陰陽五行で脉を診る
気一元の観点で捉えることの初期に行われていた思考訓練は、陰陽で人を見る、五行で人を見るということでした。陰陽で人を見る、五行で人を見るということから学んできたことは、バランスよく観るということです。バランスが崩れるということは陰あるいは陽が、また五行の内の一つあるいはいくつかが偏って強くなりあるいは弱くなったことによって起こります。バランスが崩れるということが病むということであり、バランスを回復させることが治すということです。
自身の観方に偏りがないかどうか、それを点検するために陰陽五行を用いて「観る」ことを点検していたわけです。
脉を診ることを用いて、このことについて解説してみましょう。
脉というものはぼ~っと見ているとはっきり見えないものです。見るともなしに見ているだけでは見えてこないものなのです。何かの目標を持つことによって、見たいものが見えてきます。それがたとえば六部定位の脉診です。
六部定位の脉診とは、橈骨動脈の脉の診処を、寸口・関上・尺中の脉位によってその浮位と沈位との強弱を比較してもっとも弱い部位を定め、それを治療に応用していくものです。
一元流の脉診であれば、六部定位の浮位と沈位とを大きくざっと見て、その中でもっとも困っていそうな脉位を定めてそれを治療目標とします。
この大きくざっと見ることが実は大切です。脉そのものをしっかりと診ることもできていないのに、脉状を云々する人がたくさんいるわけですけれども、そんなものはナンセンスです。先ず診ること。そこに言葉にする以前のすべてがあります。
見えているものをなんとか言葉にしていこうとうんうん呻吟した末に出てくるものが、脉状の名前でなければなりません。言葉で表現したいと思う前にその実態をつかんでいなければいけないのです。このようにいうと当たり前のことですけれども、それができていないのが現状ですので、何度も述べています。
見て、そしてこれを陰陽の観点から五行の観点から言葉にして表現していきます。これを位置としての左関上の沈位が脉状としての弦緊であり、位置としての右の尺中が脉状としては浮にして弾である、などという「表現」となって漏れてくるわけです。これが陰陽の観点から五行の観点から見るということです。あらかじめ定められた脉状が、あらかじめ定められた脉位にあるわけではないのです。
何も決まりのない気一元の生命という混沌、それが寸口の脉状です。その混沌を指尖で感じとりながら、診る位置を定め、その位置の脉状を感じとる、これが実践において、陰陽五行を用いるということです。
寸口や尺中という位置が定められ表現されているのは、五行の観点から見ているものです。濡弱とか弦緊とか表現されているのは、堅いのか柔らかいのかという陰陽の観点からその脉状を見ているものです。
ある脉位の脉状が目立つということは、その部位が他の部位と違っているためです。胃の気がしっかり通っている脉状の場合には脉位による違いは診えにくくなるものです。
気一元の観点で捉えることの初期に行われていた思考訓練は、陰陽で人を見る、五行で人を見るということでした。陰陽で人を見る、五行で人を見るということから学んできたことは、バランスよく観るということです。バランスが崩れるということは陰あるいは陽が、また五行の内の一つあるいはいくつかが偏って強くなりあるいは弱くなったことによって起こります。バランスが崩れるということが病むということであり、バランスを回復させることが治すということです。
自身の観方に偏りがないかどうか、それを点検するために陰陽五行を用いて「観る」ことを点検していたわけです。
脉を診ることを用いて、このことについて解説してみましょう。
脉というものはぼ~っと見ているとはっきり見えないものです。見るともなしに見ているだけでは見えてこないものなのです。何かの目標を持つことによって、見たいものが見えてきます。それがたとえば六部定位の脉診です。
六部定位の脉診とは、橈骨動脈の脉の診処を、寸口・関上・尺中の脉位によってその浮位と沈位との強弱を比較してもっとも弱い部位を定め、それを治療に応用していくものです。
一元流の脉診であれば、六部定位の浮位と沈位とを大きくざっと見て、その中でもっとも困っていそうな脉位を定めてそれを治療目標とします。
この大きくざっと見ることが実は大切です。脉そのものをしっかりと診ることもできていないのに、脉状を云々する人がたくさんいるわけですけれども、そんなものはナンセンスです。先ず診ること。そこに言葉にする以前のすべてがあります。
見えているものをなんとか言葉にしていこうとうんうん呻吟した末に出てくるものが、脉状の名前でなければなりません。言葉で表現したいと思う前にその実態をつかんでいなければいけないのです。このようにいうと当たり前のことですけれども、それができていないのが現状ですので、何度も述べています。
