一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

一元流鍼灸術 勉強会のお知らせ。

一元流鍼灸術では、勉強会の場処を移動したのに伴い、常時勉強会への参加を受
け付けることになりました。ご希望の方は、はつき(pxl02541@nifty.ne.jp)ま
でメールください。

日時:毎月 第三日曜日 午後2時から

会費;1年 1万円
   一回のみの参加 5000円

場処:「南馬込文化センター」です。

大森駅から来ると、春日橋の高架の信号をくぐってから環状七号線
を右に曲がり、ガソリンスタンドをこえた一本目の路地を左折突き
当りを右折して坂の上り口の三叉路を左にとり、次の右に入る路地
を右折すると着きます。グーぐるマップは以下。

http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8C%BA%E5%8D%97%E9%A6%AC%E8%BE%BC3-24-9


荏原町方面行きのバス停の、坂上の隣のバス停で馬込循環に乗り、
中央一丁目で降りると、上記「春日橋の高架の信号をくぐってから
環状七号線を右に曲が」った位置まできます。そのまま、まっすぐ
大通りをきて、一本内側に入るという感じです。



コースはふたつです。

新規参加のかたは、メインコースとなります。
その後、ステップアップのためのコースとしてサブコースも開催しています。
◇ メインコースの内容は以下のとおりです。

● 行うこと

  全体として一年を目途としたルーティーンとする
  テキスト「一元流鍼灸術の門」を繰り返し読む
  体表観察の習練をする
  自らをモデル患者として弁証論治を作り上げる
  他の参加者の弁証論治をともに考える。
  このため、メイリングリストを多用しています。
  パソコン環境にないと継続的な参加は難しいです。

● メインコースの参加の心構えには二層二段階あります

目標:臨床家となるための基本的な所作の獲得

  言葉の学習
     気一元で見る
     臓腑経絡学
  実践の学習
     体表観察
     弁証論治
     処置に関して悩める段階と悩み方まで

  批判的な眼差しで先輩の方法を見学する段階
     教わる段階
  自ら参加して行う段階
     参加し習練する段階
サブコースの説明

●参加方法など

 全体としてルーティーンではなく発展型で行う
 記録を必ず残すようにする
 無料(メインのまま)で参加者は許可制(気一元の観点から観た
陰陽五行をしっかり理解していないと混乱するため)


●後進養成への責任を伴う

サブコース参加者は次の段階へと進んでいくわけですけれども、後
進の疑問にメインの範疇で答えることによって、基本概念への理解
を深めるように努力します。

●自分の頭で考えて道を作っていけるようになる

メインで鍛えた型を、原理原則に基づいて破壊していくようにする。
原理原則とは、すべての概念を疑い、基本に立ち戻りながら何を自
分が考え理解しているのかということを再認識するということから
得られる。

●テキストの書き換え深化のためのテキストおよび古典の講読

  『一元流鍼灸術の門』の講読
     臓腑経絡学の再構築
  『杉山流三部書』の講読


●選穴と処置の研究

私がまとめたものの批判的な講読が基礎。

古典に書かれている歌賦などについて、どのように考えていくか検
討する。

特効穴治療についての検討。

メインコースは診ることに特化し、臓腑経絡学の基本的な理解に基づいた
治療に視点を定め、これを基礎とします。

サブコースでは、この視野をさらに拡大していこうとします。

●経穴選択の概念と実際

それぞれの症例報告に基づいた、臨床の研究。

●一元流小里方式の応用

指の鍛錬
経穴の摸り方
経穴の状態とそれへのアプロ−チ
経穴の状態が変化するとはどういうことなのか
経穴の変化を持続させるためにはどうすればよいか
症状と経穴との関係はどれほどあるのか

丹田というと想起されるものは、孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)のいわゆる浩然の気です。けれどもこの言葉はもともと、丹田の力や肚の括りということを表現しているものではありません。

浩然の気(正義を行う勇猛果敢の気: 天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気: 物事にとらわれない、おおらかな心持ち)を養う方法について次のように語っています。「この気はいつも正義と人道とにつれそってこそ存在するものだから、この二つがなければ(すなわち正義と人道とにはずれたことをすれば)この気は飢えてしぼんでしまう。これはたえずこの道義を行っておるうちに自然と生まれてくるもので、外界からむりやりいっぺんに取りいれることができるものではない。」《孟子・公孫丑上:小林勝人訳注:岩波文庫》

吉田松陰はまたこれに注して、「浩然の氣は本と是れ天地間に充塞するところにして、人の得て氣とする所なり。故に人能く私心を除く時は、至大にして天地と同一體になるなり。」《講孟剳記:吉田松陰全集第三巻:岩波書店:昭和十四年刊》と述べています。

