○○さん、メイルをありがとうございます。
人生の中で、生き直すというときは何回かあると思います。死んで
死んで死にきって生き直すわけなんですけれども、その苦痛に充た
過程をしっかりと目を開けて行うことによって、新しく生まれてく
る自分自身をきちんと受け止めることができるようになります。
人の弱さというのはとても貴重なものだと思います。自分自身の弱
さとか愚かしさというものを受け止め愛するところから、他の人へ
の深い愛が生まれ、協調とか赦しといったものが流れ出てくるので
すから。
理想主義の刃は非常に恐ろしいものですが、その刃で切るものは他
者や社会ではなく自分自身です。その刃を向ける先が自分自身であ
るとき、そこに同時に自分自身の弱さを包含してみていくとき、理
想主義は今ひとつ大きな成長を迎えることとなります。そこには光
り輝くいとおしい世界が開けてくるのです。が・・・(これに気が
ついている人は、本当に少ないと思います。)
と、ちょっと思いついたことを書いてしまいました。
> というわけで、天台小止観を読んで実践できたらと思っています。
> 実践するのは大変なんだろうと思います。
私はこのあたり(悟り関係・・・)のことを勉強することにかなり
時間を割いているのですが、そして面白い部分もあるわけですけれ
ども、気がついたことは、「禅=止観を修めることが目的になって
いて、そのための世界が存在し、その世界の中で生きる習俗が確立
されている。」ということです。そして私は、それが禅妄(禅特有
の迷い妄想)であると思っています。
人は悟道のために存在しているのではなく、生きるということを探
求するために禅を「使う」わけです。欲望というものは生きること
そものである、生きることの歓びであり苦痛です。その生きること
そのもののまっただ中になって、それに惑わされず「中」を保つた
めに禅定が存在すると考えているわけです。
小さな船に乗って嵐(強い喜びや深い悲しみ)に会ったとき、船を
操縦して嵐をやり過ごすことが大切です。けれども人はそのあまり
のダイナミックな世界に目を奪われて船を守ること以外の感情にお
ぼれてしまいます。恐れのあまり海の飛び込んでみたり、怒りのあ
まり船を壊してみたり、悲しみのあまり操舵をやめたり、どうして
いいかわからないので一生懸命悩みの中に落ち込んでみたり、マス
トに上って歓喜の声を上げてみたりするのです。
けれどもそのような時に行うべきことは、その人生を受け入れてし
っかりと味わい自分のなすべきことをするということだけなんです
ね。
神道ではこのような時になすべきことは、手放して神(先祖)の声
に耳を澄ましながらあるがままに生きる、ということであるといい
ます。
○○さんはどのようにこれを生ききっていかれるでしょうか。楽し
みにしております。
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