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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

病むとは乱れること

病むというのは乱れるということです。乱れるということの大きな原因には生命力がその統一性を失うことがあります。そしてその統一性の喪失の根本には生命力の虚損が潜んでいることが多いものです。

もちろん、その生命力の虚損の奥には、先天的な生命力の弱さ、暴飲暴食過労、心の使い方の間違いによって自ら招いた生命力の乱れというものもあるわけです。

治療をしていく際に観ていく必要があるものはそのような生命力のあり方の全体性であるということは言うまでもありません。

.....疾病について

人の身体は、自然にバランスが取られることによってその生理的な活動を営むことができるようになっています。これをホメオスタシス(生理的な均衡)とも表現します。一般的に疾病と呼ばれているものは、身体の均衡が劫かされている状態のことを意味しています。

身体の均衡が破られている状態には、より健全な心身を獲得するために、「固定化している現状を手放している状況が表面に現れている」生理的な不安定状態のものがあります。

また、健全な心身を劫かしてその均衡を破壊し、時には生命の危機にまで至る、非生理的な不安定状態のもの、すなわち病理的なものがあります。

このあたりについてのより大きな生成病死については、テキストの一元のところで詳細に述べられていますので、まずはそちらをお読みください。ここではそのうちの病の内容について述べています。

この両者は同じように心身の均衡が破られているため、ふだん元気に生活を営んでいる状態とは異なる、なんらかの違和感が身体に表れてきます。


病者は身体に違和感があることから治療を求めます。素人ですからこれはどうしようもないことです。けれども治療家の側も患者の訴える症状に振り回されて、この両者を同じように「疾病」とし、否定して解消するべき課題としてしまうと、ここに非常に大きな問題を生ずることとなります。

この問題の小さなところでは、根本の問題を理解することができないまま対症療法が積み重ねられることによって、実はその患者さんの生命力が損傷され、寿命を短くしている可能性があるというところにあります。またこの問題の大きなところでは、歴史的に蓄積されたと言われている東洋医学の治療技術が、実は単に対症療法の積み重ねにすぎないものとして把握される可能性があるというところにあります。

もともとは人間をいかに理解しいかに生きるかという人間学として構想された東洋医学を換骨奪胎し、東洋医学の積み重ねを単なる大いなる人体実験として捉えて、対症療法的な治療技術を秘伝と呼んで盗み集めようとする人々が出てくるわけです。


けれども東洋医学の実に面白いところは、この対症療法という「民間療法的なものを積み重ねてもその東洋医学的な人間観が構成されない」ということろにあります。すなわち古代、東洋医学を作り上げた人々は、単に対症療法を蓄積しただけではなかったということです。彼らは、より深く、人間をどのように捉えるべきか、人間とはいかなるものであるのかといった、その生理的な状況・病理的な状況を、生きて働いている人間のありのままの状態を観察することを通じて把握しようと試みてきました。そのような姿勢を保持することによって初めて、東洋医学の人間観ができあがっていったわけです。


この東洋医学の人間観を築き上げていく際に使用した基本的な概念は、天人相応に基づく―人身は一つの小天地であるという発想に基づく―陰陽五行理論でした。この発想を積み重ねていくことから生まれたもっとも大きな成果が、人間の生理的な状態についてまとめ、病理とは何かを明らかにしている臓腑経絡学説です。これを通じて東洋医学は、人間の生命がどのようにして養われているのか、なぜ病むのかということを明らかにしました。


生命とはいかなるものであるのかという問いこそが、東洋医学を深化発展させる鍵となったわけです。

そして、病を治療する方法のもっとも広く深いものとしてまずその人間の生き様としての養生があり、次に鍼灸があり、湯液があり、最後に治せないほど深い病があると古人は考えました。

そしてまたここにおいて疾病の二重性すなわち生命を維持していくために一時的な矛盾として起こる疾病と、生命が毀損されている状態としての疾病とがあるということが明らかにされていったわけです。


ですから、現代において東洋医学と称して対症療法のみを行って平然としていられる人々―漢方薬や鍼灸という道具を使用しながら、古人の身体観に則ることなしに、症状を目標として治療を行っている人々―は、この古人の姿勢を裏切るものであると言えます。伝統医学を自称しながら伝統を裏切っているわけです。

東洋医学は単なる病気治しの医学ではありません。その人生を応援するための養生術をその中核としている人間学です。これこそが、東洋医学がまさに「未病を治す医学」と呼ばれているゆえんであるわけです。
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肝木の身体観をアップしました。ちょっと長いので、ここでは、アップしているページだけ、紹介させていただきます。17ページあります。リンクは紹介ページに飛びます。そこをクリックすると、PDFファイルを読むことができます。
肝木を中心とした身体観は、一元流鍼灸術独自のものです。他の四臟を傷つける肝気ではなく、生命力を養い励ます基本となる肝木の機能について述べています。現代に誕生した新しい肝木の蔵象と言えるものです。

ライフ・ステージ考


人が生まれてから死ぬまでの間にある、人生の結節点―イベントをライフステージと呼んでいます。恋愛や結婚や出産というイベントのほかに、事故・大病・肉親などの世話・世話からの解放・仕事関係の問題とその解決など、個人々々人それぞれのイベントが起こります。その起こっているイベントは外的には同じように見えても、その生命の器に従ってさまざまな影響をその個人に与えています。生命力を損傷して大病をもたらすような悪影響を与える場合もありますし、逆にイベントを乗り越えることによってさらに強靱な身心を獲得させる刺激となることもあります。