いずれにしても丹田を作るといった概念とは関係のないものということになります。


黄老道においても、丹田の概念はそこにはありません。シャーマニズム(護符や呪術)および食事療法(内服するために丹薬を作ることなど)を用いることによって延命長寿を得て仙人となろうとするものです。

〔注:ただし、戦国時代に作られた《行気玉器銘》あるいは《行気玉佩銘》には、自然界の気の運行規律について述べられており、これを丹田について述べられているように読むこともできます。けれどもこれは、仙道や道教において内丹として臍下丹田の重要性が強調されている後世の価値観で古代の遺跡を読み、あたかも秘伝が隠語で綴られてきた歴史とともにこれを解釈しようとするものであると私は思います。〕


支那への仏教の伝来は前漢の時代、紀元前の二世紀頃から徐々に伝わり、後漢の60年頃には本格的に伝来していました。

太平道(張角)や五斗米道(張良)といった道教は後漢のこの時代、後漢末の人が人を食らうような悲惨な時代にできあがっています。道教はあたかも、仏教という宗教を媒介あるいは呼び水として、それまでの支那大陸の伝統であった黄老道やシャーマニズムを組み立てなおしたような感じです。

この同じ時代、後漢末に作られ、後に製丹法の聖典となった魏伯陽の《周易参同契》になると、はじめて臍下丹田について触れているような部分が、《難経》と同じように呼吸に関連して出てきます。《難経》もまた、実にこの時代に書かれたものです。


《黄帝内経》はこれより数百年前の前漢から後漢にかけての黄老道の全盛期に作られました。

《難経》以前に臍下丹田の重要性を説いた黄老道の書物や遺跡がほぼないこと、《黄帝内経》において「命門」が目のことを意味していて《難経》では下焦の腎が割り当てられていることなどから考えると、《黄帝内経》と《難経》との間には、人間観の大きな転換があったと想定することができます。

つまり《難経》は実は、黄老道の思想にもとづいて作られていた《黄帝内経》の人間観を、仏教的なものすなわち、丹田を中心とする気一元の人間観にしたがって構成しなおしたものであったと考えることができるわけです。

《難経》において、臍下丹田の重要性が強調されたこと、三焦論が構成しなおされたこと、奇経理論を明確に提示することができたその理由は、このような、人間観の大きな転換が底流にあったためではないか、そのように今、私は考えています。

一元流鍼灸術の門において書かれていることは、鍼灸と東洋医学的な身体観のもっとも基本的な型です。型というのは、それを理解するに常識を研ぎ澄ますこと、自分自身をしっかりと見つめなおすこと、で充分できるようなものであることを意味しています。そしてこの型は、それをもって世界を理解し、それを東洋医学の観点から理解し、対応することのできるものです。一元流鍼灸術はそのように作ってあるということです。

これがいわば「常」の観点。応用自在な初発の観点であり、迷ったときに戻り再度考えを構築していく原点となる場所です。


そして治療においては、患者さんの身体を一元の気として把握し、その患者さんの気の動きを調整するためには、患者さんの気に依存するという姿勢をとります。これはすなわち、患者さんの気を動かしたり補ったりする際に術者の気を用いない。感応を用いないという立ち位置をとるということを意味しています。

ここには、治療処置と患者さんの気の動きとの間に、術者の気や、患者さんと術者との感応を極力排することによって、技術としての鍼灸術を磨いていこうという発想があります。そこにおいて立ち上げられた論理は、気功的な能力や微細な技術を極力排除した論理となります。ここに一元流鍼灸術の立ち位置が存在します。ここに学ぶ個人個人が、技術や人間力を磨いてその技量や感応力をそこに加えるなら、さらなる治療効果をあげられるように配慮しているわけです。

このような基礎的な学の構築を、一元流鍼灸術は目指しています。これが此岸の学としての鍼灸術となっていくことでしょう。


さて、一元流鍼灸術ゼミナールは、サブコースを設けています。これはいわば、基礎学としての一元流鍼灸術、入り口であり迷ったときの帰還場処であるホームポジションとしての一元流鍼灸術の此岸から、各術者が彼岸へと船出していくことを助けようという意図が実はあります。基本を押さえた上で、しずしずとゆるやかに、その力量に応じて更なる独自の個性を治療の場で発揮できるよう、応援しようとしているわけです。

各術者は、此岸に停まって、一元流鍼灸術の基礎理念を深めるという選択ももちろんできます。その研究方法もしっかり受け継いでほしいと思います。またさらにそれを応用して、独自の流儀を作る支援をしたいと思っているわけです。いわば此岸を守る料亭の女将から、彼岸への道を提示する水先案内人へと私の務めを変化させようとしているわけです。


