> ○読み合わせ
> 気の生成について教科書P.83を読んで勝手に
> 宗気+精=元気
> と解釈していましたが、伴先生に質問したら異なるようでした。
> そこで解説いただいたことを元に
> 下記、質問2に記述しましたので確認願います。
>
> ◇質問2:
> 営衛+呼吸から取り入れた天気=宗気
> 宗気→全身をめぐる気となる
> 全身の気の余剰→腎に蓄えられ精と合したもの=元気
> という解釈で合っていますでしょうか?
>
> 気の生成・運行・蔵精のメカニズムをすっきり理解できれば人
> 間理解・病因の理解にとても参考になると思いました。
営衛論の詳細は以下から始まる12ページほどにまとめられて
います。脳みそを鍛えたければ参考にしてください。
http://1gen.jp/1GEN/NAN/EIE01.HTM
こうやって勉強してきて気づかなければならないことは、「気」の
存在する「位置」によって名前が変化していることです。そして
その各々に名づけられた「気」について、さらにその特徴を考察
していきます。これが東洋医学の伝統的な考察法となっている
わけです。
一歩退いて眺めてみます。存在する位置によって名前をつけら
れた気は、各々異なるものなのでしょうか。同じものなのでしょ
うか。さまざまな個性があり違いがあるそれらの気を、「一気あ
るのみ」と断ずるところに一元流鍼灸術の特徴があります。
そして、その「一気」に地盤を置いて、そこから生命そのものを
新たに眺めなおしていくという姿勢をとり続けようとしています。
そのことを、「言葉を越えて存在そのものに肉薄していく」と表現
しているわけです。
「気の生成・運行・蔵精のメカニズム」は、解説を読んでみると、
それが順番に秩序だった時間経過をもって起こっているように
思えます。けれどもそれは誤解です。今まさに「同時に」この体内
で起こっていることです。
ここまでが前置きです。
| 営衛+呼吸から取り入れた天気=宗気
| 宗気→全身をめぐる気となる
| 全身の気の余剰→腎に蓄えられ精と合したもの=元気
飲食物が胃に入り、その精微が肺に昇ることによって呼吸を通じてとり入
れた体外の天気と合したものを宗気と名づけます。
宗気は肺の粛降作用を受けて、五臓六腑を栄養します。その後に生じた気
を静と動の観点から陰陽に分け、これを営衛と呼びます。
営は中焦から出て十二経を回って中焦に戻る気のことです。衛は、下焦から
出て全身を衛る気のことです。
全身の気の余剰が腎に精として蓄えられます。これが元気の基となります。
> 気の生成について教科書P.83を読んで勝手に
> 宗気+精=元気
> と解釈していましたが、伴先生に質問したら異なるようでした。
> そこで解説いただいたことを元に
> 下記、質問2に記述しましたので確認願います。
>
> ◇質問2:
> 営衛+呼吸から取り入れた天気=宗気
> 宗気→全身をめぐる気となる
> 全身の気の余剰→腎に蓄えられ精と合したもの=元気
> という解釈で合っていますでしょうか?
>
> 気の生成・運行・蔵精のメカニズムをすっきり理解できれば人
> 間理解・病因の理解にとても参考になると思いました。
営衛論の詳細は以下から始まる12ページほどにまとめられて
います。脳みそを鍛えたければ参考にしてください。
http://1gen.jp/1GEN/NAN/EIE01.HTM
こうやって勉強してきて気づかなければならないことは、「気」の
存在する「位置」によって名前が変化していることです。そして
その各々に名づけられた「気」について、さらにその特徴を考察
していきます。これが東洋医学の伝統的な考察法となっている
わけです。
一歩退いて眺めてみます。存在する位置によって名前をつけら
れた気は、各々異なるものなのでしょうか。同じものなのでしょ
うか。さまざまな個性があり違いがあるそれらの気を、「一気あ
るのみ」と断ずるところに一元流鍼灸術の特徴があります。
そして、その「一気」に地盤を置いて、そこから生命そのものを
新たに眺めなおしていくという姿勢をとり続けようとしています。
そのことを、「言葉を越えて存在そのものに肉薄していく」と表現
しているわけです。
「気の生成・運行・蔵精のメカニズム」は、解説を読んでみると、
それが順番に秩序だった時間経過をもって起こっているように
思えます。けれどもそれは誤解です。今まさに「同時に」この体内
で起こっていることです。
ここまでが前置きです。
| 営衛+呼吸から取り入れた天気=宗気
| 宗気→全身をめぐる気となる
| 全身の気の余剰→腎に蓄えられ精と合したもの=元気
飲食物が胃に入り、その精微が肺に昇ることによって呼吸を通じてとり入
れた体外の天気と合したものを宗気と名づけます。
宗気は肺の粛降作用を受けて、五臓六腑を栄養します。その後に生じた気
を静と動の観点から陰陽に分け、これを営衛と呼びます。
営は中焦から出て十二経を回って中焦に戻る気のことです。衛は、下焦から
出て全身を衛る気のことです。
全身の気の余剰が腎に精として蓄えられます。これが元気の基となります。
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言葉を越えたリアリティを掴むというとき、そこには必ず幾ばくかの禅
の悟りが入り込みます。悟りというと遠くにある太陽か月のようですけ
れどもそれは違います。ただ、ありのままにlここにいてありのままに感
じ取ること。当たり前の今を、すべての妄念を取り払って感じ取ろうと
するということです。
これが実は脉診に必要になるということは、勉強をし脉診を継続された
方であれば容易に理解することができるでしょう。前提や思い込みがあ
ると、必ず診誤まります。実はこれは、脉診ばかりではありません。体
