規律について述べられており、これを丹田について述べられているように読むこともできます。けれどもこれは、仙道や道教において内丹として臍下丹田の重要性が強調されている後世の価値観で古代の遺跡を読み、あたかも秘伝が隠語で綴られてきた歴史とともにこれを解釈しようとするものであると私は思います。〕
支那への仏教の伝来は前漢の時代、紀元前の二世紀頃から徐々に伝わり、後漢の60年頃には本格的に伝来していました。
太平道(張角)や五斗米道(張良)といった道教は後漢のこの時代、後漢末の人が人を食らうような悲惨な時代にできあがっています。道教はあたかも、仏教という宗教を媒介あるいは呼び水として、それまでの支那大陸の伝統であった黄老道やシャーマニズムを組み立てなおしたような感じです。
この同じ時代、後漢末に作られ、後に製丹法の聖典となった魏伯陽の《周易参同契》になると、はじめて臍下丹田について触れているような部分が、《難経》と同じように呼吸に関連して出てきます。《難経》もまた、実にこの時代に書かれたものです。
《黄帝内経》はこれより数百年前の前漢から後漢にかけての黄老道の全盛期に作られました。
《難経》以前に臍下丹田の重要性を説いた黄老道の書物や遺跡がほぼないこと、《黄帝内経》において「命門」が目のことを意味していて《難経》では下焦の腎が割り当てられていることなどから考えると、《黄帝内経》と《難経》との間には、人間観の大きな転換があったと想定することができます。
つまり《難経》は実は、黄老道の思想にもとづいて作られていた《黄帝内経》の人間観を、仏教的なものすなわち、丹田を中心とする気一元の人間観にしたがって構成しなおしたものであったと考えることができるわけです。
《難経》において、臍下丹田の重要性が強調されたこと、三焦論が構成しなおされたこと、奇経理論を明確に提示することができたその理由は、このような、人間観の大きな転換が底流にあったためではないか、そのように今、私は考えています。
一元流鍼灸術の門において書かれていることは、鍼灸と東洋医学的な身体観のもっとも基本的な型です。型というのは、それを理解するに常識を研ぎ澄ますこと、自分自身をしっかりと見つめなおすこと、で充分できるようなものであることを意味しています。そしてこの型は、それをもって世界を理解し、それを東洋医学の観点から理解し、対応することのできるものです。一元流鍼灸術はそのように作ってあるということです。
これがいわば「常」の観点。応用自在な初発の観点であり、迷ったときに戻り再度考えを構築していく原点となる場所です。
そして治療においては、患者さんの身体を一元の気として把握し、その患者さんの気の動きを調整するためには、患者さんの気に依存するという姿勢をとります。これはすなわち、患者さんの気を動かしたり補ったりする際に術者の気を用いない。感応を用いないという立ち位置をとるということを意味しています。
ここには、治療処置と患者さんの気の動きとの間に、術者の気や、患者さんと術者との感応を極力排することによって、技術としての鍼灸術を磨いていこうという発想があります。そこにおいて立ち上げられた論理は、気功的な能力や微細な技術を極力排除した論理となります。ここに一元流鍼灸術の立ち位置が存在します。ここに学ぶ個人個人が、技術や人間力を磨いてその技量や感応力をそこに加えるなら、さらなる治療効果をあげられるように配慮しているわけです。
このような基礎的な学の構築を、一元流鍼灸術は目指しています。これが此岸の学としての鍼灸術となっていくことでしょう。
さて、一元流鍼灸術ゼミナールは、サブコースを設けています。これはいわば、基礎学としての一元流鍼灸術、入り口であり迷ったときの帰還場処であるホームポジションとしての一元流鍼灸術の此岸から、各術者が彼岸へと船出していくことを助けようという意図が実はあります。基本を押さえた上で、しずしずとゆるやかに、その力量に応じて更なる独自の個性を治療の場で発揮できるよう、応援しようとしているわけです。
各術者は、此岸に停まって、一元流鍼灸術の基礎理念を深めるという選択ももちろんできます。その研究方法もしっかり受け継いでほしいと思います。またさらにそれを応用して、独自の流儀を作る支援をしたいと思っているわけです。いわば此岸を守る料亭の女将から、彼岸への道を提示する水先案内人へと私の務めを変化させようとしているわけです。
