たにぐち書店から『医学切要指南』の全訳が出版されました。『医学三蔵弁解』と同時発売なんですね。力が入ってます。索引もつけたかったのですが、それは今後の課題ということになりました。岡本一抱の紹介なども含めて以下にあとがきとして書いたものをアップしておきます。
訳者 あとがき
岡本一抱(一六五四年~一七一六年)は、通称為竹、一得斎と号していました。もとの姓は杉森といい、承応三年(一六五四年)越前国福井において杉森信義の三男として生まれています。生年、出生地には異説が多く、山口県で生まれたという説もあります。一歳上の実兄には江戸文学を代表する近松門左衛門がいます。一抱は十六歳の頃、織田長頼の侍医である平井自安の養子になり、平井要安と称しました。十八歳で味岡三伯に入門し、医学を学んでいます。三伯の師は饗庭東庵ですから、一抱の学系は、曲直瀬道三―曲直瀬玄朔―饗庭東庵―味岡三伯とつながることとなります。
三十二歳の頃、師である味岡三伯から破門され、三十五歳の頃には養家から去ったのか岡本姓を名乗るようになり、まもなく法橋に叙せられています。没年は享保元年(一七一六年)六十二歳の時で、京都本圀寺に葬られました。戦時中の木谷蓬吟氏の調査では同寺に墓石が存在していたようですが、戦後になって整理されたのか、不明になっています。子孫は京都にご健在ということです。
岡本一抱の著作のうち、その年代について訳者が確認できたものは以下の通りです。
臓腑経絡詳解 三十五歳 一六八九年序
十四経諺解 一六九三年刊行
病因指南 一六九五年刊行
格致余論諺解 一六九六年刊行
奇経八脉詳解 一六九六年刊行
一抱渉筆 一六九八年書写
和語本草綱目 一六九八年刊行
鍼灸抜萃大成 一六九八年刊行
医学至要抄 一六九九年刊行
医学三蔵弁解 一七〇〇年刊行
医方大成論和語鈔 一七〇二年刊行
方意弁義 一七〇三年序
阿是要穴 一七〇三年刊行
素問入式運気論奥諺解 一七〇四年刊行
医学入門諺解 一七〇九年刊行
医学講談 一七一三年刊行
医学切要指南 一七一四年刊行
和語医療指南 一七一四年刊行
経穴密語集(奇経八脉詳解を改題) 一七一五年刊行
◇岡本一抱子 六十二歳他界 一七一六年 享保元年
◇近松門左衛門 七十一歳他界 一七二四年(一歳上の兄)
日用医療指南大成 一七二六年刊行
医学正伝惑問諺解 一七二八年刊行
溯集倭語鈔 一七二八年刊行
黄帝内経素問諺解 一七四四年刊行
校正引経訣 一八〇八年書写
これだけみても非常に大量の著作が岡本一抱子にはあります。近世医人中最大のブックメーカーと言われるゆえんでしょう。基本的に古医書の注釈を中心として彼の医学研究は進められており、古医書の本義を食い貫いてその本質を明らかにせんとする気迫に満ちた多くの諺解書があります。代表的な著書として《和語本草綱目》《方意弁義》《医方大成論諺解》《医学三蔵弁解》《医学切要指南》などがあげられています。
このうち《医学三蔵弁解》は岡本一抱子が46歳の時までに書かれたもので、相伝されるべき秘伝の書として用意されました。けれども口授される相伝の書としてしまうと失われる可能性があるため、出版することにしたと自ら述べています。
《医学三蔵弁解》は、人身における根本を整理した上で、処方理解を通じて治療に応用していくための道筋を示しています。生命という混沌を五行の観点から三焦の観点へ、三才の観点から気一元の観点へと統括するという形で、《医学三蔵弁解》全体を統一的に既述することに成功しています。さすがに秘伝として懐中にしまうべき完成度の高さです。
これに比して《医学三蔵弁解》の十三年後(他界二年前)に上梓されている《医学切要指南》は、全体が統合的に書かれていない点で論文集のような印象を受けます。けれどもそれは、《医学三蔵弁解》という相伝の書を書き上げた後さらに研鑽を積んだ、岡本一抱子の飽くことなき求道の力を看取させるものとなっています。
本書の〈三焦心包有名無形論〉において、張景岳や馬蒔などそれまでの諸家の論を踏まえた上で再論し『心包も三焦も同じようなものということになるわけなのですけれども、陽気が出てくる位置が異なります。ダン中心の宮から出て臓腑全身に通じている陽気の徳用を心主とし、臍下腎間から出て上下全身を通行する陽気の働きを三焦と呼んでいるのです。』と、その本義を解き明かしています。これはまさに時代を越えた論争にとうとう終止符が打たれたものであると言ってよいでしょう。これは現代中医学の論にもみることのできない確かな解釈となっています。
