肝鬱は邪気か
肝は将軍の官であり、謀慮が出るところと、古典ではいわれています。そして、剛臓、強い臓器であるとも。
肝はその強い力で気の昇降出入を主り、生命力を調整していきます。けれどもその力が過ぎると、さまざまな病の本になってきます。そのことを中医学では四文字熟語にしてあらわしています。水不涵木・肝気犯胃・肝木乗土・肝気犯肺・肝火上炎などがそれです。
生命力の弱いところをみつけるとそれを補完するために生命力の応援部隊を送り込み、化粧をつけていくことが肝の役割です。けれどもそれが往々にしてやりすぎになることがあるわけです。これは、肝の根である腎や脾の弱さ、不安定さに帰因するものであることが多いです。
そこを表面的に見て、肝を邪気として捉える診方が古来からあり、現代中医学にも受け継がれています。
けれども、肝木が枝葉根幹ともに充実していると、いわゆる肝気の暴虐は起こりにくいということはもっとよく理解されるべきでしょう。
上にも述べましたけれども、現代人において肝木が充実しているということは生活をしていく上で必要条件となっています。肝木が安定して充実していることによって、心肺脾腎の交流が守られ、心肺脾腎の充実によって、肝木としての身体の根幹もまたしっかりと充実した姿をあらわしていくわけです。
この社会からの保護者としての肝木の意義と、さらにより大きな一本の木としての人体の有様をここに見て取ることができなければなりません。
東洋医学をかじったことがある人の中には、肝気というと肝鬱の大本であり邪気の一種であると述べる人がいます。そのような人は、この肝木が充実するという言葉でいったい何を表現しようとしているのか疑問に思うことでしょう。
けれども一元流鍼灸術では肝木を「邪気の一つであり刈り取るべきものである」とは考えてはいません。それどころか、肝木を充実させてしっかり立たせることこそがその患者さんの人生を応援することであり、治療の目標とすべきことであると考えています。
そのような充実した肝木のイメージとはどのようなものなのでしょうか。
それは、広々とした丘の上にすっきりと立って枝葉を茂らせている一本の広葉樹のイメージです。充実した大地が脾であり、大地を潤す水が腎、輝く太陽が心であり、広々と広がる空が肺です。気負うこともなく卑下することもなく、ただ己の位置に気持ちよくあることを喜んでいる姿。これこそが、充実した肝木のイメージです。
人生の目標を深く潜在意識の場にまで浸透させて立ち上げるものが腎であり、その目標を達成するための戦略を練るところが肝です。この肝を充実させることこそが、人生を充実させることにつながると考えているわけです。
肝は将軍の官であり、謀慮が出るところと、古典ではいわれています。そして、剛臓、強い臓器であるとも。
肝はその強い力で気の昇降出入を主り、生命力を調整していきます。けれどもその力が過ぎると、さまざまな病の本になってきます。そのことを中医学では四文字熟語にしてあらわしています。水不涵木・肝気犯胃・肝木乗土・肝気犯肺・肝火上炎などがそれです。
生命力の弱いところをみつけるとそれを補完するために生命力の応援部隊を送り込み、化粧をつけていくことが肝の役割です。けれどもそれが往々にしてやりすぎになることがあるわけです。これは、肝の根である腎や脾の弱さ、不安定さに帰因するものであることが多いです。
そこを表面的に見て、肝を邪気として捉える診方が古来からあり、現代中医学にも受け継がれています。
けれども、肝木が枝葉根幹ともに充実していると、いわゆる肝気の暴虐は起こりにくいということはもっとよく理解されるべきでしょう。
上にも述べましたけれども、現代人において肝木が充実しているということは生活をしていく上で必要条件となっています。肝木が安定して充実していることによって、心肺脾腎の交流が守られ、心肺脾腎の充実によって、肝木としての身体の根幹もまたしっかりと充実した姿をあらわしていくわけです。
この社会からの保護者としての肝木の意義と、さらにより大きな一本の木としての人体の有様をここに見て取ることができなければなりません。
東洋医学をかじったことがある人の中には、肝気というと肝鬱の大本であり邪気の一種であると述べる人がいます。そのような人は、この肝木が充実するという言葉でいったい何を表現しようとしているのか疑問に思うことでしょう。
けれども一元流鍼灸術では肝木を「邪気の一つであり刈り取るべきものである」とは考えてはいません。それどころか、肝木を充実させてしっかり立たせることこそがその患者さんの人生を応援することであり、治療の目標とすべきことであると考えています。
そのような充実した肝木のイメージとはどのようなものなのでしょうか。