孔子は、弟子に死後の世界について聞かれたとき、「我れいまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや」と答えました。生という此岸のありようが「常」としての知識のおよぶ範囲であり、これは東洋医学においては一元流鍼灸術で提示されていることとなります。私は此岸に停まり、此岸を味わいつくしたいと望んでいます。それはとても深く豊かな体験です。しかしこのゼミで学ぶ方々の中には、ここにとどまることなく独自の世界を劈いていきたいと望まれる方もおられるでしょう。確かな土台の上に独自の彼岸の世界が築けるよう支援することができるならば、私の喜びはこれに勝るものはありません。
このようにして臨床効果がさらに高まり、更なる済世の徒がこのゼミから産まれ出ることを、私はまた祈っているわけです。
五臓の弁別、切り分けられないものを切り分けてみるという段階な
わけですけれども、ここは意外と難しい問題がはらまれているとい
うことがわかります。
五臓の弁別をしていく上での総綱としてテキストに書かれているも
のの中で参考になるものは、
◆ 実戦編の中の弁証論治の進め方:五臓の弁別
「四診を合参して、臓腑経絡学および症状の鑑別診断を駆使し五臟に弁別してみます。これは、東洋医学における過去の積み重ねを利用して、四診を纏め上げてみるという行為です。ここには、これまでの勉強の成果が現れてきます。
五臟の弁別は、四診を通じて得た情報を五行に従って仮に分けてみるという分析的な行いです。 」
◆ 臓腑経絡の総説の中の
「この臓腑経絡学は、陰陽五行に対する観念的な解釈と、解剖や臨床を通じて観察しながら実際の五臓の機能などを観察することとを対応させることによってその理論ができあがっています。
また、東洋医学には長い年月にわたる蓄積がありますので、書物の量も厖大です。その文字の糟粕に目を奪われないよう、しっかりと実際の身体の気の動きを観察し、そこから理論を紡ぎ出していくという姿勢が必要となります。
その際、参考になるものが、ただ一つの生命をばくっと大きな流れの中で把えなおす観点です。陰陽五行の理論はそのために使われます。陰陽五行におけるバランスのとり方を眺めていく中から、実際に生きて動いている患者さんの身体を、一つの小さな時空の流れとして把えていくわけです。
臓腑経絡学の項目は、詳細かつ実際的な記載になります。もし文字の糟粕に溺れそうになったら、ここ、一元の気を二つの観点から見、五つの観点から見るのだというところへ帰ってきてください。 」
◆ 臓腑経絡の五行の総論
「五行理論は、臓腑経絡学説を考えていく上で骨格となる観念です。一元の気の動きや表情を、五つの方向から把えていきます。五種類に明確に分かれているものが統合されて人体ができているのではなく、生きて動いている人間を解釈するためにこれまでは陰陽という観点を用いていましたが、ここでは五という観点からいま少し詳細に検討しているわけです。
陰陽でもそうですが、分けるということが大切なのではなく、それぞれの観点の間の淡い、それぞれの関係性に注意を払い続けるということが大切です。
迷ったときには、一元の気として生きて動いている人間に立ち戻り、すべてを新たに見直しなおしていくという姿勢が大切です。
ここで提出される五行の観点には、さまざまな切り口があります。そしてその切り口は、基本的に天人相応の中から思考されてきたものです。 」
という部分になります。
実際にそれを行っているものの心として、分析的であることと総合
的であることの両方の気持ちを持っている必要があります。つまり
この、逆の方向性をもつ意識を両方保ちながらバランスを取ること
が難しいわけです。
論理が切れる場合には生命の流れが見えにくくなります。
生命の流れが見える時には論理が甘くなりがちです。
このバランスの取り方に個性が出てくるわけです。その個性は長所
でもあり欠点でもあります。
わけですけれども、ここは意外と難しい問題がはらまれているとい
うことがわかります。
五臓の弁別をしていく上での総綱としてテキストに書かれているも
のの中で参考になるものは、