また『水穀によって生じた気は後天の元気であり、腎間の動気の別使である三焦の気は先天の元気です。先天と後天とが一つになって全身を養っているわけです。』と述べた上で『医道は三焦を眼目とします。病因を察し治療を行うに際してすべて、三焦ひとつを相手にしていることです。越人は深く医道の奥義に達して心主 三焦が無形であるということを明らかにしました。後学を導き医源を指南する恵みの実に大きなこと、これを過ぎるものがないほどです。』と医道の本義について論じて、《医学三蔵弁解》ではまだ語り尽くされていなかった三焦論の奥義をここに明らかにしています。岡本一抱子はその晩年、このもっとも単純な場所、人身における秘伝そのものの場所に到達していたわけです。
にもかかわらず『私は《素》《難》を心に刻んで五十余年撰述し、彫刻させてきた書物は百二十余巻にのぼります。撰してまだ刻んではない書物も若干ありますが、まだ医道の奥旨には達していません。』と述べる岡本一抱子の謙虚さはなんでしょうか。このような言葉に触れると私は自身の怠惰に震えざるを得ません。
現代に岡本一抱の魂が甦らんことを祈りつつ
平成二十一年 十月 訳者 伴 尚志 識
訳者 あとがき
岡本一抱(一六五四年~一七一六年)は、通称為竹、一得斎と号していました。もとの姓は杉森といい、承応三年(一六五四年)越前国福井において杉森信義の三男として生まれています。生年、出生地には異説が多く、山口県で生まれたという説もあります。一歳上の実兄には江戸文学を代表する近松門左衛門がいます。一抱は十六歳の頃、織田長頼の侍医である平井自安の養子になり、平井要安と称しました。十八歳で味岡三伯に入門し、医学を学んでいます。三伯の師は饗庭東庵ですから、一抱の学系は、曲直瀬道三―曲直瀬玄朔―饗庭東庵―味岡三伯とつながることとなります。
三十二歳の頃、師である味岡三伯から破門され、三十五歳の頃には養家から去ったのか岡本姓を名乗るようになり、まもなく法橋に叙せられています。没年は享保元年(一七一六年)六十二歳の時で、京都本圀寺に葬られました。戦時中の木谷蓬吟氏の調査では同寺に墓石が存在していたようですが、戦後になって整理されたのか、不明になっています。子孫は京都にご健在ということです。
岡本一抱の著作のうち、その年代について訳者が確認できたものは以下の通りです。
臓腑経絡詳解 三十五歳 一六八九年序
十四経諺解 一六九三年刊行
病因指南 一六九五年刊行
格致余論諺解 一六九六年刊行
奇経八脉詳解 一六九六年刊行
一抱渉筆 一六九八年書写
和語本草綱目 一六九八年刊行
鍼灸抜萃大成 一六九八年刊行
医学至要抄 一六九九年刊行
医学三蔵弁解 一七〇〇年刊行
医方大成論和語鈔 一七〇二年刊行
方意弁義 一七〇三年序
阿是要穴 一七〇三年刊行
素問入式運気論奥諺解 一七〇四年刊行
医学入門諺解 一七〇九年刊行
医学講談 一七一三年刊行
医学切要指南 一七一四年刊行
和語医療指南 一七一四年刊行
経穴密語集(奇経八脉詳解を改題) 一七一五年刊行
◇岡本一抱子 六十二歳他界 一七一六年 享保元年
◇近松門左衛門 七十一歳他界 一七二四年(一歳上の兄)
日用医療指南大成 一七二六年刊行
医学正伝惑問諺解 一七二八年刊行
溯集倭語鈔 一七二八年刊行
黄帝内経素問諺解 一七四四年刊行
校正引経訣 一八〇八年書写
これだけみても非常に大量の著作が岡本一抱子にはあります。近世医人中最大のブックメーカーと言われるゆえんでしょう。基本的に古医書の注釈を中心として彼の医学研究は進められており、古医書の本義を食い貫いてその本質を明らかにせんとする気迫に満ちた多くの諺解書があります。代表的な著書として《和語本草綱目》《方意弁義》《医方大成論諺解》《医学三蔵弁解》《医学切要指南》などがあげられています。
このうち《医学三蔵弁解》は岡本一抱子が46歳の時までに書かれたもので、相伝されるべき秘伝の書として用意されました。けれども口授される相伝の書としてしまうと失われる可能性があるため、出版することにしたと自ら述べています。
《医学三蔵弁解》は、人身における根本を整理した上で、処方理解を通じて治療に応用していくための道筋を示しています。生命という混沌を五行の観点から三焦の観点へ、三才の観点から気一元の観点へと統括するという形で、《医学三蔵弁解》全体を統一的に既述することに成功しています。さすがに秘伝として懐中にしまうべき完成度の高さです。
これに比して《医学三蔵弁解》の十三年後(他界二年前)に上梓されている《医学切要指南》は、全体が統合的に書かれていない点で論文集のような印象を受けます。けれどもそれは、《医学三蔵弁解》という相伝の書を書き上げた後さらに研鑽を積んだ、岡本一抱子の飽くことなき求道の力を看取させるものとなっています。
