fc2ブログ

一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■坂出祥伸先生の気の概念と伴 尚志のコメント4

■第五に、「気」の循環的変化は近代科学のように因果律による説明ではなく、
感応作用に基づいている、と説明される。『周易』という儒教の経典に対する唐
時代、七世紀の学者・孔穎達(くようだつ)の注釈に、感応の概念が明確に説明
されている。「天地の間にあるものは、共に相感応し、おのおのその気類に従っ
ている」「感とは動くということ、応とは、その報いである。すべて先になるの
が感で、後のものは応である」と。

〔伴注:
因果律と感応作用の違いがわかりにくいかと思います。孔穎達の「感とは動くと
いうこと、応とは、その報いである。すべて先になるのが感で、後のものは応で
ある」という解説はまさに仏教的な因果の世界を想起させます。

孔穎達のもう一つの言「天地の間にあるものは、共に相感応し、おのおのその気
類に従っている」というのは、リアリティーが乏しいものです。スウェーデンに
生まれた天才的な霊能者であるスウェルデンボルグによるとこれは、死後の世界
の説明です。生前の世界はこれが雑然と影響し合っているだけであり、感応にも
濃淡があるということが理解できます。感応の濃淡というところに、生きている
ことのおもしろさ、ダイナミックさがあるわけです。

《易》は占筮の書ですから、鬼神と「感応する」ということを前提として言葉が
展開されています。論理で考え尽くすのではなく、感応してその響きを見いだ
す、そのような読み方をするわけです。敏感によく感応するところは美しいと感
じ、鈍感で感応が弱いところは醜いと感じます。いわゆる因果律にはこの美醜の
感覚はなく、論理的な思考がそれを超えて存在していることとなります。私は、
因果律よりも美醜の感覚の方が美しいと感じます。そこにおける感応は、拍手の
音のようなものです。左手で叩くのか右手で叩くのかと、分けることはできませ
ん。一瞬で鳴り響き、感取されるものです。美醜の感覚というのはそういうもの
です。理屈で考えるようなものではありません。私は言葉や論理以前のこの感応
と、それに基づいた美醜を尊重します。

《易》の中孚〔注:(ちゅうふ)内なる誠〕には有名な言葉が著されています。
『鳴鶴(めいかく)陰にあり、〔注:日陰で鶴が鳴き〕その子これに和す。
〔注:その子がこれに和して鳴く声がする。〕我れに好爵〔注:よしみを結ぶ
杯:美しい心:天命にかなった目的〕あり。吾れ爾(なんじ)とこれをともにせ
ん。』なんという美しい言葉、麗しい情景でしょうか。

また《易》の下経の冒頭には、咸〔注:感:無心の感応であるため咸という文字
を用います〕の卦が置かれています。これは、上経が万物の創始者である天地
(乾坤)から始まったのに対して、下経を人倫の発端である感応から始めたもの
であると言われています。感応というのは時間経過や理屈が入り込む以前の、響
きを感じ取る心の動きのことを表現しているものです。

どうすればこの感応の世界に十分に浸ることができるのでしょうか、感じ取るこ
とができるようになるのでしょうか。このあたりの心の位置について『私心が全
くなくなれば、ひろびろとした万物感通の境地が開ける。』と《易・繋辞伝》で
は述べられています。

『易』は、鬼神との大いなる感応の書です。この書物を言葉の解釈を通じた理屈
で考えていくならば、『易』の外殻にも触れることはできません。どのように解
釈本を読もうとも、何も理解できずに終わってしまうことでしょう。言葉を超え
た感応の世界へと、足を踏み出さなければ、読んでも読めず、見てもまったく見
ていない状態のまま人生の時間を徒労することとなります。

さて、あなたはここで自らに問う必要があります。ひろびろとした万物感通の境
地が開けることを碍(さまた)げる「私心」とは、はたしてなんなのでしょう
か。



伴 尚志
スポンサーサイト



■坂出祥伸先生の気の概念と伴 尚志のコメント3

■第三に、「気」の連続性ということと関係があるのだが、部分と全体は相互に
関連しあっているという点であり、このことは近代科学の自然観と根本的に異な
る点である。鍼灸医学の身体観において、この点は明確に現れている。

〔伴注:この鍼灸医学の身体観を語る際に重要なことは、「気一元の場をどのよ
うに定めるのか」ということであるということは言うまでもありません。その設
定があるからこそ、全体の範囲がどこまでのなのかが理解でき、部分の範囲がど
の範囲なのかが理解できるからです。この、全体という言葉が意味する中身と部
分という言葉が意味する中身が明確に理解されていなければ、部分と全体の相互
の関連性という意味があいまいになってしまいます。またこの「場の設定」をす
る際に、部分としてのその場の個性をよく理解しておかなければならないという
こともまた、一元流のテキスト『一元流鍼灸術の門』に提示されている診察部位
の概念として述べられているとおりです。この診察部位の捉え方は、坂出先生の
この「部分と全体は相互に関連しあっている」という言葉を補完するものとなり
ます。〕


■第四に、世界に終末が到来しても「気」は滅びることがないから、かならず再
生する、という考えかたがある。

〔伴注:気の時空を超えた普遍性を理解していれば、ことにこの言葉を発する必
要はありません。キリスト教的な終末論に対して一撃を加えておこうとされたの
でしょう。〕


        伴 尚志
■坂出祥伸先生の気の概念と伴 尚志のコメント2

■第一に、生命体、非生命体を問わずともに「気」から成る、と考えられてい
る。星も「気」であり、鉱物も「気」である。

〔伴注:この、すべてが「気」から成るということがたいへん重要なことである
ということは、前の『気のコスモロジ―』石田秀実著の紹介で述べたとおりで
す。これは本当に基礎的なことです。けれども、「気」を理解しているという人
ほど、ここの、しっかりとした理解がなされていません。外気功の神秘的な力の
みを「気」と呼んでいる人が多いわけです。場合によってはその「気」を真気と
濁気に分けてみたり、正気と邪気に分けてみたりします。あるいはさらには、神
の気と衆生の気とか、養気と病気とに分けてみたりもします。経絡の陽経の気と
陰経の気では異なると語る人もいます。それぞれ感じることのできるものでしょ
うが、そこに気の問題の本質があるのではありません。分けて表現することが大
切なのではなく、統合し「一の変化」としてそれを観るところが大切です。〕


■第二に、「気」は宇宙に充満しており、始めも終わりもなく、連続していて分
割できない。

〔伴注:第一と分けて語るところに、この坂出先生の思考の丁寧さ緻密さを感じ
ます。第一の「生命体、非生命体を問わずともに「気」から成る」ということが
本当に理解できていれば、この第二の概念は本来は必要ありません。けれども、
第三の「部分と全体は相互に関連しあっていると」という概念を導き出すために
は、この全体観・普遍性の概念が必要となります。

一元流鍼灸術では、さらに統合的な気の所在について「一」の概念として提示し
ています。濃度が一定で一つにくくられそうなものを小さな「一」とし、「生
命」の場の概念としています。ここが大切なところです。ここから初めて、不完
全な生命を抱いているがゆえに人間は病み、その不完全さのまま完全さを想起す
ることができるわけです。そしてその「不完全さを抱いたまま、あるがままにあ
る今の完全さ」が、ここに実現しているわけです。治療家はここに手を入れてい
くわけです。

