知の核にあるものは存在であり体験であり心です。
言葉ではありません。言葉はそれを表現したものです。
そのためこの知の核が汚れているとなにも見えません。
見えていないままに言葉を綴る人々がいるのは残念なことです。
知の核を磨き、自身の穢れをまず払う必要があります。
知の核である「体験する心を磨く」ためには何が必要なのでしょうか。
じつはこれが、禅における止観であり修験道の修行です。
穢れを祓い浄めるということが道徳の核としてある神道は
まさにこの修行目的そのものです。
治療におきかえてみるとこれは、体表観察するための五感を鍛えるということです。
五感を鍛えるためには、感覚を敏感に繊細にしていくということも大切です。
そしてそのために行うべき大切なことに、
概念や思い込みによって五感が邪魔されないようにする
ということがあげられます。
己を無にして五感で受け取ったものをきちんと受け取ること。
治療においてはこれが核となる知の基盤ということになります。
このような知の核の鍛錬において、
禅と神道がたいへん重要であるということは上に述べたとおりです。
般若心経の般若波羅蜜多とは、
穢れない眼差しで体験した真実の世界という意味です。
学者が間違えるのはこの知の核が体験ではなく知識だと思うところにあります。
言葉に表現されたものしか言葉を通じて読み取ることができないため、
あるいは学問という名前で、言葉に強く依拠してしまうためなのでしょう。
分別知しか持つことを許されない学者は、
その始めの第一歩から知の階梯を踏み外さざるをえないのです。
わたしたちは知っています。
知の核の体験から自然に発生する「第一声」こそが大切であるということを。
最初は意味を持たない感嘆でしょう。
それで十分です。
けれどもそれを理解していくにつれて、
「ありがたい」とか「一」とか「まるごとひとつ」とか「自他一体」といった
日々「生かされていることを知る」言葉
-生命の言葉に出会うことができるかもしれません。
それらの言葉は、この知の核の体験から汲み出された表現の一部です。
けれども言葉という不浄のものを出す必要さえ実はないのかもしれません。
その体験を生きていればそれで十分なのですから・・・
表現された言葉を通じて我々は、
知の有り様と知の核の体験に踏み出さなければなりません。
言葉を組み合わせて理解したふりをするのではなく、
実際の体験の海に泳ぎ出す必要があるのです。
実際に体験し、
その海を豊かに感じ取り
泳いでいくことが大切です。
言葉のない世界を泳ぐことがどれほどの喜びを与えてくれるか。
これは体験した人でないとわからないところでしょう。
このような「第一声」は、魂を孕んでいるので言霊と呼ばれています。
知の核を反映している言葉です。
そのような言葉として「第一声」を感受する、
その感受性を養うことが大切です。
言葉を組み合わせて言葉を作り上げるところには詐術が入り込みます。
どのように豊穣な言葉で組み立てられていても、嘘は嘘にすぎません。
ゴミのような腐臭を放つ大量の言葉が現代では横行しています。
言葉の表面だけしか見えなければ、
それに振り回されてしまいます。
これが言葉の危険なところです。
その危険性から回避するために必要な手段は、
言葉を越えて存在そのものを理解する心を持つことです。
その意志があってはじめて生命と共に生きる世界を歩むことができます。
言葉ではありません。言葉はそれを表現したものです。
そのためこの知の核が汚れているとなにも見えません。
見えていないままに言葉を綴る人々がいるのは残念なことです。
知の核を磨き、自身の穢れをまず払う必要があります。
知の核である「体験する心を磨く」ためには何が必要なのでしょうか。
じつはこれが、禅における止観であり修験道の修行です。
穢れを祓い浄めるということが道徳の核としてある神道は
まさにこの修行目的そのものです。
治療におきかえてみるとこれは、体表観察するための五感を鍛えるということです。
五感を鍛えるためには、感覚を敏感に繊細にしていくということも大切です。
そしてそのために行うべき大切なことに、
概念や思い込みによって五感が邪魔されないようにする
ということがあげられます。
己を無にして五感で受け取ったものをきちんと受け取ること。
治療においてはこれが核となる知の基盤ということになります。
このような知の核の鍛錬において、
禅と神道がたいへん重要であるということは上に述べたとおりです。
般若心経の般若波羅蜜多とは、
穢れない眼差しで体験した真実の世界という意味です。
学者が間違えるのはこの知の核が体験ではなく知識だと思うところにあります。
言葉に表現されたものしか言葉を通じて読み取ることができないため、
あるいは学問という名前で、言葉に強く依拠してしまうためなのでしょう。
分別知しか持つことを許されない学者は、
その始めの第一歩から知の階梯を踏み外さざるをえないのです。
わたしたちは知っています。
知の核の体験から自然に発生する「第一声」こそが大切であるということを。
最初は意味を持たない感嘆でしょう。
それで十分です。
けれどもそれを理解していくにつれて、
「ありがたい」とか「一」とか「まるごとひとつ」とか「自他一体」といった
日々「生かされていることを知る」言葉
-生命の言葉に出会うことができるかもしれません。
それらの言葉は、この知の核の体験から汲み出された表現の一部です。
けれども言葉という不浄のものを出す必要さえ実はないのかもしれません。
その体験を生きていればそれで十分なのですから・・・
表現された言葉を通じて我々は、
知の有り様と知の核の体験に踏み出さなければなりません。
言葉を組み合わせて理解したふりをするのではなく、
実際の体験の海に泳ぎ出す必要があるのです。
実際に体験し、
その海を豊かに感じ取り
泳いでいくことが大切です。
言葉のない世界を泳ぐことがどれほどの喜びを与えてくれるか。
これは体験した人でないとわからないところでしょう。
このような「第一声」は、魂を孕んでいるので言霊と呼ばれています。
知の核を反映している言葉です。
そのような言葉として「第一声」を感受する、
その感受性を養うことが大切です。
言葉を組み合わせて言葉を作り上げるところには詐術が入り込みます。
どのように豊穣な言葉で組み立てられていても、嘘は嘘にすぎません。
ゴミのような腐臭を放つ大量の言葉が現代では横行しています。
言葉の表面だけしか見えなければ、
それに振り回されてしまいます。
これが言葉の危険なところです。
その危険性から回避するために必要な手段は、
言葉を越えて存在そのものを理解する心を持つことです。
その意志があってはじめて生命と共に生きる世界を歩むことができます。
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