見て、そしてこれを陰陽の観点から五行の観点から言葉にして表現していきます。これを位置としての左関上の沈位が脉状としての弦緊であり、位置としての右の尺中が脉状としては浮にして弾である、などという「表現」となって漏れてくるわけです。これが陰陽の観点から五行の観点から見るということです。あらかじめ定められた脉状が、あらかじめ定められた脉位にあるわけではないのです。
何も決まりのない気一元の生命という混沌、それが寸口の脉状です。その混沌を指尖で感じとりながら、診る位置を定め、その位置の脉状を感じとる、これが実践において、陰陽五行を用いるということです。
寸口や尺中という位置が定められ表現されているのは、五行の観点から見ているものです。濡弱とか弦緊とか表現されているのは、堅いのか柔らかいのかという陰陽の観点からその脉状を見ているものです。
ある脉位の脉状が目立つということは、その部位が他の部位と違っているためです。胃の気がしっかり通っている脉状の場合には脉位による違いは診えにくくなるものです。
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寸口の脉診
突然宇宙の話を持ち出したので驚かれたかもしれません。けれどもこのことは我々地上に生きる生命体のゆるぎない事実です。ここを踏まえなおかつ今、臨床に向かうということが、責任ある姿勢だと私は思っています。
このように課題としている話のレベルの違いによって、それぞれの世界の次元での真実がある、ということも理解されなければなりません。
前段では、大宇宙の話から人間の話へとその視点を変化させてきましたが、これからするお話は、人間の中にある小宇宙の話です。その中でも今回は、脉を見るということについてお話します。
脉を見るとここで言うとき、紀元100年ころの著作物である『難経』で提唱された寸口の脉診のことを意味しています。臍下丹田を中心とした気一元の生命が人間の姿です。その気一元の生命が集約して現れている場所が診断点―診処(みどころ)と呼ばれている場所です。寸口の脉診はそのような診処のうちの一つです。ちなみに診断点とされているものは他に、顔面、腹、手掌、足底、耳、舌、目などがあり、それぞれその部位に特徴的な現れ方があります。
脉診は実際には、橈骨動脈の肺経上の橈骨茎状突起の頂点にある経穴「経渠」の一点を関上とし、そこから「列缺」方向一寸を尺中、反対に腕関節横紋上の「太淵」方向九分を寸口としてその部位の浮位から沈位までの脉を見ます。詳細な脉の見方はこの文章の目的ではないので省略します。橈骨の手掌面の動脈の位置や搏動の仕方に全身の状態の縮図を見ようとしているということだけ、おさえておいてください。
診処とはその部位を、気一元の生命として見ているということを意味しています。だからこそ、全身の生命の縮図として診ていくことができるわけです。
さて、生命をどのように捉えるのか、という視点の置き方で見ることのできる脉は変化します。
脉状が浮いているか沈んでいるかに着目しているとそれが見えてきます。
浮沈の脉力の差に着目しているとそれが見えてきます。
左右の脉力の差を見ているとそれが見えてきます。
全体の脉状に着目しているとそれが見えてきます。
六部定位の位置を定めてその脉力の差に着目しているとそれが見えてきます。
六部定位の位置を定めてその脉状の差に着目してるとそれが見えてきます。
六部定位の位置を定めてその脉状の堅さに着目しているとそれが見えてきます。
寸口の脉診とひとことでいいますけれども、このように着目する視点の置き方で見え方がだいぶ変化するものなのです。人は見たいものを見、評価したいものを評価します。さまざまな見方がある中で、それぞれの術者がその得意とする心の位置で脉を診ているわけです。
どのような視点を術者が持っているにせよ、今見えているその脉に、その人の全身状態がどのように表現されているのだろうか、という探求心を持って見ていくことが大切です。そのことによって始めて見え方が広がり、同じ脉を診ていても新しい発見を得ることができるのですから。
突然宇宙の話を持ち出したので驚かれたかもしれません。けれどもこのことは我々地上に生きる生命体のゆるぎない事実です。ここを踏まえなおかつ今、臨床に向かうということが、責任ある姿勢だと私は思っています。
このように課題としている話のレベルの違いによって、それぞれの世界の次元での真実がある、ということも理解されなければなりません。
前段では、大宇宙の話から人間の話へとその視点を変化させてきましたが、これからするお話は、人間の中にある小宇宙の話です。その中でも今回は、脉を見るということについてお話します。
