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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/


このことを脉診を借りて述べていきましょう。

脉には生命のありのままの状態が現れています。われわれ鍼灸師はまさにそれを法として、治療前後の変化を診ているわけです。

脉を診る際、自己の概念を脉診をする指先に持ち込んでいくと、般若波羅密多として真実相を表現している脉状そのものを診ることはできません。

自分が診たいものを診、すでに理解できている範囲の中にその脉状の診方そのものを押し込めて判断してしまうためです。診たいものを診、表現したいものを見つけて、それを表現してしまうわけです。このことがまさに、「自己を運びて万法を修証」しているという言葉そのものの行為なわけです。

あるがままに診ようとするのではなく、きちんと診る前にレッテルを貼ってしまい、診ることを歪めてしまうわけです。このことを道元禅師は「迷」と呼んでいるわけです。

すでに持っている自身の診方や概念を一歩も出ることなく、自分の世界の中だけでものごとを分類し理解し(たつもりになっ)ているわけです。真実の世界は、そのような人々には開かれることはありません。なぜならそのような人々は世界に対して心を閉ざしているためです。まさに暗く閉ざされた世界、レッテルを貼り決めつけるだけの、迷いの世界がここに現成することとなります。

けれども本人たちは自分の王国の中心でふんぞり返っています。何もみえていないため、その小さな世界がすべてだと信じ込んでいるためです。自分自身の概念の檻の中に住んでいるのです。これを「井の中の蛙」とも言います。本当の意味での迷い、迷っていることさえ理解することができない、頑迷な迷いの中に彼らは住んでいます。


これに対して、指尖に集中してそこに映る脉の表情を、それが生命の表現であると感じ取ろうとして、ありのままに受容する脉診の姿勢があります。言葉にできなくてもいい、まずは感じ取ろうとすること、自身の指尖の感受性を信じてそこに任せてみる。そのようにして自分の心を開き続ける脉診の方法があります。新たな生命が今そこに現れていることに目覚めていようとするわけです。

そのようにして感じたものを、そのまま言葉化していきます。このような作業を「万法すすみて自己を修証する」と道元は表現しており、その心の位置を「さとり」と述べているわけです。
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道元禅師の『正法眼蔵』に、

「自己を運びて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」とあります。

万法というのは般若波羅蜜多のことであり、真実の世界というほどの意味です。
自己というのは、自己の意識のことです。
修証というのは実践的に明らかに理解するという意味です。

もともと「法」はあるがままにあり、あるがままの姿をそこに表わしているにすぎないものです。けれどもそのあるがままにある「法」を、自意識という穢れを持った我々―自己意識が、どうすればあるがままに感じとることができるのか。そこが問題の核心になるわけです。

真実の世界が、そこにあるのに、我々はこれまでの習慣によって汚された、心や知識や知覚を用いてあたかもすでに知っているものを見るかのようにそれ―「法」を見ます。ちゃんと見る前にレッテルを貼り、これまで蓄積してきた自分の考えのままに分類して理解したつもりになるわけです。

このような行為は、そこに存在する生命のあるがままの姿を破壊し窒息させる、傲慢極まりない姿勢です。けれどもそのような行為が日常になっている人々にとっては、自身の愚かさそのものでさえも理解することのできないものなのです。

なんという迷いの深さ、深い愚かさでしょう。


そのような世界に直面している時、道元禅師のこのことばは我々に光明を与えてくれます。

あるがままの生命の姿―般若波羅蜜多―真実の世界を、明らかに知る―修証するためには、自己を捨て、その世界が表われている「今、ここ」、毎舜起きているこの奇跡の世界に、自分を開けわたさなければならないのです。

その繊細な皮膚感覚こそが世界をあるがままに感じ取るために基本的な姿勢となります。

その姿勢を保ちながら、うめくようにその存在を表現する言葉を編み出す。「それ」を表現する言葉、すなわち般若波羅蜜多を表現する言葉を編み出す。ここが大切なところです。そしてこれこそがまさにこの「万法すすみて自己を修証す」の中味となります。存在が我を用いて、その存在の歌を歌うわけです。これはまさに詩の世界を意味しているものです。感応の生命世界が、ここに現成しているわけです。

自己の内に般若波羅蜜多が入り込み、自己を借りて詩を歌う。この時の、自己の心の位置を、道元禅師は「さとり」と表現しています。まさに毎瞬変化し続け成長し続ける世界の中心に私は存在し、触れている世界を変化していく自己意識を観察するように、自由に表現していくわけです。

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