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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

東洋医学に期待すること


ブログの読者から、東洋医学に期待することは何かという質問をいただきました。

つらつらと考え続けています。

東洋医学に期待することという質問を受けてもどこかぴんとこない理由は、東洋医学というものの定義が何なのかよく理解できないためです。言葉を換えると、何を以て東洋医学と称しているのかということがどうもよくわからないのです。

当たり前のことですが、人類の歴史が始まって以来ずっと、人と人とは関わり合いを持ってきました。その関わり合いの中で言葉が生まれるのと同じように触れ合い癒し合うことが行われたことでしょう。ここに西洋も東洋も区別はありません。

近代500年ほどの間、キリスト教の狂気に指導された白人たちは、地球制覇に乗り出し多くの民族を根こそぎ殺戮し多くの文明を破壊してきました。そして自身の暴力的で身勝手な文明を、近代文明として他の世界に押しつけてきたわけです。いわばキリスト教の愛の下、暴力で支配する世界秩序を作り上げてきた歴史があり、その脅威を西洋という名に置き換えて今に至ります。

ただ、大東亜戦争における日本を中心とした諸国民の果敢な抵抗によって、西洋文明の残虐さ未熟さが表面化し、皮膚の色による差別が道徳に反することとされるようになりました。そして、植民地を作りそこを搾取することによって自国を繁栄させるという経済構造が改められることとなりました。これを自由経済の勝利と呼ぶこともできます。その恩恵を最大限に受けて発展し豊かになった国が日本であることは言を俟ちません。

その西洋がもたらした医学は、人を物が集合してできている器械として把え、病気を敵として捉えて撲滅を図り、症状が発するということを忌み嫌い、検査結果が平均値にあることを目標として生命の平準化を図るという幼稚な人間観に立ったものです。ただこれが基本的な生命力が充実している軍人の戦傷などに著効があったことなどから、国家の援助を受けてその他の疾病にも応用されて現在に至っています。いまや薬や医療器具と共に西洋医学複合体として日本を支配しているように見えます。これはいわば、人の生命力は基本的に充実しているものであるとして、それを前提としてその生命力の上に立ってつぎはぎの治療をしている医学であるとも言えます。抗生物質と点滴を用いた外科手術にその手腕をよく発揮し、死と病を敵とする発想にその特徴があります。

これに対して日本の東洋医学は、国家の存亡のために富国強兵を強いられるという政治経済情勢の下、救急医学の座を西洋医学に明け渡すとともに西洋医学が受けたような国家の保護も受けることはありませんでした。そのように非常に不利な政治経済情勢の中でことに慢性病における治効を争う漢方家や、民間療法の一端としてマニアックな支持者に支えられて東洋医学は気息奄々ながらも生き延びることとなりました。


東洋医学はその内部における論理崩壊によって、存亡の危機に立たされていると私は考えています。伝承されてきた民間療法が東洋医学ではありません。伝承されてきた鍼灸を使った経穴療法がそのまま東洋医学であるわけではありません。陰陽五行を語れば東洋医学になるわけではありませんし、天人が対応していると考えるから東洋医学なのではありません。東洋医学と呼ばれる何ものかを誰か築こうとしているのでしょうか?

ですから、私が、「東洋医学に期待すること」と問われた時に返すことのできる言葉としてまずあるのは、まずは東洋医学をきちんとやってみましょうよ、という言葉になってしまいます。そしてそのためには東洋医学とは何か、東洋の生命観とはいかなるものであるかということを窮める必要があります。なぜなら、その東洋の生命観の上に立っているものこそが東洋医学なのですから。最近このブログにアップしている黄老道関係の記述はこの、東洋の人間観についての歴史を明らかにしようとする作業なのです。
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黄老道から日本医学への考察に際して


日本医学の起源は必ずしも支那大陸で発祥した医学を起源としているわけではありません。それは大己貴命(おほなむち:大国主命)少彦名(すくなひこな)という日本の国作りの二神の伝説の中に、疾病治療についての記述がある(古事記・日本書紀)ことからも明らかです。けれども文字に残され伝承されたものはそのごく一部でしかなく、支那大陸における厖大な文字情報が輸入されるに従ってかき消されていきました。


