局所治療と全身の治療
勉強会で話題になったことに、局所治療と全身の治療をどのように考え
るのかということがありました。
一元流鍼灸術では、局所治療を否定しないと思うが、いかがか、といっ
た論が、経絡治療との関連で語られました。
経絡治療においては、本治法という枠組みで一つ完成された理論を構成
し、それにしたがって治療穴まで決定されます。つまり、気一元の身体
に対して、経絡治療は本治法と名づけたこの論理で対応できると主張し
ているわけです。
ところが不思議なことに、彼らは本治法で対応できないことを標治法と
称して局所治療を行っています。これは、身体を気一元のものとして考
えていないことの表明であって、本治法を行う身体と標治法を行う身体
とは別の身体であるかのような考え方が内包されているものです。
これは、彼らが称する本治法というものが、身体を的確に捉えていない
ことによっておこる混乱です。もし誠実に論理的に思考しようとするの
であれば、そのいわゆる本治法というものを、身体状況をより的確に表
現できるようなものへと進化させていかなければならなかったはずです。
ところが、経絡治療家はその数十年の歴史の中で、その変革を怠り、本
治法で治りきらない部分を標治法で取る、標治法を効かせるために本治
法を行うなどというごまかしを延々と続けてきたのでした。
これに対して一元流鍼灸術では、本治法以外の治法はないということを
宣言しております。局所の問題も気一元の身体を理解していく中で明確
に位置づけられ治療されていきます。一元流鍼灸術の本治法は、非常に
柔軟にできています。それは患者さんの身体をできるだけ正確に記述す
るということから発しています。
たとえば五十肩の場合はどうなるでしょうか。五十肩の場合、腎気の損
耗がその背景に存在するということはかなり有名なことです。これを経
絡治療では、腎虚あたりの本治法を施した後、理論とは関係なく肩を触っ
ていくことをします。
それに対して一元流鍼灸術では、局所と全体との関連を考えることをま
づ第一とします。つまり、腎気の虚損が五十肩を起こさしめた主たる要
因であると考える場合には、その腎虚によって、肩が温養されにくくなっ
ているために(五十肩の局所は非常に冷えていることが多いものです)
肩に機能的な損傷が起こっているのである、とそんな風に考えるわけで
す。肩に損傷が起こるということは、陽気の不足だけではなく、事務仕
事などで肩を使いすぎたり、運動不足などで肩の筋肉がやせている(気
血ともに虚している)といった状況がそこに同時に存在している可能性
が考えられます。
それらの可能性を整理して、より効果が上がりそうな方向から治療を組
み立てていくわけです。
より効果が上がりそうな方向とは、局所の問題と全身の問題がどの程度
関連しており、どちらにどの程度重心があるかということをよく考え、
現在の患者さんの状況にしたがって、治療順序を定めて治療していくと
いうことを意味しています。
私の場合は、経穴の反応の出方を診、なぜそのような経穴反応が出てい
るのかということを考えて、反応の出ている経穴の中から治療穴を選択
していきますけれども、それ以外の方法論もあるだろうなぁとも思いま
す。まぁ、このあたりは、人それぞれということになります。要は、そ
の身体の全貌をきちんと把握できているかどうかというところが一元流
鍼灸術ではもっとも問題とされるところであるわけです。
勉強会で話題になったことに、局所治療と全身の治療をどのように考え
るのかということがありました。
一元流鍼灸術では、局所治療を否定しないと思うが、いかがか、といっ
た論が、経絡治療との関連で語られました。
経絡治療においては、本治法という枠組みで一つ完成された理論を構成
し、それにしたがって治療穴まで決定されます。つまり、気一元の身体
に対して、経絡治療は本治法と名づけたこの論理で対応できると主張し
ているわけです。
ところが不思議なことに、彼らは本治法で対応できないことを標治法と
称して局所治療を行っています。これは、身体を気一元のものとして考
えていないことの表明であって、本治法を行う身体と標治法を行う身体
