■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』2/5
■古典における「胃の気の脈診」
はじめに古典を紹介したうえで、伝統的に言われている胃の気の脈について、
1四時陰陽に従う脈
2名状もってするに難しき脈
3有力無力による脈
4一定の恒常性の有無を診る脈
5胃の腑の働きを直接候う脈
6中位にあらわれる脈
7衝和と弦急の脈
とそのまままとめています。古典の文言をそのまま訳し解説しているものです。
いわば古典の紹介ですね。
■「胃の気の脈診法」の生命観
次に藤本氏が自身の「胃の気の脈診法」に包含されている生命観について述べて
います。一元流鍼灸術の生命観にも通底する、大切なところです。
すなわち、
「胃の気をこそ土台にして諸々の情報が、脈状に現われることをすでに学習し
た。また、脈とは、胃の気そのものであることも我々は知ったのである。脈が
刻々と不断に変化することも、畢竟、胃の気(生命力)が様々な環境と影響に出
合い。個体維持の目的性にそうべく適応する多面的な”顔”であったのであ
る。・・・(中略)・・・脈診するということは、胃の気の多彩な”顏”盛衰を察
知することにこそ、その本領があったのである。」(26p)
この文章たいへん重要です。何回も繰り返し読み、しっかり理解していきたいと
ころです。
一言で言うなら、「脈診には生命力の状態がそのまま表れる」ということです。
生命力は、身心の内部状況です。生き物の内部状況は刻々と変化します。この
刻々と変化する内部状況が、刻々と変化する外部状況と出会うことによって、さ
らにさまざまな変化が起きていきます。
脈診には、このようなダイナミックに変化する生命力の内部状態が表現されてい
るわけです。ですから脈診においては、「生命力」すなわち胃の気、をまずは意
識して診なければなりません。胃の気の状況という場―舞台上に、個々の脈象が
表現されているということが、理解されなければならないわけです。
そしてさらに、胃の気の脈診の生命論として『老子』をとりあげ、「生きとし生
けるものの実相は、やわらかく、しなやかで、生き活きとしているが、死に赴き
枯れるものは、堅くもろいものである、と。「伴注:『老子』には」生命の実体
を直感的に記述している。」(29p)として、「胃の気の脈診法はこのような生
命論に基づくものであることに気づかねばならない」(同ページ)と藤本氏は語
ります。
生命とはなにか。あるがままの生命を表現しているものとして脈を診ること。こ
れが胃の気の脈診であるということ。まさに「脈診するということは、胃の気の
多彩な’顔’盛衰を察知することにこそ、その本領があった」(26p)と、藤本氏
は考えられています。脈が刻々と不断に変化することは、まさに胃の気の表れ―
生命力の表現であると。非常に雄大でダイナミックで自由な脈のとらえ方であ
る、と言えるでしょう。
ところが藤本氏は自身の腕力でその胃の気の世界―生命の世界を破壊していきま
す。
伴 尚志
■古典における「胃の気の脈診」
はじめに古典を紹介したうえで、伝統的に言われている胃の気の脈について、
1四時陰陽に従う脈
2名状もってするに難しき脈
3有力無力による脈
4一定の恒常性の有無を診る脈
5胃の腑の働きを直接候う脈
6中位にあらわれる脈
7衝和と弦急の脈
とそのまままとめています。古典の文言をそのまま訳し解説しているものです。
いわば古典の紹介ですね。
■「胃の気の脈診法」の生命観
次に藤本氏が自身の「胃の気の脈診法」に包含されている生命観について述べて
います。一元流鍼灸術の生命観にも通底する、大切なところです。
すなわち、
「胃の気をこそ土台にして諸々の情報が、脈状に現われることをすでに学習し
た。また、脈とは、胃の気そのものであることも我々は知ったのである。脈が
刻々と不断に変化することも、畢竟、胃の気(生命力)が様々な環境と影響に出
合い。個体維持の目的性にそうべく適応する多面的な”顔”であったのであ
る。・・・(中略)・・・脈診するということは、胃の気の多彩な”顏”盛衰を察
知することにこそ、その本領があったのである。」(26p)
この文章たいへん重要です。何回も繰り返し読み、しっかり理解していきたいと
ころです。
一言で言うなら、「脈診には生命力の状態がそのまま表れる」ということです。
生命力は、身心の内部状況です。生き物の内部状況は刻々と変化します。この
刻々と変化する内部状況が、刻々と変化する外部状況と出会うことによって、さ
らにさまざまな変化が起きていきます。
脈診には、このようなダイナミックに変化する生命力の内部状態が表現されてい
るわけです。ですから脈診においては、「生命力」すなわち胃の気、をまずは意
識して診なければなりません。胃の気の状況という場―舞台上に、個々の脈象が
表現されているということが、理解されなければならないわけです。
そしてさらに、胃の気の脈診の生命論として『老子』をとりあげ、「生きとし生
けるものの実相は、やわらかく、しなやかで、生き活きとしているが、死に赴き
枯れるものは、堅くもろいものである、と。「伴注:『老子』には」生命の実体
を直感的に記述している。」(29p)として、「胃の気の脈診法はこのような生
命論に基づくものであることに気づかねばならない」(同ページ)と藤本氏は語
ります。
生命とはなにか。あるがままの生命を表現しているものとして脈を診ること。こ
れが胃の気の脈診であるということ。まさに「脈診するということは、胃の気の
多彩な’顔’盛衰を察知することにこそ、その本領があった」(26p)と、藤本氏
は考えられています。脈が刻々と不断に変化することは、まさに胃の気の表れ―
生命力の表現であると。非常に雄大でダイナミックで自由な脈のとらえ方であ
る、と言えるでしょう。
ところが藤本氏は自身の腕力でその胃の気の世界―生命の世界を破壊していきま
す。
伴 尚志
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■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』1/5
11月の勉強会で、胃の気の脈診について解説しました。その際、その内容が北辰
会におけるものとは異なると私が強調したため、北辰会ではどのようなものを胃
の気の脈診としているのか?という質問がありました。
私は北辰会と30年以上かかわっていないため、現在何をしているのかは実はよ
く知りません。この文章では、30年以上前に出版された北辰会の書物を書庫か
ら取り出してきて読み直し、それを基に考察してみました。
すると、その書物で表現されている北辰会の考え方と一元流鍼灸術の考え方の違
いの深刻さがよく理解できました。この文章は、その違いを再度明確にするとと
もに、胃の気の脈診の考え方に基づいて、一元流鍼灸術の考え方を研ぎ澄まして
いこうとするものです。
■藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸脈診法』概観
書庫から取り出してきた北辰会の書物というのは、藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸
脈診法』 ― 胃の気の脈診 ― 昭和59年3月15日第1版です。この古い書物が現
在の北辰会とどう関係しているのかは、わかりません。そのことを前提として考
察を進めています。
この書物に何が書かれているのかというと、北辰会の脈診法の紹介です。まず全
体を俯瞰していきましょう。この内容については後に論じていきます。
まず概論としてさまざまな古典が引用され、
・脈を診るとはどういうことか
・胃の気とはなにか
・胃の気と脈との関係
について解説されています。
さらに
・張景岳のいわゆる「弱以て滑」を胃の気の脈診の中心として、それを発展させ
る形で、弱以て滑が欠ける脈状全てを弦急脈と呼び、「諸々の脈状に弱以滑の脈
象が存在することが、平人であり、これに反するものは、すべて弦急の脈、と
解」(48p)すると述べています。この概念を基にして、北辰会の脈診術が展開
されていくわけです。ここ重要です。
すなわち、
・弱以て滑が欠けている脈状をすなわち「弦急脈」と定義して、これを四種類に
分けて紹介し、 ・その分けられた四種類の「弦急脈」それぞれに名前を付けな
おし、それぞれの症例の紹介をしています。
つまり、ここでいう「弦急脈」というのは、「弱以て滑が欠けている脈状」すべ
てを指すものです。ですから、広い範囲の概念なわけです。実際に見ることので
きる脈状のことではありません。その「弦急脈」を四種類に分け、今度は実際に
見ることのできる脈状として解説しているわけです。
おまけとして、
・景岳全書の脈神章から十六脈(浮沈遅数洪微滑濇(しょく)弦芤(こう)緊虚
実)の紹介および中医学的解説をし、さらに北辰会的解説をしています。
・死脈として歴代伝えられている七死脈(雀啄(じゃくたく)・屋漏(おくろ
う)・弾石(だんせき)・解索(かいさく)・魚翔(ぎょしょう)・蝦遊(かゆ
う)・釜沸(ふふつ))の紹介および中医学的解説をし、さらに弱以て滑の観点
からの解説をしています。
そして最後にまとめとして
・脈診におけるこまごまとした実用的な注意点が述べられています。
本書の全体は、以上のような構成となっています。
それでは、その中身について、検討していきましょう。
伴 尚志
11月の勉強会で、胃の気の脈診について解説しました。その際、その内容が北辰
会におけるものとは異なると私が強調したため、北辰会ではどのようなものを胃
の気の脈診としているのか?という質問がありました。
私は北辰会と30年以上かかわっていないため、現在何をしているのかは実はよ
く知りません。この文章では、30年以上前に出版された北辰会の書物を書庫か
ら取り出してきて読み直し、それを基に考察してみました。
すると、その書物で表現されている北辰会の考え方と一元流鍼灸術の考え方の違
いの深刻さがよく理解できました。この文章は、その違いを再度明確にするとと
もに、胃の気の脈診の考え方に基づいて、一元流鍼灸術の考え方を研ぎ澄まして
いこうとするものです。
■藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸脈診法』概観
書庫から取り出してきた北辰会の書物というのは、藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸
脈診法』 ― 胃の気の脈診 ― 昭和59年3月15日第1版です。この古い書物が現
在の北辰会とどう関係しているのかは、わかりません。そのことを前提として考
察を進めています。
この書物に何が書かれているのかというと、北辰会の脈診法の紹介です。まず全
体を俯瞰していきましょう。この内容については後に論じていきます。
まず概論としてさまざまな古典が引用され、
・脈を診るとはどういうことか
・胃の気とはなにか
・胃の気と脈との関係
について解説されています。
さらに
・張景岳のいわゆる「弱以て滑」を胃の気の脈診の中心として、それを発展させ
る形で、弱以て滑が欠ける脈状全てを弦急脈と呼び、「諸々の脈状に弱以滑の脈
象が存在することが、平人であり、これに反するものは、すべて弦急の脈、と
解」(48p)すると述べています。この概念を基にして、北辰会の脈診術が展開
されていくわけです。ここ重要です。
すなわち、
・弱以て滑が欠けている脈状をすなわち「弦急脈」と定義して、これを四種類に
分けて紹介し、 ・その分けられた四種類の「弦急脈」それぞれに名前を付けな
おし、それぞれの症例の紹介をしています。
つまり、ここでいう「弦急脈」というのは、「弱以て滑が欠けている脈状」すべ
てを指すものです。ですから、広い範囲の概念なわけです。実際に見ることので
きる脈状のことではありません。その「弦急脈」を四種類に分け、今度は実際に
見ることのできる脈状として解説しているわけです。
おまけとして、
・景岳全書の脈神章から十六脈(浮沈遅数洪微滑濇(しょく)弦芤(こう)緊虚
実)の紹介および中医学的解説をし、さらに北辰会的解説をしています。
・死脈として歴代伝えられている七死脈(雀啄(じゃくたく)・屋漏(おくろ
う)・弾石(だんせき)・解索(かいさく)・魚翔(ぎょしょう)・蝦遊(かゆ
う)・釜沸(ふふつ))の紹介および中医学的解説をし、さらに弱以て滑の観点
からの解説をしています。
そして最後にまとめとして
・脈診におけるこまごまとした実用的な注意点が述べられています。
本書の全体は、以上のような構成となっています。
それでは、その中身について、検討していきましょう。
伴 尚志
■気一元の観点から観る ―胃の気を眺める脉診術
書物を読んで勉強していると生命力が「ある位置」で固まっているような感じが
します。そのため、ある脉状を掴まえてその名前を決めそれに関連する症状と治
し方を決めていこうとしたりするわけです。これはまるで、滔々と流れる川の流
れの中の小さな渦に名前をつけて、その渦の位置と深さと強さとによって川の流
れを調整する鍼の立て方を決めようとしているようなものです。よく考えてみて
ください。これはあまりにも現実離れしているとは思いませんか?
