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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

日本医学の原点

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皆さんは忘れているかもしれませんが、東洋医学などというものは実は存在しません。東洋医学という言葉は、西洋医学に対して使われている言葉であり、江戸時代末期までは、単に正統派医学だったにすぎません。

その正統派医学にはさまざまな種類がありました。紀元後すぐの後漢初期にまとめられ、古典として尊崇される『黄帝内経』の中にさえ、当時のさまざまな流派の記載があります。歴史を下るにつれて、もともとは医学の原点であった鍼灸系統についての記載よりも、より詳細な理論を展開しやすい湯液系統の記載が増えていきます。


富士川游の「日本医学史」によると、日本医学は古くは古事記の時代から存在しているとされています。また、現代の東洋医学家の多くは日本の仁和寺に『黄帝内経太素』という現代中国には残っていないような隨代の古い書物が所蔵されているのをご存知でしょう。さらには、『医心方』や『頓医抄』『万安方』という古医書もすでに日本で書かれているではないかと思われる方もおられるでしょう。

けれどもそれらの書物は、一般の学者の間でさえ共有されていませんでした。

このことは、日本医学中興の祖である田代三喜が、導道という僧侶が明国から輸入した李朱医学を学び〔注:「TSUMURA MEDICAL TODAY 2009年3月25日放送 漢方医人列伝 「田代三喜」 前・東京理科大学 薬学部薬学科 教授 遠藤 次郎」による〕、その治療効果の高さから、医聖とまで呼ばれるようになっていることからも明らかです。

田代三喜が採り入れた明代中期の医学は、現代中医学にも通じる弁証論治による治療法を日本式に勘案したものでした。それはそれまでの、症状に対して処置をしていく民間療法とは、その効果において大きな隔たりのあるものだったのです。

江戸時代につながる医学の大衆化は田代三喜を起源とし、その弟子である曲直瀬道三による医書の大量の出版によって大々的に始まりました。この時代は、日本医学が再構築された時代として銘記されなければなりません。


室町時代の戦乱が終わり、平和な江戸時代が訪れるにつれ、武士たちはその食い扶持を稼ぐ場所を失っていきました。そこで、さまざまな職業に手を染めていきました。その中に、儒教の研究実践で身を修めつつ医家として食いつなぐというというスタイルが出てきました。ここには豪商や庄屋などの知識人も参加し、江戸時代の大衆文化の基礎を形成することとなります。

その主流である京都の民間学派には、禅と陽明学を源流として日本で発展した気一元の人間観に立つ医学が生まれました。その背景には、儒教を日本的に換骨奪胎した多くの儒者、とくに伊藤仁斎の思想がありました。

> 内風が起きるということは、肝鬱は化火していると考えてしまっていいのでしょ
> うか?
> それとも化火までいっていなくても内風が起きてしまうこともあるのでしょう
> か?
>
> 肝鬱化火と肝鬱化熱では火のほうが強いと考えていいのでしょうか?
>
> ぐるぐるワールドにはまりました。

内生の邪すべてに言えることなのですが、内生の邪となる前の風寒暑湿燥火そのものは、すでに体内に存在し、生命力を構成しているものです。

その中でも風の大切さは、ライアルワトソンの『風の博物誌』に美しく描かれているように、まるで生命そのものを養い育てている本体であるかのようです。病気の初期状態として、一気留滞説を後藤艮山が唱えたわけです。

風があるからこそ、生命は循環し万物を育てていくことができる。風があるからこそ、生命は留滞することなく全身をめぐり隅々まで身体を養うことができる。

その風が少し行き渡らなくなると留滞がおこる。これが万病の元である気の留滞となります。けれども留滞にも実は意味があります。もし留滞しなければ揺らぎ、揺らぎが強くなるとコントロールしにくくなるわけです。そしてそのコントロールしにくくなったものが自身に違和感を覚えるほど強くなると、内風と呼ばれものとなります。