さて、このファイルで明らかにしようとしていることは、

1、支那大陸における身体観が、《黄帝内経》のものから大きく変化して《難経》にいたる

2、その《難経》の身体観が仏教思想の支那大陸への伝来に基づく丹田を中心とした仏教の身体観である

3、日本医学がこの《難経》の身体観すなわち丹田を中心とした仏教の身体観に基づいている(これが腹診の日本独自の発展に繋がっていく)

ということです。


この道程をたどるためには、さまざまな挟雑物を避ける必要がありました。その中心となるものは、長い時代を経て徐々に日本に輸入されてきた医学思想をどのように考えるのかということであり、江戸時代に熟成された日本医学の個性的な発展―ことに古方派の勃興―についてどう位置づけるのかということです。

ことに古方派は、文字情報を越えて患者さんそのものの把握と治療処置とを、張仲景の腹診法に基づいて展開しているものです。文字を越えて存在そのものへと肉薄するという鬼気せまる情熱がそこにあるわけで、その同じ情熱こそが《黄帝内経》を書かせ《傷寒論》を書かせたのであろうと思います。

がしかしそれは、存在全体をどのように理解するのかという身体観におよぶことはなく、疾病治療に特化した治療技術の一端として体表観察をしているとしかみてとれないため、このファイルの対象とはなりませんでした。

このファイルは、日本古方派が「疾医の道」ではないとして軽蔑した、養生術とその基盤である丹田を中心とした身体観について述べているものです。そしてそれこそが日本医学の大きな成果であり、その大本には仏教の身体観があるわけです。


以上、情報の取捨選択について、必ずしも以下のファイルで触れていないことについて述べました。次に、以下のファイルで触れていることについて述べていきます。

このファイルは、古代の人間観の変化に焦点を当てることを中心の課題としています。それは、黄老道の探求から始まり、日本への仏教の伝来まで至ります。黄老道の歴史の正統の流れの中で《黄帝内経》が編集され、仏教の身体観の流れの中で新しい身体観を持った医学として《難経》が書かれました。ただし《難経》は仏教思想に純化されて書かれている書物であると述べているわけではありません。黄老道や讖緯学説さまざまな当時の知識が入っています。

仏教の身体観を基礎としていますけれども、それまでの天人相応の人間観および認識論としての陰陽五行論、そして後漢における新しい思潮としての讖緯学説についても、大きな視点から触れられています。その中でもっとも大切なもの、骨格となるところが臍下丹田を中心とする身体観でありそれが、仏教の身体観なのです。

これは日本においては、日常の所作や茶道や武士道において大切にされているところです。いわゆる「肚の身体観」とでも言うことができるでしょう。日本医学はここに向かって浄化されここに定まって豊かになってきたものであると私は考えています。そしてこれは21世紀に生きる我々の生活の質の向上に深く強く資するものとなります。このファイルはその歴史的な基礎を述べているものです。
日本医学は仏教の身体観が中心


《難経》で展開された臍下丹田を中心とした身体観が日本において大きく開花した理由は、日本においては僧侶が文化の担い手であったためでしょう。これにしたがい、臍下丹田を命門とするという身体観に基づく難経流腹診が広く実践されるようになりました。

仏教的な身体観の大きな成果と言えるものが、《難経鉄鑑》における六十六難の図です。ここにおいて、腎間の動気・命門の火・三焦・営衛が統一的に考えられ、内なる臓腑と外なる経絡との関係の軽重が明確に理解されることとなりました。

この統一された身体認識とそれに基づいた身体観こそ、日本医学の大きな特徴をなしているものです。


この身体観は、室町時代の末期には腹診法の確立として結実し、江戸時代の中期には臨済宗の中興の祖である白隠によって養生法として結実しました。それにしたがい鍼灸の技法においても、この臍下丹田を重視しさらには衝脉に着目した流派が出てくることとなります。

この生命観の流れはさらに、明治維新を越えて大正時代に至るまで、神道の呼吸法や岡田式正座法あるいは肥田式養生術という形で開発され、日本国民の身体観および健康の向上に寄与することとなりました。