生きて動いている生命を眺めるということすなわち胃の気を眺めるということ
は、カテゴリー分けするための道具の位置にすぎなかった陰陽五行論の使い方を
一段高い位置に脱して、生命の動きを見るための道具へと深化させていくための
キーとなる概念です。
そのためこれを気一元の観点から観ると表現して、一元流鍼灸術では大切にして
いるわけです。
〔伴注:胃の気の脉診という言葉は同じなのですが、その内容は北辰会で語られ
ているものとはまったく異なりますので注意してください。言葉以前のもの―生
命そのものを意識してとらえること。これを胃の気の脉診と呼んでいます。〕
伴 尚志
書物を読んで勉強していると生命力が「ある位置」で固まっているような感じが
します。そのため、ある脉状を掴まえてその名前を決めそれに関連する症状と治
し方を決めていこうとしたりするわけです。これはまるで、滔々と流れる川の流
れの中の小さな渦に名前をつけて、その渦の位置と深さと強さとによって川の流
れを調整する鍼の立て方を決めようとしているようなものです。よく考えてみて
ください。これはあまりにも現実離れしているとは思いませんか?
生きて動いている生命を眺めるということすなわち胃の気を眺めるということ
は、カテゴリー分けするための道具の位置にすぎなかった陰陽五行論の使い方を
一段高い位置に脱して、生命の動きを見るための道具へと深化させていくための
キーとなる概念です。
そのためこれを気一元の観点から観ると表現して、一元流鍼灸術では大切にして
いるわけです。
〔伴注:胃の気の脉診という言葉は同じなのですが、その内容は北辰会で語られ
ているものとはまったく異なりますので注意してください。言葉以前のもの―生
命そのものを意識してとらえること。これを胃の気の脉診と呼んでいます。〕
伴 尚志
■生命力の変化を見るのが脉診
そのような脉診を少なくとも治療前と治療後にやり続けてきて徐々に理解してきたことは、実はそれよりも大きな脉の診方があるということでした。それは脉を診ることを通じて、「生命力の変化を診ている」のだということです。脉診を通じてみる生命力の変化は一瞬にして大々的に変わることもありますし、微妙な変化しかしないこともあります。それは患者さんの体調にもよりますし治療の適否による場合もあります。細かく診ているだけでは表現しようのない大きな生命力の動きのことをおそらく古人も気がついていて、これを胃の気の脉と呼んだのだろうと思います。
胃の気の大きな変化こそ、脉診において中心として把握すべきものです。これは生命力の大きなうねりなのですから。そしてそれはアナログ的な流れの変化のように起こります。ですから、何という名前の脉状が胃の気が通っている脉状であると表現することはできません。より良いかより悪いかしか実はないわけです。良い脉状にはしかし目標はあります。それは、いわゆる12歳頃の健康な少年の脉状です。楊柳のようにしなやかで、拘わり滞留することがなく、輪郭が明瞭でつややかな脉状。寸関尺の浮位においても沈位においても脉力の差がなく、ざらつきもなく華美でもないしなやかで柔らかな生命の脉状。これが胃の気のもっとも充実している脉の状態です。
胃の気が少し弱るとさまざまな表情がまた出てきます。千変万化するわけです。脉位による差も出てくるでしょうし、脉圧による差も出てくるでしょう。脉状にもさまざまな違いが出てきて統一感がなくなります。輪郭も甘くなったり堅く弦を帯びたり反対に何とも言えない粘ったような柔らかい脉状を呈するようになるかもしれません。
このことが何を意味しているのかというとを、歴代の脉書は伝えていますけれども、そこに大きな意味はありません。ましてそれぞれの脉状に対して症状や証をあてるなど意味のないことです。そんなことよりもよりよい脉状に持って行くにはどうすればよいのかという観点から治療方針を定めていくことの方が、はるかに重要です。
このようにして、陰陽五行によるカテゴリー分けにすぎなかった脉状診から、生命そのものを診る胃の気の脉診法が生まれました。そしてこの胃の気の脉を診るということへの気づきが、それまでの陰陽五行論を大きく発展させました。それが、気一元の場を、陰陽という観点 五行という観点から眺める、という一元流鍼灸術独自の陰陽五行論となったわけです。
伴 尚志
そのような脉診を少なくとも治療前と治療後にやり続けてきて徐々に理解してきたことは、実はそれよりも大きな脉の診方があるということでした。それは脉を診ることを通じて、「生命力の変化を診ている」のだということです。脉診を通じてみる生命力の変化は一瞬にして大々的に変わることもありますし、微妙な変化しかしないこともあります。それは患者さんの体調にもよりますし治療の適否による場合もあります。細かく診ているだけでは表現しようのない大きな生命力の動きのことをおそらく古人も気がついていて、これを胃の気の脉と呼んだのだろうと思います。
胃の気の大きな変化こそ、脉診において中心として把握すべきものです。これは生命力の大きなうねりなのですから。そしてそれはアナログ的な流れの変化のように起こります。ですから、何という名前の脉状が胃の気が通っている脉状であると表現することはできません。より良いかより悪いかしか実はないわけです。良い脉状にはしかし目標はあります。それは、いわゆる12歳頃の健康な少年の脉状です。楊柳のようにしなやかで、拘わり滞留することがなく、輪郭が明瞭でつややかな脉状。寸関尺の浮位においても沈位においても脉力の差がなく、ざらつきもなく華美でもないしなやかで柔らかな生命の脉状。これが胃の気のもっとも充実している脉の状態です。
胃の気が少し弱るとさまざまな表情がまた出てきます。千変万化するわけです。脉位による差も出てくるでしょうし、脉圧による差も出てくるでしょう。脉状にもさまざまな違いが出てきて統一感がなくなります。輪郭も甘くなったり堅く弦を帯びたり反対に何とも言えない粘ったような柔らかい脉状を呈するようになるかもしれません。
このことが何を意味しているのかというとを、歴代の脉書は伝えていますけれども、そこに大きな意味はありません。ましてそれぞれの脉状に対して症状や証をあてるなど意味のないことです。そんなことよりもよりよい脉状に持って行くにはどうすればよいのかという観点から治療方針を定めていくことの方が、はるかに重要です。
このようにして、陰陽五行によるカテゴリー分けにすぎなかった脉状診から、生命そのものを診る胃の気の脉診法が生まれました。そしてこの胃の気の脉を診るということへの気づきが、それまでの陰陽五行論を大きく発展させました。それが、気一元の場を、陰陽という観点 五行という観点から眺める、という一元流鍼灸術独自の陰陽五行論となったわけです。
伴 尚志
■陰陽五行で脉を診る
気一元の観点で捉えることの初期に行われていた思考訓練は、陰陽で人を見る、
五行で人を見るということでした。陰陽で人を見る、五行で人を見るということ
から学んできたことは、バランスよく観るということです。バランスが崩れると
いうことは陰あるいは陽が、また五行の内の一つあるいはいくつかが偏って強く
なりあるいは弱くなったことによって起こります。バランスが崩れるということ
が病むということであり、バランスを回復させることが治すということであると
考えていました。自身の観方に偏りがないかどうか、それを点検するために陰陽
五行を用いて「観る」ことを点検していたわけです。
脉を取ることを用いて、この段階について解説してみましょう。
脉というものはぼやっと見ているとはっきり見えないものです。見るともなしに
見ていると見えないものであるとも言えます。何かの目標を持つことによって、
見たいものが見えてきます。それがたとえば六部定位の脉診です。寸関尺の脉位
によってその浮位と沈位との強弱を比較してもっとも弱い部位を定めていくもの
です。一元流の脉診であれば、六部定位の浮位と沈位とを大きくざっと見て、そ
の中でもっとも困っていそうな脉位を定めてそれを治療目標とします。
この大きくざっと見ることが実は大切です。脉そのものをしっかりとみることも
できていないのに、脉状を云々する人がたくさんいるわけですけれども、そんな
ものはナンセンスです。先ず見ること。そこに言葉にする以前のすべてがありま
す。見えているものをなんとか言葉にしていこうとうんうん呻吟した末に出てく
るものが、脉状の名前でなければなりません。言葉で表現したいと思う前にその
実態をつかんでいなければいけないということです。このようにいうと当たり前
のことですけれども、それができていないのが現状ですので何度も述べているわ
けです。
見て、そしてこれを陰陽の観点から五行の観点から言葉にして表現していきま
す。これを左関上の沈位が弦緊で右の尺中が浮にして弾、などという表現となっ
て漏れてくるわけです。これが陰陽の観点から五行の観点から見るということで
す。寸口や尺中という位置が定められ表現されているのは、五行の観点から見て
ここが他の部位よりも困窮しているように見ているものです。濡弱とか弦緊とか
表現されているのは、堅いのか柔らかいのかという陰陽の観点からその脉状をバ
ランスよく見ているものです。
伴 尚志
気一元の観点で捉えることの初期に行われていた思考訓練は、陰陽で人を見る、
五行で人を見るということでした。陰陽で人を見る、五行で人を見るということ
から学んできたことは、バランスよく観るということです。バランスが崩れると
いうことは陰あるいは陽が、また五行の内の一つあるいはいくつかが偏って強く
なりあるいは弱くなったことによって起こります。バランスが崩れるということ
が病むということであり、バランスを回復させることが治すということであると
考えていました。自身の観方に偏りがないかどうか、それを点検するために陰陽
五行を用いて「観る」ことを点検していたわけです。
脉を取ることを用いて、この段階について解説してみましょう。
脉というものはぼやっと見ているとはっきり見えないものです。見るともなしに
見ていると見えないものであるとも言えます。何かの目標を持つことによって、
見たいものが見えてきます。それがたとえば六部定位の脉診です。寸関尺の脉位
によってその浮位と沈位との強弱を比較してもっとも弱い部位を定めていくもの
です。一元流の脉診であれば、六部定位の浮位と沈位とを大きくざっと見て、そ
の中でもっとも困っていそうな脉位を定めてそれを治療目標とします。
この大きくざっと見ることが実は大切です。脉そのものをしっかりとみることも
