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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

『生命にまなぶ鍼灸医学』シリーズが続きます。
今回は、身体観を三種類に分けてみています。個々の詳細については、それぞれ次回から述べていきます。
さて、東洋医学ではこの「一」の括りについて、いくつかのパターン化された考え方が提供されています。これらのことを一元流鍼灸術では「身体観」と呼んでいます。

『ー元流鍼灸術の門』の五行の篇に、その一元流鍼灸術で捉えなおした身体観が、まとめて述べられています。それは大きく分けて三種類あります。

・後天の気である土を中心とする、脾土の身体観
・先天の気である水を中心とする、腎水の身体観
・人身の天地をつなぐ木を中心とする、肝木の身体観

がそれです。

言葉にしてしまうと平面的になってしまいますが、前文で述べたとおり、言葉の裏側にある生命そのものを、リアルに認識しようと努力して下さい。このそれぞれが、まるごと一つの身体を、立体的に、かつその着眼点―重点を変えながら表現しているわけです。
ヒポクラテス―ガレノスの医学を嗣ぎ、中医学やアーユルヴェーダを取り込んでいるといわれイスラムに拡がったユーナニ医学の解釈書を読んでみるとやはりこの、言葉と実態との壁は非常に大きいことがわかります。古人が何を語ろうとしていたのかを、言葉からしか理解できていない。実際にそこに何を見、何を感じとろうとしていたのか、その言葉が発生される以前の「観察」への配慮が足りないわけです。

ちなみにこのユーナニ医学の『医学典範』は、18世紀まで西洋の医学大学で基本教科書となっていました。

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そもそも東洋医学では、全身を五臓と対応する五行の配当で考えます。この五行のそのものは東洋思想においてもっとも古くから考えられているものです。臓としてはそれぞれ、肝は木、心は火、脾は土、肺は金、腎は水に配当されています。この木火土金水は、世界を構成する基本的物質ということで五行と名づけられています。

普通、人はここで疑問に思うことでしょう。木火土金水、それが何を意味するのであれ、この森羅万象のすべてがこの五つに集約されるわけがないではないかと。そしてさらに考えるのは、木火土金水というものは何を意味しているのだろうかということです。仏教では地水火風空という言葉を五大と呼びますが、それとの関連についての興味も尽きないところです。

五行を考えていく上でもっとも大切なことは何かというと、この五つで森羅万象をあえて説明しようとしているということです。言葉を換えて表現すると、森羅万象を眺めていくときにこの五種類以外の発想は一応入れないという約束事をしているということです。さらに別の言葉を用いるならば、丹田という中心をもった揺らぐ生命である「一」をより詳細に眺めようとして、五つの角度をつけて立体的に見ようとしているということになります。

木火土金水は一般的な概念ですけれども、ここでは、森羅万象すべてを分析するための言葉として使われています。森羅万象という言葉をここでは一応用いていますが、どばっと広がった世界ではなく、一つの生命のまとまりの世界として切り取る必要があります。「一」という生命の場がそこになければ、五行を使うことはできません。生命がそこにあるから、始めて生命を分析的に見ることができます。そのような生命の捉え方を、「一括りの生命のある場」「一括りのいのち」「気一元の生命」などと名づけ呼んでいます。

見ていこうとする「一」の場が定まらなければ、陰陽という概念も五行という概念も使うことができません。森羅万象という表現はもっとも大きな生命場の概念です。これを宇宙と表現することもできます。宇宙の「宇」とは空間のことであり「宙」とは時間のことです。すべての場は「時間」と「空間」とが与えられて始めてその場を得、存在しています。このことを禅では、「いま、ここ」と呼んだりします。

東洋医学が問題にしているのは生命の場ですから、「一」は「人」ということになります。一人の人が空間を占め今そこに存在している、医学はその、今、実際に存在している「人」を問題にしている学問であると東洋医学では考えられていたということになります。


五行で考えていくといいますけれども、実は、五つに分けるということが大切なのではありません。人を眺めようとするとき、どのような関係を五行相互に持たせてみようとしているのか、どのような構造で「人」を眺めようとしているのかということが大切なこととなります。その構造はもちろん、実際に存在している人を表現できるものでなければなりません。
「一」の括り


