疾病について
人の身体は、自然にバランスが取られることによってその生理的な活動を営むことができるようになっています。これをホメオスタシス(生理的な均衡)とも表現します。一般的に疾病と呼ばれているものは、身体の平衡が劫かされている状態のことを意味しています。
身体の均衡が破られている状態には、より健全な心身を獲得するために、「固定化している現状を手放している状況が表面に現れている」生理的な不安定状態のものがあります。
また、健全な心身を劫かしてその均衡を破壊し、時には生命の危機にまで至る、非生理的な不安定状態のもの、すなわち病理的なものがあります。
このあたりについてのより大きな生成病死については、テキストの一元のところで詳細に述べられていますので、まずはそちらをお読みください。ここではそのうちの病の内容について述べています。
この両者は同じように心身の均衡が破られているため、ふだん元気に生活を営んでいる状態とは異なる、なんらかの違和感が身体に表れてきます。
病者は身体に違和感があることから治療を求めます。素人ですからこれはどうしようもないことです。けれども治療家の側も患者の訴える症状に振り回されて、この両者を同じように「疾病」とし、否定して解消するべき課題としてしまうと、ここに非常に大きな問題を生ずることとなります。
この問題の小さなところでは、根本の問題を理解することができないまま対症療法が積み重ねられることによって、実はその患者さんの生命力が損傷され、寿命を短くしている可能性があるというところにあります。またこの問題の大きなところでは、歴史的に蓄積されたと言われている東洋医学の治療技術が、実は単に対症療法の積み重ねにすぎないものとして把握される可能性があるというところにあります。
もともとは人間をいかに理解しいかに生きるかという人間学として構想された東洋医学を換骨奪胎し、後世の人々が東洋医学の積み重ねを単なる大いなる人体実験として捉えて、対症療法的な治療技術を秘伝と呼んで盗み集めようとするわけです。
けれども東洋医学の実に面白いところは、この対症療法という「民間療法的なものを積み重ねてもその東洋医学的な人間観が構成されない」ということろにあります。すなわち古代、東洋医学を作り上げた人々は、単に対症療法を蓄積しただけではなかったということです。彼らは、より深く、人間をどのように捉えるべきか、人間とはいかなるものであるのかといった、その生理的な状況・病理的な状況を、生きて働いている人間のありのままの状態を観察することを通じて把握しようと試みてきました。そのような姿勢を保持することによって初めて、東洋医学の人間観ができあがっていったわけです。
この東洋医学の人間観を築き上げていく際に使用した基本的な概念は、天人相応に基づく―人身は一つの小天地であるという発想に基づく―陰陽五行理論でした。この発想を積み重ねていくことから生まれたもっとも大きな成果が、人間の生理的な状態についてまとめ、病理とは何かを明らかにしている臓腑経絡学説です。これを通じて東洋医学は、人間の生命がどのようにして養われているのか、なぜ病むのかということを明らかにしました。
生命とはいかなるものであるのかという問いこそが、東洋医学を深化発展させる鍵となったわけです。
そして、病を治療する方法のもっとも広く深いものとしてまずその人間の生き様としての養生があり、次に鍼灸があり、湯液があり、最後に治せないほど深い病があると古人は考えました。
そしてまたここにおいて疾病の二重性すなわち生命を維持していくために一時的な矛盾として起こる疾病と、生命が毀損されている状態としての疾病とがあるということが明らかにされていったわけです。
ですから、現代において東洋医学と称して対症療法のみを行って平然としていられる人々―漢方薬や鍼灸という道具を使用しながら、古人の身体観に則ることなしに、症状を目標として治療を行っている人々―は、この古人の姿勢を裏切るものであると言えます。伝統医学を自称しながら伝統を裏切っているわけです。
東洋医学は単なる病気治しの医学ではありません。その人生を応援するための養生術をその中核としている人間学です。これこそが、東洋医学がまさに「未病を治す医学」と呼ばれているゆえんであるわけです。