できていないのに、脉状を云々する人がたくさんいるわけですけれども、そんな
ものはナンセンスです。先ず見ること。そこに言葉にする以前のすべてがありま
す。見えているものをなんとか言葉にしていこうとうんうん呻吟した末に出てく
るものが、脉状の名前でなければなりません。言葉で表現したいと思う前にその
実態をつかんでいなければいけないということです。このようにいうと当たり前
のことですけれども、それができていないのが現状ですので何度も述べているわ
けです。
見て、そしてこれを陰陽の観点から五行の観点から言葉にして表現していきま
す。これを左関上の沈位が弦緊で右の尺中が浮にして弾、などという表現となっ
て漏れてくるわけです。これが陰陽の観点から五行の観点から見るということで
す。寸口や尺中という位置が定められ表現されているのは、五行の観点から見て
ここが他の部位よりも困窮しているように見ているものです。濡弱とか弦緊とか
表現されているのは、堅いのか柔らかいのかという陰陽の観点からその脉状をバ
ランスよく見ているものです。
伴 尚志
■臍下丹田と『難経』
さて、東洋医学ではこの「一」の括りについていくつかのパターン化された認識
が提供されています。これを一元流ではまた身体観などと呼んでおり、テキスト
の五行のところで述べられています。後天の気である土を中心とする身体観、人
身の天地をつなぐ木を中心とする身体観、先天の気である水を中心とする身体観
がそれです。
ことに最後の水を中心とする身体観は、臍下丹田の認識とも相まって仏教的な身
体観を表現するものとなっています。この臍下丹田を人身の中心とし、そこに意
識を置くことを重視する身体観は、そもそも仏教独特のものです。
『難経』において、腎間の動気が重視され、人身の根としての尺位の脉の状態が
重視されている理由は、仏教の影響によるものです。『難経』の成立と同じ時期
に、それまでの黄老道を基礎として占筮や咒符と登仙へのあこがれを混合してま
とめ上げた、道教ができあがりましたが、これも仏教の伝来によって支那大陸土
俗の文明が刺激されたことによるものです。
黄老道という周代から続く中国独特の天人相応・陰陽五行の思想が、臍下丹田と
いう中心を得ることによって「意識の位置」において大転換を果たしたわけで
す。その代表的な書物がやはり『難経』と同じ頃に成立している内丹法の古典で
ある『周易参同契』です。道教はこれ以降、内丹外丹の思想を修養の中心とした
思想体系を作っていきます。中国医学はこの道教の人間観に大きな影響を受け、
また道教徒自身も重要な担い手となっています。
しかし日本においては学問の担い手が僧侶だったこともあって、道教の人間観よ
りも仏教の人間観の方が色濃く伝来しています。そのため、日本医学においては
腹診が重視され、臍下丹田の重要性がより強調されることとなりました。気一元
の観点で難経を読み直した『難経鉄鑑』が誕生した背景はこのあたりにあると私
は考えています。
そしてそれは実は、すでに存在していた『黄帝内経』とは別に『難経』を書くこ
ととなった『難経』の作者の本当の意図なのではないかとも、私は密(ひそ)か
に考えているのです。
伴 尚志
さて、東洋医学ではこの「一」の括りについていくつかのパターン化された認識
が提供されています。これを一元流ではまた身体観などと呼んでおり、テキスト
の五行のところで述べられています。後天の気である土を中心とする身体観、人
身の天地をつなぐ木を中心とする身体観、先天の気である水を中心とする身体観
がそれです。
ことに最後の水を中心とする身体観は、臍下丹田の認識とも相まって仏教的な身
体観を表現するものとなっています。この臍下丹田を人身の中心とし、そこに意
識を置くことを重視する身体観は、そもそも仏教独特のものです。
『難経』において、腎間の動気が重視され、人身の根としての尺位の脉の状態が
重視されている理由は、仏教の影響によるものです。『難経』の成立と同じ時期
に、それまでの黄老道を基礎として占筮や咒符と登仙へのあこがれを混合してま
とめ上げた、道教ができあがりましたが、これも仏教の伝来によって支那大陸土
俗の文明が刺激されたことによるものです。
黄老道という周代から続く中国独特の天人相応・陰陽五行の思想が、臍下丹田と
いう中心を得ることによって「意識の位置」において大転換を果たしたわけで
す。その代表的な書物がやはり『難経』と同じ頃に成立している内丹法の古典で
ある『周易参同契』です。道教はこれ以降、内丹外丹の思想を修養の中心とした
思想体系を作っていきます。中国医学はこの道教の人間観に大きな影響を受け、
また道教徒自身も重要な担い手となっています。
しかし日本においては学問の担い手が僧侶だったこともあって、道教の人間観よ
りも仏教の人間観の方が色濃く伝来しています。そのため、日本医学においては
腹診が重視され、臍下丹田の重要性がより強調されることとなりました。気一元
の観点で難経を読み直した『難経鉄鑑』が誕生した背景はこのあたりにあると私
は考えています。
そしてそれは実は、すでに存在していた『黄帝内経』とは別に『難経』を書くこ
ととなった『難経』の作者の本当の意図なのではないかとも、私は密(ひそ)か
に考えているのです。
伴 尚志
■「一」つの括り
「一」の概念を把握することを難しくしているものに、それが当たり前すぎて意
識されないため、言葉になっていないことが多いということがあげられます。存
在そのもの、生命そのものといったときに私たちはそこに何を見ているのかとい
うと、生命を生命としてそこに構成している一つの宇宙を見ています。であれば
生命と呼ばずに宇宙と呼べばいいわけなのですが、この言葉を使ってしまうとま
た別の概念がそこに生じてきてどこか遠くにある何ものかを想像してしまうこと
となります。そこで、それを表現する「以前」の躍動しているそれ―存在そのも
の―をやむを得ず「一」と呼んでみたり「生命」と呼んでみたり「存在そのも
の」と呼んでみたりするわけです。太極図の概念としては無極―ありのままにあ
るそれ―という言葉が相当します。
この「一」、生命をもっている「それ」を見る場合に、無意識のうちに大前提と
しているものがあります。それは「それ」が生命を生命として存在させている枠
組みをもっているということです。存在している空間的な範囲・時間的な範囲が
あるわけです。この範囲―あるいは限界―を「括(くく)り」と私は呼んでいま
す。
陰陽を成り立たせるにも五行の概念で分析を進めるにもまず大前提としてこの
「一」の括りを意識することが必要です。この一つに括られているものを、二つ
の観点から眺めることを陰陽論と呼びます。二つの観点から眺めているわけです
けれども、一つのものをよくよく観ていくための概念的な操作を陰陽論ではして
いるわけです。
同じようにこれを五つの観点から見るという概念的な操作をすることを五行論と
呼んでいます。五行論は、一つのものをよりよく観ていくための、陰陽論よりも
少し複雑で、立体的な構造をもたせやすい概念です。
陰陽論も五行論も一つのものを無理に二つの観点から五つの観点から観ているも
のです。ですから、リアリティーをもってそれを理解するためには、あわい―表
現されていない 陰と陽との隙間 五行の一つと五行の一つとの隙間―を意識す
ることが大切です。表現されている言葉そのものだけではなく、言葉と言葉の間
にある表現されていないもの、いわば言葉の裏側を認識することがとても大切な
のです。
伴 尚志
「一」の概念を把握することを難しくしているものに、それが当たり前すぎて意
識されないため、言葉になっていないことが多いということがあげられます。存
在そのもの、生命そのものといったときに私たちはそこに何を見ているのかとい
うと、生命を生命としてそこに構成している一つの宇宙を見ています。であれば
生命と呼ばずに宇宙と呼べばいいわけなのですが、この言葉を使ってしまうとま
た別の概念がそこに生じてきてどこか遠くにある何ものかを想像してしまうこと
となります。そこで、それを表現する「以前」の躍動しているそれ―存在そのも
の―をやむを得ず「一」と呼んでみたり「生命」と呼んでみたり「存在そのも
の」と呼んでみたりするわけです。太極図の概念としては無極―ありのままにあ
るそれ―という言葉が相当します。
この「一」、生命をもっている「それ」を見る場合に、無意識のうちに大前提と
しているものがあります。それは「それ」が生命を生命として存在させている枠
組みをもっているということです。存在している空間的な範囲・時間的な範囲が
あるわけです。この範囲―あるいは限界―を「括(くく)り」と私は呼んでいま
す。
陰陽を成り立たせるにも五行の概念で分析を進めるにもまず大前提としてこの
「一」の括りを意識することが必要です。この一つに括られているものを、二つ
の観点から眺めることを陰陽論と呼びます。二つの観点から眺めているわけです
けれども、一つのものをよくよく観ていくための概念的な操作を陰陽論ではして
いるわけです。
同じようにこれを五つの観点から見るという概念的な操作をすることを五行論と
呼んでいます。五行論は、一つのものをよりよく観ていくための、陰陽論よりも
少し複雑で、立体的な構造をもたせやすい概念です。
陰陽論も五行論も一つのものを無理に二つの観点から五つの観点から観ているも
のです。ですから、リアリティーをもってそれを理解するためには、あわい―表
現されていない 陰と陽との隙間 五行の一つと五行の一つとの隙間―を意識す
ることが大切です。表現されている言葉そのものだけではなく、言葉と言葉の間
にある表現されていないもの、いわば言葉の裏側を認識することがとても大切な
のです。
伴 尚志
■「一」の視点に立つ
一元流鍼灸術では「一」ということの理解を深めることが要求されています。こ
の「一」というのはいったい何なのでしょう。何を意味しているものなのでしょ
うか。
ある会で講演を頼まれ、その会で発行している資料をすべて取り寄せてみまし
た。とてもよく勉強されていて、独創も多いのですが、ただ一点欠けているとこ
ろがあり残念に思いました。それが「一」の視点です。
東洋医学は汗牛充棟と言われるとおり、非常に多くの言葉が積み重ねられてきま
した。医学を支えている人間観ということから考えると、大陸の思想全体が網羅
されてきますので、一つの大いなる文明そのものを学ばなければならないのでは
ないかと気が遠くなってきます。まぁ実際その通りなのですが・・・
けれどもここで注意を払う必要があることは、言葉はただ「何者か」を指し示し
