一元流鍼灸術とは何か。という質問をされたとき私は、うまく答えることができませんでした。私の中には沢山の解答が一度に沸いてきます。けれど
も沢山沸く答えのうちの一つをとって言葉にしてみても、言い古されている言葉だったりごまかしのきく言葉だったりして、理解されることは難しいなと思って
言葉にできなくなるのです。理解されないまま、いわゆるカテゴリー分類されて、治まりのいい箱に整理され、忘れさられることが目に見えているためです。
人は、自分が見たいものを見、理解したいものを理解します。自分の理解している箱に既存のレッテルを貼ってきれいに整理するだけで。
言葉を超えた実存の中心に岐立しようとしている医学が存在することなど、想像することもできないのです。とはいっても言葉を用いて表現するしか方法はありませんので、あえて言葉にしてみます。
ひとことで言えば一元流鍼灸術は、気ー元の生命観に立って、東洋医学を新たに整理しなおしたものであると言えるでしょう。
幼児期に胆道閉塞を患って、肝硬変を引きおこし、病気がちのまま結婚した女性がいるという話を聞きました。その親は心配でー杯なのですが、彼女は子供を産みたがっているそうです。どうすればいいのでしょうか。
病という部分に着目するのであれば、親とともに心配し、できるだけ健康になってから子供を作るようにすればいいじゃないとか、子供は諦めた方がいいのではないからとか言うことになるでしょう。
け
れども、生命力の側に立つのであれば、今現在その生命力にとって最も害となっているのは、その心配の気持ちなのです。心配のマイナスエネルギーが、生命力
の輝きを遮る役割をしてしまうわけです。肝硬変はすでに終わった問題、今は今持てる人生を活力を持ってよりよく生きるのみ。今、ただ生きること、子供を作
る望みを叶えることを応援することだと思います。
このような考え方が生命の側に立つ考え方です。伸びようとする生命の勢いを妨げない、生命を養い育て活き活きとした人生を応援しようとするわけです。
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元流鍼灸術はこのような、生命の側に立って発想する医学です。症状とりが目標なのではなく、今与えられている生をさらにより活き活きと生きられるよう応援
することを目標としているのです。生命力を活発にすることによってさまざまな障害を乗り越えやすくしていこうとするわけです。
東洋医学あるいは民間医学あるいは宗教的治療の中には、時には奇跡という表現しかとることのできないような治癒がもたらされることがあります。
それはただ、生命力がそれを起こしているのです。日々の養生を基礎として、より活性化された生命力を得ることを通じてそれが起こっているわけです。そしてこれが実は東洋医学の本来の眼目でもあります。
ー元流鍼灸術はそのような医学の再興を目標としています。その目標に向かって、東洋医学を中心として、人の生老病死のステージを前提としつつ、診断および治療の探究をし続けているのです。
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勉強治療会は、年に一回、八月に行っています。
このファイルはその勉強治療会の一元流鍼灸術の中での位置づけを述べているものです。
一元流鍼灸術のメインコースでは、基礎理論を学びつつ自身の弁証論治をすることを通じて、一元流鍼灸術の基礎を学んでいきます。
ことに大切なことは、気一元の身体観に基づいた身体観を身につけるということです。ここにおいて私たちは古典を越え、言葉を越えて、身体そのものの神秘を学ぶ基礎を身につけようとしているわけです。
勉強治療会でやることはそれらの基礎に基づいて、さらに個別具体的に、経穴にアプローチし、どのように経穴などの四診状況が変化するのかを確認していきます。そして、なぜそのように変化したのか学ぶわけです。
こ
のことを通じて、鍼灸という道具を通じて自分が何をしているのか探究していくわけです。実はこの探究は、日々の臨床の中で行われるべきことです。けれども
日々は日常に追われて惰性にまみれがちとなります。そこでもう一度初心に戻って、一穴一穴の処置およびそれに対する反応を探究する機会を設けているわけで
す。
これはいわば、実戦の鍛錬とい
うことになります。それを通じて、同じ経穴にアプローチしていても、自分がやって起こる反応と、他の人がやって起こる反応とが異なる場合があるということ
を知ることができます。そのことを通じて、より精密な手技の探究というレベルまで話が深まっていくことでしょう。
メ
インコースではよく、手技の中に補瀉はない、ということを述べています。経穴という相手、あるいはその経穴を保持している患者さんがそこにいるからこそ、
そこに相互の関係性が生じて、補瀉あるいは経穴の形状の変化をもたらす技法が生まれます。補瀉という言葉にしても虚実という言葉にしても、その実体をどう
見ていくのかという明確な理解がされないまま、伝統に依存して語られすぎているのではないでしょうか。東洋医学において使われているこのような言葉が、い
かに漠然としたいい加減なものであるのかということが、勉強治療会を通じて理解できるでしょう。そして我々は、新しいほんとうに使える鍼灸技術を、一つ一
つ確認しながらこの勉強治療会で習得しようとしているのです。
も
ともと鍼灸を基礎として構築されている東洋医学は、その初めから体表観察に基づいた養生治療であったということが言えます。養生を極めていくことを通じて
さまざまな症状を取り除こうとしている医学である、という言い方もできます。けれどもそこには自ずと限界があるということも理解される必要があります。古
来死ななかった人間はいないわけですから、その前には必ずなんらかの病があるわけです。そしていかに養生をしようとも、誤治がそこにあろうとなかろうと、
最後には死んでいきます。
我々はその死にゆく身体に抗しつつ、今まだ生きている、その生命の質を向上させるために、養生の手助けとしての鍼灸を行っています。東洋医学が養生の手助けを確実にすることができるということこそ実は、われわれが誇り喜ぶべきことです。