ですから留滞はある意味で生命力の踏ん張りであるとも言えます。留滞をとるためには、生命力がそこで踏ん張る必要がない状態に調える必要があります。それが一元流鍼灸術における治療目標としているところであるということになります。

ですから、邪気というのは、生命力がバランスを崩すことによって、気一元の場を困窮させ、その存続を劫かす状態となった生命力の状態であると言えます。


気虚や血虚でも内風がおこるように、生命力の流れがコントロールを失うことが内風の本体となります。

化熱と化火の違いは、熱化した段階であればコントロールしやすく、化火した段階になるとコントロールしにくく、延焼しやすいものです。

すべてを一元の気―すなわち生命力の変化状態という観点から見ていくようにすると、答えを得やすくなります。

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『臓腑経絡学ノート』の序文に私は、人間学として医学を捉えるべきであり、そのような角度から東洋医学を学ぶべきであると宣言しました。

「医学は人間学である。人間をどう把えているかによって、その医学体系の現在のレベルがわかり未来への可能性が規定される。また、人間をどう把え人間とどうかかわっていけるかということで、治療家の資質が量られる。

東洋医学は人生をいかに生きるかという道を示すものである。天地の間に育まれてきた生物は、天地に逆らっては生きることができない。人間もまたその生長の過程において、天地自然とともに生きることしかできえない。ために、四季の移ろいに沿える身体となる必要がある。また、疾病そのものも成長の糧であり、生き方を反省するよい機会である。疾病を通じて、その生きる道を探るのである。」(『臓腑経絡学ノート』1989年 北辰会出版部編 谷口書店刊)


同じように、精神病理学者である木村敏は、機械的な時間ではない「生きられている時間」について整理を試みています。

「すでに形成されて完了形で捉えられるようなかたちが「客観的時間」と呼ばれる観念的な「次元」の中に定位されるのに対して、つねに生成の途上にある生きたかたちは、それ自身とともに生命的時間を生み出す。かたちの生成する「いまここ」で「現在が現在自身を限定」し、アクチュアルな時間としての現在が生成する。現在の一瞬にほとばしっている時間とは、実は生命そのもののことである。それは外界の三次元につけ加わるような第四の「次元」などではない。

物理の世界に時間はない。変化はあったとしても、時間は存在しない。太陽が西の空に沈んで一日という時間がたち、時計の針が一目盛り動いて一分という時間が進んだと思うのは、それを一人の生きた、そして死すべき人間が見ているからである。人間に死ぬということがないならば、つまり人間が生きているのでないならば、時間ということはありえない。変化を時間の相のもとに見るということもありえない。死の欲動、それは時間のことである。

わたしたちを欲望させるもの、わたしたちに世界を享受させてくれるもの、わたしたちに死の恐怖をいだかせるものとしての時間、生命のかたち、かたちの生命、この「の」のところにのみ、そんな時間が流れている。」(木村敏著「生命のかたち/かたちの生命」229p:2005年第一刷)

生は、「今ここに」生きられている時間と空間が与えられて始めて存在します。木村敏は、臨床と哲学を通じてこの確信を得、「生命哲学」の構築を目指しています。


東洋には古くから「生命哲学」が存在しています。生きているということはどういうことなのかという問いとの格闘の歴史が記録されています。その中で最も有名な人物が、釈迦です。彼は生きるとはなにかという問いに明確な答を見出しました。けれども、その答は言葉にすることのできないものでした。

なぜなら、言葉は二次的なものであり、言葉には一般常識が必ずまとわりついているためです。けれども、その常識的な言葉を用いなければ生の実体を表現できません。この矛盾を解決するため釈迦がとった方法は、譬喩と、常識的な言葉の否定を言葉にすることでした。