ている符号に過ぎないということです。古代の発語の時点においては確かにその
何者かを意識していたはずなのに、時代を下り言葉を連ねるのがうまくなるにつ
れて、徐々に言葉はそのリアリティーを失っていきます。そして、言葉に言葉を
重ねて学者然とする一群の「偉い」人々が出現しました。もちろん彼らは古い時
代の花の蜜を現代に伝えるミツバチのように言葉を運ぶことはできますし、彼ら
の影響で私どもは今勉強することができるわけですから、たくさんの感謝を捧げ
る必要があります。
けれども我々が学んでいく際、とても大切なことが実はあります。それは、時代
を超えるミツバチは言葉を運んでいるのであって、発語のリアリティー―初めて
言葉が発せられなければならなかった瞬間の感動―を運んでいるわけではないと
いうことです。発語のまさにその時のリアリティを感じとることができるかどう
かはということは、現在生きて学んでいる我々の、何を学び取りたいのかという
「意識」にかかっているわけです。
ここに、心を沿わせる、という必要が出てきます。あらゆる迷妄を打ち破って初
心に立ち返り、初めて出会ったものとして存在そのものを見つめ直す姿勢。そこ
に言葉を発する時のリアリティがあります。言葉を発する時というよりも、言葉
を発する直前の何とも言えない感動、ここを表現しておきたいという強い思い。
それがそこ―古典には存在していて、我々はそこに心を沿わせていかなければな
らないのです。
「一」とは何か、というと、この存在そのもののことです。記憶している言葉に
よって物事を評価し・分析して・理解できたことにして満足するのではなく、存
在そのものへの驚きと畏れ、それと出会った時の感動に寄り添うということで
す。存在そのものに深く耳を傾けること。このことによってはじめて、言葉を発
するまさにその時の感動が私どもの中によみがえってきます。そこ。言葉の側で
はなく存在そのものの側に立ってそこに表現されている言葉を理解していく。こ
の姿勢を保つことが、一元流鍼灸術の「一」の視点に立つということです。
伴 尚志
一元流鍼灸術では「一」ということの理解を深めることが要求されています。こ
の「一」というのはいったい何なのでしょう。何を意味しているものなのでしょ
うか。
ある会で講演を頼まれ、その会で発行している資料をすべて取り寄せてみまし
た。とてもよく勉強されていて、独創も多いのですが、ただ一点欠けているとこ
ろがあり残念に思いました。それが「一」の視点です。
東洋医学は汗牛充棟と言われるとおり、非常に多くの言葉が積み重ねられてきま
した。医学を支えている人間観ということから考えると、大陸の思想全体が網羅
されてきますので、一つの大いなる文明そのものを学ばなければならないのでは
ないかと気が遠くなってきます。まぁ実際その通りなのですが・・・
けれどもここで注意を払う必要があることは、言葉はただ「何者か」を指し示し
ている符号に過ぎないということです。古代の発語の時点においては確かにその
何者かを意識していたはずなのに、時代を下り言葉を連ねるのがうまくなるにつ
れて、徐々に言葉はそのリアリティーを失っていきます。そして、言葉に言葉を
重ねて学者然とする一群の「偉い」人々が出現しました。もちろん彼らは古い時
代の花の蜜を現代に伝えるミツバチのように言葉を運ぶことはできますし、彼ら
の影響で私どもは今勉強することができるわけですから、たくさんの感謝を捧げ
る必要があります。
けれども我々が学んでいく際、とても大切なことが実はあります。それは、時代
を超えるミツバチは言葉を運んでいるのであって、発語のリアリティー―初めて
言葉が発せられなければならなかった瞬間の感動―を運んでいるわけではないと
いうことです。発語のまさにその時のリアリティを感じとることができるかどう
かはということは、現在生きて学んでいる我々の、何を学び取りたいのかという
「意識」にかかっているわけです。
ここに、心を沿わせる、という必要が出てきます。あらゆる迷妄を打ち破って初
心に立ち返り、初めて出会ったものとして存在そのものを見つめ直す姿勢。そこ
に言葉を発する時のリアリティがあります。言葉を発する時というよりも、言葉
を発する直前の何とも言えない感動、ここを表現しておきたいという強い思い。
それがそこ―古典には存在していて、我々はそこに心を沿わせていかなければな
らないのです。
「一」とは何か、というと、この存在そのもののことです。記憶している言葉に
よって物事を評価し・分析して・理解できたことにして満足するのではなく、存
在そのものへの驚きと畏れ、それと出会った時の感動に寄り添うということで
す。存在そのものに深く耳を傾けること。このことによってはじめて、言葉を発
するまさにその時の感動が私どもの中によみがえってきます。そこ。言葉の側で
はなく存在そのものの側に立ってそこに表現されている言葉を理解していく。こ
の姿勢を保つことが、一元流鍼灸術の「一」の視点に立つということです。
伴 尚志
■一をもってこれを貫く
一元流鍼灸術という名前の通り、一元流鍼灸術では一について学んでいます。気
一元の生命、その表現としてのさまざまな診断部位の再発見。そしてその位置の
個性にしたがったそれぞれの診断部位の特徴に基づいた診方。そしてより小さく
傾きが多く個性的な経穴診までを統一された考えかたでみていこうとしていま
す。
そのため、学び、診、感じとり、アプローチするということについて、これまで
語り続けているわけです。一の観点というのは、基礎から応用まで自在に対処し
ていくことのできる魔法の杖のようなものです。ただしこの杖を使うには条件が
あります。それは自分で感じ自分で考えるということです。この部分を誰かに頼
っているようではいつまでたっても応用自在の位置を得ることはできません。
産まれるということは父母の精が合体して一つとなることから始まります。これ
が生命の始まりです。死ぬということはその気一元の生命が陰陽に離乖するとい
うことです。この陰陽離乖の姿を、魂魄が分かれるとも表現します。肉体と精神
との分離ともいいますし、肉体と魂とが分かれることともいいますし、肉体から
魂が抜けるという表現をすることもあります。陰陽に分離する以前が生命がある
ときで、生きているときです。この生きているときに病気になります。ですから
死と生とはそのあり様がまったく異なるものです。統合されているものが生であ
り分離されているものが死であるともいえます。
一としてまとまっているときは生き、分離するときは死ぬ。この概念は経穴の状
態を見る経穴診や全身の状態を診る脉診も含めて、すべての診断法に応用するこ
とができます。
伴 尚志
一元流鍼灸術という名前の通り、一元流鍼灸術では一について学んでいます。気
一元の生命、その表現としてのさまざまな診断部位の再発見。そしてその位置の
個性にしたがったそれぞれの診断部位の特徴に基づいた診方。そしてより小さく
傾きが多く個性的な経穴診までを統一された考えかたでみていこうとしていま
す。
そのため、学び、診、感じとり、アプローチするということについて、これまで
語り続けているわけです。一の観点というのは、基礎から応用まで自在に対処し
ていくことのできる魔法の杖のようなものです。ただしこの杖を使うには条件が
あります。それは自分で感じ自分で考えるということです。この部分を誰かに頼
っているようではいつまでたっても応用自在の位置を得ることはできません。
産まれるということは父母の精が合体して一つとなることから始まります。これ
が生命の始まりです。死ぬということはその気一元の生命が陰陽に離乖するとい
うことです。この陰陽離乖の姿を、魂魄が分かれるとも表現します。肉体と精神
との分離ともいいますし、肉体と魂とが分かれることともいいますし、肉体から
魂が抜けるという表現をすることもあります。陰陽に分離する以前が生命がある
ときで、生きているときです。この生きているときに病気になります。ですから
死と生とはそのあり様がまったく異なるものです。統合されているものが生であ
り分離されているものが死であるともいえます。
一としてまとまっているときは生き、分離するときは死ぬ。この概念は経穴の状
態を見る経穴診や全身の状態を診る脉診も含めて、すべての診断法に応用するこ
とができます。
伴 尚志
■「一」シンプルイズベスト
一元流鍼灸術の基本のひとつはそのシンプルさにあります。このシンプルさの位
置はどこにあるのか、ということが問題となります。
なにをもってシンプルとするのか、ということです。
シンプルさと短絡とは違います。短絡というのは思いついたことにしがみついて
そこから物事の解釈を始めることです。シンプルさとは、問題の範疇を研究しつ
くしてその余分な贅肉をそぎとった果てにあるものです。
「動中に静あり」という言葉があります。軸がしっかりまっすぐに立っている駒
は、速い速度で回れば回るほどまるで動きがないかのようにすっきりと一点を保
って立ちます。この一点を保って立つということ、これが一元流の「一」の本体
です。
どのような研究の果てにも、この軸を逸れてはいけない、その位置が、一元流の
テキストの総論部分で示してあります。この一点、全体でもありゼロでもある地
点、これがこの上なく重要なものとなるわけです。
伴 尚志
一元流鍼灸術の基本のひとつはそのシンプルさにあります。このシンプルさの位
置はどこにあるのか、ということが問題となります。
なにをもってシンプルとするのか、ということです。
シンプルさと短絡とは違います。短絡というのは思いついたことにしがみついて
そこから物事の解釈を始めることです。シンプルさとは、問題の範疇を研究しつ
くしてその余分な贅肉をそぎとった果てにあるものです。
「動中に静あり」という言葉があります。軸がしっかりまっすぐに立っている駒
は、速い速度で回れば回るほどまるで動きがないかのようにすっきりと一点を保
って立ちます。この一点を保って立つということ、これが一元流の「一」の本体
です。
どのような研究の果てにも、この軸を逸れてはいけない、その位置が、一元流の
テキストの総論部分で示してあります。この一点、全体でもありゼロでもある地
点、これがこの上なく重要なものとなるわけです。
伴 尚志
皆様には忙しい年末をお迎えでしょうか。
本年は日本史に残る出来事があり、国民の民度が試されました。
そんな時代の中で、市井の一鍼灸師として私は自身に何を問い何をなしてきたの
でしょうか。
勉強会に関わり、学び続け、得ることはありましたか?