孔子は、弟子に死後の世界について聞かれたとき、「我れいまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや」と答えました。生という此岸のありようが「常」としての知識のおよぶ範囲であり、これは東洋医学においては一元流鍼灸術で提示されていることとなります。私は此岸に停まり、此岸を味わいつくしたいと望んでいます。それはとても深く豊かな体験です。しかしこのゼミで学ぶ方々の中には、ここにとどまることなく独自の世界を劈いていきたいと望まれる方もおられるでしょう。確かな土台の上に独自の彼岸の世界が築けるよう支援することができるならば、私の喜びはこれに勝るものはありません。


このようにして臨床効果がさらに高まり、更なる済世の徒がこのゼミから産まれ出ることを、私はまた祈っているわけです。

五臓の弁別、切り分けられないものを切り分けてみるという段階な
わけですけれども、ここは意外と難しい問題がはらまれているとい
うことがわかります。

五臓の弁別をしていく上での総綱としてテキストに書かれているも
のの中で参考になるものは、

◆ 実戦編の中の弁証論治の進め方:五臓の弁別
「四診を合参して、臓腑経絡学および症状の鑑別診断を駆使し五臟に弁別してみます。これは、東洋医学における過去の積み重ねを利用して、四診を纏め上げてみるという行為です。ここには、これまでの勉強の成果が現れてきます。

五臟の弁別は、四診を通じて得た情報を五行に従って仮に分けてみるという分析的な行いです。 」

◆ 臓腑経絡の総説の中の
「この臓腑経絡学は、陰陽五行に対する観念的な解釈と、解剖や臨床を通じて観察しながら実際の五臓の機能などを観察することとを対応させることによってその理論ができあがっています。

また、東洋医学には長い年月にわたる蓄積がありますので、書物の量も厖大です。その文字の糟粕に目を奪われないよう、しっかりと実際の身体の気の動きを観察し、そこから理論を紡ぎ出していくという姿勢が必要となります。

その際、参考になるものが、ただ一つの生命をばくっと大きな流れの中で把えなおす観点です。陰陽五行の理論はそのために使われます。陰陽五行におけるバランスのとり方を眺めていく中から、実際に生きて動いている患者さんの身体を、一つの小さな時空の流れとして把えていくわけです。


臓腑経絡学の項目は、詳細かつ実際的な記載になります。もし文字の糟粕に溺れそうになったら、ここ、一元の気を二つの観点から見、五つの観点から見るのだというところへ帰ってきてください。 」

◆ 臓腑経絡の五行の総論
「五行理論は、臓腑経絡学説を考えていく上で骨格となる観念です。一元の気の動きや表情を、五つの方向から把えていきます。五種類に明確に分かれているものが統合されて人体ができているのではなく、生きて動いている人間を解釈するためにこれまでは陰陽という観点を用いていましたが、ここでは五という観点からいま少し詳細に検討しているわけです。

陰陽でもそうですが、分けるということが大切なのではなく、それぞれの観点の間の淡い、それぞれの関係性に注意を払い続けるということが大切です。

迷ったときには、一元の気として生きて動いている人間に立ち戻り、すべてを新たに見直しなおしていくという姿勢が大切です。

ここで提出される五行の観点には、さまざまな切り口があります。そしてその切り口は、基本的に天人相応の中から思考されてきたものです。 」

という部分になります。


実際にそれを行っているものの心として、分析的であることと総合
的であることの両方の気持ちを持っている必要があります。つまり
この、逆の方向性をもつ意識を両方保ちながらバランスを取ること
が難しいわけです。

論理が切れる場合には生命の流れが見えにくくなります。
生命の流れが見える時には論理が甘くなりがちです。

このバランスの取り方に個性が出てくるわけです。その個性は長所
でもあり欠点でもあります。

言葉、というものは恐ろしいものだと思います。
読む言葉、語る言葉に、指す言葉。
武士道における言葉は発するものの内側に肉薄する言葉でした。
他者に対するものではなく、己に対する謹言。

この同じ言葉が、他者に向けられたとき、それは他者を支配し傷つける刃となる。
けれどもそれが己に向けられたとき、己を磨く砥石となる。

この二者の差は歴然としているものです。

道徳を説くものの醜さは、己に向けられるべきこれらの言葉を他者に向けて発して、他者を支配しようとするところにあります。

己に向けられたものの美しさは、自身の切磋琢磨の目標としてこれらの言葉を用いるところにあります。

己に向けた言葉を他者に向けぬようくれぐれも注意していきたいものです。
仏教における治病


サブコースで、仏教における治病ということでまとめていまして、
それを通じて感じたことを書き留めたメモです。今とこれからの課題ですね。

★仏教における治病とは何か

仏教において病というのは衆生のありようそのものを言う。
つまり、悟りを開いていないものはすべて病である。
仏教的な治病とは、悟りを開いてこの生命の喜びを直接感じ取れるようになること。