「一」の概念を把握することを難しくしているものに、それが当たり前すぎて意識されないため、言葉になっていないことが多いということがあげられます。

存在そのもの、生命そのものといったときに私たちはそこに何を見ているのかというと、生命を生命としてそこに構成している一つの宇宙(宇は空間で宙は時間。すなわち、今ここにある生命の枠組みである宇宙)を見ています。であれば生命と呼ばずに宇宙と呼べばいいわけなのですが、この言葉を使ってしまうとまた別の概念がそこに生じてきてどこか遠くにある何ものかを想像してしまうこととなります。そこで、それを表現する「以前」の躍動しているそれ―存在そのもの―をやむを得ず「一」と呼んでみたり「生命」と呼んでみたり「存在そのもの」と呼んでみたりするわけです。太極図の概念としては無極―ありのままにあるそれ―という言葉が相当します。

この「一」、生命をもっている「それ」を見る場合に、無意識のうちに大前提としているものがあります。それは「それ」が生命を生命として存在させている枠組み―宇(空間)宙(時間)をもっているということです。存在している空間的な範囲・時間的な範囲があるわけです。この範囲―あるいは限界―を「括(くく)り」と私は呼んでいます。これがこれから課題としようとしている「一」の括りです。陰陽を成り立たせるにも、五行の概念で分析を進めるにも、まず大前提としてこの「一」の括りを意識することが必要となります。

この「一つに括られているもの」を、二つの観点から眺めることを陰陽論と呼びます。二つの観点から眺めているわけですけれども、一つのものをよりよく観ていくための概念的な操作を、陰陽論ではしているわけです。

同じように、この「一つに括られているもの」を、五つの観点から見るという概念的な操作をすることを、五行論と呼んでいます。五行論は、一つのものをよりよく観ていくための、陰陽論よりも少し複雑で、立体的な構造をもたせやすい概念です。また人体における五臓との対応関係も明確なため、東洋医学ではよく用いられる概念となっています。

五臓という個別のものが生命として存在しているわけではありません。五臓すべては、まるごと一つの生命を、生命として存続させるためにあります。ですから五臓で見るとは言っても実は、まるごと一つの生命を眺めているに過ぎないのです。


陰陽論も五行論も、一つのものを無理に二つの観点から五つの観点から観ているものです。ですから、リアリティーをもってそれを理解するためには、あわい―表現されていない 陰と陽との隙間 五行の一つと五行の一つとの隙間―を意識することが大切だということになります。表現されている言葉そのものだけではなく、言葉と言葉の間にある表現されていないもの―言葉のあわい―言葉の裏側にある生命そのものを、実際にそくしてリアルに認識することが、とても大切なわけです。
一の視点


この「生命の揺らぎ」は、「一」の揺らぎです。どのように重篤な症状をもっていたとしても、生きているかぎり生命はその身心を支えています。圧倒的に生命の方が強いわけです。鍼灸医学はその生命をより充実させる発想と力とをもっています。ここが大切なところです。病気を治すというところに立ち位置をおくのではなく、生命力を充実させる、向上させるというところに東洋医学である鍼灸医学の本来の役割があります。

その発想の根源にはこれから説明する、「一」の視点を欠くことはできません。充実した生命はこの「一」を保っているものです。陰陽五行として、生命を陰陽という二つの観点、五行という五つの観点から分けて眺める方法があります。けれども大切なことは実は「一」を観ているということです。「生命」という「一」を見ているわけです。

一体感があるものはその生命力が充実しているものです。分離しているものは生命力が弱っているものです。生命力が底をついてくると、だんだん表情が硬くこわばってきて、ついには生命力を表現することができなくなります。経穴は一括りの身体という生命のなかで自己を表現しています。経穴は背景に身体全体の生命力がありますので、経穴そのものの表現を乏しくして、身体全体としてはその生命を長らえていることがあります。このことは、経穴をちゃんと診てきた鍼灸師、脉診をちゃんと行ってきた鍼灸師であればすぐ納得できることでしょう。経穴の表現を閉ざし、経絡という生命の流れの表現をも閉ざしていき、終にはその全体としての生命の統一が傷られていくこととなります。最終的に統一感を欠いていくと、陰陽がはなればなれになってしまいます。一括りの生命としては成立しなくなり、魂魄が分かれることになるのだと古人は考えました。これがすなわちその個体の「死」です。


「動中に静あり」という言葉があります。軸がしっかりまっすぐに立っているコマは、速い速度で回れば回るほどまるで動きがないかのようにすっきりと一点を保って立ちます。この一点を保って立つということ、これが勢いのある生命の状態です。