とは別の身体であるかのような考え方が内包されているものです。
これは、彼らが称する本治法というものが、身体を的確に捉えていない
ことによっておこる混乱です。もし誠実に論理的に思考しようとするの
であれば、そのいわゆる本治法というものを、身体状況をより的確に表
現できるようなものへと進化させていかなければならなかったはずです。
ところが、経絡治療家はその数十年の歴史の中で、その変革を怠り、本
治法で治りきらない部分を標治法で取る、標治法を効かせるために本治
法を行うなどというごまかしを延々と続けてきたのでした。
これに対して一元流鍼灸術では、本治法以外の治法はないということを
宣言しております。局所の問題も気一元の身体を理解していく中で明確
に位置づけられ治療されていきます。一元流鍼灸術の本治法は、非常に
柔軟にできています。それは患者さんの身体をできるだけ正確に記述す
るということから発しています。
たとえば五十肩の場合はどうなるでしょうか。五十肩の場合、腎気の損
耗がその背景に存在するということはかなり有名なことです。これを経
絡治療では、腎虚あたりの本治法を施した後、理論とは関係なく肩を触っ
ていくことをします。
それに対して一元流鍼灸術では、局所と全体との関連を考えることをま
づ第一とします。つまり、腎気の虚損が五十肩を起こさしめた主たる要
因であると考える場合には、その腎虚によって、肩が温養されにくくなっ
ているために(五十肩の局所は非常に冷えていることが多いものです)
肩に機能的な損傷が起こっているのである、とそんな風に考えるわけで
す。肩に損傷が起こるということは、陽気の不足だけではなく、事務仕
事などで肩を使いすぎたり、運動不足などで肩の筋肉がやせている(気
血ともに虚している)といった状況がそこに同時に存在している可能性
が考えられます。
それらの可能性を整理して、より効果が上がりそうな方向から治療を組
み立てていくわけです。
より効果が上がりそうな方向とは、局所の問題と全身の問題がどの程度
関連しており、どちらにどの程度重心があるかということをよく考え、
現在の患者さんの状況にしたがって、治療順序を定めて治療していくと
いうことを意味しています。
私の場合は、経穴の反応の出方を診、なぜそのような経穴反応が出てい
るのかということを考えて、反応の出ている経穴の中から治療穴を選択
していきますけれども、それ以外の方法論もあるだろうなぁとも思いま
す。まぁ、このあたりは、人それぞれということになります。要は、そ
の身体の全貌をきちんと把握できているかどうかというところが一元流
鍼灸術ではもっとも問題とされるところであるわけです。
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一元流では現在あまり局所治療の問題を言いません。その理由は全身状態という場の中に手足頭などの局所が存在していると考えているためです。
このようなことを書くと当たり前じゃんと思われるかもしれませんが、ちょっと病院を覗いてみてください。内科や外科や皮膚科や眼科、歯科や耳鼻咽喉科などがあるではありませんか。
そう。病院の先生はこの当たり前の考え方をあまり重視していないんです。どうしてかというと、それぞれの専門科目で治療技術がそれぞれ発展してきたからです。そしてその理由は、患者さんの痛みや違和感などの訴えがその局所に限定して表現されているからです。
患者さんは素人ですから局所の問題に着目するのは当然と言えます。それに即応しようとするお医者さんたちも医学も、局所の問題の解決に血道を上げているわけです。これが現状です。鍼灸師さんなんかでも「治った」ことを強調する先生はそのように患者さんを見てそのように治療しているわけです。
痛みが取れても治ったのではない。鼻水が止まっても治ったのではない。痒みが取れても治ったのではない。生命をまるごと一つのものとして観るとき、実は治るということは有り得ないんですね。治るという言い方はおかしい。生命力が向上して新たなステージで生きられる状態となった。生活の質が高まった。こう言わなければならない。