★なぜお釈迦様は治病を軽視されたのか

耆婆が上手に病を治療していたがそれを禁止した
その理由は、病というものが天あるいは神あるいは過去生がその業を現世に顕わしたものであって、その病を受け止めきることによってカルマが解けていくことを教えるため。

★救いとは治病ではないのか

ゆえに救いとは、救いそのものであって、何かが与えられることではない。
「何か」のために救いがあるのではなく、ありのままにそこにいる覚悟を決めることそのものが救い。
肉体的な治病とは大きな懸隔があるものである。

★仏教的な救いと悟りとの違いは何か

救いは悟りに至るための方便
悟りは完全に救われていることの自覚

★悟りは人生の目標になりうるのか

悟りは今ある自分自身に明(あきら)めること
今の自分自身を明らかに知りそこから人生を始める決意をすること
これは目標ではなく、今の位置を受け入れることにすぎない。

★仏教の目標とは何か

すべての人が悟りの歓喜を知り
その人生を無上のものとして楽しめるようになること。
天上天下唯我独尊とはこのこと。

★仏教は人に何を教えようとするのか

人はそのままでとても美しく完璧であるということ。

★日本医学はどこまで気づき、どこまで純化しどこまで堕落していたのか

医学的な治病とは多くの場合目先の苦痛目先の違和感を取り去ることに集中する。
これはもちろん患者さんの望みであり、病気の本体なのだが、その深奥に入り込む医者はいない。
西洋医学の浅薄、古方派の下賤はここにある。

がしかし、治病を超尅する視点を与えることができずにいたずらに治療行為を遷延させる医家は論外〔注:自分の生命の価値をおとしめているもの〕ではある。
この文章は弁証論治を作成している人へのアドバイスとして書いたものの
要点をピックアップしたものです。


そもそも外傷によって経絡経筋病となるということはどういうこと
かというと、外傷を受けた部位を中心として生命力の阻滞が起こっ
ているということを意味しています。

外傷を受ける際には、受け手としての身体の器すなわち生命力の充
実度の問題が当然あるわけですから、ここに内外の問題の微妙なバ
ランス関係が成立することとなります。

・ 生命力が充実していて外傷のレベルが弱い場合には、そもそも
怪我にはなりません。身体を養うほどのいわばスポーツをする
ような影響力しか持ち得ない場合もあるわけです。
・ その場合よりも表面においては衛気が弱くあるいは外傷が強い
場合には、かすり傷や二三日の打撲で終わります。
・ さらに外傷が強く衛気が弱い場合には生命力が阻滞されること
によってそれを回復しようとする生命力とそれを阻むものとの
間に矛盾が生じて熱化したり痛みが出たりします。このあたり
が経絡経筋病と言われる範疇となります。
・ さらに外傷が強く衛気だけでなくその生命力そのものが弱い場
合、筋肉を損傷したり骨折をしたり、あるいはその部位によっ
ては内臓の損傷にまで致ります。外傷ではありますけれども臓
腑病になる場合もあるわけです。
・ さらに外傷が強く生命力が弱い場合には器官が損傷されて死に
至る場合もあります。

◇ 重傷になればなるほどその回復には臓腑の力、主として腎気が
必要となります。これは生命活動を行うための余力が腎に蓄え
られているためで、生命の危機に際してここが出動するからで
す。
◇ この症例のような打撲を受ける場合、その速度と打撃力(質
量)および受けた場処とそこの生命の充実度が、病態の把握に
おいて大変重要な要素となります。野口晴哉先生などは、打撃
が通り抜ける場処はたいして問題ではなく、それが最終的に到
達して止まった場処すなわち実際に打撃を受け止めた場処の損
傷が問題であるとします。打撃には子供に殴られたものからラ
イフルで撃たれたもの交通事故まで入りますから、そのさまざ
まな例をイメージしながら、この症例はどのあたりなのかなと
いう風に考えていくわけです。
病因病理を考えていて、中心となる流れは何なのだろうと考えていたところ、そういえばこの発想法はすべてに共通するものだなと思い至り、ちょっとまとめてみました。

古典の読み方、学ぶことの仕方、人生の過ごし方などのすべての側面に応用できる基礎概念です。

一元流鍼灸術は東洋医学におけるこの基礎の御柱を立てようとしているわけですね。


◆脉診

脉診においては、目立つ一点異常なところを感じ取りそれを見逃さないようにする。

脉診においては胃の気を観ること大切。胃の気とは生命力のこと。脉処に現れている生命力の元気の度合いをさまざまな角度から観るのが脉診。

脉処に気一元の生命力が集約されて現れているという観点に立ち、その変化を見通しながら現在の異常の中心を見逃さないようにする。生命力の側から言うと胃の気を観ると言い、病気の側から言うと異常の中心を見極めるという。

