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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■ 気づきの種


ここで学ぶことは一つの種です。
この種は、気づきによって成長していきます。

この種を成長させるコツは、
固定観念にとらわれずに観、
固定観念にとらわれずに聴くということです。

固定観念にとらわれないということは難しいことです。
固定観念にとらわれないと思うことそのものが固定観念になりえますから。

そのため、固定観念にとらわれないということを別の言葉で、
気づく、と呼びます。

何かに気づくとき、心はジャンプします。
その心のジャンプが、
歓喜とともに、
光明を、
その心に射し込ませます。
そして、それは、その人の世界が一段階広がることにつながります。

このような気づきを重ね重ねていくことによって、
いつの間にか人を診れるようになります。

気づくということができるということは、
奇跡です。
そして、この奇跡は、
自身が無明の中に存在しているからこそ、
起こりえるものであるということを、
よく理解していただきたいと思います。
無明の中にいるありがたさ、
これが「無知の知」と呼ばれるものの正体です。

無知であることを恥ずることはありません。
それを早く自覚することによって、
早く気づきの種が育ちます。

無知であることを恥ずることはありません。
無知であることを知り続けることで、
人は始めて、
いつまでも気づきの歓喜の光の中に
立つことができるのですから。

皆さんは学ぼうと決意されてここに集まりました。
学ぼうと決意されているということは、
自分が無知であるということを知ることができている、
光明への扉を叩いているということを意味しています。

その初心を忘れずに、
その謙虚さを忘れずに、
患者さんの身体に対し、
古典を読み込み、
臓腑経絡学を点検し
自分を磨き上げていただきたいと思います。


                  伴 尚志
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■ 古典を読み身体を読む心

鍼灸医学は、東洋思想に基づいた人間学にしたがって人間を
見つめることを通じて、その生命医学・実証医学としての体系を
作り上げてきました。

この基本とは何かというと、観ることです。観て考え、考えてま
た観る。事実とは何かということを観る、とともにその底流に流
れる生命原理について思いを尽す。その無窮の作業の果てに、
現在古典として伝えられている『黄帝内経』などの書物が出来
上がっているわけです。

鍼灸師としての我々はそれらの書物を基にしてふたたび無窮の
実態、古典を古典としてあらしめたものそのものである、目の前
に存在する人間そのものに向かっていくわけです。そして、どう
すればよりよくそれを理解できるだろうか、どうすればその生命
状況をよりよい状態へともっていくことができるだろうかと探求し
ているわけです。


古典というものは、いわば身体を旅するための地図の役割をし
ています。時代によって地域によって違いはあります。けれども
その時代その地域において、真剣に人間を見続けたその積み
重ねが、現在我々が手にすることのできる資料として言葉で残
されているわけです。これはまさにありがたいことであると思い
ます。

この深く重厚な歴史の積み重ねは、東洋医学の独壇場ともいえ
るでしょう。けれどもその書物の山に埋もれることなくそれを適
宜利用していけるような人材を作るということが、学校教育に求
められています。外野としての私は、その支援の一つとして、中
心概念をここに明確にしています。それが気一元として人間を
見るということと、その古代哲学における展開方法としての陰陽
と五行の把握方法をお伝えすることであるわけです。


古典という地図には読み方があります。そもそもの原典であり
古典である患者さんの身体は、時代や地域によって異なります。
現代には現代の古典となるべき地図が、実は必要です。現代の
人間観、宇宙観にしたがいながらも、目の前に存在している人
間を観ることに徹底することによってはじめて、古典を綴った古
人とつながることができます。この心意気は必ずや、現代にお
ける未来への古典が綴られることにつながっていくでしょう。こ
れこそが澤田健先生の言われた、「死物である書物を、活物と
する」技となります。


思えば、古典を読むという際の白紙の心と、目の前の患者さん
の身体に向かう際の白紙の心とは同じ心の状態です。無心に
謙虚に、対象をありのままに尊崇する心の姿勢が基本となりま
す。


このあたりのことが、『鍼道秘訣集』に書かれている心がけの大
事ということになります。
■初原の門

東洋医学を勉強したり治療において症状の解決技術に着目したりしていると見失われてくるものが全体観、気一元の観点から観るという視座です。昔、学園闘争華やかなりし時代に、東大の教授が専門のことしか知らないことから「専門ばか」と揶揄されていましたが、彼らが見失っていたものがそれです。学問の細かい世界においては、顕微鏡を覗くような、重箱の隅をつつくようなものを積み重ねて検証していくということは必要です。しかし臨床においては、全体観を見失うことは許されることではありません。この端的な例が、手術には成功したけれども患者さんは亡くなってしまったという言いわけです。よりよく生きるということを目指すべき医療において、生命力をどのようにつけていくのかという観点がおろそかになっているため、このような事態を引き起こし、このような言いわけが通用すると考えてしまうわけです。


見ることを始める位置。初原の位置は、ぼやっとはしているけれども、生命そのものの交歓を眺めうる視座(視点の位置)です(いわゆる子供の視座)。そこから生命って何だろう?人はどうやって生きているのだろう?この症状を取るにはどうすればいいだろう?東洋医学って何だろう?という疑問と好奇心が始まります。ところが徐々に、生命の交歓から離れ、書かれているものを読み、全身の状態を離れて局所の(にあると思っている)症状にとらわれていくことになってしまうわけです。とらわれているという点で、これは罠であると言うこともできるでしょう。


もともと生命そのものを喜び慈しみあう美しさに充ちた世界を、さらによく理解したいという興味、好奇心から始まった言葉の世界が、知るという喜びからわれわれの心を引き離してしまう。この罠は、「知恵の木の実」をたべてエデンの園から追放されたアダムとイブが引っかかった、蛇の罠のようです。


「一元流鍼灸術の門」は、その罠に陥った中医学や東洋医学を学ぶ方々へ、ふたたび立ち戻る位置を示したものです。気一元の観点に立脚してきちんと観ていくということは、まさに生命そのものを問い続ける作業でです。このゼロの位置とは何か。初原の位置とは何か。何を自分は観ようとしていたのか。それを思い起こし再び臨床と勉強に臨んでいく「初心の門」こそが「一元流鍼灸術の門」であるわけです。
11月の勉強会、読み合わせは、「経穴をみつけるための経穴
学」322pです。

ここが実は東洋医学すべての基礎となっているわけで、『黄帝
内経』や『難経』も、ここの探究から出ていると考えています。

いわば、生命が生命に触れるという、もっとも深刻な=大切な
位置です。ここを探究していくことを通じてのみ、古典を乗り越
え、未来に残る鍼灸医学を作り上げていくことができます。

