「『難経』は仏教の身体観を包含していた」というファイルをアップしました。
http://1gen.jp/1GEN/25/01.HTM
『難経』という鍼灸の古典が、どのような身体観をその内にもっていたのかということを分析したものです。そのうちの仏教の身体観を中心の流れとして、江戸時代に書かれた『難経鉄鑑』は『難経』の解説を行っています。
この仏教の身体観とは、臍下丹田を中心とする気一元の身体観で、生命をまるごとひとつのものとして見ていこうとするものです。(ちなみに『一元流鍼灸術の門』という書物は、臨床的な観点から患者さんをみていく具体的な方法を書いたものです。)
これは、本年6月、全日本鍼灸学会でポスター発表をしたものを練り直したものです。ポスター発表をした際、いくつか質問が出ました。仏教の伝来時期・難経が書かれた年代・仏教の身体観は何を根拠にしているのか、ということが中心です。
仏教の伝来時期については、公文書に記載されている最古のものとして『魏書』「釈老志」の紀元前2年を採用しています。このあたりのことは注5「仏教の伝来時期とその身体観:楚王英とその周辺を中心に」で詳細に解説しています。
また、難経が書かれた時期については紀元後100年前後と考えており、これも注4「『難経』が書かれた時期は紀元後100年前後」として詳述しています。
仏教の身体観についてポスター発表の後でご質問がありました。これは「ただすべてを捨てて禅定を行い、我が内なる生命に直接触れて法悦を得るところまで至ったことでしょう。(注5)そしてそこで得た身体観が肚―臍下丹田を中心とした身体観でした。(注6)」と、【背景】で述べているとおりです。大乗仏教の観念論ではなく、小乗仏教における禅定を通じた覚り体験、生命そのものに触れる歓喜体験が基礎となっています。ですから、いわゆる仏教経典の本格的な翻訳が『難経』が書かれた後に行われたということは、『難経』の作者が仏教体験をしていたということを否定する論点にはなりません。
この論文は、日本における東洋医学のあり方を考えていくうえで基礎となるものであり、これからの治療学を打ち立てていくうえで、立ち返るべき基本となるものであると考えています。どうか味読いただき、ご教示をいただければ幸甚に思います。
http://1gen.jp/1GEN/25/01.HTM
『難経』という鍼灸の古典が、どのような身体観をその内にもっていたのかということを分析したものです。そのうちの仏教の身体観を中心の流れとして、江戸時代に書かれた『難経鉄鑑』は『難経』の解説を行っています。
この仏教の身体観とは、臍下丹田を中心とする気一元の身体観で、生命をまるごとひとつのものとして見ていこうとするものです。(ちなみに『一元流鍼灸術の門』という書物は、臨床的な観点から患者さんをみていく具体的な方法を書いたものです。)
これは、本年6月、全日本鍼灸学会でポスター発表をしたものを練り直したものです。ポスター発表をした際、いくつか質問が出ました。仏教の伝来時期・難経が書かれた年代・仏教の身体観は何を根拠にしているのか、ということが中心です。
仏教の伝来時期については、公文書に記載されている最古のものとして『魏書』「釈老志」の紀元前2年を採用しています。このあたりのことは注5「仏教の伝来時期とその身体観:楚王英とその周辺を中心に」で詳細に解説しています。
また、難経が書かれた時期については紀元後100年前後と考えており、これも注4「『難経』が書かれた時期は紀元後100年前後」として詳述しています。
仏教の身体観についてポスター発表の後でご質問がありました。これは「ただすべてを捨てて禅定を行い、我が内なる生命に直接触れて法悦を得るところまで至ったことでしょう。(注5)そしてそこで得た身体観が肚―臍下丹田を中心とした身体観でした。(注6)」と、【背景】で述べているとおりです。大乗仏教の観念論ではなく、小乗仏教における禅定を通じた覚り体験、生命そのものに触れる歓喜体験が基礎となっています。ですから、いわゆる仏教経典の本格的な翻訳が『難経』が書かれた後に行われたということは、『難経』の作者が仏教体験をしていたということを否定する論点にはなりません。
この論文は、日本における東洋医学のあり方を考えていくうえで基礎となるものであり、これからの治療学を打ち立てていくうえで、立ち返るべき基本となるものであると考えています。どうか味読いただき、ご教示をいただければ幸甚に思います。
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