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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

病むとは乱れること

病むというのは乱れるということです。乱れるということの大きな原因には生命力がその統一性を失うことがあります。そしてその統一性の喪失の根本には生命力の虚損が潜んでいることが多いものです。

もちろん、その生命力の虚損の奥には、先天的な生命力の弱さ、暴飲暴食過労、心の使い方の間違いによって自ら招いた生命力の乱れというものもあるわけです。

治療をしていく際に観ていく必要があるものはそのような生命力のあり方の全体性であるということは言うまでもありません。

.....疾病について

人の身体は、自然にバランスが取られることによってその生理的な活動を営むことができるようになっています。これをホメオスタシス(生理的な均衡)とも表現します。一般的に疾病と呼ばれているものは、身体の均衡が劫かされている状態のことを意味しています。

身体の均衡が破られている状態には、より健全な心身を獲得するために、「固定化している現状を手放している状況が表面に現れている」生理的な不安定状態のものがあります。

また、健全な心身を劫かしてその均衡を破壊し、時には生命の危機にまで至る、非生理的な不安定状態のもの、すなわち病理的なものがあります。

このあたりについてのより大きな生成病死については、テキストの一元のところで詳細に述べられていますので、まずはそちらをお読みください。ここではそのうちの病の内容について述べています。

この両者は同じように心身の均衡が破られているため、ふだん元気に生活を営んでいる状態とは異なる、なんらかの違和感が身体に表れてきます。


病者は身体に違和感があることから治療を求めます。素人ですからこれはどうしようもないことです。けれども治療家の側も患者の訴える症状に振り回されて、この両者を同じように「疾病」とし、否定して解消するべき課題としてしまうと、ここに非常に大きな問題を生ずることとなります。

この問題の小さなところでは、根本の問題を理解することができないまま対症療法が積み重ねられることによって、実はその患者さんの生命力が損傷され、寿命を短くしている可能性があるというところにあります。またこの問題の大きなところでは、歴史的に蓄積されたと言われている東洋医学の治療技術が、実は単に対症療法の積み重ねにすぎないものとして把握される可能性があるというところにあります。

もともとは人間をいかに理解しいかに生きるかという人間学として構想された東洋医学を換骨奪胎し、東洋医学の積み重ねを単なる大いなる人体実験として捉えて、対症療法的な治療技術を秘伝と呼んで盗み集めようとする人々が出てくるわけです。


けれども東洋医学の実に面白いところは、この対症療法という「民間療法的なものを積み重ねてもその東洋医学的な人間観が構成されない」ということろにあります。すなわち古代、東洋医学を作り上げた人々は、単に対症療法を蓄積しただけではなかったということです。彼らは、より深く、人間をどのように捉えるべきか、人間とはいかなるものであるのかといった、その生理的な状況・病理的な状況を、生きて働いている人間のありのままの状態を観察することを通じて把握しようと試みてきました。そのような姿勢を保持することによって初めて、東洋医学の人間観ができあがっていったわけです。


この東洋医学の人間観を築き上げていく際に使用した基本的な概念は、天人相応に基づく―人身は一つの小天地であるという発想に基づく―陰陽五行理論でした。この発想を積み重ねていくことから生まれたもっとも大きな成果が、人間の生理的な状態についてまとめ、病理とは何かを明らかにしている臓腑経絡学説です。これを通じて東洋医学は、人間の生命がどのようにして養われているのか、なぜ病むのかということを明らかにしました。


生命とはいかなるものであるのかという問いこそが、東洋医学を深化発展させる鍵となったわけです。

そして、病を治療する方法のもっとも広く深いものとしてまずその人間の生き様としての養生があり、次に鍼灸があり、湯液があり、最後に治せないほど深い病があると古人は考えました。

そしてまたここにおいて疾病の二重性すなわち生命を維持していくために一時的な矛盾として起こる疾病と、生命が毀損されている状態としての疾病とがあるということが明らかにされていったわけです。


ですから、現代において東洋医学と称して対症療法のみを行って平然としていられる人々―漢方薬や鍼灸という道具を使用しながら、古人の身体観に則ることなしに、症状を目標として治療を行っている人々―は、この古人の姿勢を裏切るものであると言えます。伝統医学を自称しながら伝統を裏切っているわけです。

東洋医学は単なる病気治しの医学ではありません。その人生を応援するための養生術をその中核としている人間学です。これこそが、東洋医学がまさに「未病を治す医学」と呼ばれているゆえんであるわけです。
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肝木の身体観をアップしました。ちょっと長いので、ここでは、アップしているページだけ、紹介させていただきます。17ページあります。リンクは紹介ページに飛びます。そこをクリックすると、PDFファイルを読むことができます。
肝木を中心とした身体観は、一元流鍼灸術独自のものです。他の四臟を傷つける肝気ではなく、生命力を養い励ます基本となる肝木の機能について述べています。現代に誕生した新しい肝木の蔵象と言えるものです。

ライフ・ステージ考


人が生まれてから死ぬまでの間にある、人生の結節点―イベントをライフステージと呼んでいます。恋愛や結婚や出産というイベントのほかに、事故・大病・肉親などの世話・世話からの解放・仕事関係の問題とその解決など、個人々々人それぞれのイベントが起こります。その起こっているイベントは外的には同じように見えても、その生命の器に従ってさまざまな影響をその個人に与えています。生命力を損傷して大病をもたらすような悪影響を与える場合もありますし、逆にイベントを乗り越えることによってさらに強靱な身心を獲得させる刺激となることもあります。