のべっとして宇宙大に拡がる気の概念だけではなく、濃淡があり、くくりがある
気の概念を提示しているわけです。つまり、この世界には、「一でくくられる
気」がそれこそ「存在」の数ほどあるということです。その無限の数の多層な小
宇宙の重なりの一つの粒子として私たちは存在しています。この限りない美し
さ、はかなき事実に、気づくことができると素晴らしいですね。〕

伴 尚志
■坂出祥伸先生の気の概念と伴 尚志のコメント1


『中国思想における身体・自然・信仰』東方書店 坂出祥伸先生退休記念論集
「私は「気」の思想とどうかかわってきたのか」より(二〇〇一年五月一一日)

中国思想は儒教であれ、道家の老子や荘子であれ、また道教であれ、「気」の概
念を共通の基礎としている。・・・(中略)・・・

人間の身体だけが「気」で成り立っているのではない。生命あるものすべてが、
「気」をその生命の根源としているのである。・・・(中略)・・・

生命あるものばかりではない。この宇宙の間にあるすべての存在が「気」から成
り立つと考えられている。・・・(中略)・・・

戦国時代から前・後漢時代(前四世紀から後二世紀)にかけて、「気」の観念の
大きな枠組みはほぼ完成したといってよい。それは、この時期に黄帝内経医学、
本草学(薬物学)、天文気象学(実は占星術や望気術などの呪術)が発達したか
らである。


かくて体系をととのえた「気」の観念は、その特徴を次のような五点に整理でき
る。ただし、それらの特徴は互いに関連しあっている。


伴 尚志
■石田秀実先生の気の概念と伴 尚志のコメント


『気のコスモロジ-』岩波書店 石田秀実著 2004年7月

まずは石田秀実先生から。この人は私が本当に尊敬している、求道的な学者で、
まるで学問の道を逍遙游しているような人です。外気功によって放射される気
を、「気」として研究される傾向があることに対して、根本的な疑問を投げかけ
ています。そして、この先生の気の概念は、私のものと同じであり、一元流鍼灸
術の気の概念も同じであるということを申し述べておきます。


「前述の「物質科学のまなざし」に歪められて、気という概念についても、物質
であるだとか、超物質だといった見当はずれの解釈が流行している。伝統的に気
という言葉によって指し示されているのは、この自然世界の森羅万象、私達の身
体を包んでいるさまざまな事象すべてのことである。変化流動し続ける自然世界
の全体を、東アジアの人々は「一つの気」という言葉で呼んだのだ。西欧の人々
が、あらゆる事象を永遠不変の形相(イデア)と質料(ヒュレー、マテリア)と
から成っていると考え、後者のマテリアからマテリアル(物質)という概念を作
ったのとは全く考え方が違う。逆にいえば物質とか超物質とかいった概念とはま
ったく異なる概念だからこそ、気という概念はあらゆる事象すべてを指し示し、
「心と肉体」に二分割される手前の、まるごとの身体そのものを語ることができ
る。脳の知に幻惑されている私達が、その幻想から逃れて再び身体の知を感受す
る細い道を、気という言葉は指し示してくれるのである。」<「気のコスモロジ
―」まえがき:石田秀実著>


読んでみるとこれは常識の部類ではないかと思われるでしょう。けれども、自慢
家というものはこのような文章を読んでもまた自身で書いても理解できないもの
なのです。ネットで拾ったその文章を以下に紹介しましょう。ご本人の名誉のた
めに、アドレスや氏名は伏せておきます。

「 〈気〉は一方では物理的な存在で、他方では精神的な存在である。別の種類
の〈気〉があるわけではない。同時に物理的かつ精神的なのである。

・・・(中略)・・・

 〈気〉は、私が手をかざせば、十人に九人は感じることができる。だが〈気〉
の感覚は、単に触覚的なものではない。奥田鳳作の『長沙腹診考』には「手にて
見ると思うべからず。心に応ずるを得て知るべし」とある。〈気〉の感覚は表面
的・部分的なものでなくなった時にホンモノになる。「感覚」という言葉より、
「感性」という言葉がふさわしい。感性は育てられるものでもある。〈気〉を頭
から否定しようとする人には、〈気〉を感じる感性は育たない。」


気を、特別なものと観る人には、〈気〉を感じる感性は育たない。と申しておき
ましょう。存在するもの全てを愛おしむ心が、シャーマニズムの世界を築きまし
た。いわく、全てのものには神が宿る、いわく、全ての中に仏性はある。これこ
そが日本民族が持ちつづけてきた柔らかい感性のあり所であり、神といい仏性と
いうそのものこそがいわゆる「気」に他ならないと認識する必要があります。こ
れは西洋におけるいわゆるエーテル学説となるわけです。―いや、これも語りす
ぎになるでしょう。ごく瑣末な我々自身あるいは物どものすべて、その濃淡のす
べてまるごとが、古人によって気と呼ばれているものです。

全てのものの中に神が宿り仏性が宿っているということは、何も宿っていないこ
とと同じである、というのがエーテル学説を否定し批判する学者の言葉なので
す。まさにその通りなのですが、実は一つだけ違いがあるのです。それは、私と
いう観察者と、観察されるものとの対立関係を、エーテル学説は否定することと
なるということです。つまり、全ての中に私はあり、私を含めた全ての中で学問
は進んでいくしかない、科学は進んでいくしかない、そうエーテル学説は語って
いるわけです。不揃いな砂粒がそこに存在していて、完全な客体として自己があ
るという、実験室科学(これが西洋における科学技術を発展させて根幹となるも
のなのですが・・・)を否定し、「私」もその中にあって互いに影響し合う中か
らしか観察はできない、とエーテル学説は述べるわけです。

この中から実は量子力学が生まれ、相対性理論が生まれ、世界―内―存在を問い、
時間と空間とエネルギー(生命)の問題について根源的な問いかけを今もし続け
ているハイデッガーの哲学が生まれてくるわけです。ちなみに、このハイデッガ
ーの哲学は仏教の空観に通じ、ついには東洋医学の認識論にも通じていくという
ことを押さえておいてください。

                     伴 尚志
■付:知識を得ること知恵を得ること


一元流鍼灸術では、「一」ということを学びます。「一」の眼差しがすべてを貫
通していることです。このことを理解できるようにテキストは祈りを込めて作ら
れています。

けれどもこれを理解することは、なかなか難しい。難しい理由は、多くの場合こ
れまでの勉強法にあります。言葉を暗記してそれで試験を受けて合格する。この
繰り返しを勉強と称して行ってきた方がほとんどでしょう。社会的な要請として
も、それがその人の技術のレベルを示すものとされてもいるわけで、免状なども
それを規準に与えられるようになっています。


これに対して一元流鍼灸術では、「一」の理解を通じて人間を理解するというこ
とに特化しています。応用自在の知恵である「一」に対する理解の方法を提供す
ることによって、人間理解を個別具体的に行えるように工夫しているわけです。

知識というものは、この「一」に対する理解すなわち知恵あるいは言葉を使っ
て、「一」に対する理解を表現したものです。この意味で、知識とはその本来の
意味で飾りであり、群盲が象を撫でて語った言葉の集合です。ですから知識をい
くら積み重ねても、目の前の人間を理解することはできません。