◆ 実戦編の中の弁証論治の進め方:五臓の弁別
「四診を合参して、臓腑経絡学および症状の鑑別診断を駆使し五臟に弁別してみます。これは、東洋医学における過去の積み重ねを利用して、四診を纏め上げてみるという行為です。ここには、これまでの勉強の成果が現れてきます。
五臟の弁別は、四診を通じて得た情報を五行に従って仮に分けてみるという分析的な行いです。 」
◆ 臓腑経絡の総説の中の
「この臓腑経絡学は、陰陽五行に対する観念的な解釈と、解剖や臨床を通じて観察しながら実際の五臓の機能などを観察することとを対応させることによってその理論ができあがっています。
また、東洋医学には長い年月にわたる蓄積がありますので、書物の量も厖大です。その文字の糟粕に目を奪われないよう、しっかりと実際の身体の気の動きを観察し、そこから理論を紡ぎ出していくという姿勢が必要となります。
その際、参考になるものが、ただ一つの生命をばくっと大きな流れの中で把えなおす観点です。陰陽五行の理論はそのために使われます。陰陽五行におけるバランスのとり方を眺めていく中から、実際に生きて動いている患者さんの身体を、一つの小さな時空の流れとして把えていくわけです。
臓腑経絡学の項目は、詳細かつ実際的な記載になります。もし文字の糟粕に溺れそうになったら、ここ、一元の気を二つの観点から見、五つの観点から見るのだというところへ帰ってきてください。 」
◆ 臓腑経絡の五行の総論
「五行理論は、臓腑経絡学説を考えていく上で骨格となる観念です。一元の気の動きや表情を、五つの方向から把えていきます。五種類に明確に分かれているものが統合されて人体ができているのではなく、生きて動いている人間を解釈するためにこれまでは陰陽という観点を用いていましたが、ここでは五という観点からいま少し詳細に検討しているわけです。
陰陽でもそうですが、分けるということが大切なのではなく、それぞれの観点の間の淡い、それぞれの関係性に注意を払い続けるということが大切です。
迷ったときには、一元の気として生きて動いている人間に立ち戻り、すべてを新たに見直しなおしていくという姿勢が大切です。
ここで提出される五行の観点には、さまざまな切り口があります。そしてその切り口は、基本的に天人相応の中から思考されてきたものです。 」
という部分になります。
実際にそれを行っているものの心として、分析的であることと総合
的であることの両方の気持ちを持っている必要があります。つまり
この、逆の方向性をもつ意識を両方保ちながらバランスを取ること
が難しいわけです。
論理が切れる場合には生命の流れが見えにくくなります。
生命の流れが見える時には論理が甘くなりがちです。
このバランスの取り方に個性が出てくるわけです。その個性は長所
でもあり欠点でもあります。
言葉、というものは恐ろしいものだと思います。
読む言葉、語る言葉に、指す言葉。
武士道における言葉は発するものの内側に肉薄する言葉でした。
他者に対するものではなく、己に対する謹言。
この同じ言葉が、他者に向けられたとき、それは他者を支配し傷つける刃となる。
けれどもそれが己に向けられたとき、己を磨く砥石となる。
この二者の差は歴然としているものです。
道徳を説くものの醜さは、己に向けられるべきこれらの言葉を他者に向けて発して、他者を支配しようとするところにあります。
己に向けられたものの美しさは、自身の切磋琢磨の目標としてこれらの言葉を用いるところにあります。
己に向けた言葉を他者に向けぬようくれぐれも注意していきたいものです。
仏教における治病
サブコースで、仏教における治病ということでまとめていまして、
それを通じて感じたことを書き留めたメモです。今とこれからの課題ですね。
★仏教における治病とは何か
仏教において病というのは衆生のありようそのものを言う。
つまり、悟りを開いていないものはすべて病である。
仏教的な治病とは、悟りを開いてこの生命の喜びを直接感じ取れるようになること。
★なぜお釈迦様は治病を軽視されたのか
耆婆が上手に病を治療していたがそれを禁止した
その理由は、病というものが天あるいは神あるいは過去生がその業を現世に顕わしたものであって、その病を受け止めきることによってカルマが解けていくことを教えるため。