人の概念は言葉を基礎として構成されていますから、釈迦の言葉を理解するためには、自己の概念を否定することから始めなければなりません。言葉は、その人の常識的な生活姿勢、あたりまえの生活の中から誕生しているため、常識とあたりまえがどうしようもなくまとわりついているためです。我々はそのようなものとして言葉を記憶し、そこから道徳を導き出すことによって社会を構成し、常識的な生をまっとうしています。

そのような生の常識―あたりまえに疑問を抱くことから、生の意味を問うことが始まります。「なぜ」という疑問にとらわれることから、常識的な人生を逸脱し、修行します。いわゆる求道者として人生を歩み続けることとなるわけです。そのような人の代表が釈迦でした。そして彼は明確な回答を得ることができました。しかしそれをそれまでの言葉の論理構造の中で開陳することはできなかった。そのため、譬喩と否定の否定によって、自己の概念を否定する勇気を持った求道者のみが理解し体験できるような、真実の言葉として残したのです。

それ以降、多くの求道者たちが、釈迦と同じ道を歩み、求道の果てに大いなる理解に辿り着きました。それを悟りと呼んでいます。

実はその悟りには二段階あります。その第一の悟りが、冒頭に揚げた木村敏の、生命についての解説です。「の」というのが体験される時間であるという言葉は、われわれに救いと喜びを与えてくれます。

生きている時間を、かたちを得ているわれわれのみが自覚的に感じ取ることができます。その時間は、物理的な刻々と流れる時間とは異なります。感情によって長くも短くもなる。ゆるゆると、生命そのものとして体験されている豊かな時間です。

そしてそれは実は、個としての「かたち」が体験しているだけではありません。共有体験されているものです。それがより大きな生命圏、生命場につながります。その生命場は、さらに大きな生命場につながり、とうとう、この死をも含む大いなる生命そのものに繋がっているものである、そのような気づきにいたることとなります。

生命の実体とは実にこの大いなる生命の陰翳、揺らぎつつ流れる時間の中にあります。

そのような気づき、それが第一の悟りです。生命の実相がここに与えられるわけです。生老病死という大いなる悩みが実は妄想でしかなかったということが、ここで理解され、精神的なジャンプがおきます、表と裏とが入れ替わる瞬間といってもいいでしょう。その感動は言葉に表すことができません。闇の世界の奥底に見つけたさらなる地獄への扉を強い意志と覚悟をもって押し開いたそのとき、そこには昇る朝陽のように燦々と差し込む光があった。その陽射しが闇を照らし出し全ての解答を与えてくれる。そのような知恵の光を浴びている感動です。これが第一の悟りの体験です。

個人の悟りであるためこれを、小乗の悟りと呼びます。自分一人だけしか乗ることのできない、小さな乗物という意味がここにはあります。江戸時代の有名な禅僧である白隠はこの悟りを得た時、手が舞い足が踊るほどの喜びを押さえることができなかったといいます。けれども彼は師匠にその悟りを話したとき、痛罵されます。なぜでしょうか。それはまだ世の人々を救う悟りとはなっていなかったためです。個人の中で起こった気づきにすぎなかったからです。

白隠はその後、大乗の道を歩み始めます。これが悟りの第二段階です。大乗の道、それは生命世界の本来の意図を人々に伝える道です。その行為を決意した人々を「菩薩」と仏教では呼んでいます。人々を救う、それは何と傲慢な表現でしょうか。けれども、彼らの悟りの見地から人々を見ると、生きる意味を見出せずただ惰性で生き、病を恐れ、老いを恐れ、死を恐れて、あたかも永遠の苦しみを得ているかのように生を送っているようにみえます。

そのような人々の心を救い出すことが、この地上に極楽世界を作り出すということです。あたりまえに生きあたりまえに死を受容できる世界を実現すること。それが菩薩の道でした。白隠禅師はその後、この道を歩んでいくことになります。

白隠に先だつ人々が、東洋には釈迦以来たくさんいます。そのような人々によって東洋における医学が形成されてきました。このことは、深く銘記しなければなりません。

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