一点に現れていたり、輪郭に出ていたり沈位に出ていたり中位に出ていたりあるいは脉状に出ていたりするので、決めつけずに心を自身の臍下丹田に定めて観、ありのままを観てそれを言語化していくようにする。


◆経穴診

経穴診においてはわかりやすいところを見つける、わかりやすい一点を見逃さないようにする。それが中心となる。けれども、経穴の位置によってその経穴の表現が異なるので、まずは同じ経穴を摸って左右の状態を比較していくとよいだろう。


◆五臓の弁別

大切なところ、証明となるようなものを見逃さないようにする

たくさん情報を掲載することが大切なのではなく、大切な情報を見逃さないようにすることが大切。


◆病因病理

人生の流れの中で分岐点となるところを見逃さないように、矛盾しているところをごまかさずに解説できるようにすることが大切。

大切な情報を中心に構築していく。気滞と気虚。これが人間を観ていくための基本的な方法。どこに気滞がありどこに気虚があるのか、その濃淡を表現していく。問題が簡単なものは変化しやすく、問題が深いものは変化しにくい。変化しにくい中心を把握してそれを解説するのが病因病理の本来の役割。

病因病理の中で主訴をどのように位置づけるのかということから、治療方針が出てくる。


◆古典を読む

読むことが目標ではなく、それを理解して臨床に応用することが目標。

そのためには、文字の糟粕に惑わされることなく、大きな柱〔注:ほんとうに言いたいこと〕がどこにあるのかを見つけ出してそれに沿って読み取るようにする。

これができていない書物〔注:訳本を含む〕などを読むと頭が混乱する。それは書くために書いているからで、ほとんど読む価値はない。

○○さん、メイルをありがとうございます。


人生の中で、生き直すというときは何回かあると思います。死んで
死んで死にきって生き直すわけなんですけれども、その苦痛に充た
過程をしっかりと目を開けて行うことによって、新しく生まれてく
る自分自身をきちんと受け止めることができるようになります。

人の弱さというのはとても貴重なものだと思います。自分自身の弱
さとか愚かしさというものを受け止め愛するところから、他の人へ
の深い愛が生まれ、協調とか赦しといったものが流れ出てくるので
すから。

理想主義の刃は非常に恐ろしいものですが、その刃で切るものは他
者や社会ではなく自分自身です。その刃を向ける先が自分自身であ
るとき、そこに同時に自分自身の弱さを包含してみていくとき、理
想主義は今ひとつ大きな成長を迎えることとなります。そこには光
り輝くいとおしい世界が開けてくるのです。が・・・(これに気が
ついている人は、本当に少ないと思います。)

と、ちょっと思いついたことを書いてしまいました。


> というわけで、天台小止観を読んで実践できたらと思っています。
> 実践するのは大変なんだろうと思います。

私はこのあたり(悟り関係・・・)のことを勉強することにかなり
時間を割いているのですが、そして面白い部分もあるわけですけれ
ども、気がついたことは、「禅=止観を修めることが目的になって
いて、そのための世界が存在し、その世界の中で生きる習俗が確立
されている。」ということです。そして私は、それが禅妄(禅特有
の迷い妄想)であると思っています。

人は悟道のために存在しているのではなく、生きるということを探
求するために禅を「使う」わけです。欲望というものは生きること
そものである、生きることの歓びであり苦痛です。その生きること
そのもののまっただ中になって、それに惑わされず「中」を保つた
めに禅定が存在すると考えているわけです。

小さな船に乗って嵐(強い喜びや深い悲しみ)に会ったとき、船を
操縦して嵐をやり過ごすことが大切です。けれども人はそのあまり
のダイナミックな世界に目を奪われて船を守ること以外の感情にお
ぼれてしまいます。恐れのあまり海の飛び込んでみたり、怒りのあ
まり船を壊してみたり、悲しみのあまり操舵をやめたり、どうして
いいかわからないので一生懸命悩みの中に落ち込んでみたり、マス
トに上って歓喜の声を上げてみたりするのです。

けれどもそのような時に行うべきことは、その人生を受け入れてし
っかりと味わい自分のなすべきことをするということだけなんです
ね。

神道ではこのような時になすべきことは、手放して神(先祖)の声
に耳を澄ましながらあるがままに生きる、ということであるといい
ます。

○○さんはどのようにこれを生ききっていかれるでしょうか。楽し
みにしております。

現在私の勉強内容は、一元流鍼灸術のゼミでの一元流鍼灸術の研究の他に、サブコースでの腹診の研究、個人としとしての刺絡の研究に入っています。

このブログの副題にも書いてありますが、中医学は決して東洋医学を代表するものにはなり得ません。なぜかというと、東洋医学的な人間観を中国共産党は持ち得ないためです。

私は二十年以上中医学の勉強をしてきましたが、その初期のこと60年代の文献には必ず初めに毛沢東万歳という文章が掲載されていました。文化大革命のころで、ここで殺害された学者もたくさんおられたことでしょう。立派な内容の書籍で、この時期に刊行が途絶えたものがあります。