脉を見るとここで言うとき、紀元100年ころの著作物である『難経』で提唱された寸口の脉診のことを意味しています。臍下丹田を中心とした気一元の生命が人間の姿です。その気一元の生命が集約して現れている場所が診断点―診処(みどころ)と呼ばれている場所です。寸口の脉診はそのような診処のうちの一つです。ちなみに診断点とされているものは他に、顔面、腹、手掌、足底、耳、舌、目などがあり、それぞれその部位に特徴的な現れ方があります。
脉診は実際には、橈骨動脈の肺経上の橈骨茎状突起の頂点にある経穴「経渠」の一点を関上とし、そこから「列缺」方向一寸を尺中、反対に腕関節横紋上の「太淵」方向九分を寸口としてその部位の浮位から沈位までの脉を見ます。詳細な脉の見方はこの文章の目的ではないので省略します。橈骨の手掌面の動脈の位置や搏動の仕方に全身の状態の縮図を見ようとしているということだけ、おさえておいてください。
診処とはその部位を、気一元の生命として見ているということを意味しています。だからこそ、全身の生命の縮図として診ていくことができるわけです。
さて、生命をどのように捉えるのか、という視点の置き方で見ることのできる脉は変化します。
脉状が浮いているか沈んでいるかに着目しているとそれが見えてきます。
浮沈の脉力の差に着目しているとそれが見えてきます。
左右の脉力の差を見ているとそれが見えてきます。
全体の脉状に着目しているとそれが見えてきます。
六部定位の位置を定めてその脉力の差に着目しているとそれが見えてきます。
六部定位の位置を定めてその脉状の差に着目してるとそれが見えてきます。
六部定位の位置を定めてその脉状の堅さに着目しているとそれが見えてきます。
寸口の脉診とひとことでいいますけれども、このように着目する視点の置き方で見え方がだいぶ変化するものなのです。人は見たいものを見、評価したいものを評価します。さまざまな見方がある中で、それぞれの術者がその得意とする心の位置で脉を診ているわけです。
どのような視点を術者が持っているにせよ、今見えているその脉に、その人の全身状態がどのように表現されているのだろうか、という探求心を持って見ていくことが大切です。そのことによって始めて見え方が広がり、同じ脉を診ていても新しい発見を得ることができるのですから。
私のパソコンの壁紙には少し前まで銀河系群が貼ってありました。そして、それが地球に変化し、今は馬込のお寺に鎮座しているお地蔵さんになっています。
宇宙。限りなく美しく悽壮な宇宙。それを観るとき、私の心は時空を超え、生命原理を超えて飛翔していきます。人の意識は、日常のすべての問題を飛び越えてこのような宇宙の生成にまで伸びていくことができます。
そして宇宙船から見た地球の映像は、それはそれは美しく、生命の溢れかえるこの惑星を見せてくれます。なにものにも換えがたいこの地球。その美しい星の上に、無数の生命が繁茂し、その生命を与えあい、死と誕生とを繰り返してきました。何億年もくり返されてきたこの生命活動の、なんという美しさでしょう。なんという激しさでしょう。なんという残酷さでしょう。そしてなんという喜びでしょうか。生命がここにあることの奇跡!これはまさになにものにも換えがたいものです。まさに神がこれを望んだのであるとしか言いようのない奇跡が今この地球上に現れているのです。
大宇宙の中に銀河系群があり、銀河系群の中に、この太陽系を宿した銀河系があり、その中に指先で押しつぶされそうな太陽系が育まれ、太陽を周る軌道上の闇の中にぽっかりと浮かんでいる芥子粒のような地球がある。そこに宿されている生命!これこそが無限の時間を経てようやく誕生した奇跡と呼んでもいい生命です。生命の奇跡、神秘が今ここにあるわけです。
その地球上で生命を分かち合いながら動物と植物とが何億年も葛藤してきました。せめぎあう生命、それは別の角度からいえば、生命を与え合う関係でもありました。自らのもっとも喜びとするもの、喜びの源泉である生命を分かち、与えることによって今、生を続けている生命があります。今ここに生かされてあるその生命の奇跡を、私はなんと表現すればよいでしょう!この生命の中には、数多くの分かち与えられた生命が宿り、一つになって生命活動を行っています。今、ここに生きている私は、まさにその無限の時間と無限の生命によって与えられた一つの生命としての統一体です。
この統一体こそが、気一元の生命と呼ばれるものです。
鍼灸師は、その一つの生命に対して、さらにその生命の中のツボの一点に向かって処置を施していきます。一点を探るわけですから、観方は非常に繊細かつ詳細になります。鍼灸師の勉強会で望まれることの多くが、この症状を取るにはどこに処置すればいいのか、経穴名を教えてほしいという質問であるということも、むべなるかなと言わなければなりません。
しかし、病むということ、症状を呈するということはどのようなことなのでしょうか。この生命の奇跡の中に生き生かされている一人の人が癒されるということはどのようなことなのでしょうか。本来、そこをこそ問うべきなのではないでしょうか。