弁証論治を行う上で大切なことの中に、このライフ・ステージのとらえ方があります。イベントの前後で体調の変化があったのかなかったのか、あったとすればそれはいい変化となっているのか悪い変化となっているのか、というとらえ方です。


ライフステージにおいて目立たないけれども大きな問題を引き起こすものの中に風邪の内陥があります。ご本人としては風邪のような症状を記憶していない場合もありますので判然としない場合も多いものです。そのため、問診をしても明らかには出てきにくい問題となっています。風邪の内陥がどのように問診として出てくるかというと、ある時期から疲れやすくなったり、体温が低くなって寒がりになったように感じたり、背中が寒くなったり、風邪が治りにくく感じたり、風邪を引きやすくなったり、消化状態が悪くなったり、原因不明の痛みが出たりします。切診としては、風邪の内陥が浅い場合は風門肺兪の発汗や太淵列缺の発汗として表われています。また深い場合は、風門肺兪の削げ落ちとなって出ている場合があります。慢性化している場合には気虚を深めさせる原因となり、列缺の削げ落ちとして出ている場合もあります。風邪の内陥は「痺証」として症状が表面化する以前の身体の状態であると考えています。


マイナスのイベントが同時期に重なって起こることがあり、それが大病のきっかけとなります。一つのイベントであれば跳ね返してさらに強靱な自己の身心を獲得することができても、いくつも重なると乗り越えることができずに身心を本当の意味で損傷することとなるわけです。弁証論治を行う上ではこの見極めが非常に大切になります。


治療をしていく際には、現在の身心状況となった段階からさかのぼってそのライフステージを調べ、問題が起こる以前の状態にまで身心を回復させるということが一つの目標となります。このことが、生命力が一段高い状態に回復すると表現していることの中身となります。


全身の生命力の問題について一元流鍼灸術では頻繁に語っています。人間が生きるか死ぬか、その事がもっとも深い問題であると考えているためです。

しかし、人間の病というものは、その生死とは深く関係しなくとも、怪我をすれば痛み、できもができると不安になるものです。

いちおう、小さな怪我やできものなどは、小さいものですから基本的に陰陽の観点で見分けていくようにします。生命力がそこに集まるということは(一時的には)陽気が強くなるということを意味しています。陽気が強くなると熱を持ちます。陽気が強くなりすぎると欝滞して痛みとなります。全体であれ部分であれ、陰陽のバランスが取れていることが、その規模としてはもっとも生命力が充実している状態なのですが、怪我などがあるとこのような形で修復しようと身体はするわけです。修復力が過剰となると、痛みがきつくなりますけれども、怪我は速く治ります。修復力が不足していると、痛みはきつくありませんが、怪我の治りも非常に遅くなります。またあまりに修復力が不足している場合には、痛みも感じないということになります。老人の骨折などがこの代表的な例です。まぁ、老人といってもその生命力の充実度にはさまざまなレベルがあり個人差も大きいわけですけれども。


規模が大きく構造体をとっているものに対しては、このような陰陽という観点だけではなく、五行の観点を取り入れるとより説明がしやすくなります。

たとえば、子宮筋腫などは表面から触ると大きくなったり小さくなったりしているわけですけれども、病院にいってレントゲンなどで診てもらうと大きさは変わっていないと言われます。

鍼灸師が診ているものは、その中心となるできものだけではなく、それを取り巻いている生命体です。この生命は、修復作用が強くなると痛みを出し、弱くなると痛みが消え、さらに弱くなると冷えて動きが悪くなってきます。筋腫などの場合は生命力の弱りから出ているものなので、痛みが出ることはあまりありません。痛みが強いということは、それだけ隣接部位を侵襲していると考えられます。

さて、この中心にあるものを腎の位置、それを取り巻いているものを肝の位置などとして、筋腫そのものを一元の場としてみていくと、その修復状況がどのレベルのものであるかということが見て取りやすくなります。〔注:この肝腎というのは、場の深さの表現であって、五臓の肝腎とは直接的には関係ありません〕

お医者さんからは変化ないといわれている部分は要するに芯の部分、腎の位置となります。この芯が取れてこないと本当には治って行かない。けれどもその芯を取るためには、その部位に生命力が集まる必要があるわけですね。ただ、この場合、生命力が集まるということは、流れとしての生命力が集まるということになります。カレーを作るときに玉ができる、その玉を溶かすためにかき混ぜる感じです。そのようにしないと芯が溶けてこない。

鍼灸などをして筋腫の大きさが変わるというときの第一段階は、この流れをよくして玉の表面に集まっている有象無象を流し取っていくということです。そして、この状態を継続させることによって、筋腫は太りにくくなり、最後には流れる生命の渦の中に溶かされていくことになると期待するわけです。

カレーの玉などの場合も、あまりにも溶けにくいときにはお玉などでそれをつぶすようにします。同じように筋腫などがある場合にもそこに鍼をして潰れやすくすることが必要な場合もあるわけです。

まぁ、玉があまりにも大きいときは、かっこ悪いので取って捨ててしまいます。これなどはいわゆる手術して筋腫を除去するということにあたるわけです。

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