これが、一元流鍼灸術の目標の一つです。


この位置の探究は、

1、実際に存在しているものと、その表現としての言葉との関係、

2、触れるという行為は、相手に触れているのか、それとも自身
の脳にある体験を追体験して整理しなおしているにすぎないの
か。

3、自分が過去に体験したものしか触れることができない。過去
に体験したことがらで整理されている概念のなかに、現在の体
験も押しこめられるころが多い。

〔伴解説:過去に体験したことがらを通じて、個々人それぞれの
今の概念体系ができあがっています。一度できあがった概念体
系を通じて、多くの人はその後の体験を整理していきます。そ
のため、大人になると世界が理解できたような気がし、マンネリ
のつまらない人生を送ることになります。なぜかというと、すべ
てのことがらが追体験にすぎなくなっているためです。しかし事
実としては今ここで起こる体験は、まさに一度きり今限りのこと
です。そのことについて述べています。〕

その意識の位置から出て、今、実際にそこにあるものに触れる
ことを感じることができるようになるためにはどうすればいいの
か。

ここには、乗り越えるべき高いハードルがある。このことを、理
解できているだろうか。


4、そのハードルを乗り越えて、新たに言葉をもつことができた
としても、それを実際に表現する時、そこには必ず自己の表現
体系(言語体系)が入らざるをえない。このようにして発せられ
た言葉が、原初の古典となって遺されているということを、深刻
に理解しなければならない。

5、人は、ほんとうに他者と共通の言葉を持ちえるのだろうか。

このような、深刻な課題と実はなります。

どの経穴がどのような症状に効果があるというような単純な問
題ではないということに、気がつくことができる人がどれほどい
るでしょうか。

このあたりのことは、言語学(栗本慎一郎『意味と生命』)や実存
主義(ハイデッガーやメルロポンティ)が、展開しています。

さらに言うならば、『般若心経』に描かれている、意識の位置、
禅の修行者が到達している、不立文字―無言の位置あるいは
論理としての「空観」あたりがすでに、この間の事情を表現して
います。ここは西田幾多郎が東西の哲学を橋渡ししています。
(西田幾多郎は難しいので、その分子生物学者による解説書を
紹介しておきます。『福岡伸一、西田哲学を読む』―生命をめぐ
る思索の旅)

現代の東洋医学者、石田秀実の絶筆である『気のコスモロジ
ー』―内部観測する身体も読みやすく総合的な理解を深めてく
れることでしょう。

とさまざまなことを述べましたが、ひとまず今は、「新たな気持ち
で経穴を診る」ということに心を砕いていきましょう。

ということで実技は、前回に続いて背候診を行います。診方、見
え方はどのようには変化しているでしょうか。
■「患者さんの身体から学ぶ」方法論の確立

患者さんの身体から学ぶというとき、その方法論として現代医学では、臨床検査やレントゲンやCTなどを用います。筋肉骨格系を重視するカイロなどでは、その身体のゆがみや体運動の構造を観察する方法を用います。東洋医学では望聞問切という四診を基にします。一元流はこの四診を基に、生育歴(時間)と体表観察(空間)とを統合して用います。

これらすべては、人間をいかに理解していくのか。どうすればその患者さんの疾病に肉薄し、その患者さんの疾病を解決する方法を探るために行われるものです。東洋医学ではこれを疾病理解や治療技術という経験則を積み重ねる中から、人間理解へと昇華し、その方法を弁証論治として提示できるようになりました。

一元流鍼灸術では、この生きて活動している気一元の身体がそこに存在しているということを基本に据えた弁証論治の方法を、技術としてまとめて提示しています。

東洋医学はその発生の段階からこの全体観を保持していました。そして、体表観察を通じて臓腑の虚実を中心とした人間観を構成していきました。臓腑経絡学に基づいたこの人間観こそが東洋医学の特徴であり、他の治療技術の追随を許さないところとなっています。
■ 鍼灸古典図書の紹介

鍼灸古典図書 https://1gen.jp/kosyo/

ここには、基本的な古典の書籍が揃っています。けれども量も多く、読みにくい書物ばかりなので、いちおうとっかかりが必要かなということで、簡単に記載しておこうと思います。

必須なのは「日本医学史:富士川游」です。歴史ある医学を学ぶわけですからどうしてもその歴史の大枠をつかんでおくべきです。それによっていつの時代にどの程度のことがあったのかといったことが把握できます。この書物は明治時代に書かれたものです。大部ですが比較的読みやすく、日本医学史としては現代に至るまで基本著作ということになります。けれども古本屋さんでしか手に入りません。これを通読しておきましょう。

鍼灸というだけでなく東洋医学の古典というと『素問』『霊枢』ということになりますが、これを項目別にまとめなおしたものが『類経:張景岳』です。ここに掲載してあるものは江戸時代の日本で刊行された版ですので、漢文だけではなく返り点送りがながついて読みやすくなっています。『類経』は『素問』『霊枢』の解釈もそこに掲載されており、その解釈の良さには定評があります。また最後の方には『類経図翼』と『類経附翼』があり、医易を考えていくための基本的な文章となります。

医学総合の所の『景岳全書』は、『類経』と同じ張景岳の著書です。人間観や治療概念などのバランスが非常によいのは、景岳が医易を基本としているためでしょう。また証に対する治療法が詳細に掲載されており、景岳の時代1600年ころまでの治療法の総まとめとしても勉強になるものです。この『景岳全書』は、鍼灸古典図書の頁では『景岳全書:疾病論:張景岳』『景岳全書:本草篇:張景岳』として上下に分けて掲載しています。現代中医学でも一目置かれている貴重な書物です。大部なので、辞書的に使用されるとよいと思います。この目次、たいへん苦労して作成しています。利用して下さい(*^^)v

後は興味の方向に従って目次をにらみながら読んでいけばよろしいかと思います。

字句に拘わり方向性を見失ったときには、再度『一元流鍼灸術の門』の総論に戻ってきて下さい。読みの深さが変化していることでしょう。
■ 三焦


《難経》において、もっとも大切なことは、臍下丹田を中心とする人間観が提示され、腎の陽気すなわち命門の火が上中下の全身に満ちている状態が三焦であるとされているところです。


すなわち三焦という相火は熱気であり下から上に上っていき、全身の温かさの大本となります。心主は光り輝く明るさであり上に輝き、全身を明るく照らし出す大本となるわけです。