弁証論治を行う上で大切なことの中に、このライフ・ステージのとらえ方があります。イベントの前後で体調の変化があったのかなかったのか、あったとすればそれはいい変化となっているのか悪い変化となっているのか、というとらえ方です。


ライフステージにおいて目立たないけれども大きな問題を引き起こすものの中に風邪の内陥があります。ご本人としては風邪のような症状を記憶していない場合もありますので判然としない場合も多いものです。そのため、問診をしても明らかには出てきにくい問題となっています。風邪の内陥がどのように問診として出てくるかというと、ある時期から疲れやすくなったり、体温が低くなって寒がりになったように感じたり、背中が寒くなったり、風邪が治りにくく感じたり、風邪を引きやすくなったり、消化状態が悪くなったり、原因不明の痛みが出たりします。切診としては、風邪の内陥が浅い場合は風門肺兪の発汗や太淵列缺の発汗として表われています。また深い場合は、風門肺兪の削げ落ちとなって出ている場合があります。慢性化している場合には気虚を深めさせる原因となり、列缺の削げ落ちとして出ている場合もあります。風邪の内陥は「痺証」として症状が表面化する以前の身体の状態であると考えています。


マイナスのイベントが同時期に重なって起こることがあり、それが大病のきっかけとなります。一つのイベントであれば跳ね返してさらに強靱な自己の身心を獲得することができても、いくつも重なると乗り越えることができずに身心を本当の意味で損傷することとなるわけです。弁証論治を行う上ではこの見極めが非常に大切になります。


治療をしていく際には、現在の身心状況となった段階からさかのぼってそのライフステージを調べ、問題が起こる以前の状態にまで身心を回復させるということが一つの目標となります。このことが、生命力が一段高い状態に回復すると表現していることの中身となります。


全身の生命力の問題について一元流鍼灸術では頻繁に語っています。人間が生きるか死ぬか、その事がもっとも深い問題であると考えているためです。

しかし、人間の病というものは、その生死とは深く関係しなくとも、怪我をすれば痛み、できもができると不安になるものです。

いちおう、小さな怪我やできものなどは、小さいものですから基本的に陰陽の観点で見分けていくようにします。生命力がそこに集まるということは(一時的には)陽気が強くなるということを意味しています。陽気が強くなると熱を持ちます。陽気が強くなりすぎると欝滞して痛みとなります。全体であれ部分であれ、陰陽のバランスが取れていることが、その規模としてはもっとも生命力が充実している状態なのですが、怪我などがあるとこのような形で修復しようと身体はするわけです。修復力が過剰となると、痛みがきつくなりますけれども、怪我は速く治ります。修復力が不足していると、痛みはきつくありませんが、怪我の治りも非常に遅くなります。またあまりに修復力が不足している場合には、痛みも感じないということになります。老人の骨折などがこの代表的な例です。まぁ、老人といってもその生命力の充実度にはさまざまなレベルがあり個人差も大きいわけですけれども。


規模が大きく構造体をとっているものに対しては、このような陰陽という観点だけではなく、五行の観点を取り入れるとより説明がしやすくなります。

たとえば、子宮筋腫などは表面から触ると大きくなったり小さくなったりしているわけですけれども、病院にいってレントゲンなどで診てもらうと大きさは変わっていないと言われます。

鍼灸師が診ているものは、その中心となるできものだけではなく、それを取り巻いている生命体です。この生命は、修復作用が強くなると痛みを出し、弱くなると痛みが消え、さらに弱くなると冷えて動きが悪くなってきます。筋腫などの場合は生命力の弱りから出ているものなので、痛みが出ることはあまりありません。痛みが強いということは、それだけ隣接部位を侵襲していると考えられます。

さて、この中心にあるものを腎の位置、それを取り巻いているものを肝の位置などとして、筋腫そのものを一元の場としてみていくと、その修復状況がどのレベルのものであるかということが見て取りやすくなります。〔注:この肝腎というのは、場の深さの表現であって、五臓の肝腎とは直接的には関係ありません〕

お医者さんからは変化ないといわれている部分は要するに芯の部分、腎の位置となります。この芯が取れてこないと本当には治って行かない。けれどもその芯を取るためには、その部位に生命力が集まる必要があるわけですね。ただ、この場合、生命力が集まるということは、流れとしての生命力が集まるということになります。カレーを作るときに玉ができる、その玉を溶かすためにかき混ぜる感じです。そのようにしないと芯が溶けてこない。

鍼灸などをして筋腫の大きさが変わるというときの第一段階は、この流れをよくして玉の表面に集まっている有象無象を流し取っていくということです。そして、この状態を継続させることによって、筋腫は太りにくくなり、最後には流れる生命の渦の中に溶かされていくことになると期待するわけです。

カレーの玉などの場合も、あまりにも溶けにくいときにはお玉などでそれをつぶすようにします。同じように筋腫などがある場合にもそこに鍼をして潰れやすくすることが必要な場合もあるわけです。

まぁ、玉があまりにも大きいときは、かっこ悪いので取って捨ててしまいます。これなどはいわゆる手術して筋腫を除去するということにあたるわけです。

局所治療と全身の治療

勉強会で話題になったことに、局所治療と全身の治療をどのように考え
るのかということがありました。

一元流鍼灸術では、局所治療を否定しないと思うが、いかがか、といっ
た論が、経絡治療との関連で語られました。


経絡治療においては、本治法という枠組みで一つ完成された理論を構成
し、それにしたがって治療穴まで決定されます。つまり、気一元の身体
に対して、経絡治療は本治法と名づけたこの論理で対応できると主張し
ているわけです。