全体のファイルは以下にあります
http://1gen.jp/1GEN/KOUROU/
丹田の概念は仏教に由来する


石田秀実氏は、《難経》における『奇経八脉と三焦の明確化は、前漢末から後漢をへて六朝にいたる道教徒たちの身体認識と、おそらくどこかで連結している。奇経中の任督二脈を陰陽二気を統べるものとして重視し、「腎間の動気」「原(元)気」の場としての下丹田を重視する道教徒の身体技法は、『難経』における臓腑システムの展開と呼応するものだからである。この時代が、仏教を中心とする西方の秘教的身体認識の流入時期であることも、医学と道教――これらは不即不離のものである――における展開と、どこかで関係しているにちがいない。』(中国医学思想史170ページ)と著されています。当時の文献が残っているわけではないので、その証明は甚だ難しいため、このように述べるしかないわけです。

前漢末から後漢に至る支那大陸における医学思想は、道教のもととなる黄老道をその中心とします。黄老道の思想を一言で言うと、天と人とを対応関係として把え、天をよく見ることで人の運命がわかるという考え方に基づいて発展した天文学と、天地を分析的に解釈するための道具としての陰陽五行論とが組み合わさったものです。その思想―人間観に基づいて体表観察などをして得た情報を分析し、人の身体を捉えなおしていったものが、『黄帝内経』という東洋医学の基本経典として結実しているわけです。


さて、前漢の末期にまとめられたこの《黄帝内経》において「命門」は目に位置づけられています。これに対して後漢の中期以降に作られた《難経》において「命門」は腎に位置づけられています。〔注:左腎右命門と記載されていますが、これについて《難経鉄鑑》では『腎にはもともと左右の区別などなく、人道は右を尊び左を卑しいものとするため、左右という字を置いているだけで、実際にはひとつを腎としもうひとつを命門とすると説明していることと変わりない。』と解釈しており、私もそれを支持しています〕

「命門」と名づけられているもっとも大切にすべき場所が、目から臍下丹田に移動しているということはどういうことなのでしょうか。これは、意識の中心を置く位置が、目から臍下に移動していることを示しています。ここにおいて《黄帝内経》と《難経》の間でその身体観が大きく変化していると考えなければなりません。すなわちここには実は、医学の背景となる人間観の大きな変化があったことがわかります。


すなわち《黄帝内経》の医学思想の背景にあるのは黄老道の実践体験に基づいているのに対して、『難経』は仏教の実践体験に基づいて書かれたと推測されまるわけです。仏教思想における身体観である生命の中心を臍下丹田に帰す体験をもとに、それまでの医学思想を書き換えていったものが《難経》なのではないかと考えられるわけです。奇しくも『難経』が書かれたと同じ時代に道教も発生しています。これも仏教の大いなる教義に対する土俗の者たちの危機感が、それまでに存在していた自身の宗教思想を守るために体系的な教義を定め教団として組織したものであると考えられるのです。


《黄帝内経》と《難経》との間にはその中核となる人間観の違いが明確に存在しています。ですから『難経』が単に『黄帝内経』における難しく解釈しにくいところを解き明かした書物なのではなく、これ以降道教においても盛んとなる内丹の走りとして、臍下丹田を重視する仏教的な身体観を得た《難経》の作者が、それまでの医学思想を新たな身体観に基づいて記述し直したものであると考えることができるわけです。


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道教と仏教


仏教が支那大陸に伝来したのは、おそらくはシルクロードを通ってのことであるということは、現代に残る仏教遺跡群をみても理解できます。その時期は前漢にまで遡ることでしょう。けれども確かな証拠として現れているのは後漢の初期にあたる紀元65年、楚王の劉英が黄老の言を誦し仏陀を祠っていたという記載〔注:《後漢書》〈楚王英伝〉〕が嚆矢となります。この当時は道家という言葉は黄老という言葉と同じ意味で用いられていました。

