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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

《難経》は陰陽五行について詳細に説かれています。その《難経》を読み進む上でもっとも基本的な姿勢について《難経鉄鑑》で著者の広岡蘇仙は『一団の原気が、百骸を弥綸している状態の人は、健康な人です。もし少しでも充実していない部分があれば、それがすぐに病変を引き起こします。そのような時には、その人の生気をその部分に誘い導くようにすることが、その治療法となります。このような生気を候い知る方法が脉診であり、このような気の状態を説いている経典が《難経》です。』と述べています。

『一団の原気が、百骸を弥綸している状態の人は、健康な人です。』『弥綸している〔訳注:すっぽりと糊で封をしたように継ぎ目も見せず包みこんでいる〕』。この一つの生命のぴっちりとした袋の中に、すべてがある、宇宙が今ここに存在しているということがこの言葉の意味です。これをまた小宇宙と呼んでいます。この小宇宙の内側を、陰陽というものさし、五行というものさしで柔らかく眺めることが陰陽五行論です。

陰と陽とが存在しているわけではないということ、木火土金水が存在しているわけではないということが大切です。目の前に存在している宇宙を、ただ二つの観点、五つの観点から眺めているにすぎないのです。この二つは、それを構成しているものである、五つは同時にそれを構成しているものであるとも言われています。けれども正確には、あたかもそれを構成しているものであるかのような言葉を用いて、一つのものを同時に二つの観点五つの観点から見ているにすぎないわけです。

陰陽五行を生成論の視点〔注:生命の成り立ちを説明する考え方〕から書かれている厖大な書物が存在していることもまた事実です。学者はそのような妄想を好むものなのでしょう。けれども臨床家は目の前に存在している生命そのものを対象としているわけですから、そのような生成論に惑わされるわけにはいきません。今目の前に存在している生命を理解するために陰陽五行というものさしを利用していくという姿勢が必要なのです。

そしてこのことを解説しているものとして《難経》を読むという姿勢が必要であると、《難経鉄鑑》の著者である広岡蘇仙は述べているわけです。
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岡本一抱(1654年~1716年)は、通称為竹、一得斎と号していました。本の姓は杉森といい、承応三年(1654年)越前国福井において杉森信義の三男として生まれています。生年、出生地には異説が多く、山口県で生まれたという説もあります。1歳上の実兄には江戸文学を代表する近松門左衛門がいます。一抱は16歳の頃、織田長頼の侍医である平井自安の養子になり、平井要安と称しました。18歳で味岡三伯に入門し、医学を学んでいます。三伯の師は饗庭東庵ですから、一抱の学系は、曲直瀬道三―曲直瀬玄朔―饗庭東庵―味岡三伯とつながることとなります。

32歳の頃、師である味岡三伯から破門され、35歳の頃には養家から去ったのか岡本姓を名乗るようになり、まもなく法橋に叙せられています。没年は享保元年(1716年)で、京都本圀寺に葬られました。戦時中の木谷蓬吟氏の調査では同寺に墓碣が存在していたようですが、戦後になって整理されたのか、不明になっています。子孫は京都に健在です。

臓腑経絡詳解:岡本一抱子35歳 1689年序
十四経諺解:岡本一抱子 1693年刊行
病因指南:岡本一抱子 1695年刊行
格致余論諺解:岡本一抱子 1696年刊行
一抱渉筆:岡本一抱子 1698年書写
和語本草綱目:岡本一抱子 1698年刊行
鍼灸抜萃大成:岡本一抱子 1698年刊行
医学三蔵弁解:岡本一抱子 1700年刊行
医方大成論和語鈔:岡本一抱子 1702年刊行
方意弁義:岡本一抱子 1703年序
阿是要穴:岡本一抱子 1703年刊行
素問入式運気論奥諺解:岡本一抱子 1704年刊行
医学入門諺解:岡本一抱子 1709年刊行
医学講談:岡本一抱子 1713年刊行
医学切要指南:岡本一抱子 1714年刊行
和語医療指南:岡本一抱子 1714年刊行
経穴密語集:岡本一抱 1715年刊行