きわめて単純で基本的なことなのですが、古来さまざまな論争が行われてきたということは、三焦論の資料をご覧になっていただければ理解できるでしょう。

また、現代の鍼灸師の間にも、三焦は陽気だから陽経を流れる。三焦が治療の極意であると言われているから、陽経治療ですべての病気が治るとのたまわる論がありますが、それがいかにナンセンスなものか、自分の頭で少しでも考えることができる方ならば理解することができると思います。

そのグループの論文には、陽経は暖かく陰経は冷たいなどといった噴飯ものの論を講師が堂々と書いており、経絡治療というもののレベルの低さを見せつけてくれるものとなっています。

武士の情けでその会がどこであるかは言いません。もしこのブログを読んでいるようであれば、密かに方針を改め、三焦論を一から勉強し治し、あたりまえの論を提供できるようにしていただきたくお願い申し上げます。
■ 陰虚陽亢界隈


> 陰虚陽亢の陰陽が、五臓の心と腎のことだとは驚きでした。
> 僕はてっきり全身の形態としての陰と、機能としての陽のこと
> だと勘違いしておりました。
>
> これがいわゆる場の設定が間違っているということなんでしょうか(^_^;)
> 陰陽という言葉は特に色々な使われ方がされているようなので
> この場の設定に気をつけたいと思います。

これは場の設定の問題ではなく、陰虚陽亢という言葉の解釈の
問題だと思います。陰虚陽亢という言葉は、陰が虚することによ
って陽が亢ぶるという意味です。陰が虚するという言葉の中身
には気の方向性はなく、その場で陰が虚しているという意味が
含まれています。陽が亢ぶるという言葉の中身には上衝し膨張
するという意味が含まれています。

このような語感に基づいて、陰虚とは何を意味しているのか、そ
れに対して相対的に亢ぶっていく陽とは何かということを、その
症候を踏まえながら考えていくわけです。陰虚陽亢の陰とは腎
ではないか陽亢の陽とは心ではないかということは、上記の思
考の結果の一部の表現にすぎないわけで、そこに至るまでの思
考過程が大切です。

また、自分が考えたことが正しいのか間違っているのかというこ
とは、自分の考えをいったん離れて点検し直すことで行います。
たとえば、陰虚陽亢の陰が全身の形態であり陽が全身の機能
であると定義してみるとします。すると、全身の形態が虚すこと
によって全身の機能が亢ぶるという病態であるということになり
ます。これでは陰虚陽亢が指し示している症候に合いません。
また、機能がたとえばバランスよく亢ぶることのどこかに問題が
あるでしょうか?機能が亢ぶるということの内容は、いわば新陳
代謝の速度が速くなるということであり、さまざまな活発な運動
を行うのはそのためであったりします。機能が亢ぶることによっ
て虚しているとされる形態もおそらくは回復するでしょう。という
ような思考過程を経ることによって「陰虚陽亢の陰が全身の形
態であり陽が全身の機能である」という説は否定されることとな
ります。

片手では自由自在な発想が必要なわけですけれども、その正
誤判定のためには、その自由自在な発想をして出てきた結論
から今一度離れ、新たに論理的に考えを構築していく必要があ
ります。


> そして陰虚陽亢の陰陽が、五臓の心と腎のことであるならば
> 勉強会の場で僕が質問させていただいた
> 「陰虚陽亢における陽亢の正体は、
>  陰と共に減ってしまい少なくなった気の滞りによる一種の気虚気滞では?」
> との仮説は当てはまりませんね。

これはさまざまな意味で当てはまりません。もうちょっと複雑精
緻に考えを進めていきます。このあたりは実際に病因病理を考
えていく中で気が付かれていくのではないかと思います。


> 陰陽両虚が腎虚が中心だとの話題もでましたが
> これは陰虚陽亢の陰虚(腎虚)がより進行して陽である心にも
> 波及した末になるものなのかな、などと帰りの新幹線の中で
> 考えておりました。

陰虚陽亢の果てには陰陽離乖によって起こる狂気とか死がみ
えてきます。陰陽の交流がうまく行われずに陰虚と陽亢のアン
バランスが劇しくなっていくという考えかたです。陰陽両虚の人
は陰陽のアンバランスが劇しいわけではなく、全体的に弱いわ
けですから、病態としてかなり異なります。

このあたりのことも個別具体的に病因病理で考えていった方が
理解しやすいところでしょう。
■Q&A気鬱を邪気としてはみないことについて

一元流鍼灸術では、患者さんの身体を理解するために四診を用い、その表現として言葉が豊富で使用しやすいため、中医学の用語を用いることが多くあります。そのため、中医学の研究家の方から、さまざまなご批判があるかと思われます。


> 説明の中で使われている‘気鬱’についてですが、
> 通常正気であるものが生体に対して病理産物になったり、
> 悪影響を及ぼす場合には名称が変わります。
> ですので、‘気鬱’という言葉を使った時点で即病邪を示すと
> 思われます。これは中医学に限らず、一般論だと思います。


気鬱というのが、どのように使われているのかというご説明を申し上げます。

気鬱というのは、気の鬱滞ということを意味しているに過ぎず、これは、気虚と相対する概念として使用しています。一つの生命体の中に気虚の部分と気鬱の部分が存在し、そのまだらの気の状態について濃い部分を気鬱、薄い部分を気虚と表現します。そのため、一元流鍼灸術では、それがそのまま病邪を意味するものとはしません。

この発想の原点は、張景岳の《景岳全書》〈命門余義〉の中の『飲食物を消化することができれば、それは必ず運行されるが、もし消化することができなければ、必ず留滞していく。消化されて運行されれば気血に化していくが、消化されずに留滞されるなら積となり痰となっていくのである。』という言葉あたりが参考になっています。

痰といえば内生の邪ですけれども、それも体内において生気と邪気とに融通無碍に変化すると景岳は考えていたのですね。

> 例として
> 自然界が寒いときにその事が体の陰気を補う作用に働いた時は
> ‘寒邪’が陰気を補ったとは言わないでしょう?

