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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/



学ぶ姿勢には二種類の方向性が大きく分けてあります。
一つは外に求めること、もう一つは内に求めることです。

外、の種類には、古文献などの文献・実験・師事などがあります。
内、というのは、自身の内なる叡智のことです。仏性とも言います。

東洋思想を学ぶ者は、そこに古代の聖人の叡智を学ぼうとします。叡智に触れ感動した経験が、学ぶ動機になるのです。古文字を解き明かし難解な言葉の意味をこれも古人の解釈などを参考にしながら読み解いていく果てに、自身も解釈を書いてみたりします。古人が本当に言いたかったのはこれではないのかとか、このあたりの言葉の解釈は明確にしにくいので後人に託させていただきますなどと述べ連ねるわけです。そうして、正確な古人の言葉を蘇らせようとします。よくある学問の方法です。

これに対して、聖人は書物など読まなかったではないかという批判とともに、自らの内なる叡智を直接的に摸ろうとする学び方があります。あるいは書物を契機として、あるいは師匠の言葉を契機として、自らの内なる叡智=仏性を洗い出していく作業を行うわけです。

考えてみると、前者の文献学的な積み重ねのもともとの動機も実は自身の内なる叡智と、学びたい東洋思想とが感応しあったことから、その厖大な努力は始まっています。けれどもいつの間にかその感動は失われて、言葉が、学問が、おうおうとして日常の作業と同じように積み重ねられていきます。

けれども時々気がつくのです。欲しかったのは叡智であると。そして学んでいる理由はその叡智を探しているのであると。気がつくべきなのです。最初にあった感動は、外なる叡智と自身の内なる叡智の感応であったということに。儒教が宋学あるいは朱子学としてまとめ直された理由はここにあります。玉石混淆の古典を、内なる叡智に従って彫刻し直し、後進が自身の叡智を磨きやすいよう道を整えてくれたわけです。


東洋医学の学び方も実は同じです。秘伝はないか、有難い言葉はないか、と求め続けるのは外を求め続けているのです。けれどもそれが秘伝であるか否かということは自身の内なる叡智に問わなければ実はわかりません。そこで信用できそうな師について学ぶわけです。いわば今、自分自身が持っている器をいったん棚上げして、治療家になるために再生しようとしているわけです。

けれども患者さんを目の前にしたとき、同じ智の方法は通用しないということがわかります。秘伝を求めるという夢遊病のような世界から目が覚めてみると、目の前に患者さんが現実として存在している。それは自身の内なる叡智を表現する場となります。その時にあたって、叡智を磨くことを怠り言葉を追い求めていた者たちは迷い出すしかありません。何も手を下せない。病名をつけてもらわなければ何も手を下せないのです。


これに対して叡智を磨いている者たちは、今、知っていること理解していることを、患者さんの身体を通じて統合するという作業ができます。これが、自身の器を知り、その自身の器の内側を搗き固めるという作業であり、内なる叡智を磨くという行為となります。

一元流鍼灸術でお伝えしていることはこの、統合の技術なのです。
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鍼灸医学は、東洋思想に基づいた人間学にしたがって人間を見つめ、それを通じて、その生命医学・実証医学としての体系を作り上げてきました。

この基本とは何かというと、観ることです。観て考え、考えてまた観る。事実とは何かということを観る、とともにその底流に流れる生命原理について思いを尽す。その無窮の作業の果てに、現在古典として伝えられている『黄帝内経』などの書物が出来上がっているわけです。

鍼灸師としての我々はそれらの書物を基にしてふたたび無窮の実態、古典を古典としてあらしめたものそのものである、目の前に存在する人間そのものに向かっていくわけです。そして、どうすればよりよくそれを理解できるだろうか、どうすればその生命状況をよりよい状態へと持っていくことができるだろうかと探求していくわけです。


古典というものは、いわば身体を旅するための地図の役割をしています。時代によって地域によって違いはあります。けれどもその時代その地域において、真剣に人間を見続けたその積み重ねが、現在我々が手にすることのできる資料として言葉で残されているわけです。これはまさにありがたいことであると思います。