◇岡本一抱子62歳死去 1716年享保元年
◇近松門左衛門71歳死去 1724年(一歳上の兄)

医学正伝惑問諺解:岡本一抱子 1728年刊行
日用医療指南大成:岡本一抱子 1726年刊行
溯シ回集倭語鈔:岡本一抱子 1728年刊行
黄帝内経素問諺解:岡本一抱子 1744年刊行
校正引経訣:岡本一抱子 1808年書写


岡本一抱子の著作を上に一部示してありますが、それを見ても非常に大量の著作があることがわかります。近世医人中最大のブックメーカーと言われるゆえんでしょう。基本的に古医書の注釈を中心として彼の医学研究は進められており、古医書の本義を食い貫いてその本質を明らかにせんとする気迫に満ちた多くの諺解書があります。代表的な著書として《和語本草綱目》《方意弁義》《医方大成論諺解》《医学三蔵弁解》《医学切要指南》などがあげられています。

このうち《医学三蔵弁解》は岡本一抱子が46歳の時までに書かれたものです。『右の三蔵の弁は、先天から後天に至って人の生を保つ理由の本、これを治療する医家の綱要です。人物でなければこれを妄りに授けてはいけません。その心を神にして深く探り、遠く求めてこの理を極めれば、無窮の応用をなすことができるでしょう。』と自ら述べているように、もともとは相伝されるべき秘伝の書として用意されていたものです。けれども『これを口授だけで伝えると、長い時間がたつと、その弁を失ったり、その理を少なからず誤ることになりかねません。ですから今、梓に刻ませて〔訳注:出版して〕後世に垂れ、永くこの道が絶えないようにしたいと思います。』とその心意気を伝えています。

岡本一抱子はこの《医学三蔵弁解》の中で、腎を中心とする下焦、心を中心とする上焦、胃を中心とする中焦の諸問題を明らかにし、治療法の基本までを詳述しています。人身における根本を先ず述べてその問題を整理し、さらにそれを治療において自在に応用していくための道筋を示しています。五臓をこのように三焦の概念で精密に統括していくことで、人身の統一的な観点を開いた岡本一抱子は、さらにそれを三才の概念の側から表現していきます。それが附録の営衛論と三焦論です。そしてこれでは納まらず岡本一抱子はさらにすべてを一つの観点で統合し、神明の弁を附しています。ここにおいて、生命という混沌を五行の観点から三焦の観点へ、三才の観点から気一元の観点へと統括するという形で、《医学三蔵弁解》全体を統一的に記述することに成功しています。さすがに秘伝として懐中にしまうべき完成度の高さです。


これに比して13年後(帰幽2年前)に上梓されている《医学切要指南》は、全体が統合的に書かれていない点で論文集のような印象を受けます。けれどもそれは、《医学三蔵弁解》という相伝の書を書き上げた後さらに研鑽を積んだ、岡本一抱子の膂力を看取させるものとなっています。このことは《医学切要指南》の三焦論に強く表わされています。『諸経脉は、上焦の宗気 中焦の営気 下焦の衛気の三気が循環するところです。この三気は三焦によってめぐります。三焦は腎間の動気の別使です。ですから諸十二経脉は腎間の動気を根本としています。天地の間の四季の往来や万物の造化は何によって行なわれているのかというと、冬至に来復した一陽の気によってなされています。この坎中の一陽は十二支で言うと子にあたります。人身の生化もまた、両腎の間の水中に含蔵されている一陽の気によってなされるものです。』という言葉にそれは表現されています。この腎間の動気一元の観点は、《難経》のものでありかつ仏教の修行の過程であり成果でもあります。岡本一抱子はその晩年、このもっとも単純な場所、人身における秘伝そのものの場所に到達していたわけです。