ところが不思議なことに、彼らは本治法で対応できないことを標治法と
称して局所治療を行っています。これは、身体を気一元のものとして考
えていないことの表明であって、本治法を行う身体と標治法を行う身体
とは別の身体であるかのような考え方が内包されているものです。

これは、彼らが称する本治法というものが、身体を的確に捉えていない
ことによっておこる混乱です。もし誠実に論理的に思考しようとするの
であれば、そのいわゆる本治法というものを、身体状況をより的確に表
現できるようなものへと進化させていかなければならなかったはずです。

ところが、経絡治療家はその数十年の歴史の中で、その変革を怠り、本
治法で治りきらない部分を標治法で取る、標治法を効かせるために本治
法を行うなどというごまかしを延々と続けてきたのでした。


これに対して一元流鍼灸術では、本治法以外の治法はないということを
宣言しております。局所の問題も気一元の身体を理解していく中で明確
に位置づけられ治療されていきます。一元流鍼灸術の本治法は、非常に
柔軟にできています。それは患者さんの身体をできるだけ正確に記述す
るということから発しています。


たとえば五十肩の場合はどうなるでしょうか。五十肩の場合、腎気の損
耗がその背景に存在するということはかなり有名なことです。これを経
絡治療では、腎虚あたりの本治法を施した後、理論とは関係なく肩を触っ
ていくことをします。

それに対して一元流鍼灸術では、局所と全体との関連を考えることをま
づ第一とします。つまり、腎気の虚損が五十肩を起こさしめた主たる要
因であると考える場合には、その腎虚によって、肩が温養されにくくなっ
ているために(五十肩の局所は非常に冷えていることが多いものです)
肩に機能的な損傷が起こっているのである、とそんな風に考えるわけで
す。肩に損傷が起こるということは、陽気の不足だけではなく、事務仕
事などで肩を使いすぎたり、運動不足などで肩の筋肉がやせている(気
血ともに虚している)といった状況がそこに同時に存在している可能性
が考えられます。

それらの可能性を整理して、より効果が上がりそうな方向から治療を組
み立てていくわけです。

より効果が上がりそうな方向とは、局所の問題と全身の問題がどの程度
関連しており、どちらにどの程度重心があるかということをよく考え、
現在の患者さんの状況にしたがって、治療順序を定めて治療していくと
いうことを意味しています。

私の場合は、経穴の反応の出方を診、なぜそのような経穴反応が出てい
るのかということを考えて、反応の出ている経穴の中から治療穴を選択
していきますけれども、それ以外の方法論もあるだろうなぁとも思いま
す。まぁ、このあたりは、人それぞれということになります。要は、そ
の身体の全貌をきちんと把握できているかどうかというところが一元流
鍼灸術ではもっとも問題とされるところであるわけです。


一元流では現在あまり局所治療の問題を言いません。その理由は全身状態という場の中に手足頭などの局所が存在していると考えているためです。

このようなことを書くと当たり前じゃんと思われるかもしれませんが、ちょっと病院を覗いてみてください。内科や外科や皮膚科や眼科、歯科や耳鼻咽喉科などがあるではありませんか。

そう。病院の先生はこの当たり前の考え方をあまり重視していないんです。どうしてかというと、それぞれの専門科目で治療技術がそれぞれ発展してきたからです。そしてその理由は、患者さんの痛みや違和感などの訴えがその局所に限定して表現されているからです。

患者さんは素人ですから局所の問題に着目するのは当然と言えます。それに即応しようとするお医者さんたちも医学も、局所の問題の解決に血道を上げているわけです。これが現状です。鍼灸師さんなんかでも「治った」ことを強調する先生はそのように患者さんを見てそのように治療しているわけです。

痛みが取れても治ったのではない。鼻水が止まっても治ったのではない。痒みが取れても治ったのではない。生命をまるごと一つのものとして観るとき、実は治るということは有り得ないんですね。治るという言い方はおかしい。生命力が向上して新たなステージで生きられる状態となった。生活の質が高まった。こう言わなければならない。

このように考えてみるとよく理解できると思うのですが、全身状態をよく見てそれを高めることを目標とする治療においては、患者さんの生活態度、治療への取り組みが非常に重要となるわけです。治療家はあるときはその生命力を応援し、あるときは滞りを取り払いながら、患者さんの生活において焦点となるべきところを定めていきます。そうして、患者さん自身の生命力が身体を立て直しやすいように調えていくわけです。
生命の弁証論治を立てて人間理解をしていくことを通じて、
患者さんの生命状況をある程度理解することができました。

次の段階では、その生命状況を変容させるために、
患者さんにアプローチすることになります。

実は、患者さんにアプローチするための方法は、
非常にたくさんあることに気づかれる方もおられるでしょう。

生活指導・食事指導などに個性を表す方もおられるでしょう。
また、西洋医学的な治療も当然ここに選択肢として入ります。
各種の手技療法も生命状況転換のための大きな方法として考慮に入れることができます。
潜在意識に語りかけるなどの心理学的な方法を選択される方もおられるでしょう。

私はそれらの療法を否定するものではまったくありません。

けれども東洋医学を行ずる鍼灸師であり、かつ
生命の弁証論治も、その東洋医学的な手法によって情報を集め整理しているため、
ここでは鍼灸を道具として患者さんの生命状況を変容させる、
ということについて考えていくこととします。


鍼灸による治療の目標は、一言で言えば気の厚薄を調えるということになります。
そしてその目標のために行うことは、基本的には経穴へのアプローチです。
ですから、鍼灸における治療処置の目標は、経穴の変容を起こすことであるということになります。