文化大革命は毛沢東が行った中国文明に対する殺戮行為でした。これは現在進行しているチベット文明に対する抹殺行為と通底するものです。

ここで歴史は断絶し、共産党が許容する中医学がはびこることとなりました。

共産党の人間観は、唯物史観であり奴隷解放の個人思想です。これは儒教や道教を核とした東洋の一体思想とは異質のものです。

もし東洋医学を理解しようとするのであれば、諸子百家を学び、儒教を学び道教を学ばなければなりません。歴史的には仏教もその影響を東洋思想に与えていますので、これも学ぶ必要があります。

また、日本においては、仏教徒が中心となって医学を導入してきましたので、その人間観が日本の東洋医学には深く反映されていると見ないわけにはいきません。

日本に入ってくると、仏教も儒教もすこぶる日本的なものとなります。仏教は禅に昇華され、儒教が武士道に昇華されます。その根底には神道があるということもまた、当然理解される必要があります。

自らの汚れを祓い清めることによってものそのものへと肉薄していきそれを理解しようとする神道があって初めて、仏教の本質、儒教の本質を浄化していく中でつかみ取った、日本の各々の道の深い懐に触れることができるわけです。
を、書き込みがすべて消えてしもうた(T_T)
だからオン書きはだめだって

一として、場を定める。これは脉診する場を一として定めます。
この時に全体の脉状の感じをつかんでおきます。場の状
態の雰囲気を把握するわけです。個々の脉状はその中に出ています。
絶対的な形としての緊脉弦脉があるのではなく、その脉状の中でそ
れが存在しているということが大切なことです。

二として、その全体を把握するために陰陽の観点から診ていく。
陰陽のどのような物差しを当てているかと言うと、
昨日使ったのは◇緊張と弛緩◇数と遅◇大小◇浮沈◇促滞かな
もっとも異常と感じる部位の状態をこれで表現してみたわけです。
輪郭の明瞭と不明瞭というのは生命力の充実度と関連しています。
全体の浮位の状態のすっきり感を診て表現しているわけです。
多くの人が括りの弱い脉状をしていたので、緊張があっても明瞭に
現れにくかったですね。そのため、緊脉とか弦脉とか言われてもわ
かりにくかった。

三は、一般的には天人地の三才を意味しています。天と地とそこに
守られて存在しているアワイとしての人(動植物の総称)。老子の
世界ではこれをさらに全体の生命状況へと大きく広げて解釈してい
るわけです。冲気を大いなる和気として「大いなる和合こそが存在
なのだ」と述べているわけですが、これは脉診の中ではその全体観
の把握すなわち胃の気を診るということにあたります。

場を定めるということは、そこに気一元の生命すべての状況が存在
していると観るということです。この最初の一歩。「一」を理解す
ることは、始まりであり目標となります。
『道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱き、冲気、もって和することをなす。』《老子下篇第四十二章》福永光司氏はこれを『道が「一」すなわち一気を生じ、一気が分かれて「二」すなわち陰陽となり、陰陽の二気が交合して、陰陽の二気とともに「三」と呼ばれる冲和の気となり、その三と呼ばれる冲和の気が万物を生じる。したがって万物はそれぞれに陰の気を背負い、陽の気を抱え込み、冲和の気によって調和を保っているのである。』と解釈されています。《朝日文庫:中国古典選11》

道も、陰陽も、そして第三の気でもあるかのような冲気も、そのすべてがばらばらに個別の存在としてあるかのような解釈がここではされています。

一元流鍼灸術における解釈は違います。混沌として未分の状態(分けられない状態)にあるそれ、無明の闇の中にあるわれわれの認識能力によって、とりあえず一つの場、括りをつかむことが出来たとき、そこのところを「一が生じた」とします。一を生ずるということ、一括りを定めるということは、限りなく大切なことです。その括りの定めを行うことによってはじめて、陰陽五行という物差しを使うことができるからです。

一括りをじっと眺め続け違いを探し、もっとも大きな違い対極となる地点を探し出すこと。これが陰陽の観方です。男女とか光と影とか目立つ対極点を見つけ出しながらそこに取りすがってまた全体を見直してみますと、なんとなく全体の構造が見えてきます。対極点としての陰陽を定めることで微妙なグラディエーションがその一括りの場に存在していることがみえてくるわけです。陰陽を定めてじっと観ていくと、その中間が徐々に明らかになってきます。分けたくても分けれないところ、和合しているように見えるところ、そこが冲和の気と呼ばれる部分です。白と黒という陰陽関係で分けるならば灰色の部分、ぼんやりとしていて分けられないところです。