人の身体は、自然にバランスが取られることによってその生理的な活動を営むことができるようになっています。これをホメオスタシス(生理的な均衡)とも表現します。一般的に疾病と呼ばれているものは、身体の平衡が劫かされている状態のことを意味しています。
身体の均衡が破られている状態には、より健全な心身を獲得するために、「固定化している現状を手放している状況が表面に現れている」生理的な不安定状態のものがあります。
また、健全な心身を劫かしてその均衡を破壊し、時には生命の危機にまで至る、非生理的な不安定状態のもの、すなわち病理的なものがあります。
このあたりについてのより大きな生成病死については、テキストの一元のところで詳細に述べられていますので、まずはそちらをお読みください。ここではそのうちの病の内容について述べています。
この両者は同じように心身の均衡が破られているため、ふだん元気に生活を営んでいる状態とは異なる、なんらかの違和感が身体に表れてきます。
病者は身体に違和感があることから治療を求めます。素人ですからこれはどうしようもないことです。けれども治療家の側も患者の訴える症状に振り回されて、この両者を同じように「疾病」とし、否定して解消するべき課題としてしまうと、ここに非常に大きな問題を生ずることとなります。
この問題の小さなところでは、根本の問題を理解することができないまま対症療法が積み重ねられることによって、実はその患者さんの生命力が損傷され、寿命を短くしている可能性があるというところにあります。またこの問題の大きなところでは、歴史的に蓄積されたと言われている東洋医学の治療技術が、実は単に対症療法の積み重ねにすぎないものとして把握される可能性があるというところにあります。
もともとは人間をいかに理解しいかに生きるかという人間学として構想された東洋医学を換骨奪胎し、後世の人々が東洋医学の積み重ねを単なる大いなる人体実験として捉えて、対症療法的な治療技術を秘伝と呼んで盗み集めようとするわけです。
けれども東洋医学の実に面白いところは、この対症療法という「民間療法的なものを積み重ねてもその東洋医学的な人間観が構成されない」ということろにあります。すなわち古代、東洋医学を作り上げた人々は、単に対症療法を蓄積しただけではなかったということです。彼らは、より深く、人間をどのように捉えるべきか、人間とはいかなるものであるのかといった、その生理的な状況・病理的な状況を、生きて働いている人間のありのままの状態を観察することを通じて把握しようと試みてきました。そのような姿勢を保持することによって初めて、東洋医学の人間観ができあがっていったわけです。
この東洋医学の人間観を築き上げていく際に使用した基本的な概念は、天人相応に基づく―人身は一つの小天地であるという発想に基づく―陰陽五行理論でした。この発想を積み重ねていくことから生まれたもっとも大きな成果が、人間の生理的な状態についてまとめ、病理とは何かを明らかにしている臓腑経絡学説です。これを通じて東洋医学は、人間の生命がどのようにして養われているのか、なぜ病むのかということを明らかにしました。
生命とはいかなるものであるのかという問いこそが、東洋医学を深化発展させる鍵となったわけです。
そして、病を治療する方法のもっとも広く深いものとしてまずその人間の生き様としての養生があり、次に鍼灸があり、湯液があり、最後に治せないほど深い病があると古人は考えました。
そしてまたここにおいて疾病の二重性すなわち生命を維持していくために一時的な矛盾として起こる疾病と、生命が毀損されている状態としての疾病とがあるということが明らかにされていったわけです。
ですから、現代において東洋医学と称して対症療法のみを行って平然としていられる人々―漢方薬や鍼灸という道具を使用しながら、古人の身体観に則ることなしに、症状を目標として治療を行っている人々―は、この古人の姿勢を裏切るものであると言えます。伝統医学を自称しながら伝統を裏切っているわけです。
東洋医学は単なる病気治しの医学ではありません。その人生を応援するための養生術をその中核としている人間学です。これこそが、東洋医学がまさに「未病を治す医学」と呼ばれているゆえんであるわけです。
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肥痩考