一点の経穴を変容させることを通じて、
その変容がどのように全身に及んでいるのかということを
ふたたび四診を用いて観察し、
生命の弁証論治で得た患者さんの生命状況の把握と両睨みしながら、その変化の情報を蓄積していく。
これが、これからの鍼灸医学で求められていくことであると、私は考えています。

治療指針というのは、弁証論治にしたがって、どのように治療を組
み立てるのかという方針を書きます。具体的な経穴はその後の段階
になり、実際の治療として記述されることとなります。

実際の治療にはさまざまアイデアがあります。

・鍼灸に関係する古来からの無数の流派のものを利用する
・現代中医学の概念を応用する
・湯液関係の治療法を勉強してそれを鍼灸に応用する
・手技やカイロや湯液や西洋医学を、治療指針に従いながら使ってい

・民間療法を試してみて弁証論治に対する効果判定を行ってその民間
療法の東洋医学的な位置づけを行う
・生活習慣の転換のアドバイスをする(養生指導)

などがこれにあたります。

書き上げた弁証論治に沿って、もう一度 気一元の観点に立ちなおし、患者さんの身体状況を把握しなおすことによって、これからの治療指針が定まっていくわけです。ここには、治療の頻度と、治療効果のあがり方への見込みが入ってくることもあります。


実際の鍼灸における治療指針を定めるには、治療の順番を決めるということ、理気をするのか補気をするのか、納めて終えるのか散じて終えるのかといった大枠を考えるということでもあります。

治療指針は、主訴と密着していくものとなります。立てた弁証と論治によって、どのようにその主訴が改善されていくのかという道筋を想定しながら記載していくことになります。

患者さんの身体に異変が生じたとき、その異変に対して直接的に対処しようとするものを表の治療と呼びます。それは、症状と格闘しなんとかその症状を取り去ろうとするものです。それに対して裏の治療とは、患者さんの身体にその症状を現すに致った体質の変遷や状況の変化に着目し、その根本的な状態を変えていこうとするものです。

弁証論治は、この両方に用いることができますけれども、時系列を追って患者さんの状態の変化を把握し、病因病理を考えて治療する一元流鍼灸術の方法論は、その基本において裏の治療に必要不可欠なものであると言えます。

表の治療の代表的なものは、民間療法や西洋医学ということになるでしょう。これは生命力そのものを見つめる姿勢に欠落しているため、症状を治めるためには非常に効果が上がったとしても、その体質を向上させるためには無力であるばかりか、かえって生命力を損傷させる事態を呼び起こすこともあります。

小手先の技術を磨くことを恐れる理由は、表の治療において効果を発する能力が向上する反面、生命力そのものを損傷させる能力も高まっていくためです。生命に対する理解を伴わない技術というものが、人身に対して害をなすことを恐れます。

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民間療法的鍼灸から治療的鍼灸へ


孫思邈の《備急千金要方》を持ち出すまでもなく、東洋医学の歴史の積み重ねは、その基盤として民間療法すなわち何の症状にたいして何の薬方を用いたら効果があった、あるいはどの経穴を使ったら効果があったという経験の積み重ねからなっています。

その経験の積み重ねをまず最初に陰陽五行の観点からゆるやかにまとめあげたものが《黄帝内経》であると言えるでしょう。《黄帝内経》が作成された当時は同じように諸学を収集して陰陽五行の観点からまとめあげた《淮南子》もまた作成されています。諸子百家を淡々と集め、それを当時の宇宙論である陰陽五行の観点でまとめ直して眺めを良くするという作業が、黄老道すなわち道を求める学者たちの基本的な仕事となっていたのでしょう。

《黄帝内経》以降、ふたたび民間療法的な対症療法に墮していた東洋医学を弁証論治のもとに掬(すく)い出した偉大な人物こそが張仲景であり、それを継いで体質にしたがって処方を用いることを説いたのが金元の四大家とそれを継ぐ東洋医学の潮流でした。いわば民間療法的な薬方や経穴の使用方法を改め、より効果が上がるように、症状だけでなく患者さんの体質を基にした治療法を考えるという、弁証論治の伝統が生まれたわけです。

薬方は同じでも経穴は同じでも、それを使用するための道筋がまったく異なる。それが東洋医学の眼目である弁証論治の有様です。それぞれの人間の生命状況をみて処置を決めていく治療技術が構築されていったわけです。

一元流鍼灸術はこの伝統にしたがっています。


四診を行い経穴をよく観察して弁証論治を作り上げ、経穴の変化をよく観察しながら治療を行う。このような臨床を積み重ねていって気がつくことは、患者さんが個別具体的な身体を持っているということです。それぞれの体質に基づいたそれぞれの生活習慣にのっとった生活の中で、個々の患者さんはそれぞれに特有の四診の状況および経穴反応を示しています。

そこで一元流鍼灸術では、四診に基づいて弁証論治を立て、体表観察に基づいて治療法を決するという基本的な位置を定めました。

《一元流鍼灸術の門》の〈実戦編〉において、〈経穴を見つけるための経穴学〉を述べつつ、「生きて働いているすなわち反応が出ている経穴を使用すること」「生きて働いている反応を見つけるために、特効穴や穴性学を参考にしながら体表観察を行うこと」「経穴の出方の理由をよく考えて処置を行うこと」を提示しているのはこのためです。

そのような治療を継続していると、「四診によって把握された身体以前に経穴があるわけではない」ということが理解できるようになります。経穴の反応は患者さんの体質によって変化するものであり、現れている症状とその経穴の効能とが直接そのまま結びつくわけではないのです。