それはともかく、ここまでの話の中で、視座の変化が見て取れたのではないかと思います。大宇宙から人という微小宇宙まで、何段階にも別れています。何を観ようとしているのかという観点(視座と観る対象の設定)、がいかに大切であるということは、ここからすぐに理解できることと思います。
大宇宙を思うとき、人の生死などというものは顧慮することもできないほどとても小さなものです。いわんや病気など、生きているという厳然たるこの事実に比較すれば、埃のようなものです。
医療というものはこの埃を掃う技術のことをいいます。そして、少なくとも一元流鍼灸術は、生命の側に立って、生命力を活性化させることによってこの埃を自らの生命力で掃えるようになるように患者さんを導くことを目指しています。
宇宙。限りなく美しく悽壮な宇宙。それを観るとき、私の心は時空を超え、生命原理を超えて飛翔していきます。人の意識は、日常のすべての問題を飛び越えてこのような宇宙の生成にまで伸びていくことができます。
そして宇宙船から見た地球の映像は、それはそれは美しく、生命の溢れかえるこの惑星を見せてくれます。なにものにも換えがたいこの地球。その美しい星の上に、無数の生命が繁茂し、その生命を与えあい、死と誕生とを繰り返してきました。何億年もくり返されてきたこの生命活動の、なんという美しさでしょう。なんという激しさでしょう。なんという残酷さでしょう。そしてなんという喜びでしょうか。生命がここにあることの奇跡!これはまさになにものにも換えがたいものです。まさに神がこれを望んだのであるとしか言いようのない奇跡が今この地球上に現れているのです。
大宇宙の中に銀河系群があり、銀河系群の中に、この太陽系を宿した銀河系があり、その中に指先で押しつぶされそうな太陽系が育まれ、太陽を周る軌道上の闇の中にぽっかりと浮かんでいる芥子粒のような地球がある。そこに宿されている生命!これこそが無限の時間を経てようやく誕生した奇跡と呼んでもいい生命です。生命の奇跡、神秘が今ここにあるわけです。
その地球上で生命を分かち合いながら動物と植物とが何億年も葛藤してきました。せめぎあう生命、それは別の角度からいえば、生命を与え合う関係でもありました。自らのもっとも喜びとするもの、喜びの源泉である生命を分かち、与えることによって今、生を続けている生命があります。今ここに生かされてあるその生命の奇跡を、私はなんと表現すればよいでしょう!この生命の中には、数多くの分かち与えられた生命が宿り、一つになって生命活動を行っています。今、ここに生きている私は、まさにその無限の時間と無限の生命によって与えられた一つの生命としての統一体です。
この統一体こそが、気一元の生命と呼ばれるものです。
鍼灸師は、その一つの生命に対して、さらにその生命の中のツボの一点に向かって処置を施していきます。一点を探るわけですから、観方は非常に繊細かつ詳細になります。鍼灸師の勉強会で望まれることの多くが、この症状を取るにはどこに処置すればいいのか、経穴名を教えてほしいという質問であるということも、むべなるかなと言わなければなりません。
しかし、病むということ、症状を呈するということはどのようなことなのでしょうか。この生命の奇跡の中に生き生かされている一人の人が癒されるということはどのようなことなのでしょうか。本来、そこをこそ問うべきなのではないでしょうか。
それはともかく、ここまでの話の中で、視座の変化が見て取れたのではないかと思います。大宇宙から人という微小宇宙まで、何段階にも別れています。何を観ようとしているのかという観点(視座と観る対象の設定)、がいかに大切であるということは、ここからすぐに理解できることと思います。
大宇宙を思うとき、人の生死などというものは顧慮することもできないほどとても小さなものです。いわんや病気など、生きているという厳然たるこの事実に比較すれば、埃のようなものです。
医療というものはこの埃を掃う技術のことをいいます。そして、少なくとも一元流鍼灸術は、生命の側に立って、生命力を活性化させることによってこの埃を自らの生命力で掃えるようになるように患者さんを導くことを目指しています。
.懸賞論文募集要項
目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。
方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。
第一期 期限:2020年10月10日
■参加方法■
■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。
■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。
■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。