表現者としてそこすなわち対象が存在する場所に、自身を存在させなければなら
ないわけです。暗記した言葉、書かれている古典などは、その「表現された言
葉」に過ぎません。表現された言葉をいくら積み重ねてみても、それは言葉を超
越して存在そのものに肉薄することはできないわけです。


言葉は、存在しているものをパターン化し、その作成されたパターンに存在を当
てはめることが、理解しているということだとします。しかしこれは間違いで
す。パターンが作成される以前に存在はそこにあり、それを理解するために「仮
に」パターン化された言葉でそれを表現しているに過ぎないのです。仮の姿は―
あたりまえのことですが―実在ではありません。この「実在」こそが本来の意味
での「古典」であると、一元流鍼灸術では主張しています。


『易』の「繋辞上伝」には、「易は天地と準(なら)う。故に能く天地の道を弥
綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す。」と述べられていま
す。すなわち、自身が生き生かされているこの自分の位置、自分の生命を明らか
に体験する中から、初めて瑞々しく生まれ出てくる生命-知恵によって発見され
た生命-に触れることができる。これこそが存在そのものに触れることのできる
位置である、と述べられているのです。

この生命を生きている私。この私の生命を用いて全力で相手を理解しようとす
る。このことが知恵による人間理解の基本となります。

言葉を多く積み重ねて記憶し、パターン化されたそれをその人間存在に当てはめ
ることは「人間理解」ではない。それは「人間理解」とはまったくかけ離れたも
のだということ。このことは一元流鍼灸術の知恵を修得する上で、重要な上にも
重要なこととなります。

                   伴 尚志
> 「いのちに触れる」とはどういうことなのか?、
> ヘレンケラーが水を理解したときの感動は「いのち」に触れたから、
> というお話がありました。

ヘレンケラーのあの、「Water」という言葉を理解した時の話は、思い出すだけ
で感動と共感を覚えます。なぜなんだろう?とても感動しちゃうんですよね、
私。

ヘレンケラーは、その言葉が水を指している以前から、水を感じることはできて
いたんだろうと思います。そしてその、鮮烈な流れの心地よさを、自分だけのも
のとして感じ取ることができていた。自分の世界の中で、その感動とともに生き
てはいた。

ところが、サリバン先生の努力のおかげで、生命世界のその部分に名前がついて
いて、そこが共有されている(かもしれない)ということに気が付く。自分だけ
の世界ではない。世界が共感の下に開かれている(のかもしれない)ことに、心
が触れる。

言葉の世界の無限の偉大さに、ヘレンケラー(に共感している私)は感動するわ
けです。

生命世界は実はすべての人々の足下に今、開かれています。それに触れようとし
ないのは、触れようとしてもできなくなっているのは、言葉の世界を中心に考え
が構成されている、「自己という牢獄」に住んでいるためです。

ということは、ヘレンケラーは、生命世界に触れたのではなく、言葉の入り口に
立って、そこに感動したということなのでしょうか。そうですね。言葉の牢獄へ
ようこそ、文明世界へようこそという「感動」でもあるのでしょう。

言葉はある意味、光り輝く曼荼羅の世界です。生命曼荼羅は、言葉というシンボ
ルの、光り輝く積み重ねで作られている(ように見えます)。その世界がまるで
生命を超えて存在しているかのように思えるため、ネオン輝く歓楽地に(見える
地獄に)あこがれ、人々はその世界にはまっていきます。いわゆる学者、いわゆ
る学問という世界にはまっていくことがそれになります。知識人が蓄積してい
る、世界の区別判別、世界を名付けて理解した気持ちになっていること。それこ
そが言葉の氾濫によるものであり、湯水のごとく浪費される言葉の泥濘です。


> ちなみに赤ちゃんから3歳頃までは「いのちに触れて」いるそうです。
> ということは、その頃の感覚を思い出すことができれば、
> 「いのちに触れる」ことができるのかなぁと考えていました。

ヘレンケラーも赤ちゃんも、いのちの中に生き、どっぷりと生かされているわけ
です。実は私たちもそうなんです。けれどもそれを忘れてしまいます。その理由
は、自己という壁にしっかり囲われた、自己という牢獄の中に私たちが住んでい
るためです。このこを仏教用語では「火宅」(かたく)と呼ばれています。

常識という牢獄です。自分自身のあたりまえを点検することなしには、この牢獄
から抜け出すことはできません。

言語過剰な欧米の文明はまさにこの「火宅」の中での喧噪です。

病名を決め、その病名を消すために築かれている現代医学の行き詰まりは、実は
ここにあります。すべての苦しみからの解放としての死を前提としない医学とい
うのは、非生物的なものです。生命世界に寄り添っているものでは、実はありま
せん。

ナラティブテクノロジーと名付けられている、脱科学的な新たな人間理解の手法
なども、言葉を手掛かりとしたものである限り、新たな誤解の積み重ねになるで
しょう。

鍼灸師であればその次の世界、切診を基軸とした四診を手掛かりとした人間理解
の方法が、築かれるべきであると考えています。


> ヘレンケラー、子どもの頃に漫画の伝記で読んだことがあるかな、
> くらいしか知らないです。もし、ヘレンケラーについてお勧めの本が
> あれば教えてください>伴先生

本に何かの理解が書かれているとは私が思っていないことは、上記の文章を読ん
でいただければ理解されると思います。本に書かれていることは、ヘレンケラー
に対する誤解でしかないだろうということも、理解されるのではないでしょう
か。人は、自分が理解できる範囲内のことしか、理解できないものですから。そ
の範囲内で書かれている書物など、私にとってはヘレンケラー(に感動した私)
に対する侮辱でしかないと私は考えています。

伴 尚志
■弁証論治の要諦

そこに存在しているものを四診をもって感じ取り、それをできるだけ誠実に表現
しようとすること、それが弁証論治において行なわれていることです。その生命
の流れを酌み取りそのまま表現しようとするわけです。

そのまま表現する時には、聞く耳を立てるということが必須となります。よく聞
くこと、自身の判断を停止してよく聞くということです。判断や評価が先に立つ
ときには、きちんと聞けていないと知らねばなりません。

聞き取ったものを壊さないようにそっと手に持ちます。それが原資料となりま
す。その表情を壊さないようにしながらそれを五つの観点でふるい分けてみま
す。五臓の弁別です。ふるい分けるときに思考は入らないのでしょうか、評価は
入らないのでしょうか。ここが非常に気をつける必要があるところです。

ふるい分けることが目的ではありません。ばくっと分けてみるという程度のこと
で、そこから五臓の気の厚薄の傾向をみるわけです。

また、評価は入りません。評価が入るとふるい分けに歪みが出ます。それでは思
考は入らないのでしょうか。実はそれが入るのです。評価以前の思考。直感的な
思考が入ります。「直感的に分けるんですよ」と言われているのはこのためで
す。

その直感はどこから来るものなのでしょうか。それは、その患者さんを本当に理
解したいという思いからくるものです。このおおもとの感覚がとても大切です。
それは感覚ですから非常に頼りにならないもので、そのままではさまざまな迷路
に陥る可能性があります。そこでここにその感覚を支える視点、気一元の観点が
必要となってくるのです。

