先生は言われました
生きることは祈ることです。
祈ることの本質は、自らを捨てきるということです。
祈りを通じてすべてを捨てきったところに主の祝福があります。
主の祝福に感謝し歓喜し踊ることが生きるということそのものです。
生に感謝できないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
生に歓喜し踊ることができないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
ひれ伏し祈ることを通じてその傲慢さを手放すのです。
そしてまた、始まりの場所にやってきなさい。
それはエデンの園。美の美たるところのもの。
光り輝く生命の、歓喜の場所に。
生きることは祈ることです。
祈ることの本質は、自らを捨てきるということです。
祈りを通じてすべてを捨てきったところに主の祝福があります。
主の祝福に感謝し歓喜し踊ることが生きるということそのものです。
生に感謝できないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
生に歓喜し踊ることができないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
ひれ伏し祈ることを通じてその傲慢さを手放すのです。
そしてまた、始まりの場所にやってきなさい。
それはエデンの園。美の美たるところのもの。
光り輝く生命の、歓喜の場所に。
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貪瞋癡の糞溜め人生
貪瞋癡の三毒に芯まで侵され、その糞溜めのまっただ中にどっぷり浸って生きていくことが、生きるということなのかもしれない。
友人は、五十代でもう先がないからと、今できることをするんだといって欲望の走るがままに走り出している。まるで、欲望が満たされて満足するときが来ることがあるかのように、疲れた身心に鞭を打って東奔西走している。まさに貪瞋癡の三毒が悪循環を起こして相乗作用で膨らんでいっているところをみている感じだ。けれども糞溜めをまだ味わい尽くしていないからと頑張っているわけだから何も言えぬ。自らの意思で選んだ糞溜め道中、一生そこを生きていくしかないのだろう。
何かに気づくということは、自分で気づこうとしないとできないもの。こんなに情報豊富な世界に生きてわざわざ糞溜めの中を選ぶというのもまた酔狂なのかもしれない。
貪瞋癡の三毒に芯まで侵され、その糞溜めのまっただ中にどっぷり浸って生きていくことが、生きるということなのかもしれない。
友人は、五十代でもう先がないからと、今できることをするんだといって欲望の走るがままに走り出している。まるで、欲望が満たされて満足するときが来ることがあるかのように、疲れた身心に鞭を打って東奔西走している。まさに貪瞋癡の三毒が悪循環を起こして相乗作用で膨らんでいっているところをみている感じだ。けれども糞溜めをまだ味わい尽くしていないからと頑張っているわけだから何も言えぬ。自らの意思で選んだ糞溜め道中、一生そこを生きていくしかないのだろう。
何かに気づくということは、自分で気づこうとしないとできないもの。こんなに情報豊富な世界に生きてわざわざ糞溜めの中を選ぶというのもまた酔狂なのかもしれない。