■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。
■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。
■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。
懸賞金
■特別賞:十万円
■優秀賞:一万円
■奨励賞:五千円
選者:伴 尚志
送付先:ban1gen@gmail.com
受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。
各賞の受賞本数は定めません。
【参考論文】
参考論文として私の発表しているものを提示しておきます。この参考論文は、私の興味の及んだ範囲ですので、狭いと思います。世界がもっと拡がると嬉しいです。
自分の井戸を掘る、ただし独断ではなく他の人々が理解できるように。ということを目標にしていただけると幸甚です。
論文【日本型東洋医学の原点】
江戸時代初期の医学について
..始まりの時
始まりの時
東洋医学は、先秦時代に誕生し、漢代にまとめられ、人間学、養生医学として現代に伝えられています。天地を一つの器とし、人身を一小天地と考えた天人相応の概念を基礎とし、それをよりよく理解するために陰陽五行の方法を古人は生み出しました。臓腑経絡学は、あるがままの生命である「一」天人相応の「一」を実戦的に表現した、核となる身体観となっています。
天地を「一」とし、人を小さな天地である「一」とするという発想が正しいか否かということは検証されるべきところです。けれどもこれは東洋思想の基盤である「体験」から出ているということを、押さえておいてください。
この「一」の発想は、古くは天文学とそれにともなう占筮からでています。また、多くの仏教者はこのことを「さとり」として体験しています。そして多くの儒学者の中でも突出した実践家である王陽明は明確に、「万物一体の仁」という言葉で、この「一」を表現しています。
ですので、この「一」の視点は、思想というものを支える核となる体験を表現しているものです。これは、ひとり支那大陸において思想の底流となったばかりではなく、日本においても神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く視座となっています。
視座とは、ものごとを理解し体験するための基本的な視点の位置のことです。東洋思想の真偽を見極めるためにはこの「視座」を得る必要があります。それは、真実を求めつづける求道の精神を持ち続けることによって得るしかありません。このように表現すると何か古くさい感じがしますが、実はこれこそ、科学的な真理を求める心の姿勢そのものです。
この心の位置を始めにおいて、我々はまた歩き始めます。東西の思想や医学を洗い直し、新たな一歩をすすめようとしているわけです。
医学や思想の基盤を問うこと、ここにこの勉強会の本質は存在します。
体験しそれを表現する。その体験の方法として現状では体表観察に基づいた弁証論治を用い、臨床経験を積み重ねています。それを通じて浮かび上がってくるものが、これからの臨床を支える基盤となります。いわば今この臨床こそが医学の始まりの時です。
我々の臨床は自身のうちに蓄積された東西両思想、東西両医学の果てにあるものですが、その場こそがまさに思想と医学が再始動する場所なのです。
臨床において我々は、何を基礎とし、何を目標とし、何を実践しているのでしょうか。この問いは、古典をまとめた古人も問い続けた、始まりの位置です。この始まりの問いに対し、再度、向き合っていきましょう。
目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。
方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。
第一期 期限:2020年10月10日
■参加方法■
■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。
■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。
■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。
■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。
■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。
■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。
懸賞金
■特別賞:十万円
■優秀賞:一万円
■奨励賞:五千円
選者:伴 尚志
送付先:ban1gen@gmail.com