気一元の観点とは、何を一括りとするのか、どのような生命のうねりの中にその
人生はあるのか、ということを、その生命そのものに沿って観ていくということ
です。この全体感を見失わないことが大切です。ぼやっとしていてもかまいませ
ん、みえないということでもかまわないのです。けれどもそのままの生命の有り
様をみつめていくためには、この全体観=気一元の観点を見失わないことが非常
に大切な基本となっていきます。

この気一元の観点を支えにして自身の感覚にしたがって存在の声を記述していく
こと、ここに弁証論治の要諦があり、弁証論治の中に観念的な評価や判断を入れ
ないコツがあります。

                伴 尚志
■勘を働かせることの大切さ


四診を取る時も、
五臓の弁別を作る時も、
病因病理を作る時も、
日々の治療をする時にも、
その底にいつも必要なものは、
勘をよく働かせるということです。

それでは、きちんとした勘というのはどこから起こるのでしょうか。

それは、一、を意識するところから起こります。
一、というのは一部ではなく、全体まるごと一つのことです。
全体とは何か、まるごと一つとは何かということを、
実はここで考える必要があります。
よく考えてみてください。
その時その時毎瞬々々の不完全さの中に
全体まるごと一つがあるというのが人間の姿です。
いつも不完全なのですが、
その時その時には
その時示している以外の姿を取りようがない
そういう意味で完全です。
そういうまるごと一つを見る、
そういうまるごと一つの変化が時系列であらわれます。
それを見るわけです。そのことを勘働きと呼んでいます。

全体観を離れて、文字にとらわれると、勘は死にます。
全体観を離れて、経穴や脉にレッテル貼りを始めると、勘は死にます。

胃の気を見るということは全体の生命状況を見るということです。
ですから、胃の気とレッテルを貼られた静的な状態が存在しているわけではありません。

動きとしての胃の気の状態をしっかり把握することはとても大切なことで、

胃の気の方から今出ている現象を考えていくということがとても大切です。

胃の気の方から考えるということは、
生命の方から考えるということです。
生命力の有様を考えて
その変化の中から今の状況を判断していくということが大切です。

今の状況にレッテルを貼って辞書でひくことと、
今の状況を生命力の曖昧さの中から眺めていくということ
考えを進めていく方向は真逆になります。
その違いをよく理解していただきたいと思います。


■昨年末アップしていた「胃の気の脈診」、一割ほど書き直してアップしました
 以下のアドレスの冒頭部分をクリックすると、PDFファイルが開きます。
https://1gen.jp/1GEN/RONBUN/INOKI.HTM


伴 尚志
■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』5/5


■生命がなければ病はない


生命がなければ病はありません。すなわち、生きてさえいればいついかなる時に
も生命力はあります。そして、その時々の生命力の状態を探ろうとするものが、
一元流鍼灸術における「胃の気の脈診」であり治療方針の立て方です。そこに
は、個別具体的な脈状―個別具体的な生命状態が存在するだけであって、「胃の
気の脈が欠けた状態」があるわけではありません。

これはさながら、海の波が起こる地点を小さく区切ってタイプ別に分類すること
が無意味なようなものです。波は、岩や風や気圧などの相互関係によって、ただ
起こるだけです。臨床家は、患者さんの生命力をさながら浜辺で海の波を眺める
ように眺めているだけなのです。そこに竿を差し込みあるいは石を投げ込むこと
によって、生命力の変化を眺めていく、これが鍼灸師、養生治療家の行っている
ことです。

この胃の気の概念、生命力の概念について気づいていたと思われる藤本氏がな
ぜ、細かい脈状を分類し、さらにはそれに基づいた「症例」をあげることになっ
ていったのでしょうか。


実はここには、東西古今を問わず「医学」そのものにおける、大きな課題があり
ます。それは、「疾医が養生医か」「病を治療するのか。生命を整えるのか」
「症状を目標とするのか、生命力のバランスを整え、それを通じて生命力を充実
させていくことを目標とするのか」という課題です。

鍼灸が養生医学といわれる東洋医学を踏襲するかぎり、生命を整え、生命力を目
標とすることは当然のことといえるでしょう。

しかし現実には患者さんの苦痛を取ることが近視眼的な目標となっているため、
「治してあげよう」「症状を取ってあげよう」という言葉を用い、なんでも「治
せる」治療家として、自己の名を高め集客を図ろうとする姿勢が存在することと
なります。

現代医学ではことに顕著になっているこの、症状を治療目的とした「波頭の分
類」は、東洋医学の歴史の中にも実はすでに古い時代からありました。それは、
医学の発祥由来であるともいえます。

張景岳は、「そもそも胃気は正気であり、病気は邪気である、邪気と正気とは本
来両立しないものなので、どちらかが勝てばどちらかが負けるからである。すな
わち邪気が勝てば正気が敗れ、正気が充実してくれば邪気がしりぞくからであ
る。」(『現代語訳 景岳全書 脉神章』 伴 尚志訳 たにぐち書店刊96p)
と述べています。藤本氏もこの『図解/簡明鍼灸脈診法』を著述した当時も、そ
れを継いでいるものであったと言えるのでしょう。書かれているさまざまな著書
を通じて今も、その同じ香りがしてきます。

しかし、邪気と正気すなわち、症状と生命力とは陰陽関係にはありません。生命
力は太陽のように大きく生命そのものを支えるものです。症状とは、その生命の
陰翳として出ては消えているものです。一元流鍼灸術が生命がなければ病はない
と考え、生命力のバランスを整え、それを通じて生命力を充実させていくことこ
そが治療の目標であると考えていることは、至極当然のことと言えるのではない
でしょうか。その大きな視点から生命力を調整していくことを通じて、さまざま
な症状を同時に呈しているひとであっても、あるいは、症状という自覚はなくと
もその生命力のバランスを取り充実させていくことによって、病が起こる以前に
病が起こらないように整えていくことが可能になるのです。これがまさに、養生
治療という発想となっていくわけです。

胃の気の脈診はそのような、養生治療をしていくさいに、大きな指針となるわけ
です。


生命があるから病があります。生命がなければ病むということはありません。完
全に健康な生命というものはありません。死は必ず、どのような人にも訪れま
す。

胃の気があるからこそ、弦急の脈も搏つことができます。それは、生命そのもの
(胃の気)とその表現の一部(症状)のような関係であって、それぞれが補完し
合う対等の陰陽関係ではありません。

養生とは何かというと、生命を磨くということです。完全な生命はありません
が、よりよい生命状態を求めることはできます。そのために、今の状態から少し
づつ自分にとってより良い状態へと生命のあり方を磨いていくわけです。食養生
をして内臓を休める。運動をして筋肉をつける。日々感謝して心を養う。養生治
療を受ける。このようにして生命の状態を整え、磨いていくということが養生を
するということです。しかし 完全な 養生はありませんし、完全な 生命状態と
いうものもありません。これは大きな眼差しから見るならば、今ここにおける不
完全な自分の状態こそが、まさにこの上なく完全な私の状態である、これ以上な
い生命状態にあるということです。その今を前提として、より完成度を高めるた
めに、日々の生命を磨いていくわけです。