「生命の揺らぎ」というのは、回っているこのコマが内因であれ外因であれ、なんらかの原因で揺れているということです。揺れていても立っている、生きているあいだ人は揺れ―立ち直り―また揺れるということを繰り返しているわけです。


産まれるということは父母の精が合体して一つとなることから始まります。これが生命の始まりです。死ぬということはその気一元の生命が陰陽に離乖するということです。この陰陽離乖の姿を、魂魄が分かれると表現するということは上記しました。魂魄が分かれるということは、肉体と精神とが分離するということで、肉体と魂とが分かれることです。これを、肉体から魂が抜けると表現することもあります。陰陽に分離する以前が生命があるときで、生きているときです。

病気はこの、生きているときに、なります。ですから死と生とはそのあり様がまったく異なるものです。統合されているものが生であり分離されているものが死です。一としてまとまっているときは生き、分離するときは死んでいます。一としてまとまっているときに生命は、一の中で揺らぎながら生きているわけです。

この一の概念は実は、経穴の状態を見る経穴診や全身の状態を診る脉診も含めて、すべての診断法に応用することができるものです。一体感があるときは生命力の充実しているときであり、一体感を喪失しているときは生命力が弱っているときである、そういう風に見ていくわけです。


さて、鍼灸師が対象とするものは個別の生命です。生成老死、生まれ成長し老い死んでいくその生命の変化していく過程で、内的にも外的にもさまざまなストレスにさらされて人は生きています。いわば揺らぎながらその生命の範囲を定めているものが「人」であるわけです。


生きているかぎり「人」はそこに「いのち」が舎っています。「いのち」は、個体の生を完全に支えているものです。その支える過程でしかしさまざまな「揺らぎ」が現れます。硬く固定化するような形で支えているのではなく、その生命を緩やかに包むように支えているわけです。東洋医学の古典である『難経』では手首の脉状を表現することを通じて、この「いのち」のありさまが表現されています。

四診をする際には、その生命の「揺らぎ」をありのままに捉えることを目標としています。ここには、四診の一つである問診に表現されることの多い「主訴」や「副訴」「従訴」ほか不定愁訴を含みます。またこの揺らぎの中には、問診のその他の項目に出てくる日常生活の様相や、切診で出てくる「脉診」や「腹診」「舌診」「経穴診」などのさまざまな徴候も同じように包含します。

この言葉が意味しているものは何かというと、ここに挙げたすべての要素、四診に表現されているものすべてが、生命の揺らぎを表現しているものであるということです。あるいはもっというと、四診で捉えていることを通じて、その生命の揺らぎをそのまま捉えていこうとする、これが東洋医学の基本的な方法であるということです。


鍼灸師の中には、「治した」自慢をする人々もいます。また、患者さんの中にも「治してもらった」という人がいます。この「治る」ということの中身は何かというと、「主訴」などの症状や病気が和らいだということを意味しています。

けれどもよく考えなければいけないことは、その患者さんの生命の揺らぎの中心課題がその「主訴」などの症状や病気なのではない場合が多いということです。患者さんの身心がもっとも問題としていることは実は、全身状態を理解していかないと、つまりありのままの生命の揺らぎをとらえることができないと、明確になりはしないものであるとも言えます。

治療というものはほんとうは、この「生命の揺らぎ」の深さと原因とを見極め、その生命を調えることを目標とするものです。その際の参考資料として患者さんの訴えである「主訴」などの症状や病気の問題はあります。けれどもその中心課題とすべきものは、全身の生命状況を見極めていかなければ、実は分からないことなのではないでしょうか。

このことは何重にも注意が必要です。症状も切診情報もほかの四診の情報も、その生命の揺らぎを表現しているものです。このことは、症状を取ることが実は治療の目標にはならない、ということを意味しています。生命のバランスをとり、より安定した活力のある生命状況をもたらすことが、治療の目標となるものなのです。

このように考えてくると、患者さんの精神状況がいかに大切な課題であるかということにも、思いが及んでいくことでしょう。

東洋医学では身心を同じ生命表現として捉えていきます。けれども精神的な陶冶(とうや)に関しては宗教や個人的な修業に任せ、あまり触れられません。現代に生きる私としても同じで、心の用い方、人生のどこに価値をおき何を目標とするのかということは、個々人の自由意志に任せるべきであると考えています。これは実は医学の課題がどこにおかれるべきなのかという問題です。あるいは医学の範囲はどこまで及ぶのかという問題でもあります。このあたりは深く大切な課題ですが、混乱しますので今は触れません。

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