深く重厚な歴史の積み重ねは、東洋医学の独壇場ともいえるでしょう。けれどもその書物の山に埋もれることなくそれを適宜利用していけるような人材を作るということが、学校教育に求められることです。外野としての私は、その支援の一つとして、中心概念をここに明確にしているわけです。それが気一元として人間を見るということと、その古代哲学における展開方法としての陰陽と五行の把握方法であるわけです。


古典という地図には読み方があります。身体は時代や地域によって異なります。現代には現代の古典となるべき地図が、実は必要となります。現代の人間観、宇宙観にしたがいながらも、目の前に存在している人間を観ることを徹底することによって、はじめて古典を綴った古人とつながることができます。そして、現代には現代の古典が再び綴られていくこととなるでしょう。これこそが澤田健先生の言われた、「死物である書物を、活物とする」技となります。


思えば、古典を読むという際の白紙の心と、身体に向かう際の白紙の心とは同じ心の状態です。無心に謙虚に、対象をありのままに尊崇する心の姿勢が基本となります。
『穴性学ハンドブック』という書物を作成したとき私は、繁雑となることを避けるために穴性についての常識的な部分を採用せず、主に弁証論治で使用することのできる経穴の特殊性の部分についてのみ採用しました。

先日ある勉強会で、「穴性は経脉理論とは異なる」と話し、それにもとづいて中医学を批判している人がおられました。けれどもそれは、繁雑となることを避けて経脉の疏通という経穴の大きな作用を省略したことによる発言であると思いますので、ここに反省を込めて穴性について再度述べてさせていただきます。


そもそも穴性は基本的には臓腑経絡学に本づくものです。ですから当然経脉学説を基本としていて、疏通経絡とか温通経絡とか通経活絡という方法によってその経脉上の虚実を整え病証を取り去るという作用が中心となります。穴性を考える場合の大きな基本が、ここにあるわけです。

そしてさらに経穴独特の使用法によって特殊な効果を得られた治験が記録されているものが、弁証穴性として記載されることとなりました。これはいわゆる特効穴治療の抽象概念とでも呼ぶべきものです。『穴性学ハンドブック』では、この部分を中心に採録してあります。

どうしてかというと、循経取穴による経穴の作用というものは、鍼灸の免許を持っている人であれば誰でも最初に当たり前に思いつくことなので省略したのです。鍼灸師は学校で経絡の循行を叩き込まれますものね。そのことを今更書籍で触れる意味はありませんし、ハンドブックですから、この部分を簡便にしたわけです。

ところがそのせいで、穴性学には経脉理論というものがないらしい、などという俗説が広まったのであれば大変申し訳ないことであると思います。

ただ、経穴に触れもせずに穴性概念だけで何事かを語ろうとする中医学には辟易としていることも併せて述べさせていただきます。穴の状態を理解できずに穴性を語り処置を施すということは、傲岸不遜であり、人間存在に対する無知のなせる技であると言わなければなりません。
現代病なのか、胃腸を痛めている人が非常に多いわけです。そしてこれが治り難い。それは当然で、鍼灸治療に来院されるのが週に一回だとして、胃腸を食事によって活用するのはその間、一日三食として二一回あるわけです。それに加えて間食をすればさらに痛めている回数が多くなります。それに加えて、胃腸でストレスを解消する人も多くいます。それは単に食べることがストレスの解消になるというだけではなく、精神的なストレスを胃腸という生命力で直接受け、堪えさせている人がいるわけです。ストレスがあると食事がのどを通らないとか、ストレスがあると下痢をするとかといった類の人がこのタイプとなります。さらに、疲労によっても胃腸は痛めつけられます。これは直接痛めつけられるわけではないのですが、全身の生命力が充実していると、胃腸の働きをバックアップすることができます。疲れるとこれができなくなるわけですね。