今を生きるということは、今の「不完全さという完全」な生命状態のまま、日々
を生きるということです。養生は、生命状態をより良い状態にするということで
あり、その生命を使ってどのような人生を送るのかということはまた、別の問題
となります。なぜ生きるのか、いかにして生きるのかということは、個々人に任
されています。そうやって 、私たちは日々、 この生命の世界を生き続けている
わけです。

伴 尚志
■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』4/5
■北辰会における四種の弦急脈



言語化すると、それが存在すると思い 、それを探し始めてしまいます。東洋医
学の歴史はその積み重ねとなっています。真偽を見分けることの難しい、繊細な
手作業をおこなう治療家に植え付けられた信仰、ともこれは言えます。

また、見ることと言語化することの間には、大きな隔たりがあります。実際に見
ている指先の風景を言語化していくわけですから、そこには大きく深い問題が横
たわっているということが理解されなければなりません。

・指尖の感覚は個人個人で異なる。感覚とは何でしょうか。
・指尖の敏感さや鈍感さは個人個人で、体調によっても異なる。
・とらえたものを表現することのできる、表現力は個人個人で異なる。
・とらえようとする方向によって、表現できるおおもとのとらえ方が異なる。
・指尖の風景の中から、何を取り出そうとしているのか、そこが問題。
・「自分が正しい」と断ずると、自分以外のものが見えなくなる。

思いつくまま簡単に挙げてみても、これだけ多くの課題があります。
「見る、そしてそれを表現する」ということは、たいへんな事なのです。

しかし藤本氏は、その危険を知ってか知らずか、やすやすと乗り越えて、胃の気
が欠けているとした脈状を四脈に分けて解説し始めます。

四種の弦急脈の実際の記述は、以下のとおりです。
49ページから掲げられています。

第一脈・弦急脈:「和緩と滑利がなく、硬く引きつった感じで、ギシギシと指に
触れる。」「硬く緊張した脈であり、力の有無は一応関係ない」(49p)

第二脈(枯脈):「第一脈のように、引きつったり著しく堅くはないが、潤いが
なく、しなやかさや、和緩に乏しく、ちょうど、ひからびた餅の表面に触れた感
じでカサカサしている。」「この脈は、弦脈と重なることも多く、この場合は
「枯弦」と呼称する。

第三脈(細急脈)「一定の緩滑の脈状の中に、一筋の細い芯のある弦脈を打つも
の」

第四脈(緩不足、滑不足)

ここで4種類に分けられている、藤本氏が述べる弦急脈は、「弱以滑」と分けら
れた「弦急脈という概念」ではなく、実際に脈に触れた指尖の触覚に基づくもの
のようです。



■弦急脈は邪気か?敵するものなのか?


胃の気の脈状について以前、藤本氏は「胃の気をこそ土台にして諸々の情報が、
脈状に現われる」と解説していましたが、ここではその、土台である胃の気の脈
状が、「欠けている!」ものも存在するとしているわけです。

はて。藤本氏は自身の言葉で、「諸々の脈状に弱以滑の脈象の存在することが、
平人であり、これに反するものは、すべて弦急の脈、と解した」(49p)と述べ
ています。そのうえでその弦急脈を四種類に分類しているわけです。

さらに藤本氏は、同じページで、この4つに類型された「弦急脈をかみ分け触知
できれば、本書での核心部分「胃の気の脈診」が全うされる。実に、弦急脈を把
握することに全力をかたむけねばならない。弦急脈とは、先にも述べたように、
要するに「弱以滑」を含まない脈状、脈形を指す。」としているわけです。ここ
に、冒頭で自身が述べていた「胃の気をこそ土台にして諸々の情報が、脈状に現
われる」という、老子的な「胃の気の脈診法」の生命観を、自身の言葉で裏切っ
ているわけです。弦急脈を語るときにはこの、脈状を表現する土台―胃の気が消
えるというのでしょうか。


ここにおいて私は、一元流鍼灸術で話している「胃の気の脈診」と、上段で定義
づけられている北辰会における「胃の気の脈診」とは、まったく異なるものであ
ると言わなければなりません。一元流鍼灸術で述べている「胃の気の脈診」はま
さに、気一元の生命力の流れの変化をありのままにとらえ表現することを基礎と
した、老子的な「胃の気の脈診」だったわけです。

伴 尚志
■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』3/5
■弱以滑と弦急脈とは相反するものなのか


藤本氏は、明代末期の医家、張景岳が表現した胃の気の脈「弱以滑」を胃の気の
脈の中心にすえ、「弱以滑のない脈状」を弦急脈と名づけてそれを四種類に分
け、北辰会の診脈法としています。

その理由として藤本氏は臨床の実際として、「諸々の脈状に弱以滑の脈象の存在
することが、平人であり、これに反するものは、すべて弦急の脈、と解したので
ある。それ故、この弦急脈は、4つに分つものであることが判明した。」
(49p)と述べています。

ここでいう弦急脈とは、診ることのできる弦急脈ではなく、弱以滑の欠けている
脈状すべてのことを指していることに注意する必要があります。いわゆる一つの
上位概念―抽象的な概念なわけです。

藤本氏はまた、この「弱以滑」の脈状についても、抽象的な概念として捉えてい
る可能性があります。そのためでしょうか、「諸々の脈状に弱以滑の脈象が存在
することが、平人」と述べています。いわば、弱以滑という脈状および弦急の脈
という脉状を、対抗する概念、相入れない概念として提示し、その根拠として、
明代の偉大な医学者である張景岳の言葉と、自身のグループにおける臨床的実際
を上げているわけです。


皆さんはこの矛盾を、理解することができるでしょうか。

一方で藤本氏は、「胃の気をこそ土台にして、諸々の情報が、脈状に現われる」
と述べています。つまり、諸々の脈状の情報はすべて、胃の気を土台にしている
と述べているわけです。ところがそれに対して藤本氏は、平人と病者とを対応さ
せ、「弱以滑の脈象が存在する平人」であるとし、これに「反するもの」をすべ
て弦急の脈という病者の持つ脉状の概念にしているわけです。

「生きとし生けるものの実相は、やわらかく、しなやかで、生き活きとしている
が、死に赴き枯れるものは、堅くもろいものである。」と藤本氏は述べていま
す。けれども、生きるものはみな死にます。死に赴かない生は存在しません。こ
のことを知るならば、生とその中にあってさまざまな症状を呈する人の、生と症
状あるいは病は、対立する別々のものではありません。ともに、ひとつの生命の
流れ変化していく過程で現れる「生命力の表現」でしかないのです。

すなわち、「生きているかぎりすべての生は存在している」わけです。生き活き
としていようが、死に赴き枯れる方向にあろうが、それは生命力の変化過程―バ
イオリズムの途上なのです。生の方向に一方向に進む「生」はありません。同じ
ように死の方向に一方向に進む「生」もありません。人は、疲れたり、元気を回
復したりしながら、ゆるやかに生のバイオリズムを浮き沈みしながら、生きてい
るものなのです。

その間、さまざまな症状を呈すこともあり、なんらかの疾病の名前を与えられ、
あるいは難病に分類されることもあります。「疾病は生命力の表現である」と言
えるわけです。