★救いとは治病ではないのか
ゆえに救いとは、救いそのものであって、何かが与えられることではない。
「何か」のために救いがあるのではなく、ありのままにそこにいる覚悟を決めることそのものが救い。
肉体的な治病とは大きな懸隔があるものである。
★仏教的な救いと悟りとの違いは何か
救いは悟りに至るための方便
悟りは完全に救われていることの自覚
★悟りは人生の目標になりうるのか
悟りは今ある自分自身に明(あきら)めること
今の自分自身を明らかに知りそこから人生を始める決意をすること
これは目標ではなく、今の位置を受け入れることにすぎない。
★仏教の目標とは何か
すべての人が悟りの歓喜を知り
その人生を無上のものとして楽しめるようになること。
天上天下唯我独尊とはこのこと。
★仏教は人に何を教えようとするのか
人はそのままでとても美しく完璧であるということ。
★日本医学はどこまで気づき、どこまで純化しどこまで堕落していたのか
医学的な治病とは多くの場合目先の苦痛目先の違和感を取り去ることに集中する。
これはもちろん患者さんの望みであり、病気の本体なのだが、その深奥に入り込む医者はいない。
西洋医学の浅薄、古方派の下賤はここにある。
がしかし、治病を超尅する視点を与えることができずにいたずらに治療行為を遷延させる医家は論外〔注:自分の生命の価値をおとしめているもの〕ではある。
サブコースで、仏教における治病ということでまとめていまして、
それを通じて感じたことを書き留めたメモです。今とこれからの課題ですね。
★仏教における治病とは何か
仏教において病というのは衆生のありようそのものを言う。
つまり、悟りを開いていないものはすべて病である。
仏教的な治病とは、悟りを開いてこの生命の喜びを直接感じ取れるようになること。
★なぜお釈迦様は治病を軽視されたのか
耆婆が上手に病を治療していたがそれを禁止した
その理由は、病というものが天あるいは神あるいは過去生がその業を現世に顕わしたものであって、その病を受け止めきることによってカルマが解けていくことを教えるため。
★救いとは治病ではないのか
ゆえに救いとは、救いそのものであって、何かが与えられることではない。
「何か」のために救いがあるのではなく、ありのままにそこにいる覚悟を決めることそのものが救い。
肉体的な治病とは大きな懸隔があるものである。
★仏教的な救いと悟りとの違いは何か
救いは悟りに至るための方便
悟りは完全に救われていることの自覚
★悟りは人生の目標になりうるのか
悟りは今ある自分自身に明(あきら)めること
今の自分自身を明らかに知りそこから人生を始める決意をすること
これは目標ではなく、今の位置を受け入れることにすぎない。
★仏教の目標とは何か
すべての人が悟りの歓喜を知り
その人生を無上のものとして楽しめるようになること。
天上天下唯我独尊とはこのこと。
★仏教は人に何を教えようとするのか
人はそのままでとても美しく完璧であるということ。
★日本医学はどこまで気づき、どこまで純化しどこまで堕落していたのか
医学的な治病とは多くの場合目先の苦痛目先の違和感を取り去ることに集中する。
これはもちろん患者さんの望みであり、病気の本体なのだが、その深奥に入り込む医者はいない。
西洋医学の浅薄、古方派の下賤はここにある。
がしかし、治病を超尅する視点を与えることができずにいたずらに治療行為を遷延させる医家は論外〔注:自分の生命の価値をおとしめているもの〕ではある。
この文章は弁証論治を作成している人へのアドバイスとして書いたものの
要点をピックアップしたものです。
そもそも外傷によって経絡経筋病となるということはどういうこと
かというと、外傷を受けた部位を中心として生命力の阻滞が起こっ
ているということを意味しています。
外傷を受ける際には、受け手としての身体の器すなわち生命力の充
実度の問題が当然あるわけですから、ここに内外の問題の微妙なバ
ランス関係が成立することとなります。
・ 生命力が充実していて外傷のレベルが弱い場合には、そもそも
怪我にはなりません。身体を養うほどのいわばスポーツをする
ような影響力しか持ち得ない場合もあるわけです。
・ その場合よりも表面においては衛気が弱くあるいは外傷が強い
場合には、かすり傷や二三日の打撲で終わります。