患者さんの身体の状態を把握する弁証論治にしたがって、生きて働いている経穴を探り、その反応が出ている意味を考察し選別して処置することが大切なわけです。民間療法的な経穴学あるいは穴性学をいかに探求し積み重ねていっても、実際に患者さんを目の前にすると使うことができない理由はここにあるわけです。


このような経過から、「経穴診を含んだ四診に基づいて弁証論治を作成し」、「気一元の観点に立って眺めた生命地図を参考にし」ながら、ふたたび「経穴診を行いながら施術を組み立てていく」という、一元流鍼灸術の方法が構築されてきました。

これは、目の前にいる患者さんにとっての個別の経穴学を構築していこうとする試みともなっていくことでしょう。


東洋医学は、先秦時代に誕生し、漢代にまとめられ、人間学、養生医学として現代に伝えられています。天地を一つの器とし、人身を一小天地と考えた天人相応の概念を基礎とし、それをよりよく理解するために陰陽五行の方法を古人は生み出しました。臓腑経絡学は、あるがままの生命である「一」天人相応の「一」を実戦的に表現した、核となる身体観となっています。

天地を「一」とし、人を小さな天地である「一」とするという発想が正しいか否かということは検証されなければなりません。

これは東洋思想の基盤である「体験」から出ています。

この「一」の発想は、古くは天文学とそれにともなう占筮からでています。また、多くの仏教者はこのことを「さとり」として体験しています。止観を通じて自己を脱し「今ここ」の全体性を体験しているわけです。そして多くの儒学者の中でも突出した実践家である王陽明は明確に、「万物一体の仁」という言葉で、この「一」を表現しています。日本においては、古代から江戸時代へと続く、神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く視座となっています。


視座とは、ものごとを理解し体験するための基本的な視点の位置のことです。東洋思想の真偽を見極めるためには、この「視座」を獲得する必要があります。それは、真実を求めつづける求道の精神を持ち続けることによってしか得ることはできません。この姿勢は実は、科学的な真理を求める人々に共通する心の姿勢です。実事求是―事実を探究し正否を定めていく上での基本的な姿勢です。

この心の位置を始めにおいて、我々はまた歩き始めます。東西の思想や医学を洗い直し、新たな一歩をすすめようとしているわけです。

医学や思想の基盤を問うこと、ここにー元流の本質は存在します。

体験しそれを表現する。その体験の方法として現状では体表観察に基づいた弁証論治を用い、臨床経験を積み重ねています。それを通じて浮かび上がってくるものが、これからの臨床を支える基盤となります。いわば今この臨床こそが医学の始まりです。

我々の臨床は自身のうちに蓄積された東西両思想、東西両医学の果てにあるものです。そして、この場こそが、まさに思想と医学が再始動する場所です。

臨床において我々は、何を基礎とし、何を目標とし、何を実践しているのでしょうか。この問いは、古典をまとめた古人も問い続けた、始まりの位置です。この始まりの問いに、再度、向き合っていこうではありませんか。
目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。

方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。

第一期 期限:2020年10月10日

■参加方法■

■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。

■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。

■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。

■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。

■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。

■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
   出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。


懸賞金

■特別賞:十万円

■優秀賞:一万円

■奨励賞:五千円

選者:伴 尚志

送付先:ban1gen@gmail.com

受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。

各賞の受賞本数は定めません。


【参考論文】

参考論文として私の発表しているものを提示しておきます。この参考論文は、私の興味の及んだ範囲ですので、狭いと思います。世界がもっと拡がると嬉しいです。

自分の井戸を掘る、ただし独断ではなく他の人々が理解できるように。ということを目標にしていただけると幸甚です。

【一元流鍼灸術とは何か】 一元流鍼灸術の道統
【奇経一絡脉論とその展望】 奇経を絡脉の一つとした人間構造
【『難経』は仏教の身体観を包含していた】  『難経』に描かれている身体観
【日本型東洋医学の原点】 江戸時代初期の医学について
【本居宣長の死生観】 死生観について
【鍼灸医学のエビデンス】 エビデンスを磨く上での課題と目標
人間理解としての気一元の観点


一元流鍼灸術では、気一元の観点に立って人間を観、治療していくということを基本姿勢としています。

この「観点に立つ」ということはどのような意味か、ここが意外と問題になるようですので説明しておきます。

一元流鍼灸術は、東洋医学の観点に立った治療技術です。その基本は人間理解にあります。気一元の観点に立つということはどういう意味かというと、生きて動いている生命そのものの観点に立って観るということです。

患者さんは治療院に来院される際、多くの場合、病気や苦痛を訴えています。治療院に対して求めるものがそれに対する解決です。その訴えをそのまま聞いていると、病気の側に立ち病気に対してだけ治療を進めるという姿勢が出てきます。

病気の原因を探求し、それがその人の心身の中でどのような位置づけになっているのか。これを解決するにはどうすればよいのか。これが悪化するとどういうことになるのか、というような全人的な人間理解の観点はここからは出てこなくなってしまいます。けれどもこの全人的な人間理解の観点はこそが、実は東洋医学の観点なのです。