この例は、適切ではありません。邪という言葉を用いるときと、上に説明したような気鬱という言葉を用いるときを同一視することはできませんからね。

> 次に‘陽明腑実’ですが、この言葉イコール三承気湯の適応を意味すると
> 思います。

これは便秘の概念の一部を使用して、五臓の弁別の中で用いたものです。五臓の弁別の中では、特徴的な徴候を、あまり前提を用いずに書いていくという作業を行います。それを通して、ある症状をさまざまな角度から自在に眺められるようにし、それらの中から、全体観に基づいて病因病理を考え、それを整理統合していこうとする方法論を用います。ですから、何でもかんでも傷寒論を用いているという言葉はあたりません。

> 虚寒や寒邪内攻を主張されていて、上記の病理状態が共存しないこともないですが、
> もしその事を主張されるのであればそうとう絞り込んだ弁別が必要だと思います。

このために病因病理を考えているわけですね。
■邪気と生気とは陰陽関係にはない

生命を気一元のものとして把握するということを一元流では基本としていますので、邪気はそれが気一元の生命にどのような影響を与えているのかという側面から考えていきます。

気一元の場を設定して陰陽をものさしとして使用することはできますけれども、邪気と生気との関係を考えていくには場の設定が改めて考察されなおす必要があります。

邪気と生気とは、一つの場を構成しているものではないので、陰陽関係ではありません。だからこそ病位を定めてそれを攻撃し邪気を排泄させようとするわけです。


■Q&A陰陽論

今回の勉強会は、先日告知したとおり陰陽論の読み合わせの続きをやりました。読み合わせだったのですが、冒頭で私のチャチャが入り、壮大な質疑応答となりました。そのちゃちゃとはテキストで引用されている《素問・陰陽応象大論》の文章なんですね。

『黄帝は述べられました。陰陽は天地の道、万物の綱紀、変化の父母、生殺の本始、神明の府です。病を治療する際には必ずその大本を求めなければなりません。陽が積み重なって天となり、陰が積み重なって地となります。陰は静かで陽は躁がしいものです。陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。陽は気に化し、陰は形を成します。』

よく、陰陽は相剋し合って、陰が長じれば陽が滅び、陽が盛んとなれば陰が縮むという言い方がされます。陰陽マークに用いられる太極図なんかはまさにこの支配領域が相互に浸食しあうことを表現しているもので、万物は流転し変化し続けるということが陰陽論の基本なのだよと言っているように思えます。ところがここでは「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」と述べられています。つまり陽の充実は陰の充実につながり、陰の充実は陽の充実につながると述べられているわけです。これはどういうことなのでしょうか。

治療を思い浮かべれば理解できますが、気を補うことでその場の血を増やそうとします。気が集まるところには血も集まるわけです。鍼を刺したり灸をするとその部位が発赤します。これは気を補うことによって血が集まるという状況を目に見える形で示しているものです。鍼灸における治療行為はこの原理に則って行われているものです。

と、このような説明を加えたところ、ふと思いついたY先生から陰虚陽亢とはどういうことなのでしょう。という質問が起こりました。上手に地雷を踏んでくれているわけです。疑問の持ち方が素直ですよね。「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」というのであれば、陰が虚すれば陽も弱るはずではありませんか。それなのに陽亢するというのはどうしてなのでしょうか、ということが質問者の内容です。

そこでかなりの時間を費やして、陰虚陽亢という言葉の中身について検討が行われました。じっくりと迷うことを大切にしながらやっていったわけですが、そこは省略します。で結論だけを述べますと、この陰虚陽亢という言葉の中身、すなわちこの陰虚というのは全身の陰の中心である腎の場合が多いわけです。けれどもそう言ってしまうと少し狭くなってしまうので、陰虚と表現しています。陽亢というのは相対的に陽気が強くなっている状態で、この陽気の中心は心ですけれどもやはりそう言いきってしまうと狭くなるので陽亢と言っているわけです。つまり陰が虚することによって相対的に陽が突っ張って膨張した状態、これを陰虚陽亢と表現しているわけですね。


このあたりの説明についてMさんがいい質問を投げてくれました。それは、先ほどの「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」という《素問・陰陽応象大論》の説明と、この陰虚陽亢の説明とは矛盾するのではないですか?ということです。これにOさんがフェーズが違うためということで答えてくれました。すなわち、陰虚陽亢というのは気一元の器の中の、病的な状態について表現しているものであって、《素問・陰陽応象大論》の「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」というのは気一元の器そのものの充実の仕方と損傷の仕方、育ち方と亡び方について述べているものであるということです。いわば《素問・陰陽応象大論》はしっかりと人間における陰陽の生長老死を視野に入れて書かれているということなのです。陰虚陽亢という言葉はその流れの中にある一時的な病的な状態―バランスの崩れについて述べられているものです。

これについてSさんがまたいい質問をしてくれました。「陰陽論の総論部分には光と影の陰陽とか書かれていて「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」という言葉とは矛盾していると思うのですが、これは陰陽という同じ文字を使っていてもそこで表現されている内容が異なるということなのですか?」というものでした。まさにその通りで、陰陽という言葉を恣意的に使われていることに対して反旗を翻したのが私なのです。そして陰陽という言葉の使用法を整理し直し使えるように整備したものが《一元流鍼灸術の門》なのです。陰陽という言葉を使用する前に、その物差しをどのような場で用いているのかを明確に意識しなければならない、ということが鉄則です。世の陰陽論が言葉遊びに陥っている理由が、この鉄則を踏まえていないことによります。このあたりのことを意識して《一元流鍼灸術の門》を読み直されると、大きな発見を得ることができるでしょう。

ということで読み合わせはほとんど進まず、そのまま経穴診の練習に入りました。はてさて、皆さんには勉強になったでしょうか。一元流鍼灸術というものがまったく新しい、けれども伝統に則った人間理解を基本にしているということが理解していただけると嬉しいのですが・・・
■一気留滞説の本義


四診についての解説はテキスト『一元流鍼灸術の門』の196pから書いてあります。
それとは別に要点をまとめてみたものを板書しました。

ーーーーーーーーーーーーー

〇生命にとって重要か
 1重要であり、急を要する→現代医学へ(交通事故などの大けがの場合も含んでいますので、それを考えると理解しやすいと思います)
 2重要でなく、時間がある→生命力を向上させる→気の偏在を調える
  
   1と2の岐路 皆、気虚の道を歩んでいる

〔伴解説:実際のところ、気虚が深ければ、外的な要因がわずかであっても疲れて倒れてしまいますよね。暑さ寒さや食べ過ぎや疲れなどの肉体的な負担や精神的な負荷によって、元気な人ではびくともしないようなことであっても、気虚が深ければすぐに倒れてしまいます。亡くなる場合もあります。ですから、重要であり急を要するものなのか、重要でなく時間があるものなのかは、その患者さんの生命力によってそれぞれ、大きく異なることとなります。

このことを考えると、生命力の充実度を測るということが、とても大切なことであり、診分けにくいものであるということが、よく理解されるでしょう。〕

〇症状が本人の意識にとって重要かどうかは、関係ない。
  生命力の観点から、考えていく。

〔伴解説:症状名が定められていたとしても、気虚が深くなると、たくさんの症状を同時にかかえていることが多いものです。本人は諦めているような症状などはすでに、問診での訴えはなされません。

