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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

患者さんの身体から学ぶというとき、その方法論として現代医学では、臨床検査やレントゲンやCTなどを用います。筋肉骨格系を重視するカイロなどでは、その身体のゆがみや体運動の構造を観察する方法を用います。東洋医学では望聞問切という四診を基にしていきます。一元流でこの四診を基にし、生育歴(時間)と体表観察(空間)とがクロスする現在の人間の状態を把握します。

これらすべては、人間をいかに理解していくのか。どうすれば人間理解の中でその患者さんに発生している疾病に肉薄していけるか。そのことを通じて、その患者さんの疾病を解決する方法を探るために行われます。

一元流鍼灸術の特徴は、生きて活動している気一元の身体がそこに存在しているのであるということを基本に据え続けるというところにあります。


東洋医学はその発生の段階からこの全体観を保持していました。そして、体表観察を通じて臓腑の虚実を中心とした人間観を構成していきました。臓腑経絡という発想に基づいたこの人間観こそが東洋医学の特徴であり、他の追随を許さないところであると思います。

「患者さんの身体から学ぶ」この営為は、東洋医学の伝統となっています。そもそも、東洋医学の骨格である臓腑経絡学が構成されていった過程そのものがこの「患者さんの身体から学ぶ」という営為の積み重ねた末の果実なのですから。

ただ、この果実には実は一つの思想的な観点があります。生命そのものを観、それを解説するための観点。それが生命を丸ごと一つとして把え、それを陰陽という側面、五行という側面から整理しなおし再度注意深く観ることを行う、ということです。

この、実在から観念へ、観念から実在へと自在に運動しながら、真の状態を把握し解説しようとすることが、後世の医家がその臨床において苦闘しながら行ってきたことです。

一元流鍼灸術では、その位置に自身を置くこと、古典の研究家であるだけでなく、自身が後学のために古典を書き残せる者となることを求めているわけです。

古典を学び、それを磨いて後学に手渡すことを、法燈を繋ぐと言います。

この美しい生命の学が、さらなる輝きを21世紀の世界で獲得するために、今日の臨床を丁寧に誠実に行なっていきましょう。

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古代の人間がどのように患者さんにアプローチしてきたのかというと、体表観察を重視し、決め付けずに淡々と観るということに集約されます。今生きている人間そのものの全体性を大切にするため、問診が詳細になりますし、患者さんが生きてきたこれまでの歴史をどのように把握しなおしていくのかということが重視されます。これが、時系列を大切にし、今そこにある身体を拝見していくという姿勢の基となります。

第一に見違えないこと、確実な状態把握を行うことを基本としていますので、病因病理としても間違いのない大きな枠組みで把握するという姿勢が中心となります。弁証論治において、大きく臓腑の傾きのみ示している理由はここにあります。そして治法も大きな枠組みを外れない大概が示されることとなります。

ここまでが基礎の基礎、臨床に向かう前提となる部分です。これをないがしろにしない。土台を土台としてしっかりと築いていく。それが一元流鍼灸術の中核となっています。


それでは、実際に処置を行うにはどうするべきなのでしょうか。土台が基礎となりますのでその土台の上にどのような華を咲かせるのか、そこが個々の治療家の技量ということになるわけです。

より臨床に密着するために第一に大切なことは、自身のアプローチの特徴を知るということです。治療家の技量はさまざまでして、実際に患者さんの身心にアプローチする際、その場の雰囲気や治療家の姿勢や患者さんとの関係の持ち方など、さまざまな要素が関わっています。また、治療家によっては外気功の鍛錬をしてみたり、心理学的な知識を応用してみたりと様々な技術を所持し、全人格的な対応を患者さんに対して行うこととなります。

病因病理を考え、弁証論治を行うという基礎の上に、その様々な自身のアプローチを組み立てていくわけです。早く良い治療効果をあげようとするとき、まず最初に大切なことは組み立てた基礎の上に自然で無理のないアプローチをするということです。ここまでが治療における基本です。