肥痩ということを考える前に、生老病死について整理しておく必要があります。けれどもこのことについては《一元流鍼灸術の門》でしっかり述べられていますので、そちらを参考にしてください。この〈肥痩考〉は、その人生行路における体重の増減の要素について考察したものです。
気一元の観点から身体が作り上げられるということをみていくと、以下のようになります。
口から入り→消化し→代謝してエネルギーに化し→吸収し→二便として出る
口から入るものとしては、飲食物と空気とがあります。飲食物は胃の系統を通じて入り、脾によって消化されます。その精気は脾の上昇作用にしたがって肺に上り肺の系統から入った呼吸とともに宗気を形成します。宗気は肺の宣散粛降作用にしたがって下って五臓を養い、さらにその清濁にしたがって栄衛に別れて全身を養います。また飲食物の糟粕は腑を通じて大小の二便として排泄されます。
六臓六腑とその生命力の流れである十二経脉と、その余得である絡脉や奇経などで形成されているものが身体のまるごとひとつの全体となります。
新陳代謝が悪いと、身体となる部分が増えて排泄部分が減ります。これは臓腑の働きが弱り、排泄能力も低くなっているわけです。けれどもこれはエネルギー効率が高いために少量のエネルギーの供給で活発な働きをすることができるとも言えます。ですから新陳代謝が悪いからといって病気であるというわけではありません。
新陳代謝が良いと、身体となる部分が減り排泄部分が増えます。これは臓腑の働きが強く、排泄能力も高くなっているわけです。けれどもこれはエネルギー効率が低いために多量のエネルギーの供給によらないと活発な働きをすることができないとも言えます。ですから新陳代謝が良いからといって病気であるというわけではありません。
新陳代謝が悪いものには、飢餓体質すなわち痩せにくい体質や橋本病などがあります。
新陳代謝が良いものには、太りにくい体質やバセドー氏病などがあります。
新陳代謝の悪いということと痩せにくいということとは相対的な問題です。ですからなかなか痩せれなくても、できるだけ代謝を上げる―すなわち外出して運動し、さまざまなことに思い巡らして気を遣い。感情を活発に働かせてできるだけ食べないようにしていると、内臓が弱り切らない範囲で痩せていくことができます。
新陳代謝の良いということと太れないということとは相対的な問題です。ですからなかなか太れなくても、できるだけ代謝を下げる―すなわち外出を控えて家でおとなしくし無駄なことを考えずに感情を安定させてぱくぱく食べるようにすることで、内臓が弱り切らない範囲で太っていくことができます。
太る痩せるという以上のような観点は、生理的なものとしてまず最初に押さえておくべきことです。
次により病的な要素として、水分代謝の不良によって起こる内湿や湿痰の問題があります。これはいわゆる、内生の邪として身体の気の巡りを阻害することとなります。これを蓄積している時には、当然のこととして排泄する力が弱くなっています。この状態に陥る初期には多くの場合、食べ過ぎや過労によって腎気が弱ったために、排泄が鈍ることが契機となります。この状態が大きな問題をはらんでいる理由は、排泄が鈍れば鈍るほど邪気が蓄りやすくなるという、悪循環に入りやすいためです。このような悪循環を是正するには大きな非生理的な力が必要となります。これを鍼で得るか漢方薬で得るかあるいは何か他のもので得るかということは選択の問題です。微温的な処置では追いつかないことが多いということは覚えておく必要があります。
太る痩せるということは、東洋医学的に考えるだけでも以上のように複雑な要素があります。中医学が述べるよう単純に、太るということは湿痰を蓄めることであるという発想は、非常に安易なものであるということが理解できるかと思います。
肥痩ということを考える前に、生老病死について整理しておく必要があります。けれどもこのことについては《一元流鍼灸術の門》でしっかり述べられていますので、そちらを参考にしてください。この〈肥痩考〉は、その人生行路における体重の増減の要素について考察したものです。
気一元の観点から身体が作り上げられるということをみていくと、以下のようになります。
口から入り→消化し→代謝してエネルギーに化し→吸収し→二便として出る