本書の〈三焦心包有名無形論〉において、張景岳や馬蒔などそれまでの諸家の論を踏まえた上で再論し『心包も三焦も同じようなものということになるわけなのですけれども、陽気が出てくる位置が異なります。ダン中心の宮から出て臓腑全身に通じている陽気の徳用を心主とし、臍下腎間から出て上下全身を通行する陽気の働きを三焦と呼んでいるのです。』と、その本義を解き明かしています。これはまさに時代を越えた論争にとうとう終止符が打たれたものであると言ってよいでしょう。これは現代中医学の論にもみることのできない確かな解釈となっています。
また『水穀によって生じた気は後天の元気であり、腎間の動気の別使である三焦の気は先天の元気です。先天と後天とが一つになって全身を養っているわけです。』と述べた上で『医道は三焦を眼目とします。病因を察し治療を行うに際してすべて、三焦ひとつを相手にしていることです。越人は深く医道の奥義に達して心主 三焦が無形であるということを明らかにしました。後学を導き医源を指南する恵みの実に大きなこと、これを過ぎるものがないほどです。』と医道の本義について論じて、《医学三蔵弁解》ではまだ語り尽くされていなかった三焦論の奥義をここに明らかにしています。岡本一抱子はその晩年、このもっとも単純な場所、人身における秘伝そのものの場所に到達していたわけです。
にもかかわらず『私は《素》《難》を心に刻んで五十余年撰述し、彫刻させてきた書物は百二十余巻にのぼります。撰してまだ刻んではない書物も若干ありますが、まだ医道の奥旨には達していません。』と述べる岡本一抱子の謙虚さはなんでしょうか。このような言葉に触れると私は自身の怠惰に震えざるを得ません。
現代に岡本一抱の魂が甦らんことを祈りつつ
平成二十一年 十月 訳者 伴 尚志 識
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岡本一抱子の名著である『医学三蔵弁解』全訳がたにぐち書店から出版されました。ネット上ではとても量が多い感じがしますけれども、実際に書籍になってみるとコンパクトです。あとがきとして紹介文を書いていますので、以下に引用しておきます。
訳者 あとがき
岡本一抱(一六五四年~一七一六年)は、通称為竹、一得斎と号していました。もとの姓は杉森といい、承応三年(一六五四年)越前国福井において杉森信義の三男として生まれています。生年、出生地には異説が多く、山口県で生まれたという説もあります。一歳上の実兄には江戸文学を代表する近松門左衛門がいます。一抱は十六歳の頃、織田長頼の侍医である平井自安の養子になり、平井要安と称しました。十八歳で味岡三伯に入門し、医学を学んでいます。三伯の師は饗庭東庵ですから、一抱の学系は、曲直瀬道三―曲直瀬玄朔―饗庭東庵―味岡三伯とつながることとなります。
三十二歳の頃、師である味岡三伯から破門され、三十五歳の頃には養家から去ったのか岡本姓を名乗るようになり、まもなく法橋に叙せられています。没年は享保元年(一七一六年)六十二歳の時で、京都本圀寺に葬られました。戦時中の木谷蓬吟氏の調査では同寺に墓石が存在していたようですが、戦後になって整理されたのか、不明になっています。子孫は京都にご健在ということです。
近世医人中最大のブックメーカーと呼ばれている岡本一抱子は、この《医学三蔵弁解》を出版するまでにすでに百二十余巻の東洋医学の書籍を著し、江戸の元禄時代の医学界を導く存在となっていました。
その数多くの著作のうちこの《医学三蔵弁解》は、岡本一抱子が四十六歳の時までに書かれたものです。『右の三蔵の弁は、先天から後天に至って人の生を保つ理由の本、これを治療する医家の綱要です。人物でなければこれを妄りに授けてはいけません。その心を神にして深く探り、遠く求めてこの理を極めれば、無窮の応用をなすことができるでしょう。』と自ら述べているように、もともとは相伝されるべき秘伝の書として用意されていたものです。それまで数多くの諺解書を通じて研究してきた当時の古典をもととしてその真髄を把握し、これを中核として子々孫々に伝え残そうと用心深く作られた著作であることがわかります。
けれども『これを口授だけで伝えると、長い時間がたつと、その弁を失ったり、その理を少なからず誤ることになりかねません。ですから今、梓に刻ませて〔訳注:出版して〕後世に垂れ、永くこの道が絶えないようにしたいと思います。』と、出版するに至ったその心意気を自ら伝えています。
岡本一抱子はこの《医学三蔵弁解》の中で、腎を中心とする下焦、心を中心とする上焦、胃を中心とする中焦の諸問題を明らかにし、三蔵それぞれに対して中心となる処方の理解を通じて、治療法の基本まで詳述しています。人身における根本を先ず述べてその問題を整理し、さらにそれを治療において自在に応用していくための道筋を示しているわけです。