後漢末におこった道教は、それまで伝来していた呪術や讖緯説や神仙説を、神仙化させた老子の思想をまとわせ、仏教と対抗するためにその仏教の教理や教団の作り方などを遠慮なく借用し、「換骨奪胎してわがものとした。これが組織宗教として完成した道教の姿」〔注:『老子・荘子』森三樹三郎著:講談社学術文庫313ページ〕でした。とはいっても道教という言葉は六世紀頃までは普通名詞であり、いわゆる道教以外に儒教も神仙道も黄老道も道教と呼ばれ、仏教も道教と呼ばれていました。つまり道教という言葉は「道の教え」「真理についての教え」という意味だったわけです。

現代の求道者が遭遇するように、古代においても多くの思想が存在しており、縁によってその一端に触れた後も道を求める者にとっては、言葉化される以前の「道そのものへ」と自己の陶冶が続けられていたとみるべきでしょう。そこには現代の思想家や教授たちが論ずる思想の区別などまったく些末なことであり、その奥へ「存在そのものの歓喜の中へ」と求道者が突入していったことでしょう。その時にあたってどのような思想を着用するかということは、やはり、化粧にすぎない些末なことなのです。己が何者であるかを表現するためにその場にある言葉を採っただけのことなのですから。


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..道家と道教


道家と道教とは異なります。道家について《史記》の自序(淮南王劉安の死後30年たって完成された)には『道家の術たるや、陰陽の大順に因り、儒・墨の善を采(と)り、名・法の要を撮(おさ)め、時と与(とも)に遷移(うつ)り、物に応じて変化す。俗を立てて事を施すに、宜しからざる所なし。』〈淮南子の思想:金谷治著 講談社学術文庫242ページ〉とあります。

言葉を換えていえばこれは道を求める姿勢を説いた求道の一派であったと言えるでしょう。このことは、偏ることなくできる限りの情報を集めて、その統合的な読み方を〈道訓〉として示している《淮南子》の構成方法にもみてとることができます。道を求めるためには判断以前に情報を収集しそれをさらさらと拘わることなく分析し本質を開示するという方法が必要です。そのことを道家は老子の心の位置すなわち恬憺虚無においていたわけです。このように考えると、治水に成功して国を初めて作った黄帝がその道家の成功事例として尊崇されていることもよく理解できます。

道家はいわゆる教えではなく、教えを求める求道の姿勢を説く者たちでした。それは学ぶ姿勢であることから、自ら積極的に事に及んで対処することを回避する傾向があります。この状態を無為自然の道とか、恬憺虚無なれば真気これにしたがうなどと言って自己正当化しているわけです。これに対して儒教は、その歴史を解釈することによって現在の状況を判断し、よりよい未来を作り出すために積極的に実事へ介入します。このことから為政者はこれを採用することが多かったわけですが、実はその奥には、本当にこれでよいのか本当の道とは何かといった不安が潜んでいました。そのことが、一線を離れた政治家が道家思想へと回帰していく理由となったわけです。このことを、道家と儒家との思想的な対立として把握することは、全くナンセンスなことであると言わなければなりません。

道家の意識の持ち方について《淮南子》では名臣 伍被の言葉として《書経》や《孟子》の文に親しんで、「古えの道」「君臣・父子・夫婦・長幼の序」を貴ぶ儒家的な教養を修めることを基本としています。そしてさらに、「みみ聡き者は無声に聴き、め明らかなる者は未形に見る」「天の心に因りて動作す」〈同上52ページ〉と述べています。

道を求めるものは、まずその基本的な姿勢として現世における秩序を重んじそれにしたがって生きる道を修得しなければならない。さらに道を進めて生きることの本質を明らかにしていく才能がある者は、無声を聴き無形を観るように努めなければならないと述べているわけです。

前漢時代の初期のこの道家の姿勢が、仙道を受容するに至ることはいわば当然の成り行きと言えるでしょう。そして儒教の基本を喪失した者が浮遊せる魂としての仙人の道に入っていき、不老長寿を求め巫呪や讖緯による現世御利益を求めるような宗教に身を落としていったということもまた自然の成り行きであったと言えます。

道家と呼ばれた黄老道はこうして200年後の後漢に入ると政治術としての機能を全く失い、『1、清静寡欲を旨として盈満を避ける処世術、2、神仙術、3、無為自然の自然哲学、そして4、祭祀の対象』《中国思想における身体・自然・信仰》〈後漢黄老学の特性:池田秀三〉2004年8月刊行 625P 東方書店
となっていったわけです。


