【学ぶ】とは。自らの変革に向けて肚を括るということです。
求道の初心を自己に問い、
気づきに従ってそれまでの自分を手放していくということ
自分の内的変化へのアプローチ。覚悟。
胆田を練るという覚悟を決めることが大切です
この段、朱子学における居敬の心を定めることになります
学ぶの基本は完全なる自己の白紙化による完全な受容です
【見る】とは。与えられたものを受けとるだけではなく、
感応に従って触手を伸ばしていくということです。
感応が見る場所を決めるわけですが、
その自覚によって見る行為が磨かれていきます。
選択が頭で行なわれれば迷いが産まれますが、
胆田で見ることによって、見ることが気づきになります。
この段、朱子学における窮理の方法を具体化しているものです。
見るの基本は白紙の自己に映っているものを自覚することです。
【処置する】とは。握ったものを基礎として他者に届けることです。
積極的な自他の出会いはここに始まり、
再度、気づきの循還に帰していきます。
このようにして人と出会い、
このようにして人と交わり、
このようにして人生を作っていきます。
処置するの基本はあるがままの交わりです。
臨床とはこの、学ぶ姿勢を基礎として見、見たものを基礎として処置し、処置した結果を受け取るためにまた学ぶ姿勢を保持したまま見るという運動のことをいうのだと考えています。
この行為全体の基礎は学ぶ心の姿勢にあります。学ぶ姿勢を保持したまま見る、という受容の作業を行うということが四診の基本です。
東洋医学における学問の基礎、臨床の基礎がここにあるわけです。
学校などでよく処置の工夫ということで鍼灸技術や施灸技術をお互いに行いますが、これは非常に乱暴なことであると思います。全身状態を見ずに経穴だけを見て、あるいは経穴すら見ずに処置しているためです。これでは、身体が変化するとはどういうことなのかという基本を把握することができません。把握することができないということは、理解することができないということです。
気づかれた方もおられるでしょうが、これらの基礎はただ見るという姿勢を養うところにあります。禅の止観を修するということが根底にあるわけです。
求道の初心を自己に問い、
気づきに従ってそれまでの自分を手放していくということ
自分の内的変化へのアプローチ。覚悟。
胆田を練るという覚悟を決めることが大切です
この段、朱子学における居敬の心を定めることになります
学ぶの基本は完全なる自己の白紙化による完全な受容です
【見る】とは。与えられたものを受けとるだけではなく、
感応に従って触手を伸ばしていくということです。
感応が見る場所を決めるわけですが、
その自覚によって見る行為が磨かれていきます。
選択が頭で行なわれれば迷いが産まれますが、
胆田で見ることによって、見ることが気づきになります。
この段、朱子学における窮理の方法を具体化しているものです。
見るの基本は白紙の自己に映っているものを自覚することです。
【処置する】とは。握ったものを基礎として他者に届けることです。
積極的な自他の出会いはここに始まり、
再度、気づきの循還に帰していきます。
このようにして人と出会い、
このようにして人と交わり、
このようにして人生を作っていきます。
処置するの基本はあるがままの交わりです。
臨床とはこの、学ぶ姿勢を基礎として見、見たものを基礎として処置し、処置した結果を受け取るためにまた学ぶ姿勢を保持したまま見るという運動のことをいうのだと考えています。
この行為全体の基礎は学ぶ心の姿勢にあります。学ぶ姿勢を保持したまま見る、という受容の作業を行うということが四診の基本です。
東洋医学における学問の基礎、臨床の基礎がここにあるわけです。
学校などでよく処置の工夫ということで鍼灸技術や施灸技術をお互いに行いますが、これは非常に乱暴なことであると思います。全身状態を見ずに経穴だけを見て、あるいは経穴すら見ずに処置しているためです。これでは、身体が変化するとはどういうことなのかという基本を把握することができません。把握することができないということは、理解することができないということです。
気づかれた方もおられるでしょうが、これらの基礎はただ見るという姿勢を養うところにあります。禅の止観を修するということが根底にあるわけです。
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死生観とは、いかに生きるかを見つめることである。生とは何か?何を手放し、何を採るべきなのか?病める現代に生きる我々は、鍼灸師としてどのように生に向かい、死を捉えればよいのか?
日本国における死生観の変遷と、現状。死生観に深い影響を及ぼしたと思われる赤穂浪士、『養生訓』を始め様々な言葉を遺した貝原益軒、そして古代日本民族の心の有様に触れ、明らかにした本居宣長は、どのような生き様だったのか。彼らは何を基盤にして道を歩んでいったのか。それらを知ることで、現代に通じるもの、現代で失われつつあるもの、取り戻すべきものが浮き彫りになってくる。
我々は何を手放し、何を採るべきか、どこを見つめるべきなのか。文字の糟粕を乗り越えた先にあるもの、発声の源とは。禅を通じて得られるものとは。
生の現場をまっすぐに見つめていくなかからしか、死生の根本を見ることはできないのだ。
http://1gen.jp/1GEN/PDF03.HTM