藤本氏も実は自身の言葉で述べています。「脈診するということは、胃の気の多
彩な’顔’盛衰を察知することにこそ、その本領があった」(26p)と。

氏はなぜ、生と病とを、平人の弱以滑の脈と弦急脈とを「あい反するもの」とし
て括ってしまったのでしょうか。たいへん残念に思います。


「疾病は生命力の表現である」ということ。これがすなわち、一元流鍼灸術にお
ける脈診の考え方の基礎となっています。まさに「胃の気の多彩な’顔’盛衰を察
知すること」。これこそが一元流鍼灸術における「生命を診る脈診」の基礎とな
っているわけです。すべての生命の変化相、変化の形が脈に表れている。その生
命の姿の一過程として「弦急脈」をもとらえなければらないと考えているわけで
す。

すなわち、藤本氏が指定する「弦急脈」を呈する病も実は、生命の一形態です。
生命に反して病があるのではなく、病も生命の一形態なわけですから、あたりま
えのことです。生命に反して病があるわけではない。生命があるからこそ病があ
るわけです。ここがとても大切なところです。

脈状で言い換えるならば、胃の気の脈がない、ということは生きている限りあり
えません。生きていれば脈のすべてが胃の気の脈の一変化なのですから。

脈診を通じて捉えることのできるいわゆる堅い脈状である弦脈や弦急脈というも
のも、胃の気―生命力の、変化したものです。そのため、堅い脈状である弦脈や
弦急脈は、頑張っている、頑張ることのできている脈状であると表現することも
できるのではないかと、一元流鍼灸術では考えています。

七死脈と言われている脈状も実は、生命力があるからこそ表現することができ、
診ることができる脈状です。生命力の中心が本当に弱ってしまえば、七死脈とし
て表現することもできなくなります。それこそが藤本氏もいう(119p)、神の脱
けた脈状です。六部定位の整った、あたかも胃の気がしっかりしているように見
える脈状。良い脈状に見えるものを搏つのです。死に瀕しているような患者さん
に現れる、そのような脈状こそが、胃の気の脱けた脉状です。そこからさらに神
が脱けきると、脈は搏つことを静かに止め、呼吸も止まることになります。死に
抵抗して生命が暴れあるいは苦しんで、七死脈のような極端な脈状を呈するよう
なこともなく、ただ死んでいくだけなのです。

さて、藤本氏の「諸々の脈状に弱以滑の脈象の存在することが、平人であり、こ
れに反するものは、すべて弦急の脈、と解したのである。それ故、この弦急脈
は、4つに分つものであることが判明した。」(49p)と述べている、この言葉
が、いかに大きな問題をはらんでいるかということは、ここまでの私の話でご理
解いただけたのではないでしょうか。

伴 尚志
■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』2/5

■古典における「胃の気の脈診」


はじめに古典を紹介したうえで、伝統的に言われている胃の気の脈について、
1四時陰陽に従う脈
2名状もってするに難しき脈
3有力無力による脈
4一定の恒常性の有無を診る脈
5胃の腑の働きを直接候う脈
6中位にあらわれる脈
7衝和と弦急の脈
とそのまままとめています。古典の文言をそのまま訳し解説しているものです。
いわば古典の紹介ですね。



■「胃の気の脈診法」の生命観


次に藤本氏が自身の「胃の気の脈診法」に包含されている生命観について述べて
います。一元流鍼灸術の生命観にも通底する、大切なところです。

すなわち、
「胃の気をこそ土台にして諸々の情報が、脈状に現われることをすでに学習し
た。また、脈とは、胃の気そのものであることも我々は知ったのである。脈が
刻々と不断に変化することも、畢竟、胃の気(生命力)が様々な環境と影響に出
合い。個体維持の目的性にそうべく適応する多面的な”顔”であったのであ
る。・・・(中略)・・・脈診するということは、胃の気の多彩な”顏”盛衰を察
知することにこそ、その本領があったのである。」(26p)

この文章たいへん重要です。何回も繰り返し読み、しっかり理解していきたいと
ころです。

一言で言うなら、「脈診には生命力の状態がそのまま表れる」ということです。
生命力は、身心の内部状況です。生き物の内部状況は刻々と変化します。この
刻々と変化する内部状況が、刻々と変化する外部状況と出会うことによって、さ
らにさまざまな変化が起きていきます。

脈診には、このようなダイナミックに変化する生命力の内部状態が表現されてい
るわけです。ですから脈診においては、「生命力」すなわち胃の気、をまずは意
識して診なければなりません。胃の気の状況という場―舞台上に、個々の脈象が
表現されているということが、理解されなければならないわけです。

そしてさらに、胃の気の脈診の生命論として『老子』をとりあげ、「生きとし生
けるものの実相は、やわらかく、しなやかで、生き活きとしているが、死に赴き
枯れるものは、堅くもろいものである、と。「伴注:『老子』には」生命の実体
を直感的に記述している。」(29p)として、「胃の気の脈診法はこのような生
命論に基づくものであることに気づかねばならない」(同ページ)と藤本氏は語
ります。

生命とはなにか。あるがままの生命を表現しているものとして脈を診ること。こ
れが胃の気の脈診であるということ。まさに「脈診するということは、胃の気の
多彩な’顔’盛衰を察知することにこそ、その本領があった」(26p)と、藤本氏
は考えられています。脈が刻々と不断に変化することは、まさに胃の気の表れ―
生命力の表現であると。非常に雄大でダイナミックで自由な脈のとらえ方であ
る、と言えるでしょう。

ところが藤本氏は自身の腕力でその胃の気の世界―生命の世界を破壊していきま
す。


    伴 尚志

■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』1/5


11月の勉強会で、胃の気の脈診について解説しました。その際、その内容が北辰
会におけるものとは異なると私が強調したため、北辰会ではどのようなものを胃
の気の脈診としているのか?という質問がありました。

私は北辰会と30年以上かかわっていないため、現在何をしているのかは実はよ
く知りません。この文章では、30年以上前に出版された北辰会の書物を書庫か
ら取り出してきて読み直し、それを基に考察してみました。

すると、その書物で表現されている北辰会の考え方と一元流鍼灸術の考え方の違
いの深刻さがよく理解できました。この文章は、その違いを再度明確にするとと
もに、胃の気の脈診の考え方に基づいて、一元流鍼灸術の考え方を研ぎ澄まして
いこうとするものです。



■藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸脈診法』概観


書庫から取り出してきた北辰会の書物というのは、藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸
脈診法』 ― 胃の気の脈診 ― 昭和59年3月15日第1版です。この古い書物が現
在の北辰会とどう関係しているのかは、わかりません。そのことを前提として考
察を進めています。

この書物に何が書かれているのかというと、北辰会の脈診法の紹介です。まず全
体を俯瞰していきましょう。この内容については後に論じていきます。

まず概論としてさまざまな古典が引用され、
・脈を診るとはどういうことか
・胃の気とはなにか
・胃の気と脈との関係
について解説されています。

さらに
・張景岳のいわゆる「弱以て滑」を胃の気の脈診の中心として、それを発展させ
る形で、弱以て滑が欠ける脈状全てを弦急脈と呼び、「諸々の脈状に弱以滑の脈
象が存在することが、平人であり、これに反するものは、すべて弦急の脈、と
解」(48p)すると述べています。この概念を基にして、北辰会の脈診術が展開
されていくわけです。ここ重要です。