言葉を通じて訴えられることのないような身体の状態を土台として、今の生命状況が作られています。今の症状は、そのような生命状況を基礎として出ているわけです。これをいわば、症状は氷山の一角であると表現したりします。

そのため、症状が重要ではない―目立っている症状に目を奪われていると、ほんとうの生命状況の厳しさが見えなくなる、と述べているわけです。

症状は、鍼灸師にとっては四診の材料の一つにすぎないわけです。〕


〇全身の問題か、部分の問題か(どれほど関わるのか)
 ・生命状況の変化に対応して症状は変化するのか
   時系列の大切さ
 ・症状も四診情報のひとつ

             ≪気の偏在を捉え、
              気の偏在を調える≫

〔伴解説:すべての人は気虚があり気滞が同時にあります。気一元の生命の中に同時にそれが存在しているわけです。つまり、まんべんなく広がっている砂漠のようなものが生命なのではなく、気の濃淡をいつもかかえて変化しているのが生命であるということです。

心が動けば動いた先に生命が集まります。体が動けば動いた先に生命が集まります。その生命力はどこかから動かされたものです。その動かされた場所の生命力は以前よりも薄くなりま
す。

すべての人が気虚をベースとしているということは、生命力=気が集まれば気滞が起こり、気滞が起これば、他の部分がおろそかになって、気虚になるという意味です。

全体の生命力の量が少なければ=気虚が深ければ深いほど、この気虚と気滞のまだらな状態は深くなります。このことがさまざまな病のもとになります。病と呼びますけれどもそれはそのそ
れぞれが日常の所作の延長にすぎないわけです。これがいわゆる一気留滞説の本義となります。〕

そのため、四診の目標はいつでも『気の偏在を捉える』ことにあり、処置の目標はいつでも『気の偏在を調える』ことにあるわけです。〕


と、こんな感じで解説をした気がします。理解されたでしょうか。
疑惑や疑問や批判、お待ちしております。
■ 水火木金土考

水火木金土。この順番が何を意味するのかということは、古典
を少しかじった方であれば自明のことです。すなわち母の胎内
で胎児が養われていく順番を指し示しています。

水というのはすなわち腎であり、火というのはすなわち心であり、
木というのはすなわち肝であり、金というのはすなわち肺であり、
土というのはすなわち脾です。

水火木金土、この順番に五臓が作られていくと古人は考えたの
だと、古典解釈者は考え、そこで思考停止するところです。また
あるいは、頭を腎として次に心臓が明瞭となり、肝肺脾と続くの
かも、というレントゲン的な解釈もなされたりします。

がしかしここでは、少し抽象的概念的に考えていきます。すなわ
ち五臓の生成陰陽論版です。

水火というのは腎と心です。腎は先天の精がここに舎るもので
あり、心は君火で先天の神がここに舎るものです。また、心は
火であり腎は水です。これは存在するものの金型(大枠:天地)
を構成するもっとも大きな単位であると考えられます。人身にお
ける地の始まりが腎であり天の始まりが心であると。このように
考えるならば、この腎と心とは人身の大枠を決定づけるものとし
てともに先天と定めることができるでしょう。

木は、天地を繋ぐものです。大いなる天に枝葉を伸ばし、大い
なる地に根茎を伸ばします。生命の有様そのもの、生きるという
こと存在するということに意味を与えるものそのものこそがこの
木にあります。先天に支えられてこの木が次に出てくるとことは
非常に興味深いことであると思いませんか。

そして次に出てくるものが、肺と脾です。肺は天空の気を取り入
れて吐き出すことによって気を養い、脾は地中の物を取り入れ
て血を養います。ともに生命活動の継続がここにおいて保証さ
れるわけですけれども、肺脾そのものは心腎があって初めてそ
の活動をなし得るわけですから、これを後天と名づけることがで
きるでしょう。

水火木金土。水火という先天と肺脾という後天、これを横に繋ぐ
ものとして木がありまた、水と火という位、肺と脾という位、これ
を縦に繋ぐものとして木がある、そんな立体的な構造としてこの
水火木金土が見えてくるでしょう。

肝木を中心とした生命観というのは、一元流鍼灸術においてキ
ーワードになっていますけれども、ここにまたひとつ、ユニークな
視点を得ることができるわけです。
■ 症状を診るのか人間を診るのか

>そして、それは『目の前にいる人の症状をみる』ことになりがちであるけ
>れど、『東洋医学で人を診る』というときには、『症状』だけを診るので
>はなく、『症状を出しているその人を丸ごとありのままに診る』という
>ことでよろしいのでしょうか?。


この症状を診てそれに解決をつけるということと人間を診てそ
れに寄り添うようにするということには、とても大きな違いがあり
ます。

上で、「一つの括(くく)りをつけることなくして、陰陽も五行も成
立し得ません。」と述べていますが、症状というものは一つの括
りとはならないわけです。症状だけで生きている人をみたことは
ないでしょう! 症状というものは生命力の現われの一つなんで
す。

そのため、どのような症状を呈していたとしてもまず、生命基盤
全体を「一つの括り」として観察する方法が東洋医学では提示さ
れているわけです。それがその「一つの括り」を定めた上で、陰
陽という二つの側面から「一つの括り」を観る観方と、五行とい
う五つの側面から「一つの括り」を観る観方です。

これをまとめて陰陽五行と呼びます。言葉にすると硬い感じがし
ますけれども、実際にこれを使ってみると、非常に柔軟で使い
やすい知恵に満ちています。

生き続けている生命、動き続けている「それ」をそのまま把(と
ら)えるには、陰陽五行ぐらいでばくっと把えていくくらいがちょう
どよいわけです。

この陰陽五行を医学において適用する舞台は、人間の生命で
す。この生命をどのように把えるのか、ということにはまた、さま
ざまな発想があるところです。

一元流では、東洋医学の伝統に従い、人間を生老病死という側
面から把えます。そしてこれをすこし使いやすく一般化してテキ
ストでは提示しています。これがHさんが上で「人の一生を東洋
医学で考えていきたい」と述べられているものとなります。
■ 続:陰陽問答


■ .陰陽のお話:問い

みかんで陰陽を語りましたが、ある方から、自分が使っているテキストには、
『陽』は天、『陰』は地と分けて書いてあるので、わかれているのかと思っ
ていたと話されていました。