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黄帝内経と難経


東洋医学の基本文献である《黄帝内経》は、この黄老道を中軸としてそれまでの医学思想がまとめられたものです。巫呪や讖緯の説に触れられてはいないことや文体、そして《史記》に紹介されていないことなどから、〈運気七篇〉を除く『さまざまな書が《黄帝内経》の名のもとにまとめられた年代は、前八六年頃から前二六年頃までのわずか六〇年ほどの間の出来事だったということになり』〔石田秀実著《中国医学思想史》114ページ〕ます。


これに対して《難経》は、おそらくは当時存在していたもともとの《黄帝内経》であろう引用経典があることや陰陽五行の機械的な使用法が成熟した形で述べられていることなどから、《黄帝内経》が編纂された後の後漢中期以降に作成されたものであると考えられます。

そして、遅くとも後漢末までには成立していたということは、《傷寒論》に《難経》を参考としたという記載があること、華佗が《難経》を秘伝の書として大切にしていたという記載が《三国志》と《後漢書》に述べられていること、呂広による《難経》の注がある(239年)ことなどから明らかです。

また、江戸時代末期の丹波元胤はその《医籍考》で、内容的な側面から『《八十一難経》は、《素問》《霊枢》と比べるとその語気が少し弱くいので、後漢以降の人によるものと思われます。その記されているところのものにも、当時の言葉があります。元気という言葉は、董仲舒(紀元前176年?~紀元前104年?)の《春秋繁露》で初めて述べられていますが、後漢になってよく用いられている言葉です。男は寅に生まれ、女は申に生まれるという言葉は、《説文》の包字註、高誘(生没年不詳:200年頃に活躍)の《淮南子》註、《離騒章句》(後漢:王逸の書)に載っています。木が沈み金が浮かぶという言葉は《白虎通》(79年)に出ており、金が巳に生まれ水が申に生まれるとか、南方の火を瀉し北方の水を補うといった類の言葉は、五行緯学説家の説であり、《素》《霊》では言及されていない、特にこの経にみられるものです。また、この経の診脉の方法は三部に分かつもので、簡単でわかりやすいものであり、張仲景や王叔和の輩がともにこれを用いましたので、医家においては不磨(ふま)の矜式(きょうしき)〔注:犯す事のできない手本〕となっています。けれどもこれを《素》《霊》に照らしてみると異なり、倉公の診藉にもまた合いません。古法の隠奥を想像してみても理解しにくいものなのです。おそらく後漢に至って、あるいはひそかにその術を伝えたものが、《素問》に三部九候という言葉があることを手本にしてまねて、これを敷衍して一家の言となしたものでしょう。これが決して前漢時代の文ではないことはこのことからも見て取れることができます。』と述べています。

これなども《難経》が後漢の中期以降に書かれたものであることを示唆している資料となっています。

さて、この《難経》が書かれた時代は、どのような風景をもっていたのでしょうか。インターネット上の辞書である《wikipedia》から引用しておきましょう。

『前漢から後漢に推移する時の騒乱により、中国全体の人口は激減していた。前漢末期の2年の記録が人口5767万だったものが、後漢初めの57年には2100万にまで激減しています。その後は徐々に回復し、100年後の157年には5648万にまで回復していますが、黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して、西晋が統一した280年には1616万という数字になっています。動乱の途中ではこれより少なかったわけです。

この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられます(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われています)。

とは言っても激減であることは確かであり、再び中国の人口が6000万の水準に戻るのは北宋まで待たねばなりません(ただし6000万足らずが当時の中国の人口の限界点であったとも考えられます)。

このように人口の激減があったことを後漢初期と末期の政治・経済について考える時は忘れてはなりません。』〈2010年7月10日引用〉


また、その思想状況については同じく《wikipedia》によくまとめられています。


『前漢中期から儒教の勢力が強くなり、国教の地位を確保していたが、光武帝は王莽のような簒奪者を再び出さないために更に儒教の力を強めようとした。郷挙里選の科目の中でも孝廉(こうれん、親孝行で廉直な人物のこと)を特に重視した。また前漢に倣って洛陽に太学(現在で言えば大学)を設立し、五経博士を置いて学生達に儒教を教授させた。孔子の故郷である曲阜で孔子を盛大に祀って、孔子の祭祀は国家事業とした。