口から入るものとしては、飲食物と空気とがあります。飲食物は胃の系統を通じて入り、脾によって消化されます。その精気は脾の上昇作用にしたがって肺に上り肺の系統から入った呼吸とともに宗気を形成します。宗気は肺の宣散粛降作用にしたがって下って五臓を養い、さらにその清濁にしたがって栄衛に別れて全身を養います。また飲食物の糟粕は腑を通じて大小の二便として排泄されます。
六臓六腑とその生命力の流れである十二経脉と、その余得である絡脉や奇経などで形成されているものが身体のまるごとひとつの全体となります。
新陳代謝が悪いと、身体となる部分が増えて排泄部分が減ります。これは臓腑の働きが弱り、排泄能力も低くなっているわけです。けれどもこれはエネルギー効率が高いために少量のエネルギーの供給で活発な働きをすることができるとも言えます。ですから新陳代謝が悪いからといって病気であるというわけではありません。
新陳代謝が良いと、身体となる部分が減り排泄部分が増えます。これは臓腑の働きが強く、排泄能力も高くなっているわけです。けれどもこれはエネルギー効率が低いために多量のエネルギーの供給によらないと活発な働きをすることができないとも言えます。ですから新陳代謝が良いからといって病気であるというわけではありません。
新陳代謝が悪いものには、飢餓体質すなわち痩せにくい体質や橋本病などがあります。
新陳代謝が良いものには、太りにくい体質やバセドー氏病などがあります。
新陳代謝の悪いということと痩せにくいということとは相対的な問題です。ですからなかなか痩せれなくても、できるだけ代謝を上げる―すなわち外出して運動し、さまざまなことに思い巡らして気を遣い。感情を活発に働かせてできるだけ食べないようにしていると、内臓が弱り切らない範囲で痩せていくことができます。
新陳代謝の良いということと太れないということとは相対的な問題です。ですからなかなか太れなくても、できるだけ代謝を下げる―すなわち外出を控えて家でおとなしくし無駄なことを考えずに感情を安定させてぱくぱく食べるようにすることで、内臓が弱り切らない範囲で太っていくことができます。
太る痩せるという以上のような観点は、生理的なものとしてまず最初に押さえておくべきことです。
次により病的な要素として、水分代謝の不良によって起こる内湿や湿痰の問題があります。これはいわゆる、内生の邪として身体の気の巡りを阻害することとなります。これを蓄積している時には、当然のこととして排泄する力が弱くなっています。この状態に陥る初期には多くの場合、食べ過ぎや過労によって腎気が弱ったために、排泄が鈍ることが契機となります。この状態が大きな問題をはらんでいる理由は、排泄が鈍れば鈍るほど邪気が蓄りやすくなるという、悪循環に入りやすいためです。このような悪循環を是正するには大きな非生理的な力が必要となります。これを鍼で得るか漢方薬で得るかあるいは何か他のもので得るかということは選択の問題です。微温的な処置では追いつかないことが多いということは覚えておく必要があります。
太る痩せるということは、東洋医学的に考えるだけでも以上のように複雑な要素があります。中医学が述べるよう単純に、太るということは湿痰を蓄めることであるという発想は、非常に安易なものであるということが理解できるかと思います。
実実の体質は存在しない
先日の勉強会の帰り際にある人から「実実の状態というのは存在す
るのでしょうか」という質問を受けました。私は即座に「存在しま
せん」と答えました。彼は重ねて「外邪によって侵襲されている場
合でも実実の状態というのはないのでしょうか」と質問されました。
私はやはり即座に「ありません」と答えました。ただその理由につ
いて明確にしきれていない気がしますので、ここで述べておこうと
思います。
教科書的な実実の人というのはいわゆる体力が充実し筋骨隆々とし
た状態のプロレスラーのような人が描かれます。このような人は生
命力が充実しきっているように見えますので、実実の人と呼んでい
るわけです。
けれども生命力が充実している人というのは、内部に蓄積する力だ
けでなく排泄する力も充実している人のことを意味しています。新
陳代謝が活発に行われている生命こそがまさにもっとも充実してい
る生命です。そしてそこには排泄能力が当然含まれるわけですから、
上記したような実実の人というのは、その筋骨隆々とした外見だけ