学ぶということは、自分自身のそれまでの価値観を棚上げし相対化することによ
って初めて起こる自分自身の価値観の変化を受け入れることです。そこには非常
に繊細な感覚―自己否定をしないままに自己批判をしていく繊細さ―が求められま
す。風に吹かれている羽毛を指の先にとどめるような繊細なバランス感覚を感じ
ることができましたでしょうか。謙虚でありながら自己を否定せずに受け入れて
いくというその心の位置に私はいたいと思います。
ということはさておき、本年をもって退会される方、休まれる方、ごくろうさま
でした。またどこかで出会い、学ぶということを確認することができるときがあ
ることでしょう。機会があればまたともに学びましょう。
継続される方。学ぶということはただ勉強会とその周辺だけで起こっていること
ではないということは言うまでもありません。人生のすべての時と機会において
学ぶという事象が発生します。そのことに気づくことができるかどうか、そのよ
うな心の「余裕」を持ち続けることができるかどうか、その心の構えを作ること
深めることを「謙虚さ」と呼ぶことができます。
私たちは学ぶことを諦めることによって自分を正当化することができます。それ
はとても傲慢なことで自分の人生を傷つけることにつながります。そこを手放し
て繊細な場処にい続けること。学び考え論理を構成していくというその智の位置
に私は居続けたいと思います。
来る年もよろしくお願いします。
伴 尚志
■無明のただ中に立つ
無明―何もわからない見えない闇のただ中に、生きる意志と見続ける眼差しだけ
をもって立つ、これが毎回その臨床の場で行われている患者さんとの出会いで
す。そしてこのことは、古典を読み解く時にも、何かを真剣に理解しようとする
時にも実は、背後で働いている姿勢であり、決意です。その存在を「見たい」
「理解したい」「考えたい」と思う、その初発の気持ちが決意を伴い現れている
わけです。
好奇心―これでは他人事のようで冷え冷えとします。愛―その通りかもしれませ
ん、親の子に対するような思い、これを愛というのであればよりしっくりとしま
す。慈悲―黄帝内経にはそう書かれています。黄帝が衆生の苦しみを見て慈悲の
心を起こしたために医学が生まれたと。信仰―造物主である神への愛が、作り出
されたものへの興味の源泉となり、ついには西洋科学思想の基盤となりました。
同じ初発の動機を、真剣な眼差しを、私たちは持っているでしょうか。
「問う」ということの真剣さが「答え」を産み出します。「問い」の中には「答
え」が潜んでいます。
真剣に問う、という姿勢を私たちは持っているでしょうか。世界を当たり前のこ
ととして、何気なく生きているのではありませんか?
何も問うことのない者には何の答えも与えられることはありません。そこにある
ものはただ、怠惰な現実を遂行させる曖昧模糊とした惰性的に流れる時間だけで
す。
真剣に問うことなしに答えを探し求め、言葉の檻の中に安住してはいませんか?
東洋医学の長い伝統のほとんどは、そのような営為の積み重ねでした。
無明のまっただ中に立つことへの恐怖が、慈悲によって紡ぎ出された言葉にすが
らせ、その言葉を衣服のようにぶ厚くまとって自信のなさを補強してきたので
す。その言葉は時に、自身よりも無知な他者を裁くことにまで使われることとな
りました。
答えを探す者には答えは与えられず、真剣に問う者に答えが与えられます。答え
だけを探す者にとっては、答え探しは一つのゲームであり言葉遊びとなり得ま
す。それに対して存在をかけて真剣に問う時、そこには生命が響き合うような答
えが用意されています。
人生の客としてふるまい、自分の檻の中に住んで、与えられたメニューを選ぶよ
うに言葉を身にまとうことは、自分の檻を補強しているにすぎません。自分自身
を闇の中に閉じ込めているその檻を補強しているにすぎないのです。
心のどこかでは檻から出ようと泣き叫んでいるのに、すでに忘れたはるか昔には
自由になることを望んで泣き叫んでいたはずなのに、実際に行ってきたことは自
身を閉じ込めるための檻の補強であり、新たな言葉もその檻に新たに塗られるペ
ンキにすぎないなんて、何というパラドックスでしょうか!
その檻から出る方法は実はあるのです。自分自身の存在をかけて真剣に問うこ
と、自身に問いかけ続けること。そこで湧き起こる答えに素直に耳を傾けること
です。それこそが「道」に入る端緒となります。
もともと東洋の思想を読むということはそういうことでした。自身の行為を通じ
てその尊敬する古典と対決しながら、自分自身の心の位置を確かめ確かめ磨き続
けていくことによって、自身を成長させていく。これが古典を読むということで
した。
ところがいつの時代からか、古典がただ記憶するための言葉となり、試験に出る
古文となって、自らの魂をかけて古人と対決する姿勢を失わせてしまいました。
それがいわゆる学問となって大学を支配する段となるとすでに、古典はただ文字
の羅列となり学者は文字を正しく読み解くものとしての価値しか持たなくなりま
した。
その同じことが今、東洋医学でも起きているのではありませんか?中医学という
名の古人の言葉をまとめたものが学問として輸入されて、それを症状に対して適
用することによって処方が決まり配穴が決まるという、何という観念的な!何と
いう安易な!そんな行為が行われているのではありませんか?これがいわゆる学
問としての東洋医学となっているのではありませんか?
それに対して一元流鍼灸術で行われていることは、ほんとうの古典とするべきも
のは目の前の患者さんの身体であると見極め、その古典を読む真剣さにおいて古
人と我々との差はないのだと心を定め、古典である患者さんの身体と対決するこ
とです。ここにおいて文字で書かれている古典もその生命をまったく新しいもの
として賦活することができるでしょう。そしてこの位置にいることによって初め
て、我々がこの現代において古典を書き始めることができるようになるのです。
東洋医学の伝統を踏まえたうえで、そのような自己を鍛錬していくことこそが、
東洋医学の基礎を作り上げた古人への恩返しとなります。この恩返しを通じて蘇
った東洋医学は、これからも人類の健康に奉仕し続けることができることでしょ
う。
伴 尚志
無明―何もわからない見えない闇のただ中に、生きる意志と見続ける眼差しだけ
をもって立つ、これが毎回その臨床の場で行われている患者さんとの出会いで
す。そしてこのことは、古典を読み解く時にも、何かを真剣に理解しようとする
時にも実は、背後で働いている姿勢であり、決意です。その存在を「見たい」
「理解したい」「考えたい」と思う、その初発の気持ちが決意を伴い現れている
わけです。
好奇心―これでは他人事のようで冷え冷えとします。愛―その通りかもしれませ
ん、親の子に対するような思い、これを愛というのであればよりしっくりとしま
す。慈悲―黄帝内経にはそう書かれています。黄帝が衆生の苦しみを見て慈悲の
心を起こしたために医学が生まれたと。信仰―造物主である神への愛が、作り出
されたものへの興味の源泉となり、ついには西洋科学思想の基盤となりました。
同じ初発の動機を、真剣な眼差しを、私たちは持っているでしょうか。
「問う」ということの真剣さが「答え」を産み出します。「問い」の中には「答
え」が潜んでいます。
真剣に問う、という姿勢を私たちは持っているでしょうか。世界を当たり前のこ
ととして、何気なく生きているのではありませんか?
何も問うことのない者には何の答えも与えられることはありません。そこにある
ものはただ、怠惰な現実を遂行させる曖昧模糊とした惰性的に流れる時間だけで
す。
真剣に問うことなしに答えを探し求め、言葉の檻の中に安住してはいませんか?
東洋医学の長い伝統のほとんどは、そのような営為の積み重ねでした。
無明のまっただ中に立つことへの恐怖が、慈悲によって紡ぎ出された言葉にすが
らせ、その言葉を衣服のようにぶ厚くまとって自信のなさを補強してきたので
す。その言葉は時に、自身よりも無知な他者を裁くことにまで使われることとな
りました。
答えを探す者には答えは与えられず、真剣に問う者に答えが与えられます。答え
だけを探す者にとっては、答え探しは一つのゲームであり言葉遊びとなり得ま
す。それに対して存在をかけて真剣に問う時、そこには生命が響き合うような答
えが用意されています。
人生の客としてふるまい、自分の檻の中に住んで、与えられたメニューを選ぶよ
うに言葉を身にまとうことは、自分の檻を補強しているにすぎません。自分自身
を闇の中に閉じ込めているその檻を補強しているにすぎないのです。
心のどこかでは檻から出ようと泣き叫んでいるのに、すでに忘れたはるか昔には
自由になることを望んで泣き叫んでいたはずなのに、実際に行ってきたことは自
身を閉じ込めるための檻の補強であり、新たな言葉もその檻に新たに塗られるペ
ンキにすぎないなんて、何というパラドックスでしょうか!
その檻から出る方法は実はあるのです。自分自身の存在をかけて真剣に問うこ
と、自身に問いかけ続けること。そこで湧き起こる答えに素直に耳を傾けること
です。それこそが「道」に入る端緒となります。
もともと東洋の思想を読むということはそういうことでした。自身の行為を通じ
てその尊敬する古典と対決しながら、自分自身の心の位置を確かめ確かめ磨き続
けていくことによって、自身を成長させていく。これが古典を読むということで
した。
ところがいつの時代からか、古典がただ記憶するための言葉となり、試験に出る
古文となって、自らの魂をかけて古人と対決する姿勢を失わせてしまいました。
それがいわゆる学問となって大学を支配する段となるとすでに、古典はただ文字
の羅列となり学者は文字を正しく読み解くものとしての価値しか持たなくなりま
した。
その同じことが今、東洋医学でも起きているのではありませんか?中医学という
名の古人の言葉をまとめたものが学問として輸入されて、それを症状に対して適
用することによって処方が決まり配穴が決まるという、何という観念的な!何と
いう安易な!そんな行為が行われているのではありませんか?これがいわゆる学
問としての東洋医学となっているのではありませんか?