受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。
各賞の受賞本数は定めません。
【参考論文】
参考論文として私の発表しているものを提示しておきます。この参考論文は、私の興味の及んだ範囲ですので、狭いと思います。世界がもっと拡がると嬉しいです。
自分の井戸を掘る、ただし独断ではなく他の人々が理解できるように。ということを目標にしていただけると幸甚です。
論文【奇経一絡脉論とその展望】
奇経を絡脉の一つとした人間構造
論文【『難経』は仏教の身体観を包含していた】
『難経』に描かれている身体観
論文【日本型東洋医学の原点】
江戸時代初期の医学について
論文【鍼灸医学のエビデンス】
エビデンスを磨く上での課題と目標
..始まりの時
始まりの時
東洋医学は、先秦時代に誕生し、漢代にまとめられ、人間学、養生医学として現代に伝えられています。天地を一つの器とし、人身を一小天地と考えた天人相応の概念を基礎とし、それをよりよく理解するために陰陽五行の方法を古人は生み出しました。臓腑経絡学は、あるがままの生命である「一」天人相応の「一」を実戦的に表現した、核となる身体観となっています。
天地を「一」とし、人を小さな天地である「一」とするという発想が正しいか否かということは検証されるべきところです。けれどもこれは東洋思想の基盤である「体験」から出ているということを、押さえておいてください。
この「一」の発想は、古くは天文学とそれにともなう占筮からでています。また、多くの仏教者はこのことを「さとり」として体験しています。そして多くの儒学者の中でも突出した実践家である王陽明は明確に、「万物一体の仁」という言葉で、この「一」を表現しています。
ですので、この「一」の視点は、思想というものを支える核となる体験を表現しているものです。これは、ひとり支那大陸において思想の底流となったばかりではなく、日本においても神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く視座となっています。
視座とは、ものごとを理解し体験するための基本的な視点の位置のことです。東洋思想の真偽を見極めるためにはこの「視座」を得る必要があります。それは、真実を求めつづける求道の精神を持ち続けることによって得るしかありません。このように表現すると何か古くさい感じがしますが、実はこれこそ、科学的な真理を求める心の姿勢そのものです。
この心の位置を始めにおいて、我々はまた歩き始めます。東西の思想や医学を洗い直し、新たな一歩をすすめようとしているわけです。
医学や思想の基盤を問うこと、ここにこの勉強会の本質は存在します。
体験しそれを表現する。その体験の方法として現状では体表観察に基づいた弁証論治を用い、臨床経験を積み重ねています。それを通じて浮かび上がってくるものが、これからの臨床を支える基盤となります。いわば今この臨床こそが医学の始まりの時です。
我々の臨床は自身のうちに蓄積された東西両思想、東西両医学の果てにあるものですが、その場こそがまさに思想と医学が再始動する場所なのです。
臨床において我々は、何を基礎とし、何を目標とし、何を実践しているのでしょうか。この問いは、古典をまとめた古人も問い続けた、始まりの位置です。この始まりの問いに対し、再度、向き合っていきましょう。
肝鬱二態
肝を張って現代というスピードの速い時代に対応できるように生きているということが人々の常態となっているということは、上記しました。常時肝鬱状態であるとも言えるわけです。
この肝鬱には、大きく二つのタイプがあります。外に向けるタイプと、内に向けるタイプです。
外に向けるタイプの人は、わかりやすいです。いつもイライラしているし、触れると怒りがこぼれ落ちそうです。肝鬱の状態を自分ではコントロールすることができなくなっているわけです。そして気がつかないうちに他者を傷つけてしまいます。ほんとうは頑張っているだけなのに、なぜか他者に避けられてしまうことになります。常時発散できればまだいいのですが、内に溜め込んで時に発散するということになると、暴発力が強くなります。これを、キレるなどと表現します。
内に向ける人はこれに対して優しい人に見えます。周辺に気を配るということも、その人の人生の中に入っているためです。けれどもそこに無理が生じているため、肝鬱が自分自身を攻撃して、不眠や食欲不振、原因不明の動悸などが生じます。肝鬱は自身の生命力の停滞を招く大きな要因となり、普段の生命活動をかえって阻害してしまうことになりかねないのです。
出方は違いますけれども双方ともに、体力に比して、頑張りすぎて疲れ果ててしまっているわけです。この悪循環がさらに進むと、発散できないばかりか、疲れ果てて動けなくなります。心身ともに、もう動けないから休んでくださいという身体からの信号が出ているわけです。これが鬱病の初期状態ということになります。
