一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

刺鍼法や手技、使用する鍼についての質問にお答えして

「この本には刺鍼法や手技、使用する鍼などの記載はないのでしょうか?
一元流は中医学の流れのようなので太い鍼で鍼管を使わずというのが通常なのでしょうか?それとも手技や鍼はどのようなものを用いてもいい、ということなのでしょうか?先生方は通常どのような鍼をどのような刺し方をされ、どのような手技を加えておられるのでしょうか? 」

刺鍼法や手技、使用する鍼などの記載はありません。

その理由には、

1、東洋医学に基づく患者さんの見立て方を中心課題としている。
2、見立てをすると何をなすべきかは自然にわかる。
3、何をなすべきかがわかれば、鍼の番手や手技などは小手先の技に過ぎないことがわかる。
4、また、刺鍼法や手技などは、個人の能力によって大きく異なる
5、人によって見立てに関係なく治療効果を挙げることができる場合があるが、そのような属人的な能力によらない治療法を目指している。
6、逆に言えば、上手な技術者でもこれを基礎とすればさらに誤治のない名人になれるところのものがこの見立てである。
7、手技に拘わらないことを基本としている。見立てが正しいかどうか、その論理を探求しようとしているため、手技という個人技が入る余地がないように工夫している。そのため鍼は置鍼お灸はせんねん灸程度。
8、東洋医学的な見立てができれば、鍼灸に拘わらず、手技治療全般に応用することができる。

といったことが挙げられます。

一元流鍼灸術は、東洋医学のオーソドックスな見立て方を探求しているものです。普通に四診合参して見立てて治療しているわけです。けれども気一元の観点に立って見立て方を統合しているというところが不思議なことに現代の東洋医学の研究家の間では重視されていないようなので、敢えて名前を「一元流鍼灸術」とつけているわけです。
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数年前に書いた文章なのですが、読み直してなお新しいものなので採録しておきます。
難経鉄鑑の解釈文の一部です。


五行論と気一元




六九難を勉強するにあたり、気一元の観点から人体を見るということと、五行の相生相剋関係から人体を見るということとの違いを明確にしておきます。


◇五行の相生相剋の観点から人体を見るという場合にも全体性、胃の気というものの重要性は何にも増してあるものでありますけれども、《難経》においても、その全体性の重要さが多くの分量をもって説かれております。胃の気の大切さ・根としての腎気の大切さ・三焦の問題・奇経の問題などがそれです。

これらの問題を包含しながら人体そのものを気一元としてみていると、そこに《難経》の著者が大自然を観想していたのだとう姿勢が感じられます。大自然の縮図としての人間観が読み取れるわけです。

大自然。大いなる生命の恵み、生きとし生けるものがその中で存在し、その微細な生命を育むことを許されている壮大なドラマ。天地があり、その間に育まれている生命たち。この大いなる生命のドラマを、私は気一元という言葉で表現しています。

大いなる生命のドラマの中には、飢えがあったり農耕があったり共食いがあったり子孫ができることに対する本能的な歓喜があったりします。吾が小さな生命の中で、絶望や希望といった感情に揺れ動かされ、あるいは正義や礼儀という伝統に貫かれながら、通奏低音として、生命がある、ありつづけるという、この歓喜の中に生命の営みがあり続けています。

一元の気という観点とは、まずこの生命がありつづけているという所に視点を合わせて身体を見ていこうという、そういう位置のことを意味しています。


◇そこから五行の相生相剋を見ていくとそれはいかにもか細いひ弱な論理であると感じないわけにはいきません。まるで生命を剥ぎ取った骸骨がその大きくなった頭を振りながら青白い顔で悩んでいるといった図が眼前に浮かんでくるのです。

ひ弱な論理は複雑さによって自己を正当化しようとします。その行為が《鍼灸補瀉要穴の図》として結実し、また現代中医学として現われてきていると、私は考えています。論理は迷路を作り、迷路に迷って遊んでいるうちに生命そのものを見る、そこに歓喜するという、入り口でありかつ出口であるところのものを見失ってしまいます。

その自分自身で作り上げた迷妄の闇をさらに糊塗するために、さらなる論理の迷路を作り上げようとする。このはかなく愚かな営為を打ち破る観点が気一元の観点で身体を見るというところに存在していると私は思います。


◇言葉とはその中にそもそも論理性を含みます。そして一語一語はいつも不完全で未熟であって、言葉を発したときにすでにそれは自身の愚かさを露呈しているともいえます。

《黄帝内経》はしかし、百姓の困苦を救いたいという黄帝のやむなき思いに突き動かされて、多くの言葉を敢えて吐き出しました。慈悲が言葉を生み出し、言葉の海という愚かさに溺れながら、その奥にある真情・慈悲の道筋を開示してくれているわけです。

発せられた言葉をどう読むのか。吐き出された言葉の論理によって読むのか、黄帝の発せられた思いによって読むのか、そこに大きな分かれ目が存在します。私は黄帝の慈悲に感謝しながら、気一元の観点から読むということを選択しました。

言葉の森の迷妄に陥らないよう注意を喚起するために、この一文をしたためました。

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