それに対して一元流鍼灸術で行われていることは、ほんとうの古典とするべきも
のは目の前の患者さんの身体であると見極め、その古典を読む真剣さにおいて古
人と我々との差はないのだと心を定め、古典である患者さんの身体と対決するこ
とです。ここにおいて文字で書かれている古典もその生命をまったく新しいもの
として賦活することができるでしょう。そしてこの位置にいることによって初め
て、我々がこの現代において古典を書き始めることができるようになるのです。
東洋医学の伝統を踏まえたうえで、そのような自己を鍛錬していくことこそが、
東洋医学の基礎を作り上げた古人への恩返しとなります。この恩返しを通じて蘇
った東洋医学は、これからも人類の健康に奉仕し続けることができることでしょ
う。
伴 尚志
■医学は人間学である
医学は人間学である
東洋医学は生きている人間をありのままに理解するための技術であると私は考え
ています。このことについて1989年に『臓腑経絡学ノート』の編集者序とし
て以下のように私は書いています。
『医学は人間学である。人間をどう把えているかによって、その医学体系の現在
のレベルがわかり未来への可能性が規定される。また、人間をどう把え人間とど
うかかわっていけるかということで、治療家の資質が量られる。
東洋医学は人生をいかに生きるかという道を示すものである。天地の間に育まれ
てきた生物は、天地に逆らっては生きることができない。人間もまたその生長の
過程において、天地自然とともに生きることしかできえない。ために、四季の移
ろいに沿える身体となる必要がある。また、疾病そのものも成長の糧であり、生
き方を反省するよい機会である。疾病を通じて、その生きる道を探るのであ
る。』と。
この考え方は今に至るも変わらず私の臨床と古典研究とを支えています。
伴 尚志
医学は人間学である
東洋医学は生きている人間をありのままに理解するための技術であると私は考え
ています。このことについて1989年に『臓腑経絡学ノート』の編集者序とし
て以下のように私は書いています。
『医学は人間学である。人間をどう把えているかによって、その医学体系の現在
のレベルがわかり未来への可能性が規定される。また、人間をどう把え人間とど
うかかわっていけるかということで、治療家の資質が量られる。
東洋医学は人生をいかに生きるかという道を示すものである。天地の間に育まれ
てきた生物は、天地に逆らっては生きることができない。人間もまたその生長の
過程において、天地自然とともに生きることしかできえない。ために、四季の移
ろいに沿える身体となる必要がある。また、疾病そのものも成長の糧であり、生
き方を反省するよい機会である。疾病を通じて、その生きる道を探るのであ
る。』と。
この考え方は今に至るも変わらず私の臨床と古典研究とを支えています。
伴 尚志
■病むを知り養生し、愚を知り修行す
養生するということは、自分が病んでいることを知っているということです。
自分が病んでいることを知っているので、その病から立ち直りたいと思うわけです。
修行するということは自分が愚か者であることを知っているということです。
自分が愚かであることを知っているので、その愚から立ち直りたいと思うわけです。
「健康」というのは、病んでいる自分を映す「鏡」のようなものです。
「健康」な状態に向かって養生を重ねていくわけです。
「悟り」というのは、愚かな自分を映す「鏡」のようなものです。
「悟り」の状態に向かって修行を重ねていくわけです。
お釈迦様が悟りを開いたのは実は、
自らが鏡になることを選択したということです。
そうすることによって、
「実は迷い」「実は病んでいる」人々を、
真実の世界―生命の世界に導こうとしたわけです。
健康な状態があるから病であることがわかるわけです。
健康になろうとしているということは今、病んでいるということです。
悟りの状態があるから愚者であるということがわかるわけです。
悟ろうとしているということは今、愚者であるということです。
これらの言葉から理解されなければならないことは実は、
病者であることを自覚することが、健康への萌芽であり
愚者であることを自覚することが、悟りへの萌芽である、
ということです。
養生とはとりもなおさず病者であることを自覚することであり、
修行とはとりもなおさず愚者であることを自覚することです。
生きるということは病み続けているということであり
悟るということは愚かであり続けているということであり
「病者愚者に徹すること」が実は、
健康へ悟りへの近道であると言えます。
自分は健康である、自分は悟りを開いているという言葉はとりもなおさず、
傲慢で鼻持ちならない言葉であり、
真の病者―真の愚者の言葉であるとも、また言える理由がここにあります。
この迷路をくぐり抜けて一気に悟りのただ中に立って世の鏡となった仏陀の
捨て身の救世心―慈悲心は、この深さで理解される必要があります。
伴 尚志
養生するということは、自分が病んでいることを知っているということです。
自分が病んでいることを知っているので、その病から立ち直りたいと思うわけです。
修行するということは自分が愚か者であることを知っているということです。
自分が愚かであることを知っているので、その愚から立ち直りたいと思うわけです。
「健康」というのは、病んでいる自分を映す「鏡」のようなものです。
「健康」な状態に向かって養生を重ねていくわけです。
「悟り」というのは、愚かな自分を映す「鏡」のようなものです。
「悟り」の状態に向かって修行を重ねていくわけです。
お釈迦様が悟りを開いたのは実は、
自らが鏡になることを選択したということです。
そうすることによって、
「実は迷い」「実は病んでいる」人々を、
真実の世界―生命の世界に導こうとしたわけです。
健康な状態があるから病であることがわかるわけです。
健康になろうとしているということは今、病んでいるということです。
悟りの状態があるから愚者であるということがわかるわけです。
悟ろうとしているということは今、愚者であるということです。
これらの言葉から理解されなければならないことは実は、
病者であることを自覚することが、健康への萌芽であり
愚者であることを自覚することが、悟りへの萌芽である、
ということです。
養生とはとりもなおさず病者であることを自覚することであり、
修行とはとりもなおさず愚者であることを自覚することです。
生きるということは病み続けているということであり
悟るということは愚かであり続けているということであり
「病者愚者に徹すること」が実は、
健康へ悟りへの近道であると言えます。
自分は健康である、自分は悟りを開いているという言葉はとりもなおさず、
傲慢で鼻持ちならない言葉であり、
真の病者―真の愚者の言葉であるとも、また言える理由がここにあります。
この迷路をくぐり抜けて一気に悟りのただ中に立って世の鏡となった仏陀の
捨て身の救世心―慈悲心は、この深さで理解される必要があります。
伴 尚志
■ 暝想―簡易座禅の薦め
今ここにある自己、と一言で言いますけれども、これな何なのでしょうか?
今というのはまったけき存在なのですけれども、
今をつかみとることは人にできることではありません。
こことはどこなのでしょうか。
時間を定め場所が定まることによって存在はその姿を現します。
けれども私たちは、今よりも前や後を「考えて」いて、
まさに今この瞬間にいるということはとても少ないのです。
今この瞬間にいるのではなく、ただ妄想のまっただ中に住んでいるだけです。
これは驚くべきことなのですが、事実です。
妄想の中に住んで、自他を比較して、思考の輪を回しています。
いつも相対的な自己しか見ることができません。
「浮遊する自己」しかみようとはしないのです。
どうしてなのでしょう。そういう性(サガ)なのでしょうか・・・
このような「浮遊し妄想する自己意識」を手放して
今ここにあるリアルな生命を感じ取ること。
この「今ここ」に落ちていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。
それを通じて「相対的な自己」を手放して「絶対的な自己」を手に入れてほしいのです。
「絶対的な自己」というのは、時々刻々変化し続ける自己です。
その時その時、変化している「絶対的な自己」がここにあります。
人の絶対性というのはこの、変化し続ける中での「今ここ」の絶対性にあります。
自分を見つめつつ、「今こここ」から始めるということがとても大切なことです。
今を絶対としつつそれを毎瞬乗り越えていけるような「ゆとり」を持ち続けること。
これが、
切診の練習でも、
弁証論治を作るときでも、
治療のときでも、
養生のときにも、
もっとも大切なこととなります。
その絶対性―リアリティ―を看取するためには、止観が必要です。
止観 ― 妄想することを止めること ―
そのためには動いているよりも座っている方が少しわかりやすいので、
この「今ここ」に落ち着き、それを探っていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。
暝想のための資料と誘導の言葉を用意していますので、
ご希望があれば私におっしゃってください。
差し上げます。
伴 尚志
今ここにある自己、と一言で言いますけれども、これな何なのでしょうか?