肝を張って現代というスピードの速い時代に対応できるように生きているということが人々の常態となっているということは、上記しました。常時肝鬱状態であるとも言えるわけです。
この肝鬱には、大きく二つのタイプがあります。外に向けるタイプと、内に向けるタイプです。
外に向けるタイプの人は、わかりやすいです。いつもイライラしているし、触れると怒りがこぼれ落ちそうです。肝鬱の状態を自分ではコントロールすることができなくなっているわけです。そして気がつかないうちに他者を傷つけてしまいます。ほんとうは頑張っているだけなのに、なぜか他者に避けられてしまうことになります。常時発散できればまだいいのですが、内に溜め込んで時に発散するということになると、暴発力が強くなります。これを、キレるなどと表現します。
内に向ける人はこれに対して優しい人に見えます。周辺に気を配るということも、その人の人生の中に入っているためです。けれどもそこに無理が生じているため、肝鬱が自分自身を攻撃して、不眠や食欲不振、原因不明の動悸などが生じます。肝鬱は自身の生命力の停滞を招く大きな要因となり、普段の生命活動をかえって阻害してしまうことになりかねないのです。
出方は違いますけれども双方ともに、体力に比して、頑張りすぎて疲れ果ててしまっているわけです。この悪循環がさらに進むと、発散できないばかりか、疲れ果てて動けなくなります。心身ともに、もう動けないから休んでくださいという身体からの信号が出ているわけです。これが鬱病の初期状態ということになります。
肝の化粧
誤解してはいけないことは、肝鬱になるにはその理由があるということです。多くの場合、生命力の弱さがその背景にあるということは、上記しました。それをカバーしていくために人は、肝気を張って頑張るという状況を作り出します。
元気に活動している間は顔色がよくそれこそ元気そうに見える人でも、横になって気がゆるむと突然顔色が抜けてしまう人がいます。本来は疲労しているのにそれを表面化させないため気を張って元気そうにしているわけです。このことを肝の化粧と呼んでいます。
そのような人は、舌象や脉状も最初のうちはよく見えたりするものですが、治療がしっかり入ると悪くなります。本来の生命力の状態が現れてくるわけです。けれどもご本人はそれですっきりした感じになります。無理がとれているからです。
疲れている自分を奮い立たせるために肝気を張っている。肝気を張っているためによけい疲れやすくなる。その悪循環が身体を深く深く痛めつけていたわけです。治療によってその悪循環がとれて、本来の弱い生命状況を表現するゆとりが出てきたわけです。
本来の生命力は徐々にしか変化しません。それに対して急激な変化が外界からもたらされることはよくあります。この外界のスピードに対応して、人の活動量を変化させているものが肝です。
けれども、本来の生命力の状況に対応して肝をコントロールしていかなければなりません。力を抜くことを知らずに頑張り続けることは、とても危険なことです。上記したような、疲れ果てているのに自分では気がつくことができない、という悪循環に入ってしまうためです。
この頑張りすぎが、大病のもとになります。
誤解してはいけないことは、肝鬱になるにはその理由があるということです。多くの場合、生命力の弱さがその背景にあるということは、上記しました。それをカバーしていくために人は、肝気を張って頑張るという状況を作り出します。
元気に活動している間は顔色がよくそれこそ元気そうに見える人でも、横になって気がゆるむと突然顔色が抜けてしまう人がいます。本来は疲労しているのにそれを表面化させないため気を張って元気そうにしているわけです。このことを肝の化粧と呼んでいます。
そのような人は、舌象や脉状も最初のうちはよく見えたりするものですが、治療がしっかり入ると悪くなります。本来の生命力の状態が現れてくるわけです。けれどもご本人はそれですっきりした感じになります。無理がとれているからです。
疲れている自分を奮い立たせるために肝気を張っている。肝気を張っているためによけい疲れやすくなる。その悪循環が身体を深く深く痛めつけていたわけです。治療によってその悪循環がとれて、本来の弱い生命状況を表現するゆとりが出てきたわけです。
本来の生命力は徐々にしか変化しません。それに対して急激な変化が外界からもたらされることはよくあります。この外界のスピードに対応して、人の活動量を変化させているものが肝です。
けれども、本来の生命力の状況に対応して肝をコントロールしていかなければなりません。力を抜くことを知らずに頑張り続けることは、とても危険なことです。上記したような、疲れ果てているのに自分では気がつくことができない、という悪循環に入ってしまうためです。
この頑張りすぎが、大病のもとになります。