・ さらに外傷が強く衛気が弱い場合には生命力が阻滞されること
によってそれを回復しようとする生命力とそれを阻むものとの
間に矛盾が生じて熱化したり痛みが出たりします。このあたり
が経絡経筋病と言われる範疇となります。
・ さらに外傷が強く衛気だけでなくその生命力そのものが弱い場
合、筋肉を損傷したり骨折をしたり、あるいはその部位によっ
ては内臓の損傷にまで致ります。外傷ではありますけれども臓
腑病になる場合もあるわけです。
・ さらに外傷が強く生命力が弱い場合には器官が損傷されて死に
至る場合もあります。
◇ 重傷になればなるほどその回復には臓腑の力、主として腎気が
必要となります。これは生命活動を行うための余力が腎に蓄え
られているためで、生命の危機に際してここが出動するからで
す。
◇ この症例のような打撲を受ける場合、その速度と打撃力(質
量)および受けた場処とそこの生命の充実度が、病態の把握に
おいて大変重要な要素となります。野口晴哉先生などは、打撃
が通り抜ける場処はたいして問題ではなく、それが最終的に到
達して止まった場処すなわち実際に打撃を受け止めた場処の損
傷が問題であるとします。打撃には子供に殴られたものからラ
イフルで撃たれたもの交通事故まで入りますから、そのさまざ
まな例をイメージしながら、この症例はどのあたりなのかなと
いう風に考えていくわけです。
要点をピックアップしたものです。
そもそも外傷によって経絡経筋病となるということはどういうこと
かというと、外傷を受けた部位を中心として生命力の阻滞が起こっ
ているということを意味しています。
外傷を受ける際には、受け手としての身体の器すなわち生命力の充
実度の問題が当然あるわけですから、ここに内外の問題の微妙なバ
ランス関係が成立することとなります。
・ 生命力が充実していて外傷のレベルが弱い場合には、そもそも
怪我にはなりません。身体を養うほどのいわばスポーツをする
ような影響力しか持ち得ない場合もあるわけです。
・ その場合よりも表面においては衛気が弱くあるいは外傷が強い
場合には、かすり傷や二三日の打撲で終わります。
・ さらに外傷が強く衛気が弱い場合には生命力が阻滞されること
によってそれを回復しようとする生命力とそれを阻むものとの
間に矛盾が生じて熱化したり痛みが出たりします。このあたり
が経絡経筋病と言われる範疇となります。
・ さらに外傷が強く衛気だけでなくその生命力そのものが弱い場
合、筋肉を損傷したり骨折をしたり、あるいはその部位によっ
ては内臓の損傷にまで致ります。外傷ではありますけれども臓
腑病になる場合もあるわけです。
・ さらに外傷が強く生命力が弱い場合には器官が損傷されて死に
至る場合もあります。
◇ 重傷になればなるほどその回復には臓腑の力、主として腎気が
必要となります。これは生命活動を行うための余力が腎に蓄え
られているためで、生命の危機に際してここが出動するからで
す。
◇ この症例のような打撲を受ける場合、その速度と打撃力(質
量)および受けた場処とそこの生命の充実度が、病態の把握に
おいて大変重要な要素となります。野口晴哉先生などは、打撃
が通り抜ける場処はたいして問題ではなく、それが最終的に到
達して止まった場処すなわち実際に打撃を受け止めた場処の損
傷が問題であるとします。打撃には子供に殴られたものからラ
イフルで撃たれたもの交通事故まで入りますから、そのさまざ
まな例をイメージしながら、この症例はどのあたりなのかなと
いう風に考えていくわけです。
病因病理を考えていて、中心となる流れは何なのだろうと考えていたところ、そういえばこの発想法はすべてに共通するものだなと思い至り、ちょっとまとめてみました。
古典の読み方、学ぶことの仕方、人生の過ごし方などのすべての側面に応用できる基礎概念です。
一元流鍼灸術は東洋医学におけるこの基礎の御柱を立てようとしているわけですね。
◆脉診
脉診においては、目立つ一点異常なところを感じ取りそれを見逃さないようにする。
脉診においては胃の気を観ること大切。胃の気とは生命力のこと。脉処に現れている生命力の元気の度合いをさまざまな角度から観るのが脉診。