こんな患者さんがいました。お年寄りで登山というほどでもないのですが数時間歩き、食事を摂ってから温泉にのんびりつかった。若い頃であればこれは楽しい娯楽という範囲なのでしょうが、この患者さんはそれが堪えて倒れてしまい、救急車で運ばれることになってしまいました。東洋医学的にこのことをどのように考えるのかというと、高齢ということで腎気が落ちている。腎気が落ちるということは上の段で述べた脾胃の機能をバックアップする力が弱っているということを意味しています。そこに少し長時間歩いたことで疲労し腎気がさらに落ちた。そのような状態で食事を摂ったため、生命力のほとんどは脾胃の機能を助けるために使われることとなりました。いわゆる食後で何も考えられない状態。血が胃袋に行っているため、頭がめぐらなくなっている状態ですね。そのような状態の時にさらに入浴をして、すでに少なくなっている生命力を全身にめぐらそうとしたわけです。その何重もの生命力への負担のため、とうとう腎気のバックアップがまったくできなくなって倒れてしまったわけです。

ではどうすればよかったのでしょうか。高齢であれば、普段とは異なる生活状況を避けることが腎気を損傷しない基本的なポイントとなります。小さくなっていく器に従った生活を続けていくことによって、器の縮小や損壊を避け緩やかにすることができます。それが長寿の秘訣なのです。この方はまずその禁を犯してしまいました。もしいつもと異なることをした場合は、十分に休養する必要があります。そうして腎気を回復させながらじわっと動いていくわけです。山登りをした後は少なくとも一時間は何もせずに休憩する必要があります。ところがこの方はそれをせず、その代わりに腎気のバックアップを必要とする食事を摂りました。二つ目の禁を犯したわけです。けれどもここで休憩すれば倒れるところまではまだ行かなかったでしょう。けれども健康に自信があったためか、身体の言葉に耳を傾ける習慣がないためか、さらに生命力をめぐらし使う入浴までしてしまいました。三つ目の禁を犯したわけです。このようにして三つの負担が重なることによって倒れたわけです。東洋医学的にみれば当然の成り行きと言わざるを得ません。


同じようなことが虚弱体質の人の治療についても言えます。虚弱体質の人は、日々の生活を変化なく行うだけですでにオーバーペースだったりするものです。けれども日常生活ですから、肝気を起てて〔注:意識するしないにかかわらずがんばって〕行っているのです。健常者と比較すると、いつも疲れている状態なわけですけれども、いつも疲れているとご本人はわからなくなっているものです。そのような状態の人が鍼灸治療を受けます。生命力が乏しいので、治療の手も深く強く入ることはありません。下手をすると倒れてしまいます。徐々に徐々に入れていかなければならないわけです。ところがご本人は少し楽になるとその分以上に動いてしまいます。そして疲れ切って鍼灸治療にまたくるということを繰り返すこととなります。そのようなことをしていると生命力が充実していく隙がないのです。そのためいくら通っても以前の状態と変わらない、あるいは悪くなってしまいます。そして自分には鍼灸は効果がないと言い出します。これは、自分の養生を棚に上げて治療に頼ろうとすることの誤りです。

どうすればこのような状況を防ぐことができるのでしょうか。必ずしも鍼灸治療を受けることが必須ではなく、普段の生活を変えることが大切です。すなわち、心にまず定めなければならないことは、自身の器の範囲内で生きる、内側で生きるということです。虚弱体質の人はこの器、生命力の入れ物が非常に小さいのです。そんな小さな器で他の人と同じように生活しようとすることが間違っています。生活の範囲を小さくしなければ悪循環が続いていくだけです。

けれども、器が小さいからといって悲観する必要はありません。特に若い内であれば、この器を大きくすることができます。その方法は、器の内側でていねいに生きるということです。器を超えてがんばろうとすると、器を壊してしまいます。けれども器の内側で生きることを心がけていくと、徐々にその器が充実し徐々に広がってきます。一病息災というのはこのような人のためにある言葉なのですね。今のこのひとときに満足し感謝して、一日一日この生活を積み重ねさせていただく。ありがとうございます。これがこの生活の心得の基本です。

壊すのは簡単で一気にできますけれども、養うことは根気が必要です。徐々に徐々にしか充実していきません。このあたりの忍耐ができない人が深い病―半病人の状態を続けていくしかないということとなります。

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