一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

次にあげるのは、坂出祥伸先生退休記念論集の序文「私は「気」の思想とどうかかわってきたのか」という文章です。ただこちらは長いので、主要ポイントだけ抜粋することとします。


...『中国思想における身体・自然・信仰』東方書店 坂出祥伸先生退休記念論集「私は「気」の思想とどうかかわってきたのか」より(二〇〇一年五月一一日)



中国思想は儒教であれ、道家の老子や荘子であれ、また道教であれ、「気」の概念を共通の基礎としている。・・・(中略)・・・

人間の身体だけが「気」で成り立っているのではない。生命あるものすべてが、「気」をその生命の根源としているのである。・・・(中略)・・・

生命あるものばかりではない。この宇宙の間にあるすべての存在が「気」から成り立つと考えられている。・・・(中略)・・・

戦国時代から前・後漢時代(前四世紀から後二世紀)にかけて、「気」の観念の大きな枠組みはほぼ完成したといってよい。それは、この時期に黄帝内経医学、本草学(薬物学)、天文気象学(実は占星術や望気術などの呪術)が発達したからである。


かくて体系をととのえた「気」の観念は、その特徴を次のような五点に整理できる。ただし、それらの特徴は互いに関連しあっている。

第一に、生命体、非生命体を問わずともに「気」から成る、と考えられている。星も「気」であり、鉱物も「気」である。

第二に、「気」は宇宙に充満しており、始めも終わりもなく、連続していて分割できない。

第三に、「気」の連続性ということと関係があるのだが、部分と全体は相互に関連しあっているという点であり、このことは近代科学の自然観と根本的に異なる点である。鍼灸医学の身体観において、この点は明確に現れている。

第四に、世界に終末が到来しても「気」は滅びることがないから、かならず再生する、という考えかたがある。

第五に、「気」の循環的変化は近代科学のように因果律による説明ではなく、感応作用に基づいている、と説明される。『周易』という儒教の経典に対する唐時代、七世紀の学者・孔穎達の注釈に、感応の概念が明確に説明されている。「天地の間にあるものは、共に相感応し、おのおのその気類に従っている」「感とは動くということ、応とは、その報いである。すべて先になるのが感で、後のものは応である」と。
スポンサーサイト
「気」の古典的な概念について述べられている文献から二篇、紹介します。お二方とも、黄老道道教関係の権威です。



...『気のコスモロジ-』岩波書店 石田秀実著 2004年7月


まずは石田秀実先生から。この人は私が本当に尊敬している、求道的な学者で、まるで学問の道を逍遙游しているような人です。外気功によって放射される気を、「気」として研究される傾向があることに対して、根本的な疑問を投げかけています。そして、この先生の気の概念は、私のものと同じであり、一元流鍼灸術の気の概念も同じであるということを申し述べておきます。


「前述の「物質科学のまなざし」に歪められて、気という概念についても、物質であるだとか、超物質だといった見当はずれの解釈が流行している。伝統的に気という言葉によって指し示されているのは、この自然世界の森羅万象、私達の身体を包んでいるさまざまな事象すべてのことである。変化流動し続ける自然世界の全体を、東アジアの人々は「一つの気」という言葉で呼んだのだ。西欧の人々が、あらゆる事象を永遠不変の形相(イデア)と質料(ヒュレー、マテリア)とから成っていると考え、後者のマテリアからマテリアル(物質)という概念を作ったのとは全く考え方が違う。
逆にいえば物質とか超物質とかいった概念とはまったく異なる概念だからこそ、気という概念はあらゆる事象すべてを指し示し、「心と肉体」に二分割される手前の、まるごとの身体そのものを語ることができる。脳の知に幻惑されている私達が、その幻想から逃れて再び身体の知を感受する細い道を、気という言葉は指し示してくれるのである。」


読んでみるとこれは常識の部類ではないかと思われるでしょう。けれども、自慢家というものはこのような文章を読んでもまた自身で書いても理解できないものなのです。ネットで拾ったその文章を以下に紹介しましょう。ご本人の名誉のために、アドレスや氏名は伏せておきます。

「 〈気〉は一方では物理的な存在で、他方では精神的な存在である。別の種類の〈気〉があるわけではない。同時に物理的かつ精神的なのである。

・・・(中略)・・・

 〈気〉は、私が手をかざせば、十人に九人は感じることができる。だが〈気〉の感覚は、単に触覚的なものではない。奥田鳳作の『長沙腹診考』には「手にて見ると思うべからず。心に応ずるを得て知るべし」とある。〈気〉の感覚は表面的・部分的なものでなくなった時にホンモノになる。「感覚」という言葉より、「感性」という言葉がふさわしい。感性は育てられるものでもある。〈気〉を頭から否定しようとする人には、〈気〉を感じる感性は育たない。」


気を、特別なものと観る人には、〈気〉を感じる感性は育たない。と申しておきましょう。存在するもの全てを愛おしむ心が、シャーマニズムの世界を築きました。いわく、全てのものには神が宿る、いわく、全ての中に仏性はある。これこそが日本民族が持ちつづけてきた柔らかい感性のあり所であり、神といい仏性というそのものこそがいわゆる「気」に他ならないと認識する必要があります。これは西洋におけるいわゆるエーテル学説となるわけです。

全てのものの中に神が宿り仏性が宿っているということは、何も宿っていないことと同じである、というのがエーテル学説を否定し批判する学者の言葉なのです。まさにその通りなのですが、実は一つだけ違いがあるのです。それは、私という観察者と、観察されるものとの対立関係を、エーテル学説は否定することとなるということです。つまり、全ての中に私はあり、私を含めた全ての中で学問は進んでいくしかない、科学は進んでいくしかない、そうエーテル学説は語っているわけです。不揃いな砂粒がそこに存在していて、完全な客体として自己があるという、実験室科学(これが西洋における科学技術を発展させて根幹となるものなのですが・・・)を否定し、私もその中にあって互いに影響し合う中からしか観察はできないと、エーテル学説は述べるわけです。

この中から実は量子力学が生まれ、相対性理論が生まれ、世界―内―存在を問い、時間と空間とエネルギー(生命)の問題について根源的な問いかけをし続けているハイデッガーの哲学が生まれてくるわけです。ちなみに、このハイデッガーの哲学は仏教の空観に通じ、ついには東洋医学の認識論にも通じていくということを押さえておいてください。

この人とブロともになる