さらに効果をあげようとするとき、弁証論治の指示に従って様々な工夫を行うということになります。それは、正経の概念から離れて奇経を用いる。より強い傾きを患者さんにもたらすために、処置部位を限定し強い刺激を与える。一時的に灸などを使い補気して患者さんの全体の気を増し、気を動きやすくした上で処置部位を工夫する。外邪と闘争している場合、生命力がその外邪との闘争に費やされてしまいますので、それを排除することを先に行うと、理気であっても全身の生命力は補気されるということになり、気が動きやすく導きやすくなる。

といったように、気の離合集散、升降出入を見極めながら、弁証論治で把握した患者さんの身体の調整を行なっていくわけです。

一言で言えば、気一元の身体を見極めて、弁証論治に従いながら、さらにその焦点を明確にしていくことが、治療における応用の中心課題となるわけです。このあたりの方法論は古典における薬物の処方などで様々な工夫がされており、とくに傷寒論の方法論は参考になるものです。

一元流鍼灸術が描く未来像


■一元流鍼灸術の目指すもの

一元流鍼灸術の基本は、気一元の観点で観るというところにあります。

その際の人間理解における背景となる哲学のひとつに、天人合一論があります。これは、天地を気一元の存在とし、人間を小さな気一元の存在としていわばホログラムのような形で対応させて未知の身体認識を深めていこうとするものです。

天地を陰陽五行で切り分けて把握しなおそうとするのと同じように、人間も陰陽五行で切り分けて把握しなおそうとします。これは、気一元の存在を丸ごとひとつありのままにあるがままに把握しようとすることを目的として作られた方法論です。このことによく注意を向けていただきたいと思います。


この観点に立って、さらに詳しく診断をしていくために用いる手段として、体表観察を用います。体表観察していく各々の空間が、さらに小さな気一元の場です。天地を望み観るように身体を望み観、全身を望み観るように各診断部位を望み観る。この気一元(というどこでもドア)で統一された観点を、今日はぜひ持って帰っていただきたいと思います。

ここを基本として一元流鍼灸術では人間理解を進めていこうとしています。確固たる東洋医学的身体観に立って、過去の積み重ねの結果である「今」の人間そのものを理解していこうとしているわけです。

ここを基礎として、精神と身体を統合した総合的な人間観に基づいた大いなる人間学としての医学を構築していきたいと考えているわけです。

東洋医学の可能性の深さについて

一元流鍼灸術では、その初発の時点で「医学としての東洋医学」を目指していました。

けれども東洋医学の研究が深まってくると、病人と健康人との区別が明確ではない、食事と薬膳と漢方薬との区別が明確ではない、遊びと仕事との区別が明確ではない、傷つけることと治療との区別が明確ではないということに気づかされてきました。


このあたりのことは、「一元流鍼灸術の門」の「病理」、「鍛錬と疾病」に少し暗示的に書いてあるわけですが、健康と病気との間に分かれ目などないということ、鍛えるということと壊すということの間に分かれ目などないということは、詢に深い養生への視座を与えてくれるものでありまた、気を病まざる患者さんに無限の希望を与える視座でもあります。

行為の中心には人間が厳然と存在しています。それも、個々の、各々の肉体と精神を保持している人間。その各々の人に、肉体を鍛えることがあり精神を鍛えることがあるわけです。

同じ行為であっても、その強さが強すぎると肉体も精神も破壊されます。同じ行為であっても、その強さが弱すぎると肉体にも精神にもたいした影響を受けません。治療にもならず快感だけがある程度存在するという、中途半端な慰安的施術がそこに存在することとなります。

治療的な施術とはどのような場にあるのかというと、そこに存在する一元の場としての人体をしっかりと把握し、その気の偏在を調えるよう病因病理を探索し弁証論治を行い、その中心的な矛盾を打ち抜く!ように処置を施すところにあります。

このような生きている生命としての人間把握と、その動きに基づいた治療処置とは、西洋医学などの追随することのでき得ない場なのです。

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