『私は《素》《難》を心に刻んで五十余年撰述し、彫刻させてきた書物は百二十余巻にのぼります。撰してまだ刻んではない書物も若干ありますが、まだ医道の奥旨には達していません。けれども心主三焦の有名無形の問題を知り、この論を述べることとしました。』と述べる岡本一抱子の謙虚さはなんでしょうか。このような言葉に触れると私は自身の怠惰に震えざるを得ません。また、この偉大な医学者を産んだ江戸時代さらには日本民族の知恵の土壌を有難く拝するばかりです。

なお、岡本一抱子の生年が《国史人名辞典》では1686年となっているようですが、上記図書目録をご覧いただけばわかるとおり、誤りです。
..腹診からみる日本医学


腹診そのものについての記載は『難経』や『傷寒論』にもあるわけですけれども、腹診という一つの診断項目を定め深めていったのは、日本における東洋医学を特徴付けるできごとです。支那大陸においては高貴な人の腹を診るということがはばかられたため、この診察方法が発達しなかったということもありますが、ここにはそれ以上に大きな文化的な特徴が存在します。

この文化的な相違の中心となるものは、江戸時代に入るまで日本における文化の担い手が僧侶であり、ことに鎌倉時代の末期以降は禅僧がその中心となっていたということです。日本の伝統的な風俗である神道と結びついた形で皇室を中心として発展した仏教は、文字情報とその思想ともに日本の隅々まで行き渡ります。この日本における悟りの探求の過程において始めて、「腹の思想」が深められ臍下丹田を意識するということの大切さが実感されていきました。

仏道修行における座禅が、病の治療方法としての腹部の認識を指し示していることに気づき、安土桃山時代までにいったんの完成をみたものが夢分流の腹診法です。


...命門の位置の移動

支那大陸における医学思想は、道教の元となる黄老道をその中心とします。黄老道の思想を一言で言うと、天と人とを対応関係として把え、天をよく見ることで人の運命がわかるという考え方に基づいて発展した天文学と、天地を分析的に解釈するための道具としての陰陽五行論とが組み合わさったものです。その思想―人間観に基づいて体表観察などをして得た情報を分析し、人の身体を捉えなおしていったものが、『黄帝内経』という東洋医学の基本経典として結実しているわけです。

前漢から後漢にかけてまとめられたこの『黄帝内経』において「命門」は目に位置づけられています。これに対して後漢の中期以降に作られた『難経』において「命門」は右腎に位置づけられています。「命門」と名づけられているもっとも大切にすべき場所の位置が目から臍下丹田に移動しているということはどういうことなのでしょうか。これは、意識の中心を置く位置が、目から臍下に移動していることを示しています。ここにおいて『黄帝内経』と『難経』の間でその身体観が大きく変化しているわけです。ここには実は、医学の背景となる人間観の変化があったのであろうと私は考えています。

すなわち『黄帝内経』の医学思想の背景にあるのは黄老道であるのに対して、『難経』が書かれた時代にはすでに仏教が入り込んでいて、この仏教思想に基づいて『難経』は医学思想を書き換えたのではないかと考えられるわけです。奇しくも『難経』が書かれたと同じ時代に道教は発生しています。これも仏教を縁として支那大陸における民間の宗教思想を守るために教義を定め教団としてまとめられたものでしょう。

それはともかく、『黄帝内経』と『難経』との間には人間観の違いが明確に存在しているわけです。『難経』は単に『黄帝内経』における難しく解釈しにくいところを解き明かした書物ではないのです。


...難経流腹診と難経鉄鑑

『難経』で展開された臍下丹田を中心とした身体観が日本において大きく開花した理由は、僧侶が文化の担い手であったためでしょう。これにしたがい、臍下丹田を命門とするという身体観に基づく難経流腹診が広く実践されるようになりました。

その身体観の大きな成果と言えるものが、『難経鉄鑑』における六十六難の図です。ここにおいて、腎間の動気・命門の火・三焦・営衛が統一的に考えられ、内なる臓腑と外なる経絡との関係の軽重が明確に理解されることとなりました。

この統一された身体認識とそれに基づいた身体観こそ、日本医学の大きな特徴をなしているものであると私は考えています。

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