あえてこうやって分けて理解しようとしていますけれども、陰陽の最先端においても実は純陰純陽は存在しません。全体が冲和の気で満たされているわけです。これが万物の真の姿であるということなんですね。大いなる和合こそが存在なのだとここでは言われているというふうに、一元流では解釈しているわけです。
昨年末からMIXIをはじめました。
MIXIをはじめるってどういうことなんだろうと思って
試しているうちに、ずるずる引きずりこまれています
ε=ε=ε=ε=ε=(o・・)oブーン

東洋医学の専門化および素人用のコミュニティも
作成していますので、参加してみてくださいね。

コミュニティのアドレスは
http://www.1gen.jp/mixi02/です。

先日たまたまテレビを眺める機会があり、養命酒が未病について語っているのを目にしました。その時は「ずいぶん変なことを言うなぁ」ちゃんとした東洋医学者に指導を受けているのだろうか。と感じただけだったのですが、日を追うごとに心に澱のようなものがたまっていきます。これはこのまま放置しておいてはいけない。東洋医学について深い誤解が生じる元となる。という思いがつのってきたわけです。ところが時すでに遅く、何が述べられていたのかすっかり忘れてしまっていました。そこで思いついて、インターネットで検索してみることにしました。便利になったものでですね。見つけたページのアドレスは以下。

http://www.yomeishu.co.jp/health/index.html

そこにはこのように書いてあります。

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「
【未病】
病理概念のなかに「未病」という
言葉があります。病気ではないけれど、
病気へ向かっている状態のこと。〔伴注:ここには赤線が引いてある〕
例えば、手足の冷えや体の疲れ、胃腸の不調。
それは病気のサインかも知れません。
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養命酒が話題提供をしてくれたわけですけれども、それは別としても未病の概念は、東洋医学の基本認識にかかわるものです。そこで、一元流鍼灸術における未病の概念をまとめておくことにします。

未病の概念は、その人間が生きて病み老いて死ぬということをどのように捉えているのかということとかかわってきます。未病という言葉は、そのまま訳すと、未だ病まずとなりますので、すなわちまだ病気ではない状態であると考えやすいものです。けれども、よく考えてみると病んでいない人間は有り得ません。人間は弱いものです。どのような人間も死を逃れることはできませんし、死ぬためにはその手前で何らかの問題が起こるのは当たり前のことです。

この死という決定的な事件が起こる以前に、人間はある繊細なブレ〔伴注:すなわち非健康状態〕をさまざまに繰り返します。死を避け体内に蓄積されている矛盾を解決しながら生きているわけです。食べればお腹がいっぱいになり、便意を催し眠くなるという、この一連の生理的な流れとみえるものも、実は身体に解消できる程度の無理を与えることによって身体を養っているものです。このようにして人間はその一生を通じて、生命を維持しているわけです。

ですから東洋医学的な治療とは、この繊細なブレをなくすことではなく、その繊細なブレに上手に対処できる手助けをすることです。それによって自然治癒力が働きやすくなり、いざとなったときのために余力を蓄え、危機的な状況が起こった場合に、それを乗り越えることができるようにするわけです。

ですから、東洋医学において未病を治療するということの意味は、身体のバランスが大きく崩れる以前の繊細なバランス状態を維持し、回復しやすい身体を作ること。すなわち、より敏感でより器の大きなな身体を作ることになります。より敏感な身体を作るということになりますので、症状は出やすくなるかもしれません。けれどもそこをすばやく経過することによって、深い病の基を体内に作らない、溜めこまない、ようにしていくことができます。

ですから、一元流鍼灸術において「東洋医学は未病を治す」という言葉を解説すると、

東洋医学では病気と思われるときでも健康と思われるときでも常によりよい身心状況を作り上げることを目標としており、このことを「東洋医学は未病を治す」と表現しています。よりよい身心状況とは、外界の刺激を取り入れることのできる大きな器を持ち、強いストレスを敏感に排除し、生命を防御する機能を高めることです。

という表現になります。


「未病」というのは病理概念ではなく実は生命のありようすなわち東洋医学的な生命観を示しているものです。それを未病と表現することによって、体質改善を促す際、病になる以前に自らの生活習慣に気をつけようという呼びかけであり、症状が出るか出ないかにかかわらず生命力を向上させるための指導をしなくてはいけないよという治療家への指示となるわけです。養命酒のホームページで語られている「病気ではないけれど、病気へ向かっている状態のこと。」という言葉が、いかにいかがわしいものかご理解いただけると思います。人間には完全な健康状態というものはなく、また完全に病的な状態というものもないものなのです。いつもその生命の器の上で揺らぎながら生きているのが本来的な人間の姿なのですね。
一元流鍼灸術において「病機」という言葉を使用しない理由は、それが日本語として確立されたものではなく、現代の中国語がそのまま文字だけ置き換えて出されているものだからです。