今というのはまったけき存在なのですけれども、
今をつかみとることは人にできることではありません。
こことはどこなのでしょうか。
時間を定め場所が定まることによって存在はその姿を現します。
けれども私たちは、今よりも前や後を「考えて」いて、
まさに今この瞬間にいるということはとても少ないのです。
今この瞬間にいるのではなく、ただ妄想のまっただ中に住んでいるだけです。
これは驚くべきことなのですが、事実です。
妄想の中に住んで、自他を比較して、思考の輪を回しています。
いつも相対的な自己しか見ることができません。
「浮遊する自己」しかみようとはしないのです。
どうしてなのでしょう。そういう性(サガ)なのでしょうか・・・
このような「浮遊し妄想する自己意識」を手放して
今ここにあるリアルな生命を感じ取ること。
この「今ここ」に落ちていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。
それを通じて「相対的な自己」を手放して「絶対的な自己」を手に入れてほしいのです。
「絶対的な自己」というのは、時々刻々変化し続ける自己です。
その時その時、変化している「絶対的な自己」がここにあります。
人の絶対性というのはこの、変化し続ける中での「今ここ」の絶対性にあります。
自分を見つめつつ、「今こここ」から始めるということがとても大切なことです。
今を絶対としつつそれを毎瞬乗り越えていけるような「ゆとり」を持ち続けること。
これが、
切診の練習でも、
弁証論治を作るときでも、
治療のときでも、
養生のときにも、
もっとも大切なこととなります。
その絶対性―リアリティ―を看取するためには、止観が必要です。
止観 ― 妄想することを止めること ―
そのためには動いているよりも座っている方が少しわかりやすいので、
この「今ここ」に落ち着き、それを探っていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。
暝想のための資料と誘導の言葉を用意していますので、
ご希望があれば私におっしゃってください。
差し上げます。
伴 尚志
■自他一体が般若波羅蜜多
これは、自身と同じように隣人を愛せよという聖書の言葉と同じ。
自身と同じようにしか隣人を愛することはできないとも言える。
自身に冷たければ隣人にも冷たい。
自身に差別をすれば隣人にも差別をしているのである。
隣人を軽蔑しているものは自身を軽蔑しているものである。
軽蔑が悪いわけではない
差別をすることが悪いわけではない
冷たくすることが悪いわけではない
自身の内であるそれに対して
軽蔑し冷たくし差別をしているのである
自分自身の内側の陰翳として捉えなければならない
そして、その陰翳というものは実は、
自分自身を彫塑していく上での手法
建物で言えば光と影の作成方法のようなものである。
小乗即大乗
小乗自若愚昧心 大乗自若驕慢心
小乗求自己 大乗表自己
自己即佛 般若波羅蜜多
自己即他 般若波羅蜜多
自他即通 真如一体
■超訳 讃仰 般若波羅蜜多心経
私が観音菩薩だったころに、般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)を深く行(ぎょ
う)じた時、五蘊(ごうん)〔注:色受想行識〕がすべて空であるということを
はっきりと覚ることができ、すべての苦しみや災厄から解き放たれることができ
ました。
舎利子(しゃりし)よ、色(しき)〔注:見ることができるもの〕に空(くう)
でないものはなく、空に色でないものはありません。色はすなわち空であり、空
はすなわち色なのです。受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)もまた同
じことです。
舎利子よ、諸法が空相を呈しているわけですから、生まれることも滅ぶこともそ
もそもなく、垢(けが)れることも浄(きよ)められることもそもそもなく、増
えることも減ることもそもそもありません。ですから空の中に色はそもそもな
く、受想行識もそもそもないのです。眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜっ)心
(しん)意(い)もそもそもなく、色(しき)声(しょう)香(こう)味(み)
触(そく)法(ほう)もそもそもありません。見ることができる世界というもの
もそもそもなく、意識することができる世界というものもそもそもありません。
無明というものもそもそもないのですから、無明がなくなるということもそもそ
もありません。また、老いや死というものもそもそもないのですから、老いや死
がなくなるということもそもそもありません。苦(く)集(しゅう)滅(めつ)
道(どう)〔注:仏教の根本教理を示す語。「苦」は生・老・病・死の苦しみ、
「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境
地、「道」は悟りの境地に達する修行〕などそもそもないのです。
知ることができるものもそもそもないのですから、得ることができるものもそも
そもありません。ですからこれによって得るところのものというものもそもそも
ないのです。
私である菩提薩埵 (ぼだいさった)〔注:道を求めて修業している自己の本
体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、心にこだわりがなくなります。心
にこだわりがなくなることによって、恐怖がなくなり、一切の混乱した夢想から
遠く離れることができます。ですから、涅槃〔注:死生や善悪の判断を超えたこ
の世界の実相そのもの:相対界ではない絶対界〕を自由に探求することができる
ようになります。
私である過去現在未来の諸仏〔注:時代を超えて変わりなく存在する自分自身の
本体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、あーのくたーらーさんみゃくさ
んぼーだいを得ること〔注:時空を超えた世界ー大いなる生命そのものと一体と
なり、その光を帯びること〕ができます。
ですから般若波羅蜜多をよく知りなさい。ここに大いなる神呪、ここに大いなる
明呪、ここに無上の呪、ここに並ぶもののない呪があります。一切の苦しみを取
り除くことができます。本当です、嘘ではありません。
それではその般若波羅蜜多への呪〔注:じゅ:のりと〕をお伝えしましょう。今
その呪を唱えます。
ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー〔注:手放しなさい:手放しなさい:
すべてを手放しなさい〕はらそーぎゃーてーぼーじーそわかー〔注:すべてを手
放して 存在そのものでいなさい〕
■般若波羅蜜多とは
時空を超えた存在そのもの。仏性の本体であり彼岸である。真実の体験であり、
人生の中でただ一つだけ体験しなければならない境地、場所である。般若波羅蜜
多を体験し、自覚し、意識し続けそれを表現するように努力すること。そこに人
生の本懐がある。
般若波羅蜜多はすべての存在の中にあり、もちろんすべての人々の中にある。生
を支えているエネルギーであり、生命の喜びそのものでもある。驚くべきことに
人々はそれが自分自身―自分の本体であることを知らない。
苦集滅道は、迷いの様相であり、迷いから覚める道筋である。けれどもそれは本
体ではない。なぜなら人は、その存在そのものがすでに覚りの中にあるのだか
ら。
般若波羅蜜多に気がつくということは、このことに気がつくということである。
一瞬の隙もなく一ミリの隙間もなく般若波羅蜜多は私を充たし世界を充たし続け
ている。
気を許すと!!! 意識は般若波羅蜜多の中に落ちていく。
深い呼吸とともにしがみついている想念を解き放ち、般若波羅蜜多の中心に落ち
ていこう。
生のなんと栄光に満ちたものであることか!
生命宇宙の真っ只中の光明の世界の中心に私はいる!
お互いのなかの佛を拝み日々暮らすことのできる仏国土とし、
お互いのなかの神性を日々讃仰しあえる世界が訪れんことを!
伴 尚志
これは、自身と同じように隣人を愛せよという聖書の言葉と同じ。
自身と同じようにしか隣人を愛することはできないとも言える。
自身に冷たければ隣人にも冷たい。
自身に差別をすれば隣人にも差別をしているのである。
隣人を軽蔑しているものは自身を軽蔑しているものである。
軽蔑が悪いわけではない
差別をすることが悪いわけではない
冷たくすることが悪いわけではない
自身の内であるそれに対して
軽蔑し冷たくし差別をしているのである
自分自身の内側の陰翳として捉えなければならない
そして、その陰翳というものは実は、
自分自身を彫塑していく上での手法
建物で言えば光と影の作成方法のようなものである。
小乗即大乗
小乗自若愚昧心 大乗自若驕慢心
小乗求自己 大乗表自己
自己即佛 般若波羅蜜多
自己即他 般若波羅蜜多
自他即通 真如一体
■超訳 讃仰 般若波羅蜜多心経
私が観音菩薩だったころに、般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)を深く行(ぎょ
う)じた時、五蘊(ごうん)〔注:色受想行識〕がすべて空であるということを
はっきりと覚ることができ、すべての苦しみや災厄から解き放たれることができ
ました。
舎利子(しゃりし)よ、色(しき)〔注:見ることができるもの〕に空(くう)
でないものはなく、空に色でないものはありません。色はすなわち空であり、空
はすなわち色なのです。受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)もまた同
じことです。
舎利子よ、諸法が空相を呈しているわけですから、生まれることも滅ぶこともそ
もそもなく、垢(けが)れることも浄(きよ)められることもそもそもなく、増
えることも減ることもそもそもありません。ですから空の中に色はそもそもな
く、受想行識もそもそもないのです。眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜっ)心
(しん)意(い)もそもそもなく、色(しき)声(しょう)香(こう)味(み)
触(そく)法(ほう)もそもそもありません。見ることができる世界というもの
もそもそもなく、意識することができる世界というものもそもそもありません。
無明というものもそもそもないのですから、無明がなくなるということもそもそ
もありません。また、老いや死というものもそもそもないのですから、老いや死
がなくなるということもそもそもありません。苦(く)集(しゅう)滅(めつ)
道(どう)〔注:仏教の根本教理を示す語。「苦」は生・老・病・死の苦しみ、
「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境
地、「道」は悟りの境地に達する修行〕などそもそもないのです。
知ることができるものもそもそもないのですから、得ることができるものもそも
そもありません。ですからこれによって得るところのものというものもそもそも
ないのです。
私である菩提薩埵 (ぼだいさった)〔注:道を求めて修業している自己の本
体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、心にこだわりがなくなります。心
にこだわりがなくなることによって、恐怖がなくなり、一切の混乱した夢想から
遠く離れることができます。ですから、涅槃〔注:死生や善悪の判断を超えたこ
の世界の実相そのもの:相対界ではない絶対界〕を自由に探求することができる
ようになります。
私である過去現在未来の諸仏〔注:時代を超えて変わりなく存在する自分自身の
本体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、あーのくたーらーさんみゃくさ
んぼーだいを得ること〔注:時空を超えた世界ー大いなる生命そのものと一体と
なり、その光を帯びること〕ができます。
ですから般若波羅蜜多をよく知りなさい。ここに大いなる神呪、ここに大いなる
明呪、ここに無上の呪、ここに並ぶもののない呪があります。一切の苦しみを取
り除くことができます。本当です、嘘ではありません。
それではその般若波羅蜜多への呪〔注:じゅ:のりと〕をお伝えしましょう。今
その呪を唱えます。
ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー〔注:手放しなさい:手放しなさい:
すべてを手放しなさい〕はらそーぎゃーてーぼーじーそわかー〔注:すべてを手
放して 存在そのものでいなさい〕
■般若波羅蜜多とは
時空を超えた存在そのもの。仏性の本体であり彼岸である。真実の体験であり、
人生の中でただ一つだけ体験しなければならない境地、場所である。般若波羅蜜
多を体験し、自覚し、意識し続けそれを表現するように努力すること。そこに人
生の本懐がある。
般若波羅蜜多はすべての存在の中にあり、もちろんすべての人々の中にある。生
を支えているエネルギーであり、生命の喜びそのものでもある。驚くべきことに
人々はそれが自分自身―自分の本体であることを知らない。
苦集滅道は、迷いの様相であり、迷いから覚める道筋である。けれどもそれは本
体ではない。なぜなら人は、その存在そのものがすでに覚りの中にあるのだか
ら。
般若波羅蜜多に気がつくということは、このことに気がつくということである。
一瞬の隙もなく一ミリの隙間もなく般若波羅蜜多は私を充たし世界を充たし続け
ている。
気を許すと!!! 意識は般若波羅蜜多の中に落ちていく。
深い呼吸とともにしがみついている想念を解き放ち、般若波羅蜜多の中心に落ち
ていこう。
生のなんと栄光に満ちたものであることか!
生命宇宙の真っ只中の光明の世界の中心に私はいる!
お互いのなかの佛を拝み日々暮らすことのできる仏国土とし、
お互いのなかの神性を日々讃仰しあえる世界が訪れんことを!