また民間にも儒教を浸透させるために親孝行を為した民衆を称揚したりした。また法制上でも子が親を告発した場合は告発は受け入れられなかったり、親を殺された場合は敵討ちで相手を殺しても無罪になったりしていた。これらの政策の結果、官僚・民間ほぼ全てにわたって儒教の優位性が確立されることになる。

その一方で後漢の人々は迷信に対する傾倒も強く、預言書が皇帝・官僚らにも大真面目に取り扱われたり、各地に現われた怪現象・怪人物が大きな話題となり、『後漢書』の中でもそれら当時の仙人たちを取り上げている。天災が天の意思の現れだと言う思想もこの時期に形成されたようである。

中国への仏教伝来は一番早い説が紀元前2年であり、最も遅い説が67年である。この時期には浮屠(ふと)と呼ばれていた。ブッダの音訳である。当初はあくまで上流階級の者による異国趣味の物に過ぎなかったようだ。しかし社会不安が醸成してくるにつれて、民衆の中にも信者が増えて教団が作られるまでに至ったらしい。
仏教の無の概念を理解するに当たり、中国人の窓口となったのが老荘思想の無為である。その結果として仏教は老荘の影響を受けて変質したようであり、また老荘の方も仏教に刺激を受けて道教教団の成立が行われることになる。

第11代桓帝(かんてい、132年 - 167年、在位:146年 - 167年)は道教に傾倒したことで有名であり、老子の祭祀を何度も行っている。仏教と同じく社会不安と共に信者が増えていき、太平道と五斗米道の2つの教団が作られた。これらの教団は民間の病気治療などを行うことで信者を集め、五斗米道は義舎と呼ばれる建物を建てて中には食料が置かれており、宿泊を無料で行うことが出来たという。

宦官の専横を主たる要因として黄巾の乱(184年)がおこり、太平道の組織は瓦解するが、しかし信者が消滅したわけではなく例えば曹操の青州軍など各地の群雄の中に吸収されていった。これ以後三国志の時代につながっていく。五斗米道は後漢が滅びた後も長く続き、後の正一教となり、台湾に渡って現在も存続している。』


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讖緯思想は春秋から出ている


春秋、それは春秋戦国時代における大国の興亡を記録した書物です。漢代には孔子が書いたと信じられており、孔子の視点がその歴史書に反映されているとして深く研究されてきました。そのため、宋代には四書(詩・書・易・春秋・礼記)の一つに挙げられています。

黄老思想の中核をなす天人相応の概念と陰陽五行説を学び取った董仲舒はそれを春秋の解釈の中でも応用しました。そうすることによって、天命にしたがうことによって繁栄する国家と、それに逆らうことによって滅亡する国家という、皇帝を天によって律する概念を作り出したと言えます。いわば皇帝という私権に対して公としての天帝の支配の優位性を歴史の中から読み取る学問の基盤を築いたわけです。これを災異説といいます。

儒学者であった董仲舒は前漢初期の清虚無為―なさざるままに治めるという黄老道支配の政治情勢を漢の武帝と共に変革し、治安維持により積極的に関わることによって帝国の安定を維持し築き上げることができたことから、儒教を国教として確立させることに成功しました。

この災異思想は前漢末期になると春秋という過去の帝国の栄華盛衰の研究のみならず、現在の帝国が天によって許されている状態なのかという研究にまで及びました。そしてついには、未来の帝国を主る者はどのような勢力となるのかという予言すなわち革命〔訳注:天命を革(あらた)める〕思想に根拠を与えるものとなりました。これが讖緯思想の萌芽となります。

讖緯(しんい)思想は、河図洛書(かとらくしょ)という数秘を示した図とともに、世界を動かす背後に存在する力を知ることができる、神秘思想としての地位を確立していきます。ここをうまく利用したのが漢帝国の簒奪(さんだつ)者と呼ばれている新の王莽(おうもう)で、さまざまな予兆を創作して帝位を奪うことに成功したわけです。