では、充実した生命力を持つ人と呼ぶことはできないわけです。
では外邪によって侵襲された時は実実の人にならないのでしょうか。
傷寒に補法なしと言い、汗吐下という瀉法が傷寒の病を治療する方
法となっていることからも、この考え方は支持されるように思えま
す。
けれどもよく考えてみると、生命力の弱りがなければ邪気が入って
くることはありません。これが東洋医学の基本的な考え方です。で
すから、邪気に侵襲されるような人は生命力がどこかで虚している
人であると言えます。ということは邪気に侵襲されているという点
ですでに、実実の状態ではないと言えます。
充実した生命というものは、淀みなく流れ続ける生命の状態のこと
です。邪気に侵襲されても、その邪気を払いしなやかに流れ続ける
ものこそ、充実した生命なのです。
五臓の弁別は知識の整理、病因病理は知恵の輝き
一元流鍼灸術における弁証論治は基本的に対象となる人の生命の状態についてその構造を考え、その中での主訴や不定愁訴の位置づけを明確にしようとしているものです。病気について弁証論治を組み立てているのではなく、生命について弁証論治を組み立てているわけです。
その中に五臓の弁別という項目があるわけですが、この項目は何を意味しているのでしょうか。
Hさんは主訴であるぎっくり腰を、腰痛であるとして腎に分類していました。私はその五臓の弁別をそのまあ認めた上で、ぎっくり腰の弁別として肝に入れる場合もありますよと意見を付与しています。ここには二つの問題が潜んでいます。
一つは、主訴がどうして起こりどうすれば治るのかということを明確にしようとして弁証論治を進めているはずなのに、それをその途中である五臓の弁別の中ですっきり分類してしまっていいのだろうか。それでは弁証論治を考えていく意味がないのではないか、という点。もう一つは、五臓の弁別ではOKを出しておきながら、なぜ先生は別の観点ということでぎっくり腰が肝に弁別されるなどと指摘しているのだろう、五臓の弁別そのものに駄目出しして最初から書き直したほうがすっきりするのに、という点です。
一つ目の問題である主訴を五臓の弁別にくっきりと入れてしまっていいのかどうかという点について解説します。
五臓の弁別というのは頭の整理です。すでに知っている身についている知識を用いて、対象となる人の四診の情報を五つの観点から仮に振り分けるものです。それがほんとうかどうかということよりも、身についている知識を整理するという意味合いの方が強くなります。
知識が偏っていたり間違っていたりしてもたいして問題ではないのは、そのあとに病因病理を考える過程があり、そこで「ほんとうはどうなのか」ということを個別具体的な状況を突き詰めながら考えていく道があるためです。五臓の弁別が知識の整理であるなら、病因病理は知恵の勝負であるとも言えます。
たいせつなことは、五臓の弁別で分類してみたからといってそこに拘わらず、より患者さんの実態に肉薄して表現できるように病因病理を作成する姿勢を持つということです。
東洋医学が伝統医学であるということの中身は、五臓の弁別のように伝統を踏まえた知識が、病因病理という知恵によって乗り越えられる道が示されているというところにあります。これが小さくは自分自身の知識を組み替え融合させていくということであり、それはそのまま伝統を作り替え乗り越えていくということであり、さらに大きくは、東洋医学を書き換えていくという作業につながっていきます。
ですから、現在の知識で、主訴を五臓の弁別にくっきりと区分して入れてしまっても構わないということになります。ただし、その区分にとらわれずに病因病理を考えていく、という姿勢を忘れてはいけません。ここがたいせつなところです。
二つ目の問題である、五臓の弁別そのものを最初から駄目出しして書き直したほうがすっきりするのではないかという点については、すでに上で述べたことと関連して理解できると思います。
五臓の弁別は現在持っている知識を整理するものですから、その完成度の高さはそれほど要求されません。それよりもほんとうにそうかと考えて病因病理を作成していく、知恵の力の方が大切です。先生はここをより意識して欲しいために五臓の弁別にOKを出しておきながら、閃挫腰痛についての他の観点も提示されているわけです。