もう少し、陰陽トレーニングをしてみたいと思います。


鍼灸の名著、杉山流三部書にも、『天は陽であり、地は『陰』である、・・
中略・・左は陽であり右は陰である』とあります。

こういった表記をみるときには、何を分けてみようとしてるのかという『場
の設定』の観点がとても大事ということなのですね。

みかんのお話で、私は、皮と実を陰陽にわけました。
では、右と左もみかんでも語れます。

みかんで考えて見ましょう。太陽は東から昇るので先に
陽があたるみかんの左側は陽、右側を陰としても考えることができます。
右左の陰陽ですね。みかんの見方で陰陽を語っている部分が違います。

天は陽であり、地は陰であるということを語っているときには、天地を
ひとくくりの場として考えているときの言葉ですね。このコミュのマークの
図も天地を陰陽で表現してあります。

明るいところは陽であり、暗いところは陰であると語っているときには、
光がある場所を設定しているということですね。大きくは昼と夜。
太陽の光が当たるところが陽、影が陰。そんな感じでしょうか。

男は陽であり、女は陰である。これは人間という動物をひとくくりにして
男と女にわけてみたのですね。

気は陽であり、血は陰であるといったときには、うっこの場の設定はなんて
いえばいいのでしょうか?。これは場の設定の仕方でいくらでも使える言葉
ですね。
たとえば、人間という場を設定しても語れます。肝という臓腑でも、肝気と
肝血という風に分けて語れます。これは場の機能と実質という分け方なのか
なと思うのですが、先生、いかがでしょうか?。
このあたりで私の限界がやってきました(^^ゞよろしくお願いします。


■ 日月の陰陽:答え


「それが陰陽関係にあるのかどうか」これが場を設定する上でとても大切な
こととなります。
関係ないものを陰陽で無理やり対比させても意味がありません。けれどもこ
のような言葉が巷にはあふれていて、この概念を混乱させる元になっていま
す。さらには、陰とは何々、陽とは何々などと、陰陽という言葉が対比を示
すものさしであるということすら理解できていない「似非陰陽家」が非常に
多いことには、愕然とします。

ここに集う方には、何が偽者であるのかきちんと見破ることができるように
なってほしいものです。

「一元流鍼灸術の門」の中にも書いていますが、代表的な陰陽の観方にも、
その時代の水準が反映されているものがあります。この代表的なものは、太
陽と月の陰陽です。日と月、それぞれに こざと偏 をつけて、「よう」と
「いん」と読ませることもするほど、これは陰陽の代表的な使用法です。日
本人の生活感としては太陽と月とが陰陽関係にあるということは常識の範疇
に入るものでしょう。ここではその感覚の内面を調べてみることにします。

日月が陰陽関係であるということが常識的なのは、一日に昼と夜とがあり、
昼を主るものが太陽であって夜を主るものが月であるという生活感覚が基礎
となっています。そして昼は明るくて夜は暗いという状態も、陰陽に対する
印象を固定化したものにしています。あぁこれが陰陽ということなのだなと
肌身で感じ取ることができる方が多いでしょう。

では、この日月というものがこれまで述べた陰陽関係でみるとどのように把
えられるのか。ここを今一度考えてみましょう。

日月が陰陽関係であるためには、その場の設定が必要となります。その場と
は一日の自然の運行を大きく一括りとしたものということになります。天地
の陰陽ではなく、天空を含めた自然の変化すなわち時間の経過を見通した上
で初めて、時間を一括りの場として観ているわけです。

これまで述べてきた空間的な括り方とは異なり、時間的な括り方がここでは
出てきているわけですね。

さて、現代人は、昼にも月が昇って沈むことを知っていますし、夜にも太陽
が地球の裏側で輝いていることを知っています。科学的な知識です。さらに
は、太陽系の中の一つの惑星が地球であるということも知識として理解して
います。この理解の上に立つと、月と太陽が陰陽関係にあるということなど
は、チャンチャラおかしい古代の妄想の類になってしまいます。いわば、そ
の時代の常識によって陰陽の把え方も異なってくるものだということですね。

そのため、このように陰陽の概念が再度、現代において整理される必要があっ
たわけです。
■ みかんの陰陽:Hさん


東洋医学で人を診るということは、
目の前にいる『人』を、ありのままにみる。

ありのままにみるときに、陰陽五行など、歴史的な考え方を使ってみる。

ということなのでしょうか。

目の前に『みかん』がひとつあります。

みかんは、皮をむくと中味がでてきます。皮と実にわけられると。

これを陰陽でみると、
 皮を表面だから『陽』と診る。
 実を中味だから『陰』とみる。
 
皮である『陽』と実である『陰』にわけると、みかんを『陰陽』で診ることに
なるのですね。

そして大切なのは、『陰』と『陽』にわけているけど、みかんは一個まるごとで
みかんで、『陰』と『陽』である、皮と実があるからみかんではないこと。

目の前の『みかん』をよく見るために、陰陽という概念を使い、
皮と実をわけてみたと。

では、実のなかには、フサがあります。

そのひとつのフサを取り出すと、フサには皮があり、実がある。
ここでも、フサの皮を『陽』と、フサの実を『陰』とする診方がある。

中味の実にも、小さな袋の皮と中味の実がある。
中味の実も細胞で考えたら、細胞膜という『陽』と細胞質という『陰』がある。

陰陽でみるのは、どこを『ひとつ』として診ているのか。
ここが一番大事なのかなと思いました。

これから学ぶ、東洋医学で人を診るときにつかう、陰陽五行は
このように 『何を診るためにわけているのか』をよく意識しなが
らみていかないと、 とてもごーーーちゃごちゃの概念になり、
なにがなんだかわかんない(^^ゞに なりそうですね。

『東洋医学で人を診る』ということは、
『陰陽五行などの歴史的な物指しを使って、目の前の人を診る』
ということでよろしいのでしょうか?

皆さん、ここまでのお話でご質問などありませんか?

これでよろしければ、このあとは、人の一生を東洋医学で考え
ていきたいと思います。



■ いま少し用心深く陰陽について考えていきます


>『東洋医学で人を診る』ということは、
>『陰陽五行などの歴史的な物指しを使って、目の前の人を診る』
>
>ということでよろしいのでしょうか?