伴 尚志
■コラム 師言:エゴイズム考
エゴイズムを悪く言ってはいけません。
エゴから人は始まるのです。
自分を愛する勇気、そこから意識としての生命が誕生します。
エゴのない人はまだ生まれていないか生きながら死んでいる人です。
エゴからはじまり、人は、エゴを深く探求して自らを深化し拡大させていきま
す。
そのことが精神の成長なのです。その成長を妨げてはいけません。
それを通じて人は、自分が世界の中で孤立して存在しているのではないというこ
とを知り、人と人とが結びつくことによって世界が構成されているということを
知ります。
エゴの深化は窮まることがありません。
ある民族はエゴを深化させることで自他の区別を設定し、その範囲内に自分たち
の存続をかけ、その民族性を設定しました。
ある民族はエゴを深化させて底が割れ、エゴがある間は成長過程であり、エゴの
枠組みが壊れた時、死がそこにあることを知りました。そこが世界の淵であると
感じたわけです。
またある民族はエゴの混沌の先に生死の超越があり、
生死を超越することで宇宙がまことに光り輝く一体の
生命そのものであることを知りました。
歓喜の踊りはそこで踊られ、生命の祭が始まりました。
美しい美しい民族の物語が語り継がれることになりました。
エゴがある人は大切な成長過程にあります。
自分の中にあるエゴを育てて大きな大きな樹にしなさい。
誰でもその下で憩うことができるような大きな大きな人になりなさい。
師はそう言われて去っていきました。
私は魂に刻むべくその言をここに残しておこうと思います。
讃仰 一言真人 やんぬるかな 役の行者 小角
伴 尚志 拝
小乗即大乗
小乗自若愚昧心 大乗自若驕慢心
小乗求自己 大乗表自己
自己即仏 般若波羅蜜多
自己即他 般若波羅蜜多
自他即通 真如一体
伴 尚志
エゴイズムを悪く言ってはいけません。
エゴから人は始まるのです。
自分を愛する勇気、そこから意識としての生命が誕生します。
エゴのない人はまだ生まれていないか生きながら死んでいる人です。
エゴからはじまり、人は、エゴを深く探求して自らを深化し拡大させていきま
す。
そのことが精神の成長なのです。その成長を妨げてはいけません。
それを通じて人は、自分が世界の中で孤立して存在しているのではないというこ
とを知り、人と人とが結びつくことによって世界が構成されているということを
知ります。
エゴの深化は窮まることがありません。
ある民族はエゴを深化させることで自他の区別を設定し、その範囲内に自分たち
の存続をかけ、その民族性を設定しました。
ある民族はエゴを深化させて底が割れ、エゴがある間は成長過程であり、エゴの
枠組みが壊れた時、死がそこにあることを知りました。そこが世界の淵であると
感じたわけです。
またある民族はエゴの混沌の先に生死の超越があり、
生死を超越することで宇宙がまことに光り輝く一体の
生命そのものであることを知りました。
歓喜の踊りはそこで踊られ、生命の祭が始まりました。
美しい美しい民族の物語が語り継がれることになりました。
エゴがある人は大切な成長過程にあります。
自分の中にあるエゴを育てて大きな大きな樹にしなさい。
誰でもその下で憩うことができるような大きな大きな人になりなさい。
師はそう言われて去っていきました。
私は魂に刻むべくその言をここに残しておこうと思います。
讃仰 一言真人 やんぬるかな 役の行者 小角
伴 尚志 拝
小乗即大乗
小乗自若愚昧心 大乗自若驕慢心
小乗求自己 大乗表自己
自己即仏 般若波羅蜜多
自己即他 般若波羅蜜多
自他即通 真如一体
伴 尚志
■コラム 師言:生きる
先生は言われました
生きることは祈ることです。
祈ることの本質は、自らを捨てきるということです。
祈りを通じてすべてを捨てきったところに祝福があります。
この祝福に感謝し歓喜し踊ることが生きるということそのものです。
生に感謝できないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
生に歓喜し踊ることができないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
ひれ伏し祈ることを通じてその傲慢さを手放すのです。
そしてまた、始まりの場所にやってきなさい。
はなはだ孤独な美の美たる場所、
光り輝く生命の、歓喜の中心に。
伴 尚志
先生は言われました
生きることは祈ることです。
祈ることの本質は、自らを捨てきるということです。
祈りを通じてすべてを捨てきったところに祝福があります。
この祝福に感謝し歓喜し踊ることが生きるということそのものです。
生に感謝できないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
生に歓喜し踊ることができないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
ひれ伏し祈ることを通じてその傲慢さを手放すのです。
そしてまた、始まりの場所にやってきなさい。
はなはだ孤独な美の美たる場所、
光り輝く生命の、歓喜の中心に。
伴 尚志
■コラム 詩人の魂
大学時代の友に聞いた「おまえは何故詩を書くのを止めたんだ。おもしろかった
のに」と。友は答えた。「おれは書き物に興味がある訳じゃないんだ。俺が本当
に興味があったのは詩人の魂なんだよ。詩が湧き出てくるその泉の根源に触れた
かったんだ。書かれた言葉や作られた造形の美しさには興味がない。そこにあ
る、触れれば命が輝きでて止まない、そのみずみずしい心に触れたかった。だか
ら俺は詩を書いていた。」
私は聞いた「じゃ、何故止めたの?」
「だって、書くということは作るということに近くて、その感じる根源から少し
離れるんだよな。俺はそこに至った。そして俺はその根源の場所にいたいだけな
んだ。だからもう言葉はいらない。それについて語り出すことがそもそも、その
場所から少し離れることだから。もう書く必要はないんだ。」
「おまえはそれを手に入れてその場所にいるってことか?詩人の魂、詩が湧き出
て言葉になる以前の場所、そこにおまえはいるということなのか」
「そうだ。誰に対して説明する必要などない。存在とともに踊る歓喜の中心に俺
はいる。」
私は証明してくれと、論証してくれと懇願したが彼は頑として受け入れなかっ
た。ただ一言「求め続けろよお前も」といい、手を振って去っていった。
なぜ、証明もなしに彼は根源に触れていると言えるのだろう。傲慢なのではない
だろうか。なぜ、言葉で表現することを拒んだのだろう。表現したものしか聞き
取ることはできないのに。
けれども確かに思う。彼こそが本当の詩人なのだと。無言の詩人なのだと。詩人
の魂そのものなのだと。
伴 尚志
大学時代の友に聞いた「おまえは何故詩を書くのを止めたんだ。おもしろかった
のに」と。友は答えた。「おれは書き物に興味がある訳じゃないんだ。俺が本当
に興味があったのは詩人の魂なんだよ。詩が湧き出てくるその泉の根源に触れた
かったんだ。書かれた言葉や作られた造形の美しさには興味がない。そこにあ
る、触れれば命が輝きでて止まない、そのみずみずしい心に触れたかった。だか
ら俺は詩を書いていた。」
私は聞いた「じゃ、何故止めたの?」
「だって、書くということは作るということに近くて、その感じる根源から少し
離れるんだよな。俺はそこに至った。そして俺はその根源の場所にいたいだけな
んだ。だからもう言葉はいらない。それについて語り出すことがそもそも、その
場所から少し離れることだから。もう書く必要はないんだ。」
「おまえはそれを手に入れてその場所にいるってことか?詩人の魂、詩が湧き出
て言葉になる以前の場所、そこにおまえはいるということなのか」
「そうだ。誰に対して説明する必要などない。存在とともに踊る歓喜の中心に俺
はいる。」
私は証明してくれと、論証してくれと懇願したが彼は頑として受け入れなかっ
た。ただ一言「求め続けろよお前も」といい、手を振って去っていった。
なぜ、証明もなしに彼は根源に触れていると言えるのだろう。傲慢なのではない
だろうか。なぜ、言葉で表現することを拒んだのだろう。表現したものしか聞き
取ることはできないのに。
けれども確かに思う。彼こそが本当の詩人なのだと。無言の詩人なのだと。詩人
の魂そのものなのだと。
伴 尚志
■統合治療の一角として
東洋医学は本来統合医療であって、その裾野の底辺は生活指導すなわち生活習慣
の教育にあり、徐々にレベルを上げていって、食事の指導、心の指導となり、最
後に富士山の十合目あたりで初めて治療行為が出てくるものです。治療行為が東
洋医学のごく一部に過ぎないということはたいへん大切なことです。このため東
洋医学の本質は未病を治することにあると言われているわけです。
東洋医学では総合的な視点で人間の生活を把えようとします。また、人間への理
解をさらに深め、心身の構造についてもひとつの見解をもつに至っています。そ
れは、単に目に見える骨格や血脉だけでのことではありません。全身の内外を結
ぶ生命力の流れとしての経脉を据え、流れの行き着く先―溜まり場として絡脉が
奇経を据え、生命力の出入する門戸として経穴を置いています。さらにその上、
魂神意智魄精志という五神が五気を結聚させて五臓を造り、その力がを身体の基
本とするという神秘的思想をも包含しているのです。
東洋医学はこのような、ゆるやかで広がりのある生命構造の概念を持っているわ
けです。
東洋医学では心身は一元のものであると捉えられています。精神的な問題が身体
に影響を及ぼし、身体の問題が精神に影響を及ぼすというように、相互に密接な
関係を持つものとして捉えられています。
そしてこの生命の状態―心身の揺らぎは四診によって非侵襲的に把握されます。
ここには繊細な技術と論理的な思想が必要となります。東洋医学ではこの揺らぎ
を調えることができます。これが未病の状態の生命力を調えるとともに、すでに
症状が出ている場合でもそれを調え治療する技術となっています。
東洋医学の身体観に基づいた四診を、現代の批判的精神によって磨いていくこ
と。これが一元流鍼灸術に課せられている課題であると考えています。このよう
な形でいわゆる統合医療の中核を担う思想体系として、東洋医学は再生されるで
しょう。
伴 尚志
東洋医学は本来統合医療であって、その裾野の底辺は生活指導すなわち生活習慣
の教育にあり、徐々にレベルを上げていって、食事の指導、心の指導となり、最
後に富士山の十合目あたりで初めて治療行為が出てくるものです。治療行為が東
洋医学のごく一部に過ぎないということはたいへん大切なことです。このため東
洋医学の本質は未病を治することにあると言われているわけです。
東洋医学では総合的な視点で人間の生活を把えようとします。また、人間への理
解をさらに深め、心身の構造についてもひとつの見解をもつに至っています。そ
れは、単に目に見える骨格や血脉だけでのことではありません。全身の内外を結
ぶ生命力の流れとしての経脉を据え、流れの行き着く先―溜まり場として絡脉が
奇経を据え、生命力の出入する門戸として経穴を置いています。さらにその上、
魂神意智魄精志という五神が五気を結聚させて五臓を造り、その力がを身体の基
本とするという神秘的思想をも包含しているのです。
東洋医学はこのような、ゆるやかで広がりのある生命構造の概念を持っているわ
けです。
東洋医学では心身は一元のものであると捉えられています。精神的な問題が身体
に影響を及ぼし、身体の問題が精神に影響を及ぼすというように、相互に密接な
関係を持つものとして捉えられています。
そしてこの生命の状態―心身の揺らぎは四診によって非侵襲的に把握されます。
ここには繊細な技術と論理的な思想が必要となります。東洋医学ではこの揺らぎ
を調えることができます。これが未病の状態の生命力を調えるとともに、すでに
症状が出ている場合でもそれを調え治療する技術となっています。
東洋医学の身体観に基づいた四診を、現代の批判的精神によって磨いていくこ
と。これが一元流鍼灸術に課せられている課題であると考えています。このよう
な形でいわゆる統合医療の中核を担う思想体系として、東洋医学は再生されるで
しょう。
伴 尚志