このため一元流鍼灸術では、気一元の観点という言葉が大切にされているわけです。
観るということ―章門を契機にして


> 章門を見るのは何を見てるのでしょうか?
> 章門、脾の募穴?臓会など、ありましたが。
> お願いします。


章門に限らず、「見る」という時、ただ見るということが基本になります。

ただ、ただ見るというだけでは見る目標が定まりませんし、何も見ていないのと同じようになってしまいます。

そのため、全体を診てその身体の歪みがどのあたりにあるのだろうかということを調べていきます。それが弁証論治の全行程です。

それでは、弁証論治の全行程の中で体表観察はどのような位置を占めるのでしょうか。

それは、実際に身体に表れている、その表情を読んでいく、そこから情報を読み返していく、という位置となります。この意味については後述しています。

問診や時系列の問診では言葉のやりとりですので頭の中で考え整理していくこととなります。

それに対して切診では、実際に体表に現れているものを見るということになります。

ただ見て、何かを感じ取った時、それが「なぜそこに表現されているのだろう?」という方向から考えていくわけです。ここが大切なところです。

章門が臓会であったり脾の募穴であったりという情報は後付けのものです。参考程度にしかなりません。その患者さんの全体の身体の中のその位置にどうして今その表情が出ているのか、ということが考えなければならないことです。章門は肝の相火の上辺にありますので、肝の相火の問題と考えることもできます。肝経上の経穴ですのでそれとの関係で考えることもできます。帯脉の上に位置しますのでそれとの関係とも考えられます。大包の下にありますので脾の大絡との関係と考えることもできます。右の衝門は肝臓の位置するところですので肝臓の反応が出ている。左の章門は膵臓の位置するところですので膵臓の反応が出ている。そんな風な発想をすることもできるでしょう。

大切なことは今なぜそこに反応を出しているのだろうかとそれを不思議に思う気持ちです。この気持ち―違和感を大切にしながら、他の弁証論治の項目や体表観察と組み合わせて身体の状態を理解していこうとするわけです。


一元流鍼灸術勉強会に入会希望の方からいただいたメールです。
気づいたことなどお裾分けさせていただきます。


| 患者さんの生命をシステムに当てはめるのではなく、ありのまま診て治療
| できるようになるにはどのように勉強し経験を積んで行けば良いのかを学
| 生時代からずっと考えていました。

ありのままに診、治療する。ということはまさに一元流鍼灸術で目的として
いることです。
そして、ここには乗り越えなければならない大きな課題があります。

その一つは、ありのままに診るというとき、それを行う際の治療者側の心の
姿勢が問われるということです。

患者さんが治療を受けにやってくる際、多くの場合は、症状をとってほしい
という目的で来院されます。そうすると、患者さんの要求に応じようと術者
の側も症状をとるために身体を診、症状をとるための処置穴を捜すというこ
とをやりがちになります。

これでは、ありのままに診るということにはなりません。
目的を持って診るということはありのままに診るということとはまったく異
なる行為だからです。
ですから、ありのままに診、治すというとき、これをやりがちになる自身の
心の持ち方を、しっかり根本から問い直す必要があります。

さらに深く思いを凝らすと、ありのままに診るためには、術者の心が安定し
ている必要があります。
診れないのではないか。治せなかったらどうしよう。うまく治すにはどうす
ればいいのだろう。
心が乱れていると脉も経穴も分からなくなってしまいます。
心を乱さず、過度に入れ込まず、淡々と。
まるでスクリーニングの作業をするかのように診て処置を施し、施した処置
が患者さんにどのような影響を与えたのか確認する作業をしていく。
その一連の作業の積み重ねが大切です。

診る際、患者さんが生きている人間であるということを忘れてはなりません。
患者さんが生きている人間であるということはどういうことかというと、そ
の身体が毎瞬々々変化していく、ということです。
今回勉強会で比較舌診をしました。その中には、診るたびに舌の状態がよく
なっていく人がいました。
生きているのですから、そのように変化していくわけです。
固定した死物を診ているのではないということは、とても大切なことです。
変化していく中の、今の瞬間を切り取ってみている。
その中で処置すべき経穴を見つけてそこに処置していくわけです。


あるがままに診、治療していくというときに再度大切になることは、患者さ
んの症状に囚われていてはあるがままに診ることができないということです。
これは患者さんの立場からすると、症状をなおしてもらいに治療院に行った
のに、関係ない処置をされて帰される可能性があるということです。
このことについて深く考えてみる必要があります。

症状が、全身状態を反映されて出ているということであれば、あるがままに
診ている状態と処置穴とが一致しやすくなります。
内傷病で全身状態とリンクして症状が出ているものがそれです。

これに対して、外傷などによるものの場合は、全身状態とリンクしていない
場合が多くなります。
そのため、あるがままに診ても、症状をとることにつながらなくなります。
症状をとろうとするためには、治療方針は別に立てる必要が出てきます。

生きている人間にはこの両者―内傷病と外感病とが同時に複雑に絡み合った
状態で発現している場合が多いのです。

症状が起こっている場所が身体であり、内傷と外感相方を取っていく力があ
るのは「生命力の充実」以外のなにものでもありません。
このことに思い至る時、あるがままに診、治療するということは、養生の手
助けをするということともっとも親和性が高いということに思い至ります。
そこに考えが至ると、生活指導が非常にたいせつであるということが理解で
きるようになります。
生活指導なしに養生治療は成立しないと言うこともできます。
治療処置とともに治療頻度および生活全般の指導ということが、鍼灸治療に
おいて実は非常に大切になるのはこのような理由によります。

あるがままに診、治療していくということに関連していくつかの注意すべき
ことについて触れてみました。


| 鍼灸師としてのスタートを切ったばかりで手探り状態ですが、人体の生命
| 観をしっかりと捉えられるよう勉強していきたいと思っています。

おっしゃるとおり、生命観はとても大切です。
テキストには、脾胃を中心とした生命観、腎を中心とした生命観などが掲載
されています。
どのような生命観が臨床に使いやすく効果が上がりやすいのかということを
考えて、一元流鍼灸術では現在、難経鉄鑑の六十六難の図(テキスト192頁)
にいたり、さらに肝木の図の発想を中心として考えています。