脉処に気一元の生命力が集約されて現れているという観点に立ち、その変化を見通しながら現在の異常の中心を見逃さないようにする。生命力の側から言うと胃の気を観ると言い、病気の側から言うと異常の中心を見極めるという。
一点に現れていたり、輪郭に出ていたり沈位に出ていたり中位に出ていたりあるいは脉状に出ていたりするので、決めつけずに心を自身の臍下丹田に定めて観、ありのままを観てそれを言語化していくようにする。
◆経穴診
経穴診においてはわかりやすいところを見つける、わかりやすい一点を見逃さないようにする。それが中心となる。けれども、経穴の位置によってその経穴の表現が異なるので、まずは同じ経穴を摸って左右の状態を比較していくとよいだろう。
◆五臓の弁別
大切なところ、証明となるようなものを見逃さないようにする
たくさん情報を掲載することが大切なのではなく、大切な情報を見逃さないようにすることが大切。
◆病因病理
人生の流れの中で分岐点となるところを見逃さないように、矛盾しているところをごまかさずに解説できるようにすることが大切。
大切な情報を中心に構築していく。気滞と気虚。これが人間を観ていくための基本的な方法。どこに気滞がありどこに気虚があるのか、その濃淡を表現していく。問題が簡単なものは変化しやすく、問題が深いものは変化しにくい。変化しにくい中心を把握してそれを解説するのが病因病理の本来の役割。
病因病理の中で主訴をどのように位置づけるのかということから、治療方針が出てくる。
◆古典を読む
読むことが目標ではなく、それを理解して臨床に応用することが目標。
そのためには、文字の糟粕に惑わされることなく、大きな柱〔注:ほんとうに言いたいこと〕がどこにあるのかを見つけ出してそれに沿って読み取るようにする。
これができていない書物〔注:訳本を含む〕などを読むと頭が混乱する。それは書くために書いているからで、ほとんど読む価値はない。
古典の読み方、学ぶことの仕方、人生の過ごし方などのすべての側面に応用できる基礎概念です。
一元流鍼灸術は東洋医学におけるこの基礎の御柱を立てようとしているわけですね。
◆脉診
脉診においては、目立つ一点異常なところを感じ取りそれを見逃さないようにする。
脉診においては胃の気を観ること大切。胃の気とは生命力のこと。脉処に現れている生命力の元気の度合いをさまざまな角度から観るのが脉診。
脉処に気一元の生命力が集約されて現れているという観点に立ち、その変化を見通しながら現在の異常の中心を見逃さないようにする。生命力の側から言うと胃の気を観ると言い、病気の側から言うと異常の中心を見極めるという。
一点に現れていたり、輪郭に出ていたり沈位に出ていたり中位に出ていたりあるいは脉状に出ていたりするので、決めつけずに心を自身の臍下丹田に定めて観、ありのままを観てそれを言語化していくようにする。
◆経穴診
経穴診においてはわかりやすいところを見つける、わかりやすい一点を見逃さないようにする。それが中心となる。けれども、経穴の位置によってその経穴の表現が異なるので、まずは同じ経穴を摸って左右の状態を比較していくとよいだろう。
◆五臓の弁別
大切なところ、証明となるようなものを見逃さないようにする
たくさん情報を掲載することが大切なのではなく、大切な情報を見逃さないようにすることが大切。
◆病因病理
人生の流れの中で分岐点となるところを見逃さないように、矛盾しているところをごまかさずに解説できるようにすることが大切。
大切な情報を中心に構築していく。気滞と気虚。これが人間を観ていくための基本的な方法。どこに気滞がありどこに気虚があるのか、その濃淡を表現していく。問題が簡単なものは変化しやすく、問題が深いものは変化しにくい。変化しにくい中心を把握してそれを解説するのが病因病理の本来の役割。
病因病理の中で主訴をどのように位置づけるのかということから、治療方針が出てくる。
◆古典を読む
読むことが目標ではなく、それを理解して臨床に応用することが目標。
そのためには、文字の糟粕に惑わされることなく、大きな柱〔注:ほんとうに言いたいこと〕がどこにあるのかを見つけ出してそれに沿って読み取るようにする。
これができていない書物〔注:訳本を含む〕などを読むと頭が混乱する。それは書くために書いているからで、ほとんど読む価値はない。

