一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

私が観音菩薩だったころに、般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)を深く行
(ぎょう)じた時、五蘊(ごうん)〔注:色受想行識〕がすべて空であると
いうことをはっきりと覚ることができ、すべての苦しみや災厄から解き放た
れることができました。

舎利子(しゃりし)よ、色(しき)〔注:見ることができるもの〕に空(く
う)でないものはなく、空に色でないものはありません。色はすなわち空で
あり、空はすなわち色なのです。受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(し
き)もまた同じことです。

舎利子よ、諸法が空相を呈しているわけですから、生まれることも滅ぶこと
もそもそもなく、垢(けが)れることも浄(きよ)められることもそもそも
なく、増えることも減ることもそもそもありません。ですから空の中に色は
そもそもなく、受想行識もそもそもないのです。眼(げん)耳(に)鼻(び)
舌(ぜっ)心(しん)意(い)もそもそもなく、色(しき)声(しょう)香
(こう)味(み)触(そく)法(ほう)もそもそもありません。

見ることができる世界というものもそもそもなく、意識することができる世
界というものもそもそもありません。

無明というものもそもそもないのですから、無明がなくなるということもそ
もそもありません。また、老いや死というものもそもそもないのですから、
老いや死がなくなるということもそもそもありません。苦(く)集(しゅう)
滅(めつ)道(どう)〔注:仏教の根本教理を示す語。「苦」は生・老・病
・死の苦しみ、「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取
り去った悟りの境地、「道」は悟りの境地に達する修行〕などそもそもない
のです。

知ることができるものもそもそもないのですから、得ることができるものも
そもそもありません。ですからこれによって得るところのものというものも
そもそもないのです。

私である菩提薩埵 (ぼだいさった)〔注:道を求めて修業している自己の本
体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、心にこだわりがなくなります。
心にこだわりがなくなることによって、恐怖がなくなり、一切の混乱した夢
想から遠く離れることができます。ですから、涅槃〔注:死生や善悪の判断
を超えたこの世界の実相そのもの:相対界ではない絶対界〕を自由に探求す
ることができるようになります。

私である過去現在未来の諸仏〔注:時代を超えて変わりなく存在する自分自
身の本体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、あーのくたーらーさん
みゃくさんぼーだいを得ること〔注:時空を超えた世界ー大いなる生命その
ものと一体となり、その光を帯びること〕ができます。

ですから般若波羅蜜多をよく知りなさい。ここに大いなる神呪、ここに大い
なる明呪、ここに無上の呪、ここに並ぶもののない呪があります。一切の苦
しみを取り除くことができます。本当です、嘘ではありません。

それではその般若波羅蜜多への呪〔注:じゅ:のりと〕をお伝えしましょう。
今その呪を唱えます。

ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー〔注:手放しなさい:手放しなさい:すべてを手放しなさい〕
はらそーぎゃーてーぼーじーそわかー〔注:すべてを手放して 存在そのものでいなさい〕



般若波羅蜜多とは


時空を超えた存在そのもの。仏性の本体であり彼岸である。真実の体験であ
り、人生の中でただ一つだけ体験しなければならない境地、場所である。般
若波羅蜜多を体験し、自覚し、意識し続けそれを表現するように努力するこ
と。そこに人生の本懐がある。

般若波羅蜜多はすべての存在の中にあり、もちろんすべての人々の中にある。
生を支えているエネルギーであり、生命そのもの喜びそのものでもある。驚
くべきことに人々はそれが自分自身―自分そのものであることを知らない。

苦集滅道は、迷いの様相であり、迷いから覚める道筋ではあるがそれは本体
ではない。なぜなら人は、その存在そのものがすでに覚りの中にあるのだか
ら。

般若波羅蜜多に気がつくということは、そのことに気がつくということであ
る。

一瞬の隙もなく一ミリの隙間もなく般若波羅蜜多は私を充たし世界を充たし
続けている。

気を許すと!!! 意識は般若波羅蜜多の中に落ちていく。

深い呼吸とともにしがみついている想念を解き放ち、般若波羅蜜多の中心に
落ちていこう。

生のなんと栄光に満ちたものであることか!

生命宇宙の真っ只中の光明の世界の中心に私はいる!

お互いのなかの佛を拝み日々暮らすことのできる仏国土=お互いのなかの神
性を日々讃仰しあえる世界が訪れんことを!

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知を探究する際に覚悟がいるということは一体何を意味しているのだろうと、私自身にいま問うています。

最近朝日新聞社の捏造報道が話題になっていますが、知を探究するのではなく、これまで自分たちがそうに違いないと思い込んでいたことを前提として事実を故意にねじ曲げて伝えたということが問題となっているものです。これなどは知に対する犯罪と言えます。また、道を歩むものが決して犯してはいけない行為であると言えます。


知を探究するということは、与えられた情報そのもののなかから知恵をそのまま引き出す行為となります。これはフィールドワークをする研究者と同じような姿勢です。存在の声に耳を澄ましそれを聞くようにする、というテキストの言葉は、このことを意味しています。真実(知)を探求するということはいつの時にも自分の考えを棚上げにして存在の声を聴くことを優先する、その覚悟が必要となります。

これは自分を汚している「知識」を少しづつはぎ取っていく行為であるとも言えます。自分を汚している「知識」と表現していますけれども実は、知識や常識というものは、現在の自分自身を規定し、ある意味で護ってくれているものです。知を探究し続けるためにはそのような保護着を手放す勇気を持つ必要があります。覚悟と私が述べたものはこの勇気のことをも意味しています。

探究が続いていくにしたがって恐怖や疲労からこれまでの常識にすがるということはよくあることです。そのような逃げを打たず探究を続けていくことを選択すること選択し続けることもまた覚悟ということになります。

ことに生死の研究というのは深い宗教的理解を必要とするものです。途中で探究を止めると、傲岸不遜な宗教家になりかねません。どこまでも謙虚にあり続けなければ、知の底―すべてに通じる知の道―を見つめ続けることはできないものです。

知の探究というのは、自分が知らないことを探究しているわけですけれどもそれは実は、本当の自分自身を捜し出すー洗い出すーということでもあります。そういう意味で知識の汚れを払い自分自身の本来の姿に立ち返るというふうに表現したりもします。そう。これが汝自身を知れという言葉の真の中身です。

無理に納得することは汚れをもう一つ分厚く付けてしまうことになります。それをせず、風に揺らぐ葦のごとく知に向けての希求を諦めずにい続けること。これが覚悟であり大切なことであると私は思います。

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