五臓をこのように三焦の概念で精密に統括していくことで、人身の統一的な観点を開いた岡本一抱子は、さらにそれを三才の概念の側から表現していきます。それが附録の営衛論と三焦論です。
そしてさらに岡本一抱子はここで止まらず、すべてを一つの観点で統合して最後に神明の弁を附しました。ここにおいて、生命という混沌を五行の観点から三焦の観点へ、三才の観点から気一元の観点へと統括するという形で人身を眺めていくということを指し示し、《医学三蔵弁解》全体で統一的に表現するすることに成功しているわけです。さすがに秘伝として懐中にしまうべき、驚くべき完成度の高さであると言わなければなりません。
岡本一抱のこの丹精を込めた一冊が現代人にもそのまま読み解けるように、注意深く翻訳させていただきました。この書をお届けできることは、私にとって非常な喜びとなっています。
現代に岡本一抱の魂が甦らんことを祈りつつ
平成二十一年 十月 訳者 伴 尚志 識
訳者 あとがき
岡本一抱(一六五四年~一七一六年)は、通称為竹、一得斎と号していました。もとの姓は杉森といい、承応三年(一六五四年)越前国福井において杉森信義の三男として生まれています。生年、出生地には異説が多く、山口県で生まれたという説もあります。一歳上の実兄には江戸文学を代表する近松門左衛門がいます。一抱は十六歳の頃、織田長頼の侍医である平井自安の養子になり、平井要安と称しました。十八歳で味岡三伯に入門し、医学を学んでいます。三伯の師は饗庭東庵ですから、一抱の学系は、曲直瀬道三―曲直瀬玄朔―饗庭東庵―味岡三伯とつながることとなります。
三十二歳の頃、師である味岡三伯から破門され、三十五歳の頃には養家から去ったのか岡本姓を名乗るようになり、まもなく法橋に叙せられています。没年は享保元年(一七一六年)六十二歳の時で、京都本圀寺に葬られました。戦時中の木谷蓬吟氏の調査では同寺に墓石が存在していたようですが、戦後になって整理されたのか、不明になっています。子孫は京都にご健在ということです。
近世医人中最大のブックメーカーと呼ばれている岡本一抱子は、この《医学三蔵弁解》を出版するまでにすでに百二十余巻の東洋医学の書籍を著し、江戸の元禄時代の医学界を導く存在となっていました。
その数多くの著作のうちこの《医学三蔵弁解》は、岡本一抱子が四十六歳の時までに書かれたものです。『右の三蔵の弁は、先天から後天に至って人の生を保つ理由の本、これを治療する医家の綱要です。人物でなければこれを妄りに授けてはいけません。その心を神にして深く探り、遠く求めてこの理を極めれば、無窮の応用をなすことができるでしょう。』と自ら述べているように、もともとは相伝されるべき秘伝の書として用意されていたものです。それまで数多くの諺解書を通じて研究してきた当時の古典をもととしてその真髄を把握し、これを中核として子々孫々に伝え残そうと用心深く作られた著作であることがわかります。
けれども『これを口授だけで伝えると、長い時間がたつと、その弁を失ったり、その理を少なからず誤ることになりかねません。ですから今、梓に刻ませて〔訳注:出版して〕後世に垂れ、永くこの道が絶えないようにしたいと思います。』と、出版するに至ったその心意気を自ら伝えています。
岡本一抱子はこの《医学三蔵弁解》の中で、腎を中心とする下焦、心を中心とする上焦、胃を中心とする中焦の諸問題を明らかにし、三蔵それぞれに対して中心となる処方の理解を通じて、治療法の基本まで詳述しています。人身における根本を先ず述べてその問題を整理し、さらにそれを治療において自在に応用していくための道筋を示しているわけです。
五臓をこのように三焦の概念で精密に統括していくことで、人身の統一的な観点を開いた岡本一抱子は、さらにそれを三才の概念の側から表現していきます。それが附録の営衛論と三焦論です。
そしてさらに岡本一抱子はここで止まらず、すべてを一つの観点で統合して最後に神明の弁を附しました。ここにおいて、生命という混沌を五行の観点から三焦の観点へ、三才の観点から気一元の観点へと統括するという形で人身を眺めていくということを指し示し、《医学三蔵弁解》全体で統一的に表現するすることに成功しているわけです。さすがに秘伝として懐中にしまうべき、驚くべき完成度の高さであると言わなければなりません。
岡本一抱のこの丹精を込めた一冊が現代人にもそのまま読み解けるように、注意深く翻訳させていただきました。この書をお届けできることは、私にとって非常な喜びとなっています。
現代に岡本一抱の魂が甦らんことを祈りつつ
平成二十一年 十月 訳者 伴 尚志 識
赤ちゃんと一体の、蜜月の時期がもうすぐ終わります。充分楽しめましたか?充分つながりましたか?