沢田健先生は、難経鉄鑑の六十六難の図を「黙って座って視、元気の流行と
栄衛の往来を省察しなさい。そうして身中における一太極を理解しなさい。
それができれば、自然に万象の妙契〔伴注:すべての事象の妙なる関係性〕
を貫穿(かんせん)する〔伴注:明確に理解する〕ことができます。」と述
べています。

肝木の図に関してはテキストにはまだ掲載されていません。
東洋医学で人を見るというフェイスブックの頁に簡単な解説が記されていま
す。
眺めて理解を深めていただけると幸甚です。

あるがままに観る

一元流鍼灸術では、あるがままのものをあるがままに観て、あるがままそれを理解しようとします。そのためにこのテキストの第一章で示されたような発想法や、一元流の弁証論治を提供しているわけです。

そこにある生命そのものを丸ごと一つのものとしてみようとする東洋医学では、そこに存在する生命に触れるという謙虚さと、対象を損傷させない用心深さとが要請されます。あるがままにみようとするということは、対象となる生命にそのままそっと触れ「みさせていただく」という姿勢が必要なわけです。

感覚が鈍っていると、よくみえないために思わず力をこめてしまい、それが観ることであると誤解しがちになります。よりよく観ようとしてさらに力を込めていくため、観る対象を損傷し、ありのままにあるものではなく、自身の観ようとする行為によって変容させられた残骸しかみえなくなってしまいます。そこからは、患者さんのありのままの状態を観るということは到底不可能になってしまいます。

観る前に手をできる限り作っておくこと、これは勉強会に際してよく言っていることです。手を作るということは、実際的に手を暖め、安定した感覚にしておくということの他に、上記のような観る心の姿勢をきちんと定めるということがあります。

その上で、実際に観るときには、その手を信頼して、観れる範囲で観ていくわけです。ここに「全てをみたい」などという欲望が入ると、指に力が入り対象を変容させてしまうため、観ることはできなくなります。



鍼灸医学は、東洋思想に基づいた人間学にしたがって人間を見つめることを通じて、その生命医学・実証医学としての体系を作り上げてきました。

この基本とは何かというと、観ることです。観て考え、考えてまた観る。事実とは何かということを観る、とともにその底流に流れる生命原理について思いを尽す。その無窮の作業の果てに、現在古典として伝えられている『黄帝内経』などの書物が出来上がっているわけです。

鍼灸師としての我々はそれらの書物を基にしてふたたび無窮の実態、古典を古典としてあらしめたものそのものである、目の前に存在する人間そのものに向かっていくわけです。そして、どうすればよりよくそれを理解できるだろうか、どうすればその生命状況をよりよい状態へともっていくことができるだろうかと探求しているわけです。


古典というものは、いわば身体を旅するための地図の役割をしています。時代によって地域によって違いはあります。けれどもその時代その地域において、真剣に人間を見続けたその積み重ねが、現在我々が手にすることのできる資料として言葉で残されているわけです。これはまさにありがたいことであると思います。

この深く重厚な歴史の積み重ねは、東洋医学の独壇場ともいえるでしょう。けれどもその書物の山に埋もれることなくそれを適宜利用していけるような人材を作るということが、学校教育に求められています。外野としての私は、その支援の一つとして、中心概念をここに明確にしています。それが気一元として人間を見るということと、その古代哲学における展開方法としての陰陽と五行の把握方法をお伝えすることであるわけです。


古典という地図には読み方があります。そもそもの原典であり古典である患者さんの身体は、時代や地域によって異なります。現代には現代の古典となるべき地図が、実は必要です。現代の人間観、宇宙観にしたがいながらも、目の前に存在している人間を観ることに徹底することによってはじめて、古典を綴った古人とつながることができます。この心意気は必ずや、現代における未来への古典が綴られることにつながっていくでしょう。これこそが澤田健先生の言われた、「死物である書物を、活物とする」技となります。


思えば、古典を読むという際の白紙の心と、目の前の患者さんの身体に向かう際の白紙の心とは同じ心の状態です。無心に謙虚に、対象をありのままに尊崇する心の姿勢が基本となります。


このあたりのことが、『鍼道秘訣集』に書かれている心がけの大事ということになります。

初原の門

東洋医学を勉強したり治療において症状の解決技術に着目したりしていると見失われてくるものが全体観、気一元の観点から観るという視座です。昔、学園闘争華やかなりし時代に、東大の教授が専門のことしか知らないことから「専門ばか」と揶揄されていましたが、彼らが見失っていたものがそれです。学問の細かい世界においては、顕微鏡を覗くような、重箱の隅をつつくようなものを積み重ねて検証していくということは必要です。しかし臨床においては、全体観を見失うことは許されることではありません。この端的な例が、手術には成功したけれども患者さんは亡くなってしまったという言いわけです。よりよく生きるということを目指すべき医療において、生命力をどのようにつけていくのかという観点がおろそかになっているため、このような事態を引き起こし、このような言いわけが通用すると考えてしまうわけです。


見ることを始める位置。初原の位置は、ぼやっとはしているけれども、生命そのものの交歓を眺めうる視座(視点の位置)です(いわゆる子供の視座)。そこから生命って何だろう?人はどうやって生きているのだろう?この症状を取るにはどうすればいいだろう?東洋医学って何だろう?という疑問と好奇心が始まります。ところが徐々に、生命の交歓から離れ、書かれているものを読み、全身の状態を離れて局所の(にあると思っている)症状にとらわれていくことになってしまうわけです。とらわれているという点で、これは罠であると言うこともできるでしょう。