このように考えてみるとよく理解できると思うのですが、全身状態をよく見てそれを高めることを目標とする治療においては、患者さんの生活態度、治療への取り組みが非常に重要となるわけです。治療家はあるときはその生命力を応援し、あるときは滞りを取り払いながら、患者さんの生活において焦点となるべきところを定めていきます。そうして、患者さん自身の生命力が身体を立て直しやすいように調えていくわけです。
生命の弁証論治を立てて人間理解をしていくことを通じて、
患者さんの生命状況をある程度理解することができました。
次の段階では、その生命状況を変容させるために、
患者さんにアプローチすることになります。
実は、患者さんにアプローチするための方法は、
非常にたくさんあることに気づかれる方もおられるでしょう。
生活指導・食事指導などに個性を表す方もおられるでしょう。
また、西洋医学的な治療も当然ここに選択肢として入ります。
各種の手技療法も生命状況転換のための大きな方法として考慮に入れることができます。
潜在意識に語りかけるなどの心理学的な方法を選択される方もおられるでしょう。
私はそれらの療法を否定するものではまったくありません。
けれども東洋医学を行ずる鍼灸師であり、かつ
生命の弁証論治も、その東洋医学的な手法によって情報を集め整理しているため、
ここでは鍼灸を道具として患者さんの生命状況を変容させる、
ということについて考えていくこととします。
鍼灸による治療の目標は、一言で言えば気の厚薄を調えるということになります。
そしてその目標のために行うことは、基本的には経穴へのアプローチです。
ですから、鍼灸における治療処置の目標は、経穴の変容を起こすことであるということになります。
一点の経穴を変容させることを通じて、
その変容がどのように全身に及んでいるのかということを
ふたたび四診を用いて観察し、
生命の弁証論治で得た患者さんの生命状況の把握と両睨みしながら、その変化の情報を蓄積していく。
これが、これからの鍼灸医学で求められていくことであると、私は考えています。
患者さんの生命状況をある程度理解することができました。
次の段階では、その生命状況を変容させるために、
患者さんにアプローチすることになります。
実は、患者さんにアプローチするための方法は、
非常にたくさんあることに気づかれる方もおられるでしょう。
生活指導・食事指導などに個性を表す方もおられるでしょう。
また、西洋医学的な治療も当然ここに選択肢として入ります。
各種の手技療法も生命状況転換のための大きな方法として考慮に入れることができます。
潜在意識に語りかけるなどの心理学的な方法を選択される方もおられるでしょう。
私はそれらの療法を否定するものではまったくありません。
けれども東洋医学を行ずる鍼灸師であり、かつ
生命の弁証論治も、その東洋医学的な手法によって情報を集め整理しているため、
ここでは鍼灸を道具として患者さんの生命状況を変容させる、
ということについて考えていくこととします。
鍼灸による治療の目標は、一言で言えば気の厚薄を調えるということになります。
そしてその目標のために行うことは、基本的には経穴へのアプローチです。
ですから、鍼灸における治療処置の目標は、経穴の変容を起こすことであるということになります。
一点の経穴を変容させることを通じて、
その変容がどのように全身に及んでいるのかということを
ふたたび四診を用いて観察し、
生命の弁証論治で得た患者さんの生命状況の把握と両睨みしながら、その変化の情報を蓄積していく。
これが、これからの鍼灸医学で求められていくことであると、私は考えています。
治療指針というのは、弁証論治にしたがって、どのように治療を組
み立てるのかという方針を書きます。具体的な経穴はその後の段階
になり、実際の治療として記述されることとなります。
実際の治療にはさまざまアイデアがあります。
・鍼灸に関係する古来からの無数の流派のものを利用する
・現代中医学の概念を応用する
・湯液関係の治療法を勉強してそれを鍼灸に応用する
・手技やカイロや湯液や西洋医学を、治療指針に従いながら使ってい
く
・民間療法を試してみて弁証論治に対する効果判定を行ってその民間