中医学で使用されている「病機」という言葉の中身は日本語に置き換えると「病理」になります。そして、病因病理という言葉は昔から日本において使用されており、わざわざそれを漢字の置き換えだけの理由で「病因病機」としてあたかも特有の用語のようにかたるところに、専門家風をたなびかせる人々の賎しさを感じます。

そのため一元流鍼灸術では、伝統に法るという意味を含めて病因病理あるいは病理という言葉を用いることにしているわけです。
「患者さんの身体から学ぶ」方法論の確立


患者さんの身体から学ぶというとき、その方法論として現代医学では、臨床検査やレントゲンやCTなどを用います。筋肉骨格系を重視するカイロなどでは、その身体のゆがみや体運動の構造を観察する方法を用います。東洋医学では望聞問切という四診を基にしていきます。一元流でこの四診を基にし、生育歴(時間)と体表観察(空間)とがクロスする現在の人間さんの状態を把握します。

これらすべては、人間をいかに理解していくのか。どうすれば人間理解の中でその患者さんに発生している疾病に肉薄していけるか。そのことを通じて、その患者さんの疾病を解決する方法を探るために行われます。

一元流鍼灸術の特徴は、生きて活動している気一元の身体がそこに存在しているのであるということを基本に据え続けるというところにあります。


東洋医学はその発生の段階からこの全体観を保持していました。そして、体表観察を通じて臓腑の虚実を中心とした人間観を構成していきました。臓腑経絡という発想に基づいたこの人間観こそが東洋医学の特徴であり、他の追随を許さないところであると思います。

「患者さんの身体から学ぶ」この営為は、東洋医学の伝統となっています。そもそも、東洋医学の骨格である臓腑経絡学が構成されていった過程そのものがこの「患者さんの身体から学ぶ」という営為の積み重ねた末の果実なのですから。

ただ、この果実には実は一つの思想的な観点があります。生命そのものを観、それを解説するための観点。それが生命を丸ごと一つとして把え、それを陰陽という側面、五行という側面から整理しなおし再度注意深く観ることを行う、ということです。

この、実在から観念へ、観念から実在へと自在に運動しながら、真の状態を把握し解説しようとすることが、後世の医家がその臨床において苦闘しながら行ってきたことです。

一元流鍼灸術では、その位置に自身を置くこと、古典の研究家であるだけでなく、自身が後学のために古典を書き残せる者となることを求めているわけです。

古典を学び、それを磨いて後学に手渡すことを、法燈を繋ぐと言います。

この美しい生命の学が、さらなる輝きを21世紀の世界で獲得するために、今日の臨床を丁寧に誠実に行なっていきましょう。
それでは、実際に処置を行うにはどうするべきなのでしょうか。土台が基礎となりますのでその土台の上にどのような華を咲かせるのか、そこが個々の治療家の技量ということになるわけです。

より臨床に密着するために第一に大切なことは、自身の患者さんに対するアプローチの特徴を知るということです。治療家の技量はさまざまでして、実際に患者さんの身心にアプローチする際、その場の雰囲気や治療家の姿勢や患者さんとの関係の持ち方など、さまざまな要素が関わっています。また、治療家によっては外気功の鍛錬をしてみたり、心理学的な知識を応用してみたりと様々な技術を所持し、全人格的な対応を患者さんに対して行うこととなります。

病因病理を考え、弁証論治を行うという基礎の上に、その様々な自身のアプローチを組み立てていくわけです。早く良い治療効果をあげようとするとき、まず最初に大切なことは、自然で無理のないアプローチをするということです。ここまでが治療における基本です。


さらに効果をあげようとするとき、弁証論治の範囲内で様々な工夫を行うことになります。それは、正経の概念から離れて奇経を用いる。より強い傾きを患者さんにもたらすために、処置部位を限定し強い刺激を与える。一時的に灸などを使い補気して患者さんの全体の気を増し、気を動きやすくした上で処置する。外邪と闘争している場合、生命力がその外邪との闘争に費やされてしまいますので、それを排除することを先に行うと、理気であっても全身の生命力は補気されるということになり、気が動きやすく導きやすくなる。

といったように、気の離合集散、升降出入などを見極めながら、弁証論治で把握した患者さんの身体の調整を行なっていくわけです。

一言で言えば、気一元の身体を見極めて、弁証論治に従いながら、さらにその焦点を明確にしていくことが、治療における応用の中心課題となります。このあたりの方法論は古典における薬物の処方などで様々な工夫がされており、とくに傷寒論の方法論は参考になるものです。

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