表観察すべての場面で必要になる姿勢です。
見ることができないうちに私たちは学校で言葉を学んでしまいます。そ
のため、見たものを言葉にあてはめようとしてしまいます。そうしない
と安心できない、それができると安心できる。そういう癖を、言葉に使
われている私たちはもってしまっています。
暝想は、その言葉を放擲して、リアリティーそのものに肉薄する練習で
す。仏教にも万巻の書物があります。それを一気に乗り越えて仏陀の悟
りにその裸一貫の魂で肉薄しようとするものが禅です。言葉を越えて悟
りの実態そのものへと参入していこうとするわけです。この姿勢を不立
文字と呼びます。
実は、体表観察をする上で必要な姿勢はこれです。東洋医学にも万巻の
書物があります。そのうち、脉診について専門に述べている書物もたく
さんあります。後進はその書物を読みこなし、脉診についてなんらかの
知識を得、さらに理解を得ようとします。
けれども言葉に従っていては実は脉診は理解できないものなのです。後
進は、文字に著されている脉状を、自分が診た脉状と比較しながら、診
たものにつけられている名前を探し出そうとします。さらにはその名前
で検索して、その脉状の意味を見つけ出そうとさえします。
けれどもそこには何の意味もありません。なぜなら、生命というものは
もっともっと大きな流れだからです。大いなる生命の流れの中に私たち
一人一人は存在しています。その一人一人の小さな生命の流れの中のご
く一部の表現として脉診はあるにすぎません。
生命の大いなる流れの中の、ごく一部。ほんのわずかな表現にすぎない
のです。そのため古来、脉に囚われるな、四診全体を見よというのです。
四診を通じて全体の生命の流れを把握し、その全体の生命状況に従って
現在の脉状の意味を考えていく。そのように発想の転換をしなければな
りません。
四診を通じて全体の生命の流れを把握し、その全体の流れに従って四診
それぞれに表現されていることの意味を考えていく。そのように発想の
転換をしなければならないのです。
診ることが先、診えたものをどのように呼ぶかということは、後の問題
です。その意味をどのように考えていくのかということは、さらにその
後の問題なのです。
私たちはそのことを理解するために暝想をします。言葉のすべてを手放
して、脉そのものを診れるように、体表観察そのものができるように、
全体の生命状況を捉えられるように、暝想をします。
そうやって実は、古典の文言に縛られた東洋医学を乗り越えようとして
いるわけです。
そうやって実は、体表観察に基づいた医学を、現代に蘇らせようとして
いるわけです。
伴 尚志
の悟りが入り込みます。悟りというと遠くにある太陽か月のようですけ
れどもそれは違います。ただ、ありのままにlここにいてありのままに感
じ取ること。当たり前の今を、すべての妄念を取り払って感じ取ろうと
するということです。
これが実は脉診に必要になるということは、勉強をし脉診を継続された
方であれば容易に理解することができるでしょう。前提や思い込みがあ
ると、必ず診誤まります。実はこれは、脉診ばかりではありません。体
表観察すべての場面で必要になる姿勢です。
見ることができないうちに私たちは学校で言葉を学んでしまいます。そ
のため、見たものを言葉にあてはめようとしてしまいます。そうしない
と安心できない、それができると安心できる。そういう癖を、言葉に使
われている私たちはもってしまっています。
暝想は、その言葉を放擲して、リアリティーそのものに肉薄する練習で
す。仏教にも万巻の書物があります。それを一気に乗り越えて仏陀の悟
りにその裸一貫の魂で肉薄しようとするものが禅です。言葉を越えて悟
りの実態そのものへと参入していこうとするわけです。この姿勢を不立
文字と呼びます。
実は、体表観察をする上で必要な姿勢はこれです。東洋医学にも万巻の
書物があります。そのうち、脉診について専門に述べている書物もたく
さんあります。後進はその書物を読みこなし、脉診についてなんらかの
知識を得、さらに理解を得ようとします。
けれども言葉に従っていては実は脉診は理解できないものなのです。後
進は、文字に著されている脉状を、自分が診た脉状と比較しながら、診
たものにつけられている名前を探し出そうとします。さらにはその名前
で検索して、その脉状の意味を見つけ出そうとさえします。
けれどもそこには何の意味もありません。なぜなら、生命というものは
もっともっと大きな流れだからです。大いなる生命の流れの中に私たち
一人一人は存在しています。その一人一人の小さな生命の流れの中のご
く一部の表現として脉診はあるにすぎません。
生命の大いなる流れの中の、ごく一部。ほんのわずかな表現にすぎない
のです。そのため古来、脉に囚われるな、四診全体を見よというのです。
四診を通じて全体の生命の流れを把握し、その全体の生命状況に従って
現在の脉状の意味を考えていく。そのように発想の転換をしなければな
りません。
四診を通じて全体の生命の流れを把握し、その全体の流れに従って四診
それぞれに表現されていることの意味を考えていく。そのように発想の
転換をしなければならないのです。
診ることが先、診えたものをどのように呼ぶかということは、後の問題
です。その意味をどのように考えていくのかということは、さらにその
後の問題なのです。
私たちはそのことを理解するために暝想をします。言葉のすべてを手放
して、脉そのものを診れるように、体表観察そのものができるように、
全体の生命状況を捉えられるように、暝想をします。
そうやって実は、古典の文言に縛られた東洋医学を乗り越えようとして
いるわけです。
そうやって実は、体表観察に基づいた医学を、現代に蘇らせようとして
いるわけです。
伴 尚志