このように言われると、それは少し違うと言わなければなりませ
ん。少しだけなんですけれども。


まず、目の前にある対象(人間)をよく理解しようとしている、と
いう点では、現代の治療家と何も変わるところがありません。

現代においては、血液や尿の臨床検査やレントゲンなどの観察
方法が提示されていますが、当時はそのような機械はありませ
んでした。

似たような解剖学的な知識はありましたけれども繊細さと精密さ
とにおいて、現代医学に及びもつかない位置にありました。


そのような状況の中で何を人間理解の道具としていたのか。


【ここが問題であり大切なところとなります】


このあたり、自分自身が対象をどのようにして理解しようとして
いるのか、振り返ってみるとわかりやすい思います。

たとえば病気の患者さんがやってきて、目立つところである症
状に着目するということは、人間理解の第一歩ではありますけ
れどもそれで人間を理解しているのかというと、そうではありま
せん。

症状を出さしめている土台があるわけです。そこを理解しようと
する時、どのような方法を用いるのかということです。


【ここが問題であり大切なところとなります】


古人はここにおいて、当時の最先端の思想であり宇宙論である
陰陽五行をものさしとして人間にあてはめていきました。

その際に基本となる発想は、大自然と人間とは対応関係にある
ということです。(これを「天人相応」とか「人身一小天地の論」と
呼んでいます)

そして、陰陽五行の理論を対象に応用する際の基本として、場
の設定―どの範囲を見るのかという対象の設定―を求めること
となるわけです。

この一つの括りをつけることなくして、陰陽も五行も成立し得ま
せん。このことをHさんは「陰陽でみるのは、どこを『ひとつ』とし
て診ているのか。ここが一番大事なのかなと思いました。 」と述
べられているわけです。


=================================================


さて、Hさんは、みかんで陰陽を語っています。陰陽というのは
ものさしですので、これが陰これが陽という風に記憶することは
間違いです。つまり、陰陽という名前は、ものさしの性質が変わ
ると逆転するということです。

東洋医学では、表面を陽と呼び中心を陰と呼びます。表裏の対
応関係を陰陽という言葉で相対させ、表現しているわけです。

これに対して、求心力と遠心力をもって陰陽を分ける考え方が
あります。求心力が強いものは陽であり、遠心力が強いものは
陰であると。そうすると、表面にあるものは遠心力の表われです
から陰となり、中心にあるものは求心力の表われですから陽と
なります。

このように陰陽という言葉は、その場処に固有に与えられてい
るものではなく、何を見 何を表現しようとしているのかというこ
とによって逆の名前で呼ばれることが多々ありますので注意が
必要です。

いま少しこれを広げて語ると、これは陰だから何々、陽だから
何々と解説する人々にはよくよく注意を払う必要があるというこ
とです。そのような人々は、陰陽の使い方そのものを理解して
はいません。
■Q&A一括りの人を見る


>私たちはこれから、『東洋医学で人を診る』ことを学ぼうとしています
>が、そもそも、この『東洋医学』というのは、どこからきて、どういっ
>た体系で語られているものなのでしょうか?


もともとは『東洋医学』というものがあるわけではありません。ただ身
体を診て治療する技術があっただけです。近代に入って西洋から医学が
導入されて、これまでの自分たちの医学とは人間観も方法論も大きく異
なるため、それを西洋医学と名づけ、これを東洋医学と名づけました。

東洋医学は、主に支那大陸で言語化されました。はじめは朝鮮半島を経
て、次に遣隋使などで大々的にこの医学が伝えられました。紀元5世紀
のころです。この医学は、徐々に日本に浸透していきます。禅僧を中心
として鎌倉時代から江戸時代の初期まで、日本人は支那大陸の文明を学
んでいます。あるいは日本に輸入された書籍から、あるいは実際に大陸
に留学して。


東洋医学の古典としては、「素問」「霊枢」が基本です。「黄帝内経素
問」「黄帝内経霊枢」とも、あるいは両方合わせて単に「黄帝内経」と
も呼ばれています。また「霊枢」は「鍼経」と呼ばれたり「九巻」と呼
ばれたりもしていますが、同じものです。もともとは何百年かにわたっ
て伝えられた伝統医学が、後漢時代にまとめられたものです。この「黄
帝内経」は、黄帝に仮託された問答形式として書かれていますので、後
漢時代に流行した「黄老道」という道教の元祖の思想流派がこのまとめ
において中心的にかかわっていたとみるべきでしょう。


支那大陸の医学の特徴は、人間を一つの括りとして、一括りの天地に対
する小天地として把え、天地を俯瞰して陰陽や五行を編み出すのと同じ
方法で、人間を分析し統合して把えようとしているところにあります。

これは、天地を観察するように人間をもともと観察していたものですが、
その体表観察の結果を当時最先端の思想である陰陽五行論にあてはめな
がら、さらに深く理解していこうとしたものです。ですから、伝統医学
を学ぶためにはその基礎概念として陰陽五行の構造を学ぶ必要がありま
す。このあたりのことが「一元流鍼灸術の門」に中心的に書かれていま
す。
■『鍼灸真髄』の取穴法について


『一、沢田先生の取穴は極めて自由で、経穴の分寸にはあまり拘泥しなかった。反応のあらわれを仔細に観察して、あらわれた処に治穴を求めたのである。これは特に断つておき度い点である。』(凡例8p)

〔伴注:『鍼灸真髄』に書かれている何病にはどの経穴の効果が高いとか、邪の流れの話などは、この『仔細な観察』の結果手に入れたものを、澤田健がおしゃべりし、その言葉を代田文誌が書き留めたものです。鍼灸師が行うべきことは実は、その結論である吐き出された言葉を集立て整理したりして、それににすがることではありません。その結論を出すに至った過程、すなわち「反応のあらわれを仔細に観察する」ことです。これはつまり、自分がきちんとそれを診れるのかどうか点検すること。そのことを繰り返し踏み固めることです。この行為は最も基盤となることであり、言葉を読む―古典を読む―『鍼灸真髄』を読むことよりもはるかに大切なことです。自分の指を先にし、言葉を後にして、しっかりと観察を積み重ねること。その行為の果てに迷いながら出てきた言葉ほど大切なものはありません。揺らぎつつそこにほのかに立つ言葉を見つめつつ、再々度、臨床を通じ、自己の体験を通じて見つめていくこと。その体験の積み重ねは、どのような「真理」の言葉よりもはるかに貴重なものです。一元流鍼灸術はそこに依拠して語りはじめているものです。澤田健が常に言っていたという「書物は死物なり、死物の古典を以て生ける人体を読むべし」(凡例11p)という言葉はまさに『鍼灸真髄』にも当てはまることなのですね。〕
■四診について



四診についての解説はテキスト『一元流鍼灸術の門』の196pから書いてあります。
それとは別に要点をまとめてみたものを勉強治療会で板書しました。

ーーーーーーーーーーーーー

●生命にとって重要か
 1重要であり、急を要する→現代医学へ(交通事故などの
大けがの場合も含んでいますので、それを考えると理解しや
すいと思います)
 2重要でなく、時間がある→生命力を向上させる→気の偏在を調える

