東洋医学の治療効果を宣伝したいがあまり、治療技術という側面から東洋医学の秘伝を探求する傾向があります。他の手技や治療技術あるいは民間療法でも西洋医学でもこの同じ舞台、治療技術という側面から研究開発が行われています。それと張り合いたい東洋医学家がいるということなんですね。
けれども未病を治すという言葉があるとおり、東洋医学の本態は生命力を増進させるというところにあるのです。別の言葉を用いると、生命力の発条と病気とを分離せず、生命の中に病気があり生命の涯(はて)に死があるという考え方を東洋医学は基本的に採っているわけです。
生きている間は死んではいない、生きている。その生命をいかに生きるかというところが、今生きている人々の、個々人のお楽しみなわけですね。それに寄り添うようにより活発に生きることができるように励ましていくということが、東洋医学の本来の役目です。
そのために人間理解があり、そのために生命の中のどの部分がどのように病んでいるのかという病態把握があるわけです。そしてこの生命を理解する方法論を「弁証論治」と一元流鍼灸術では呼んでいます。病気はその生命の中の一部にすぎない。生きている生かされているから病があり困窮するところがあるのであって、その逆ではないということが基本的な発想となります。
東洋医学の病気治しの基本は、病気を治すことにあるのではなくて、生命力を増進させることによって増進された生命力が自然に病気を治していくと考えるところにあります。そのために「東洋医学の人間学」を学び構築していこうとしているわけです。
けれども未病を治すという言葉があるとおり、東洋医学の本態は生命力を増進させるというところにあるのです。別の言葉を用いると、生命力の発条と病気とを分離せず、生命の中に病気があり生命の涯(はて)に死があるという考え方を東洋医学は基本的に採っているわけです。
生きている間は死んではいない、生きている。その生命をいかに生きるかというところが、今生きている人々の、個々人のお楽しみなわけですね。それに寄り添うようにより活発に生きることができるように励ましていくということが、東洋医学の本来の役目です。
そのために人間理解があり、そのために生命の中のどの部分がどのように病んでいるのかという病態把握があるわけです。そしてこの生命を理解する方法論を「弁証論治」と一元流鍼灸術では呼んでいます。病気はその生命の中の一部にすぎない。生きている生かされているから病があり困窮するところがあるのであって、その逆ではないということが基本的な発想となります。
東洋医学の病気治しの基本は、病気を治すことにあるのではなくて、生命力を増進させることによって増進された生命力が自然に病気を治していくと考えるところにあります。そのために「東洋医学の人間学」を学び構築していこうとしているわけです。
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経絡治療が理論的に破綻している件
体表観察をおろそかにし、機械論的人間観しか持ち得ず、基礎理論と臨床各論との間に統一的視野が構築されていないという理由で中医学を批判しましたけれども、日本独特の鍼灸術ということでもっとも歴史のある経絡治療について一言。
経絡治療ということで一括りにされるべきではないほどの、理論的な積み重ねと、古典に対する真摯な取り組みが個々なされていることを、私は理解しています。が、しかし、経絡治療家のもっとも根源的な問題は、本治法という古典に本づいているとして構築した理論による治療と、標治法という局所治療あるいは症状取り治療とが断絶しているところにあります。
どのように古典を駆使して美しい本治法という理論を作り上げようとも、それに従うだけでは充分な治療効果をあげられないあるいは治療についての説明をすることができないということでは、それは欠陥理論であるといわなければなりません。問題なのは、古典の専門家とも言えるほど理論構築をされている方が平然と、本治法と標治法とを分けてしまうことです。けれどもそれは、少なくとも人間の全的に理解に本づく東洋医学の理論ではありません。単なる思いつきを組み合わせてそれに古典の言葉をつぎはぎでつけただけのものでしかありません。
なぜ、勉強家の皆様がなぜこのような愚かしいことを平然と続けているのでしょうか。とても不思議です。
基本的理論を中途半端にしか理解できていないために、三焦論を基にして陽経ですべての治療ができるなどと「豪語」する愚かなグループができあがるのです。
学問とは、自己変革のために存在するのであって、弱々しく愚かな自己を護るための言いわけをかき集めるためにあるわけではありません。
本治法と標治法の乖離について述べましたが、これを解決する概念は一元流においては存在します。そのことを全体と部分の関係がどうなのか、全身の生命力の状態と訴えている症状とをどのように位置づけて解釈するのか、ということに求めています。これは、病因病理を考える中からしか出てこないものです。その意味で、気一元の観点から人間をとらえた病因病理は非常に重要なわけです。
体表観察をおろそかにし、機械論的人間観しか持ち得ず、基礎理論と臨床各論との間に統一的視野が構築されていないという理由で中医学を批判しましたけれども、日本独特の鍼灸術ということでもっとも歴史のある経絡治療について一言。
経絡治療ということで一括りにされるべきではないほどの、理論的な積み重ねと、古典に対する真摯な取り組みが個々なされていることを、私は理解しています。が、しかし、経絡治療家のもっとも根源的な問題は、本治法という古典に本づいているとして構築した理論による治療と、標治法という局所治療あるいは症状取り治療とが断絶しているところにあります。
どのように古典を駆使して美しい本治法という理論を作り上げようとも、それに従うだけでは充分な治療効果をあげられないあるいは治療についての説明をすることができないということでは、それは欠陥理論であるといわなければなりません。問題なのは、古典の専門家とも言えるほど理論構築をされている方が平然と、本治法と標治法とを分けてしまうことです。けれどもそれは、少なくとも人間の全的に理解に本づく東洋医学の理論ではありません。単なる思いつきを組み合わせてそれに古典の言葉をつぎはぎでつけただけのものでしかありません。
なぜ、勉強家の皆様がなぜこのような愚かしいことを平然と続けているのでしょうか。とても不思議です。
基本的理論を中途半端にしか理解できていないために、三焦論を基にして陽経ですべての治療ができるなどと「豪語」する愚かなグループができあがるのです。
学問とは、自己変革のために存在するのであって、弱々しく愚かな自己を護るための言いわけをかき集めるためにあるわけではありません。
本治法と標治法の乖離について述べましたが、これを解決する概念は一元流においては存在します。そのことを全体と部分の関係がどうなのか、全身の生命力の状態と訴えている症状とをどのように位置づけて解釈するのか、ということに求めています。これは、病因病理を考える中からしか出てこないものです。その意味で、気一元の観点から人間をとらえた病因病理は非常に重要なわけです。