後漢に至るとこの河図洛書と結びついた讖緯思想は、図讖(としん)思想とも呼ばれ、未来を予知する学問的な地位を確立することとなります。後漢の初代皇帝である光武帝自らがこれを信じ、自らも予言を行い、天下に図讖を宣布しました(中元元年11月甲子)。このため後漢においては春秋を讖緯の概念で解釈するということが学問の基本となっていきました。


前漢の初期に隆盛を極めた黄老道はその政治における主導権は儒教に譲ることとなりましたけれども、そのまま廃されたわけではなく、ことに後宮を中心としてその命脈を保ち続けました。そして今度は讖緯思想と結びつき、後の道教を受容する基礎となります。本来老子の思想には存在しない不老不死や長命久視の思想に基づいた仙道や仏教もまたここに影響を与えていきました。

前漢末、BC48年、後の道教の基礎となったといわれている《太平経》が朝廷に献上されています(三国志補注・巻6)が、その作者である于吉は、仙人(三国志補注)であるとか沙門(仏教徒)であった(法苑珠林:巻79)という記載があることは、このあたりの事情が反映されたものでしょう。

道教、「道を求める者たちへの教え」は、魏晋南北朝の時代までは現在でいう道教を指すことも仏教を指すこともまた儒教を指すこともあったのです。(《老子・荘子》森三樹三郎著:講談社学術文庫314p)


《難経》はこのような時代の思想的な背景をもとにして書かれている書物です。


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黄老道の起源と系譜


この黄老道の起源は、春秋戦国時代、晋の亡公子 計然から古代の天道観(歳星を中心とした占星術、十二年の天道周期、陰陽五行説など)を学んだ范蠡〔注:はんれい:越の丞相:呉王扶佐を補佐して呉越の戦争を勝利に導いた〕と『老子』とに求められます。

「范蠡言は『経法』『十大経』『称』『道原』等の范蠡型思想、即ち黄帝書の系列の祖型であり、これら黄帝書と『老子』とが結合した所に、黄老道が成立する。」〔《道家思想の起源と系譜》浅野裕一:島根大学教育学部紀要(人文。杜会科学)第十五巻〕〔注:『経法』『十大経』『称』『道原』とは、馬王堆三号漢墓から出土した《黄帝四経》のこと〕「環淵こそが戦国中期に楚より斉へ『老子』を伝え、一足先に臨淄(りんし)に移入されていた范蠡型思想中に『老子』が導入される契機をもたらした」〔《道家思想の起源と系譜》浅野裕一:島根大学教育学部紀要(人文。杜会科学)第十五巻〕結果、鄒衍(すうえん)が活動した紀元前250年~260年頃には黄老道がすでに斉で成立していました。


「そもそも『老子』と范蠡言とは、等しく周の古代天道観にその起源を持ち、しかも『老子』の成立には范蠡言が深く関与していた。故にこの両者は、古代天道観の末裔(まつえい)として、更には南方に興起した思想の双璧(そうへき)として、発生の時点より斉に移入され、稷下(しょっか)に於て諸思想を吸収して、『経法』の如き范蠡型思想へと成長を遂げた。その際、天道を主体とする范蠡型思想にもっとも深刻な影響を与えたのが、環淵により楚から伝えられた『老子』である。『老子』が創出した宇宙の本体・根源としての道は、法源の設定や形名の根拠づけ、悪の発生理由の説明等に汎く応用され、范蠡型思想が持つ特徴の一つを形造ったのである。その後范蠡型思想は、やはり西方周の古代天道観の末裔たる陰陽家及び天文暦法家と、遙か中国世界の東端で再会したことにより、更に黄帝に仮託され、『十大経』の如き黄帝書の成立を見る。このように、黄帝に仮託された范蠡型思想が『老子』を自己の内部に取り込んでいたこと、及び『老子』が自己の中に天道概念を残存させていたことから、両者は同傾向の思想と見做され、やがて黄老と連称されて、楽毅列伝の系譜の如く完全な同一学派を形成することとなった。即ち『老子』と黄帝書とは、共通の淵源より出発した後、更に前後三回に亙る接触を経て、遂に黄老道を成立させるに到ったのである。」〔《道家思想の起源と系譜》浅野裕一:島根大学教育学部紀要(人文。杜会科学)第十五巻〕と。