   1と2の岐路 皆、気虚の道を歩んでいる

〔伴解説:実際のところ、気虚が深ければ、外的な要因がわずかであっても疲れて倒れてしまいますよね。暑さ寒さや食べ過ぎや疲れなどの肉体的な負担や精神的な負荷によって、元気な人ではびくともしないようなことであっても、すぐに倒れてしまいます。亡くなる場合もあります。ですから、重要であり急を要するものなのか、重要でなく時間があるものなのかは、その患者さんの生命力によってそれぞれ、大きく異なることとなります。このことを考えると、生命力の充実度を測るということが、とても大切なことであり、診分けにくいものであるということが、よく理解される必要があります。〕

●症状が本人にとって重要かどうかは、関係ない。
  生命力の観点から、考えていく。

〔伴解説:症状名が定められていたとしても、気虚が深くなると、たくさんの症状を同時にかかえていることが多いものです。本人は諦めているような症状などはすでに、問診での訴えはなされません。

言葉を通じて訴えられることのないような身体の状態を土台として、今の生命状況が作られています。今の症状は、そのような生命状況を基礎として出ているわけです。これをいわば、症状
は氷山の一角であると表現したりします。

そのため、症状が重要ではない―症状に目を奪われていると、ほんとうの生命状況の厳しさが見えなくなる、と述べているわけです。

症状は四診の材料の一つにすぎないわけです。〕


●全身の問題か、部分の問題か(どれほど関わるのか)
 ・生命状況の変化に対応して症状は変化するのか
   時系列の大切さ
 ・症状も四診情報のひとつ
    
             ≪気の偏在を捉え
              気の偏在を調える≫

〔伴解説:すべての人は気虚があり気滞が同時にあります。気一元の生命の中に同時にそれが存在しているわけです。つまり、まんべんなく広がっている砂漠のようなものが生命なのではなく、気の濃淡をいつもかかえて変化しているのが生命であるということです。

心が動けば動いた先に生命が集まります。体が動けば動いた先に生命が集まります。その生命力はどこかから動かされたものです。その動かされた場所の生命力は以前よりも薄くなります。

すべての人が気虚をベースとしているということは、生命力=気が集まれば気滞が起こり、気滞が起これば、他の部分がおろそかになって、気虚になるという意味です。

全体の生命力の量が少なければ=気虚が深ければ深いほど、この気虚と気滞のまだらな状態は深くなります。このことがさまざまな病のもとになります。病と呼びますけれどもそれはそのそ
れぞれが日常の所作の延長にすぎないわけですね。これがいわゆる一気留滞説の本義です。〕

そのため、四診の目標はいつでも『気の偏在を捉える』ことにあり、処置の目標はいつでも『気の偏在を調える』ことにあるわけです。〕

と、こんな感じで解説をした気がします。理解されたでしょうか。
疑惑や疑問や批判、お待ちしております。>みなさま
■ 陰陽五行の海を泳ぐために

黄老道、道家の基本は天人相応に基づいた陰陽五行論です。

陰陽五行という言葉を聞くと勉強家はすぐに、陰陽とは何か五行とは何かと考えて、陰陽に該当する概念・五行に該当する概念を集め、それを積み重ねていきます。けれどもその探求方法に間違いが潜んでいます。

陰陽という言葉を用いる際にもっとも必要なことは、天人相応の場すなわち、気一元の場を、陰陽という相対的な二種類のものさしで眺めるということです。五行という言葉を用いる際にもっとも必要なことは、天人相応の場すなわち、気一元の場を、五行という立体的な五種類のものさしで眺めるということです。この探求方法を身につけない限り、陰陽五行を理解することはできません。「気一元の場」と呼ばれているものあるいは「気一元の場」という言葉で指定した生命場を一括りの場としてそれがすべてのものとして括り、その中を、陰陽という観点・五行という観点でバランスよく見ていくわけです。


このバランスが取れているか否かということを確認するためには、自分が何を見ているのかということを認識しなおすことが必要です。すなわちどのような一括りの場で物事を見ているのか、その一括りの括り具合は何かということを確認する必要があるわけです。

自分が何を見ようとしているのか、その一括りが見えてくると、それを二つの観点からぼやっとみるとか、五つの観点からぼやっとみるとかいうことがどのようなことなのか、理解できるようになります。


一括りの場を設定して、それを二あるいは五の観点から柔らかく分けてみていくということ。これこそが、古人が物事を理解していく上で行ってきたことでした。そしてそのバランスのよい観方は、現代においても興味深い情報を新たに得ることができるわけです。

《難経》は陰陽五行について詳細に説かれています。その《難経》を読み進む上でもっとも基本的な姿勢について《難経鉄鑑》で著者の広岡蘇仙は『一団の原気が、百骸を弥綸している状態の人は、健康な人です。もし少しでも充実していない部分があれば、それがすぐに病変を引き起こします。そのような時には、その人の生気をその部分に誘い導くようにすることが、その治療法となります。このような生気を候い知る方法が脉診であり、このような気の状態を説いている経典が《難経》です。』と述べています。

『一団の原気が、百骸を弥綸(びりん)している状態の人は、健康な人です。』『弥綸している〔訳注:すっぽりと糊で封をしたように継ぎ目も見せず包みこんでいる〕』。この一つの生命のぴっちりとした袋の中に、すべてがある、宇宙が今ここに存在しているということがこの言葉の意味です。これをまた小宇宙と呼んでいます。この小宇宙の内側を、陰陽というものさし、五行というものさしで柔らかく眺めることが陰陽五行論です。

陰と陽とが存在しているわけではないということ、木火土金水が存在しているわけではないということが大切です。目の前に存在している宇宙を、ただ二つの観点、五つの観点から眺めているにすぎないのです。この二つは、それを構成しているものである、五つは同時にそれを構成しているものであるとも言われています。けれども正確には、あたかもそれを構成しているものであるかのような言葉を用いて、「一つのもの」を同時に二つの観点五つの観点から見ているにすぎないわけです。

陰陽五行を生成論の視点〔注:生命の成り立ちを説明する考え方〕から書かれている厖大な書物が存在していることもまた事実です。学者はそのような妄想を好むものなのでしょう。けれども臨床家は目の前に存在している生命そのものを対象としているわけですから、そのような生成論に惑わされるわけにはいきません。今目の前に存在している生命を理解するために陰陽五行というものさしを利用していくという姿勢が必要なのです。

そしてこのことを解説しているものとして《難経》を読む姿勢が必要である、と《難経鉄鑑》の著者である広岡蘇仙は述べているわけです。

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