それは、広々とした丘の上にすっきりと立って枝葉を茂らせている一本の広葉樹のイメージです。充実した大地が脾であり、大地を潤す水が腎、輝く太陽が心であり、広々と広がる空が肺です。気負うこともなく卑下することもなく、ただ己の位置に気持ちよくあることを喜んでいる姿。これこそが、充実した肝木のイメージです。
人生の目標を深く潜在意識の場にまで浸透させて立ち上げるものが腎であり、その目標を達成するための戦略を練るところが肝です。この肝を充実させることこそが、人生を充実させることにつながると考えているわけです。
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病因病理を考えて弁証論治をしていくと、慢性病においては多くの場合脾虚・腎虚・肝欝という状態から悪循環を繰り返していることが見て取れます。これは現代人の型となっています。
後天の生命力である脾と、先天の生命力である腎という器が時代のスピードに追いつけず、急な変化をすることができないまま、肝気を張って頑張っている状態となっています。
そのような状況に対応しようと、肝気を張って頑張り過ぎたため、脾腎の器が損傷されている状態もまた逆に示しているとも言えます。
現代という、スピードの速いストレスの多い時代についていくには肝気を張ってがんばるしかない。古来からあまり大きな変化をしていない生命力の中心である脾腎の器は、それを支えるだけの力がなく疲れきっている。
不健康の悪循環を生み出す社会システムがここにあると言えます。
このような働きをする肝には、枝葉という陽的な側面と、根という陰的な側面があると古来より考えられています。枝葉は全身の生命力を調整して、実際の活動を行わせる部分です。無理にどこかに生命力を集め行為させています。このことを上文では、生命力を再配置していると表現しました。無理に頑張るその枝葉を支えているものが根です。根は脾腎からその原資を得ています。
丹田は腎の中心に相当します。肝木の身体観の中で見ていくとき、丹田は肝木の根を支える中心という位置づけとなります。肝木の行動を支えるために動かすことのできる「現金」が脾で日々作られるエネルギーです。日々の生命活動の余剰ーゆとりを蓄積して、危機の際に吐き出せるよう余裕をもたせている「資産亅が、丹田に蓄えられた腎の生命力であるということになります。
上記したように生命力の弱い人は、この「資産」を日々使って生きている状態です。蓄めるべきものを使って人々と同じような顏をして生きているわけです。そのため、資産が潰えてしまうと、とたんに回復できない疲労に襲われることとなります。そのような事態にならないために、日々節制して養生し、腎を養うことにつとめる必要があります。本来であれば生活の範囲を狭めなければならないわけです。そうやって、生命力の本人にとっての浪費を避け、資産である腎を充実させる必要があるわけです。
肝木は、先天の生命力である腎に基礎をおいて、後天の生命力である脾の肉づけを受けることによって日々充実し続けていくものです。肝木の身体観はそのような気一元の生命の全体像を描いているものです。
肝は人の生きる意志でもあり、意識や感情や欲望とつながりがあります。意識でコントロールできる臓です。また肝は気の昇降出入を主ることから、他の四臟や経絡などの生命力が不安定になるとそれを側面から支えるように働きます。
このことは、生命力の乏しい人には、特に明瞭となります。生命力が乏しい人は、他の人と同じように活動しようとしても、そのあるがままにある状態では、持っているものそのものが少ないため動けません。そのようなとき、肝が作動して無理に生命力を立ち上げあるいは偏在させて、その時々の生理機能を行おうとしています。考えると頭に生命力が集まって、手足が冷えたり食欲がなくなったりします。また食事をとると胃腸に生命力が集まって、手足や頭がおろそかになり、手足がかえって寒えたり考えることができなくなったりします。便通や排尿といった生理的活動をする際にも、日常的に肝を発動させなければならないほど、生命力の乏しい人もいます。気張らないと便通が出にくく排尿もしにくいような人がこれにあたります。
病となるとその生命力が病と闘おうとしてその戦いの場に集まるため、他の部位にいく生命力が乏しくなります。そのため食事をとる量が減少することがあります。このような状態の時に無理に食べようとすると、肝木の作用によって生命力が胃腸に集められることになります。
このように無理に何かをするという際に発動されるものが肝なわけです。無理や緊張によって行われる行為すべてが、肝と関わります。火事場の馬鹿力と呼ばれるものも、肝が発動していることを表現している言葉の一つです。
あるがままにリラックスして日常生活ができるような場合には、肝は関わってはいません。身心のことを忘れて、何かやりたいことを自由にやっている状態です。