もうすぐこの密接な時は終わり、赤ちゃんにとってもお母さんにとっても感動の時が待ち受けています。出産です。出産は非常に体力を使うもので、人生にとってもっとも大いなる激変となります。人が味わいうるもっとも偉大な瞬間である、生命を産み出す時が近づいているわけです。その時にあたって、簡単な注意を述べておきたいと思います。
出産の時点は、慌てず騒がず、しっかりと準備をしておけば大丈夫です。破水が起こってからも充分時間はありますので、落ち着いて行動してください。お医者さんにおすべて任せしましょう。
産後は、十全大補湯を服用すると良いといわれています。事前に二ヶ月分ほど購入しておき、産褥期のお茶代わりに。それによって出産による疲労の回復が促進されます。出産で疲れたからといって気を抜かず、身体の手入れを続けてください。この産後の身体の手入れが、その後の人生にとってとても大事なこととなります。
産後は疲れていますから半年ほどはパソコンを含めて細かい文字を観ない方がいいでしょう。そうやって目を守るわけです。二週間ほどは薄暗い部屋にいるようにした方がいいという説もあります。これもやはり目を守り気持ちを休めることが目的です。気持ちを穏やかに保つことがこの時期を上手に経過するコツです。お気に入りのアロマ香水を用意するというのも手です。昔は墨を摺ると良いと言われていました。心を穏やかにする力がそこにあるわけです。
母乳を与えるようにすると、その刺激で骨盤が閉まりやすくなります。骨盤がしっかり閉まって身体が整うまで、赤ちゃんとともに隠棲する感じで思っているとちょうど良いと思います。丁寧な穏やかな時間を過ごすことができるように工夫してください。
それでは、すばらしい時を!
もうすぐこの密接な時は終わり、赤ちゃんにとってもお母さんにとっても感動の時が待ち受けています。出産です。出産は非常に体力を使うもので、人生にとってもっとも大いなる激変となります。人が味わいうるもっとも偉大な瞬間である、生命を産み出す時が近づいているわけです。その時にあたって、簡単な注意を述べておきたいと思います。
出産の時点は、慌てず騒がず、しっかりと準備をしておけば大丈夫です。破水が起こってからも充分時間はありますので、落ち着いて行動してください。お医者さんにおすべて任せしましょう。
産後は、十全大補湯を服用すると良いといわれています。事前に二ヶ月分ほど購入しておき、産褥期のお茶代わりに。それによって出産による疲労の回復が促進されます。出産で疲れたからといって気を抜かず、身体の手入れを続けてください。この産後の身体の手入れが、その後の人生にとってとても大事なこととなります。
産後は疲れていますから半年ほどはパソコンを含めて細かい文字を観ない方がいいでしょう。そうやって目を守るわけです。二週間ほどは薄暗い部屋にいるようにした方がいいという説もあります。これもやはり目を守り気持ちを休めることが目的です。気持ちを穏やかに保つことがこの時期を上手に経過するコツです。お気に入りのアロマ香水を用意するというのも手です。昔は墨を摺ると良いと言われていました。心を穏やかにする力がそこにあるわけです。
母乳を与えるようにすると、その刺激で骨盤が閉まりやすくなります。骨盤がしっかり閉まって身体が整うまで、赤ちゃんとともに隠棲する感じで思っているとちょうど良いと思います。丁寧な穏やかな時間を過ごすことができるように工夫してください。
それでは、すばらしい時を!