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七日蝉 アスファルトの上に落ちており

炎暑の候、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
輝きの中で燃え落ちるかという空気をかき混ぜれうように風が吹き
知らない間に滴り落ちる肌の汗を乾かしていく昼下がり、
ふと目線を下ろすと、地上に出て鳴き続けていたはずの蝉が
そのままの形でアスファルトの上に転がっていました。
もう土に戻ることもできず、踏みつぶされて粉々になって風に吹かれるのを待つだけの
抜け殻。

「触れあうことは生命があって初めてできること」という、声がしました。
黄老道


漢代の初期、黄老道は、思想界のみならず政界をも支配していました。このため黄老道は政治術を説いたものであると考えられてきました。その政治術とは、無為にして治めるというもので、儒教において孔子が説いた王道思想をさらに柔軟にしたものです。この時代に黄老道が称揚された理由の中には、秦代において法家による厳格な締め付けが行われていたことに対する反発がありました。いわば時代的な要請という側面もあったわけです。この自由放任の治世は、漢の文帝をはじめとしてその妻の竇太后の強力な支持を背景として、五代武帝の六年(紀元前135年)に竇太后が亡くなるまで、70年あまりも続きました。

黄老道は後に述べるように一人の思想家が作り上げたものではなく、春秋戦国時代を通じて支那大陸の諸民族が創りあげた大いなる遺産のひとつです。前漢の武帝の時代にその政治的な主流の座を儒教に譲り、徐々に神仙説や讖緯学説と結びつき、『太平経』を経て後漢の末期には道教を形成する基本思想となりました。


黄老道は、

・その思想が時代によって変化し、あたかも雑学のような状態ともなっている。

・基礎的な文献が判然とせず、黄帝の名前そのものが『詩経』や『書経』などの古い文献や『論語』や『孟子』などの戦国時代中期の書物にもみられず、戦国末になって初めてみることができたものであるため、尭や舜を古代の聖王として自身の思想の淵源を求めた儒教に対抗して、より古い聖王として作られたのではないかという疑念を後代持たれた。(実際には儒教よりもその起源は古いことは「黄老道の起源と系譜」で解説しています)

・後漢の末期に道教に取り入れられ、道教思想の淵源の一つとなったため、神仙説や讖緯学説などの大衆の迷信としての宗教と混同され同一視されるようになった。

といったことなどから、儒教優勢の理性的な学問界からは軽視されて、従来あまり研究対象とされてきませんでした。


ところが1973年、長沙馬王堆の漢墓から帛書が発掘され、その内二種類の『老子』の写本の他の『経法』『十大経』『称』『道原』という四種類の古佚書が、漢初に大流行した黄老道関係の著作であることが明らかとなりました。

これによって、それまで『黄老道』関係と思われいた書籍、『国語:越語下篇』『老子』『管子:勢篇』等との比較研究がされることとなってこの、黄老道の起源がかなり古いということが明らかにされました。〔浅野祐一《黄老道の研究》〕


さて、東洋医学の原典である《黄帝内経》は、その名の示すとおり、この「黄老道」を基軸としてそれまでの医学思想がまとめられたものです。ただし、その内容においては、黄帝の登仙については触れていますけれども、讖緯学説や仙人となる方法について触れられているものではなく、体表観察に基づいてあるいは身体の深部感覚に基づいて汲み上げられた身体観を、黄老道の宇宙観に沿ってまとめられているものです。ということは、後漢において神仙道や讖緯学説 と結びつくよりも早い時期の黄老道の思想によって、その当時の医学思想がまとめられたものとみてよいでしょう。

「黄老道」とは、外的な物事の認識に関しては、天と人との間に相関関係があるという発想を基礎とし、世界を陰陽五行の運動で分析し理解しようとするものです。また内的には清虚無為自然のいわゆる「恬憺虚無なれば真気これに従う」というありのままの自然体を重んじる考え方を基礎としています。


全体のファイルは以下にあります
http://1gen.jp/1GEN/KOUROU/

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