すなわち、
・弱以て滑が欠けている脈状をすなわち「弦急脈」と定義して、これを四種類に
分けて紹介し、 ・その分けられた四種類の「弦急脈」それぞれに名前を付けな
おし、それぞれの症例の紹介をしています。

つまり、ここでいう「弦急脈」というのは、「弱以て滑が欠けている脈状」すべ
てを指すものです。ですから、広い範囲の概念なわけです。実際に見ることので
きる脈状のことではありません。その「弦急脈」を四種類に分け、今度は実際に
見ることのできる脈状として解説しているわけです。

おまけとして、
・景岳全書の脈神章から十六脈(浮沈遅数洪微滑濇(しょく)弦芤(こう)緊虚
実)の紹介および中医学的解説をし、さらに北辰会的解説をしています。

・死脈として歴代伝えられている七死脈(雀啄(じゃくたく)・屋漏(おくろ
う)・弾石(だんせき)・解索(かいさく)・魚翔(ぎょしょう)・蝦遊(かゆ
う)・釜沸(ふふつ))の紹介および中医学的解説をし、さらに弱以て滑の観点
からの解説をしています。

そして最後にまとめとして
・脈診におけるこまごまとした実用的な注意点が述べられています。

本書の全体は、以上のような構成となっています。

それでは、その中身について、検討していきましょう。

伴 尚志
■気一元の観点から観る ―胃の気を眺める脉診術

書物を読んで勉強していると生命力が「ある位置」で固まっているような感じが
します。そのため、ある脉状を掴まえてその名前を決めそれに関連する症状と治
し方を決めていこうとしたりするわけです。これはまるで、滔々と流れる川の流
れの中の小さな渦に名前をつけて、その渦の位置と深さと強さとによって川の流
れを調整する鍼の立て方を決めようとしているようなものです。よく考えてみて
ください。これはあまりにも現実離れしているとは思いませんか?

生きて動いている生命を眺めるということすなわち胃の気を眺めるということ
は、カテゴリー分けするための道具の位置にすぎなかった陰陽五行論の使い方を
一段高い位置に脱して、生命の動きを見るための道具へと深化させていくための
キーとなる概念です。

そのためこれを気一元の観点から観ると表現して、一元流鍼灸術では大切にして
いるわけです。

〔伴注:胃の気の脉診という言葉は同じなのですが、その内容は北辰会で語られ
ているものとはまったく異なりますので注意してください。言葉以前のもの―生
命そのものを意識してとらえること。これを胃の気の脉診と呼んでいます。〕

             伴 尚志
■生命力の変化を見るのが脉診

そのような脉診を少なくとも治療前と治療後にやり続けてきて徐々に理解してきたことは、実はそれよりも大きな脉の診方があるということでした。それは脉を診ることを通じて、「生命力の変化を診ている」のだということです。脉診を通じてみる生命力の変化は一瞬にして大々的に変わることもありますし、微妙な変化しかしないこともあります。それは患者さんの体調にもよりますし治療の適否による場合もあります。細かく診ているだけでは表現しようのない大きな生命力の動きのことをおそらく古人も気がついていて、これを胃の気の脉と呼んだのだろうと思います。

胃の気の大きな変化こそ、脉診において中心として把握すべきものです。これは生命力の大きなうねりなのですから。そしてそれはアナログ的な流れの変化のように起こります。ですから、何という名前の脉状が胃の気が通っている脉状であると表現することはできません。より良いかより悪いかしか実はないわけです。良い脉状にはしかし目標はあります。それは、いわゆる12歳頃の健康な少年の脉状です。楊柳のようにしなやかで、拘わり滞留することがなく、輪郭が明瞭でつややかな脉状。寸関尺の浮位においても沈位においても脉力の差がなく、ざらつきもなく華美でもないしなやかで柔らかな生命の脉状。これが胃の気のもっとも充実している脉の状態です。

胃の気が少し弱るとさまざまな表情がまた出てきます。千変万化するわけです。脉位による差も出てくるでしょうし、脉圧による差も出てくるでしょう。脉状にもさまざまな違いが出てきて統一感がなくなります。輪郭も甘くなったり堅く弦を帯びたり反対に何とも言えない粘ったような柔らかい脉状を呈するようになるかもしれません。

このことが何を意味しているのかというとを、歴代の脉書は伝えていますけれども、そこに大きな意味はありません。ましてそれぞれの脉状に対して症状や証をあてるなど意味のないことです。そんなことよりもよりよい脉状に持って行くにはどうすればよいのかという観点から治療方針を定めていくことの方が、はるかに重要です。

このようにして、陰陽五行によるカテゴリー分けにすぎなかった脉状診から、生命そのものを診る胃の気の脉診法が生まれました。そしてこの胃の気の脉を診るということへの気づきが、それまでの陰陽五行論を大きく発展させました。それが、気一元の場を、陰陽という観点 五行という観点から眺める、という一元流鍼灸術独自の陰陽五行論となったわけです。


                       伴 尚志
■陰陽五行で脉を診る

気一元の観点で捉えることの初期に行われていた思考訓練は、陰陽で人を見る、
五行で人を見るということでした。陰陽で人を見る、五行で人を見るということ
から学んできたことは、バランスよく観るということです。バランスが崩れると
いうことは陰あるいは陽が、また五行の内の一つあるいはいくつかが偏って強く
なりあるいは弱くなったことによって起こります。バランスが崩れるということ
が病むということであり、バランスを回復させることが治すということであると
考えていました。自身の観方に偏りがないかどうか、それを点検するために陰陽
五行を用いて「観る」ことを点検していたわけです。

脉を取ることを用いて、この段階について解説してみましょう。

脉というものはぼやっと見ているとはっきり見えないものです。見るともなしに
見ていると見えないものであるとも言えます。何かの目標を持つことによって、
見たいものが見えてきます。それがたとえば六部定位の脉診です。寸関尺の脉位
によってその浮位と沈位との強弱を比較してもっとも弱い部位を定めていくもの
です。一元流の脉診であれば、六部定位の浮位と沈位とを大きくざっと見て、そ
の中でもっとも困っていそうな脉位を定めてそれを治療目標とします。

この大きくざっと見ることが実は大切です。脉そのものをしっかりとみることも
できていないのに、脉状を云々する人がたくさんいるわけですけれども、そんな
ものはナンセンスです。先ず見ること。そこに言葉にする以前のすべてがありま
す。見えているものをなんとか言葉にしていこうとうんうん呻吟した末に出てく
るものが、脉状の名前でなければなりません。言葉で表現したいと思う前にその
実態をつかんでいなければいけないということです。このようにいうと当たり前
のことですけれども、それができていないのが現状ですので何度も述べているわ
けです。

見て、そしてこれを陰陽の観点から五行の観点から言葉にして表現していきま
す。これを左関上の沈位が弦緊で右の尺中が浮にして弾、などという表現となっ
て漏れてくるわけです。これが陰陽の観点から五行の観点から見るということで
す。寸口や尺中という位置が定められ表現されているのは、五行の観点から見て
ここが他の部位よりも困窮しているように見ているものです。濡弱とか弦緊とか
表現されているのは、堅いのか柔らかいのかという陰陽の観点からその脉状をバ
ランスよく見ているものです。


