丹田というと想起されるものは、孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)のいわゆる浩然の気です。けれどもこの言葉はもともと、丹田の力や肚の括りということを表現しているものではありません。
浩然の気(正義を行う勇猛果敢の気: 天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気: 物事にとらわれない、おおらかな心持ち)を養う方法について次のように語っています。「この気はいつも正義と人道とにつれそってこそ存在するものだから、この二つがなければ(すなわち正義と人道とにはずれたことをすれば)この気は飢えてしぼんでしまう。これはたえずこの道義を行っておるうちに自然と生まれてくるもので、外界からむりやりいっぺんに取りいれることができるものではない。」《孟子・公孫丑上:小林勝人訳注:岩波文庫》
吉田松陰はまたこれに注して、「浩然の氣は本と是れ天地間に充塞するところにして、人の得て氣とする所なり。故に人能く私心を除く時は、至大にして天地と同一體になるなり。」《講孟剳記:吉田松陰全集第三巻:岩波書店:昭和十四年刊》と述べています。
いずれにしても丹田を作るといった概念とは関係のないものということになります。
黄老道においても、丹田の概念はそこにはありません。シャーマニズム(護符や呪術)および食事療法(内服するために丹薬を作ることなど)を用いることによって延命長寿を得て仙人となろうとするものです。
〔注:ただし、戦国時代に作られた《行気玉器銘》あるいは《行気玉佩銘》には、自然界の気の運行規律について述べられており、これを丹田について述べられているように読むこともできます。けれどもこれは、仙道や道教において内丹として臍下丹田の重要性が強調されている後世の価値観で古代の遺跡を読み、あたかも秘伝が隠語で綴られてきた歴史とともにこれを解釈しようとするものであると私は思います。〕
支那への仏教の伝来は前漢の時代、紀元前の二世紀頃から徐々に伝わり、後漢の60年頃には本格的に伝来していました。
太平道(張角)や五斗米道(張良)といった道教は後漢のこの時代、後漢末の人が人を食らうような悲惨な時代にできあがっています。道教はあたかも、仏教という宗教を媒介あるいは呼び水として、それまでの支那大陸の伝統であった黄老道やシャーマニズムを組み立てなおしたような感じです。
この同じ時代、後漢末に作られ、後に製丹法の聖典となった魏伯陽の《周易参同契》になると、はじめて臍下丹田について触れているような部分が、《難経》と同じように呼吸に関連して出てきます。《難経》もまた、実にこの時代に書かれたものです。
《黄帝内経》はこれより数百年前の前漢から後漢にかけての黄老道の全盛期に作られました。
《難経》以前に臍下丹田の重要性を説いた黄老道の書物や遺跡がほぼないこと、《黄帝内経》において「命門」が目のことを意味していて《難経》では下焦の腎が割り当てられていることなどから考えると、《黄帝内経》と《難経》との間には、人間観の大きな転換があったと想定することができます。
つまり《難経》は実は、黄老道の思想にもとづいて作られていた《黄帝内経》の人間観を、仏教的なものすなわち、丹田を中心とする気一元の人間観にしたがって構成しなおしたものであったと考えることができるわけです。
《難経》において、臍下丹田の重要性が強調されたこと、三焦論が構成しなおされたこと、奇経理論を明確に提示することができたその理由は、このような、人間観の大きな転換が底流にあったためではないか、そのように今、私は考えています。
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