療法の東洋医学的な位置づけを行う
・生活習慣の転換のアドバイスをする(養生指導)
などがこれにあたります。
書き上げた弁証論治に沿って、もう一度 気一元の観点に立ちなおし、患者さんの身体状況を把握しなおすことによって、これからの治療指針が定まっていくわけです。ここには、治療の頻度と、治療効果のあがり方への見込みが入ってくることもあります。
実際の鍼灸における治療指針を定めるには、治療の順番を決めるということ、理気をするのか補気をするのか、納めて終えるのか散じて終えるのかといった大枠を考えるということでもあります。
治療指針は、主訴と密着していくものとなります。立てた弁証と論治によって、どのようにその主訴が改善されていくのかという道筋を想定しながら記載していくことになります。
み立てるのかという方針を書きます。具体的な経穴はその後の段階
になり、実際の治療として記述されることとなります。
実際の治療にはさまざまアイデアがあります。
・鍼灸に関係する古来からの無数の流派のものを利用する
・現代中医学の概念を応用する
・湯液関係の治療法を勉強してそれを鍼灸に応用する
・手技やカイロや湯液や西洋医学を、治療指針に従いながら使ってい
く
・民間療法を試してみて弁証論治に対する効果判定を行ってその民間
療法の東洋医学的な位置づけを行う
・生活習慣の転換のアドバイスをする(養生指導)
などがこれにあたります。
書き上げた弁証論治に沿って、もう一度 気一元の観点に立ちなおし、患者さんの身体状況を把握しなおすことによって、これからの治療指針が定まっていくわけです。ここには、治療の頻度と、治療効果のあがり方への見込みが入ってくることもあります。
実際の鍼灸における治療指針を定めるには、治療の順番を決めるということ、理気をするのか補気をするのか、納めて終えるのか散じて終えるのかといった大枠を考えるということでもあります。
治療指針は、主訴と密着していくものとなります。立てた弁証と論治によって、どのようにその主訴が改善されていくのかという道筋を想定しながら記載していくことになります。
患者さんの身体に異変が生じたとき、その異変に対して直接的に対処しようとするものを表の治療と呼びます。それは、症状と格闘しなんとかその症状を取り去ろうとするものです。それに対して裏の治療とは、患者さんの身体にその症状を現すに致った体質の変遷や状況の変化に着目し、その根本的な状態を変えていこうとするものです。
弁証論治は、この両方に用いることができますけれども、時系列を追って患者さんの状態の変化を把握し、病因病理を考えて治療する一元流鍼灸術の方法論は、その基本において裏の治療に必要不可欠なものであると言えます。
表の治療の代表的なものは、民間療法や西洋医学ということになるでしょう。これは生命力そのものを見つめる姿勢に欠落しているため、症状を治めるためには非常に効果が上がったとしても、その体質を向上させるためには無力であるばかりか、かえって生命力を損傷させる事態を呼び起こすこともあります。
小手先の技術を磨くことを恐れる理由は、表の治療において効果を発する能力が向上する反面、生命力そのものを損傷させる能力も高まっていくためです。生命に対する理解を伴わない技術というものが、人身に対して害をなすことを恐れます。
弁証論治は、この両方に用いることができますけれども、時系列を追って患者さんの状態の変化を把握し、病因病理を考えて治療する一元流鍼灸術の方法論は、その基本において裏の治療に必要不可欠なものであると言えます。
表の治療の代表的なものは、民間療法や西洋医学ということになるでしょう。これは生命力そのものを見つめる姿勢に欠落しているため、症状を治めるためには非常に効果が上がったとしても、その体質を向上させるためには無力であるばかりか、かえって生命力を損傷させる事態を呼び起こすこともあります。
小手先の技術を磨くことを恐れる理由は、表の治療において効果を発する能力が向上する反面、生命力そのものを損傷させる能力も高まっていくためです。生命に対する理解を伴わない技術というものが、人身に対して害をなすことを恐れます。