                        伴 尚志
■臍下丹田と『難経』

さて、東洋医学ではこの「一」の括りについていくつかのパターン化された認識
が提供されています。これを一元流ではまた身体観などと呼んでおり、テキスト
の五行のところで述べられています。後天の気である土を中心とする身体観、人
身の天地をつなぐ木を中心とする身体観、先天の気である水を中心とする身体観
がそれです。

ことに最後の水を中心とする身体観は、臍下丹田の認識とも相まって仏教的な身
体観を表現するものとなっています。この臍下丹田を人身の中心とし、そこに意
識を置くことを重視する身体観は、そもそも仏教独特のものです。

『難経』において、腎間の動気が重視され、人身の根としての尺位の脉の状態が
重視されている理由は、仏教の影響によるものです。『難経』の成立と同じ時期
に、それまでの黄老道を基礎として占筮や咒符と登仙へのあこがれを混合してま
とめ上げた、道教ができあがりましたが、これも仏教の伝来によって支那大陸土
俗の文明が刺激されたことによるものです。

黄老道という周代から続く中国独特の天人相応・陰陽五行の思想が、臍下丹田と
いう中心を得ることによって「意識の位置」において大転換を果たしたわけで
す。その代表的な書物がやはり『難経』と同じ頃に成立している内丹法の古典で
ある『周易参同契』です。道教はこれ以降、内丹外丹の思想を修養の中心とした
思想体系を作っていきます。中国医学はこの道教の人間観に大きな影響を受け、
また道教徒自身も重要な担い手となっています。

しかし日本においては学問の担い手が僧侶だったこともあって、道教の人間観よ
りも仏教の人間観の方が色濃く伝来しています。そのため、日本医学においては
腹診が重視され、臍下丹田の重要性がより強調されることとなりました。気一元
の観点で難経を読み直した『難経鉄鑑』が誕生した背景はこのあたりにあると私
は考えています。

そしてそれは実は、すでに存在していた『黄帝内経』とは別に『難経』を書くこ
ととなった『難経』の作者の本当の意図なのではないかとも、私は密(ひそ)か
に考えているのです。

                    伴 尚志
■「一」つの括り

「一」の概念を把握することを難しくしているものに、それが当たり前すぎて意
識されないため、言葉になっていないことが多いということがあげられます。存
在そのもの、生命そのものといったときに私たちはそこに何を見ているのかとい
うと、生命を生命としてそこに構成している一つの宇宙を見ています。であれば
生命と呼ばずに宇宙と呼べばいいわけなのですが、この言葉を使ってしまうとま
た別の概念がそこに生じてきてどこか遠くにある何ものかを想像してしまうこと
となります。そこで、それを表現する「以前」の躍動しているそれ―存在そのも
の―をやむを得ず「一」と呼んでみたり「生命」と呼んでみたり「存在そのも
の」と呼んでみたりするわけです。太極図の概念としては無極―ありのままにあ
るそれ―という言葉が相当します。

この「一」、生命をもっている「それ」を見る場合に、無意識のうちに大前提と
しているものがあります。それは「それ」が生命を生命として存在させている枠
組みをもっているということです。存在している空間的な範囲・時間的な範囲が
あるわけです。この範囲―あるいは限界―を「括(くく)り」と私は呼んでいま
す。

陰陽を成り立たせるにも五行の概念で分析を進めるにもまず大前提としてこの
「一」の括りを意識することが必要です。この一つに括られているものを、二つ
の観点から眺めることを陰陽論と呼びます。二つの観点から眺めているわけです
けれども、一つのものをよくよく観ていくための概念的な操作を陰陽論ではして
いるわけです。

同じようにこれを五つの観点から見るという概念的な操作をすることを五行論と
呼んでいます。五行論は、一つのものをよりよく観ていくための、陰陽論よりも
少し複雑で、立体的な構造をもたせやすい概念です。

陰陽論も五行論も一つのものを無理に二つの観点から五つの観点から観ているも
のです。ですから、リアリティーをもってそれを理解するためには、あわい―表
現されていない 陰と陽との隙間 五行の一つと五行の一つとの隙間―を意識す
ることが大切です。表現されている言葉そのものだけではなく、言葉と言葉の間
にある表現されていないもの、いわば言葉の裏側を認識することがとても大切な
のです。


                      伴 尚志
■「一」の視点に立つ

一元流鍼灸術では「一」ということの理解を深めることが要求されています。こ
の「一」というのはいったい何なのでしょう。何を意味しているものなのでしょ
うか。

ある会で講演を頼まれ、その会で発行している資料をすべて取り寄せてみまし
た。とてもよく勉強されていて、独創も多いのですが、ただ一点欠けているとこ
ろがあり残念に思いました。それが「一」の視点です。

東洋医学は汗牛充棟と言われるとおり、非常に多くの言葉が積み重ねられてきま
した。医学を支えている人間観ということから考えると、大陸の思想全体が網羅
されてきますので、一つの大いなる文明そのものを学ばなければならないのでは
ないかと気が遠くなってきます。まぁ実際その通りなのですが・・・

けれどもここで注意を払う必要があることは、言葉はただ「何者か」を指し示し
ている符号に過ぎないということです。古代の発語の時点においては確かにその
何者かを意識していたはずなのに、時代を下り言葉を連ねるのがうまくなるにつ
れて、徐々に言葉はそのリアリティーを失っていきます。そして、言葉に言葉を
重ねて学者然とする一群の「偉い」人々が出現しました。もちろん彼らは古い時
代の花の蜜を現代に伝えるミツバチのように言葉を運ぶことはできますし、彼ら
の影響で私どもは今勉強することができるわけですから、たくさんの感謝を捧げ
る必要があります。

けれども我々が学んでいく際、とても大切なことが実はあります。それは、時代
を超えるミツバチは言葉を運んでいるのであって、発語のリアリティー―初めて
言葉が発せられなければならなかった瞬間の感動―を運んでいるわけではないと
いうことです。発語のまさにその時のリアリティを感じとることができるかどう
かはということは、現在生きて学んでいる我々の、何を学び取りたいのかという
「意識」にかかっているわけです。

ここに、心を沿わせる、という必要が出てきます。あらゆる迷妄を打ち破って初
心に立ち返り、初めて出会ったものとして存在そのものを見つめ直す姿勢。そこ
に言葉を発する時のリアリティがあります。言葉を発する時というよりも、言葉
を発する直前の何とも言えない感動、ここを表現しておきたいという強い思い。
それがそこ―古典には存在していて、我々はそこに心を沿わせていかなければな
らないのです。

「一」とは何か、というと、この存在そのもののことです。記憶している言葉に
よって物事を評価し・分析して・理解できたことにして満足するのではなく、存
在そのものへの驚きと畏れ、それと出会った時の感動に寄り添うということで
す。存在そのものに深く耳を傾けること。このことによってはじめて、言葉を発
するまさにその時の感動が私どもの中によみがえってきます。そこ。言葉の側で
はなく存在そのものの側に立ってそこに表現されている言葉を理解していく。こ
の姿勢を保つことが、一元流鍼灸術の「一」の視点に立つということです。

                       伴 尚志

この人とブロともになる