もともと生命そのものを喜び慈しみあう美しさに充ちた世界を、さらによく理解したいという興味、好奇心から始まった言葉の世界が、知るという喜びからわれわれの心を引き離してしまう。この罠は、「知恵の木の実」をたべてエデンの園から追放されたアダムとイブが引っかかった、蛇の罠のようです。


「一元流鍼灸術の門」は、その罠に陥った中医学や東洋医学を学ぶ方々へ、ふたたび立ち戻る位置を示したものです。気一元の観点に立脚してきちんと観ていくということは、まさに生命そのものを問い続ける作業でです。このゼロの位置とは何か。初原の位置とは何か。何を自分は観ようとしていたのか。それを思い起こし再び臨床と勉強に臨んでいく「初心の門」こそが「一元流鍼灸術の門」であるわけです。

患者さんの身体から学ぶというとき、その方法論として現代医学では、臨床検査やレントゲンやCTなどを用います。筋肉骨格系を重視するカイロなどでは、その身体のゆがみや体運動の構造を観察する方法を用います。東洋医学では望聞問切という四診を基にしていきます。一元流でこの四診を基にし、生育歴(時間)と体表観察(空間)とがクロスする現在の人間の状態を把握します。

これらすべては、人間をいかに理解していくのか。どうすれば人間理解の中でその患者さんに発生している疾病に肉薄していけるか。そのことを通じて、その患者さんの疾病を解決する方法を探るために行われます。

一元流鍼灸術の特徴は、生きて活動している気一元の身体がそこに存在しているのであるということを基本に据え続けるというところにあります。


東洋医学はその発生の段階からこの全体観を保持していました。そして、体表観察を通じて臓腑の虚実を中心とした人間観を構成していきました。臓腑経絡という発想に基づいたこの人間観こそが東洋医学の特徴であり、他の追随を許さないところであると思います。

「患者さんの身体から学ぶ」この営為は、東洋医学の伝統となっています。そもそも、東洋医学の骨格である臓腑経絡学が構成されていった過程そのものがこの「患者さんの身体から学ぶ」という営為の積み重ねた末の果実なのですから。

ただ、この果実には実は一つの思想的な観点があります。生命そのものを観、それを解説するための観点。それが生命を丸ごと一つとして把え、それを陰陽という側面、五行という側面から整理しなおし再度注意深く観ることを行う、ということです。

この、実在から観念へ、観念から実在へと自在に運動しながら、真の状態を把握し解説しようとすることが、後世の医家がその臨床において苦闘しながら行ってきたことです。

一元流鍼灸術では、その位置に自身を置くこと、古典の研究家であるだけでなく、自身が後学のために古典を書き残せる者となることを求めているわけです。

古典を学び、それを磨いて後学に手渡すことを、法燈を繋ぐと言います。

この美しい生命の学が、さらなる輝きを21世紀の世界で獲得するために、今日の臨床を丁寧に誠実に行なっていきましょう。


古代の人間がどのように患者さんにアプローチしてきたのかというと、体表観察を重視し、決め付けずに淡々と観るということに集約されます。今生きている人間そのものの全体性を大切にするため、問診が詳細になりますし、患者さんが生きてきたこれまでの歴史をどのように把握しなおしていくのかということが重視されます。これが、時系列を大切にし、今そこにある身体を拝見していくという姿勢の基となります。

第一に見違えないこと、確実な状態把握を行うことを基本としていますので、病因病理としても間違いのない大きな枠組みで把握するという姿勢が中心となります。弁証論治において、大きく臓腑の傾きのみ示している理由はここにあります。そして治法も大きな枠組みを外れない大概が示されることとなります。

ここまでが基礎の基礎、臨床に向かう前提となる部分です。これをないがしろにしない。土台を土台としてしっかりと築いていく。それが一元流鍼灸術の中核となっています。


それでは、実際に処置を行うにはどうするべきなのでしょうか。土台が基礎となりますのでその土台の上にどのような華を咲かせるのか、そこが個々の治療家の技量ということになるわけです。

より臨床に密着するために第一に大切なことは、自身のアプローチの特徴を知るということです。治療家の技量はさまざまでして、実際に患者さんの身心にアプローチする際、その場の雰囲気や治療家の姿勢や患者さんとの関係の持ち方など、さまざまな要素が関わっています。また、治療家によっては外気功の鍛錬をしてみたり、心理学的な知識を応用してみたりと様々な技術を所持し、全人格的な対応を患者さんに対して行うこととなります。

病因病理を考え、弁証論治を行うという基礎の上に、その様々な自身のアプローチを組み立てていくわけです。早く良い治療効果をあげようとするとき、まず最初に大切なことは組み立てた基礎の上に自然で無理のないアプローチをするということです。ここまでが治療における基本です。

さらに効果をあげようとするとき、弁証論治の指示に従って様々な工夫を行うということになります。それは、正経の概念から離れて奇経を用いる。より強い傾きを患者さんにもたらすために、処置部位を限定し強い刺激を与える。一時的に灸などを使い補気して患者さんの全体の気を増し、気を動きやすくした上で処置部位を工夫する。外邪と闘争している場合、生命力がその外邪との闘争に費やされてしまいますので、それを排除することを先に行うと、理気であっても全身の生命力は補気されるということになり、気が動きやすく導きやすくなる。

といったように、気の離合集散、升降出入を見極めながら、弁証論治で把握した患者さんの身体の調整を行なっていくわけです。

一言で言えば、気一元の身体を見極めて、弁証論治に従いながら、さらにその焦点を明確にしていくことが、治療における応用の中心課題となるわけです。このあたりの方法論は古典における薬物の処方などで様々な工夫がされており、とくに傷寒論の方法論は参考になるものです。

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