学校の勉強とか試験に出る問題というものは、五臓の弁別を覚え込みその記憶量と正確さとを問うているものです。そしてそこが積み上げられ詳細に膨大になって(内部矛盾を起こしていながらそこから目をそらして)いるものが中医学です。
けれどもそれがそのままでは臨床にはつかえない知識であるということは、すでに多くの人が知っていることです。ほんとうはどうなのかと探求する姿勢が必要なためです。
一元流の弁証論治には、その道が示されているわけです。
一元流鍼灸術における弁証論治は基本的に対象となる人の生命の状態についてその構造を考え、その中での主訴や不定愁訴の位置づけを明確にしようとしているものです。病気について弁証論治を組み立てているのではなく、生命について弁証論治を組み立てているわけです。
その中に五臓の弁別という項目があるわけですが、この項目は何を意味しているのでしょうか。
Hさんは主訴であるぎっくり腰を、腰痛であるとして腎に分類していました。私はその五臓の弁別をそのまあ認めた上で、ぎっくり腰の弁別として肝に入れる場合もありますよと意見を付与しています。ここには二つの問題が潜んでいます。
一つは、主訴がどうして起こりどうすれば治るのかということを明確にしようとして弁証論治を進めているはずなのに、それをその途中である五臓の弁別の中ですっきり分類してしまっていいのだろうか。それでは弁証論治を考えていく意味がないのではないか、という点。もう一つは、五臓の弁別ではOKを出しておきながら、なぜ先生は別の観点ということでぎっくり腰が肝に弁別されるなどと指摘しているのだろう、五臓の弁別そのものに駄目出しして最初から書き直したほうがすっきりするのに、という点です。
一つ目の問題である主訴を五臓の弁別にくっきりと入れてしまっていいのかどうかという点について解説します。
五臓の弁別というのは頭の整理です。すでに知っている身についている知識を用いて、対象となる人の四診の情報を五つの観点から仮に振り分けるものです。それがほんとうかどうかということよりも、身についている知識を整理するという意味合いの方が強くなります。
知識が偏っていたり間違っていたりしてもたいして問題ではないのは、そのあとに病因病理を考える過程があり、そこで「ほんとうはどうなのか」ということを個別具体的な状況を突き詰めながら考えていく道があるためです。五臓の弁別が知識の整理であるなら、病因病理は知恵の勝負であるとも言えます。
たいせつなことは、五臓の弁別で分類してみたからといってそこに拘わらず、より患者さんの実態に肉薄して表現できるように病因病理を作成する姿勢を持つということです。
東洋医学が伝統医学であるということの中身は、五臓の弁別のように伝統を踏まえた知識が、病因病理という知恵によって乗り越えられる道が示されているというところにあります。これが小さくは自分自身の知識を組み替え融合させていくということであり、それはそのまま伝統を作り替え乗り越えていくということであり、さらに大きくは、東洋医学を書き換えていくという作業につながっていきます。
ですから、現在の知識で、主訴を五臓の弁別にくっきりと区分して入れてしまっても構わないということになります。ただし、その区分にとらわれずに病因病理を考えていく、という姿勢を忘れてはいけません。ここがたいせつなところです。
二つ目の問題である、五臓の弁別そのものを最初から駄目出しして書き直したほうがすっきりするのではないかという点については、すでに上で述べたことと関連して理解できると思います。
五臓の弁別は現在持っている知識を整理するものですから、その完成度の高さはそれほど要求されません。それよりもほんとうにそうかと考えて病因病理を作成していく、知恵の力の方が大切です。先生はここをより意識して欲しいために五臓の弁別にOKを出しておきながら、閃挫腰痛についての他の観点も提示されているわけです。
学校の勉強とか試験に出る問題というものは、五臓の弁別を覚え込みその記憶量と正確さとを問うているものです。そしてそこが積み上げられ詳細に膨大になって(内部矛盾を起こしていながらそこから目をそらして)いるものが中医学です。
けれどもそれがそのままでは臨床にはつかえない知識であるということは、すでに多くの人が知っていることです。ほんとうはどうなのかと探求する姿勢が必要なためです。
一元流の弁証論治には、その道が示されているわけです。