生命があって反応がある
さて、生命力の基盤があってはじめて、さまざまな反応が出ることができます。生命力の強弱や敏感さなどによって、その反応はさまざまに変化しています。ですから、基本的な生命力の状態を予測し、そこを踏まえないと、表現されている諸状態(反応や症状など四診を通じて見られるさまざまな表現)がどのような意味をもっているのか、評価することはできません。
言葉にするときに、このような前提を踏まえて解説してしまうと非常に繁雑となり、書きにくくなります。そのため、古典ではまるで一定の脉状というものが存在し、それに対応した病があるかのように書かれることになりました。そのような古典の文字面を信じた後代の人々は、それらの脉状に沿って症状や病が存在しているかのように誤まって理解し、記憶することになりました。それによってさらに多くの誤解や迷信が生じています。けれどもまたこの誤解を基礎としたまま、さらに多くの脉診に関する書物が書かれることともなってしまいました。
これらの迷妄を一掃する力を医師が持つのは、日本の江戸時代の、求道的な医師たちの誕生を待たなければなりませんでした。実際に見たものを見たものとし、見なかったものを見なかったものとする。事実そのものを断固として探究し、古典に対峙して探究する姿勢をもつことができるかどうか。そのことが問われてきたわけです。
このことは実は、現代の鍼灸師にも厳しく問われていることです。この書物で最初に掲げた「聖人を目指す志」をもてるかどうか、ということが問われています。この初心の一点こそが、東洋医学探究の基礎となるものだからです。
「聖人をめざす志」をもった求道的臨床家とは、自身の臨床を問い続け磨き続ける能力のある臨床家のことです。自信満々で人々を指導する臨床家のことではありません。厳しい自己批判に耐え、次は一歩でも確かな臨床をしようと、決意している臨床家のことです。
自己の慢心を捨て、自己の劣等感を捨て、ただあるがままにある自己を受容しなお、その内側に求道の炎を燃やす。そのような臨床家のみがこの、言葉を越えた臨床を切り開き、新たな東洋医学の道を開いていくことができるのです。
さて、生命力の基盤があってはじめて、さまざまな反応が出ることができます。生命力の強弱や敏感さなどによって、その反応はさまざまに変化しています。ですから、基本的な生命力の状態を予測し、そこを踏まえないと、表現されている諸状態(反応や症状など四診を通じて見られるさまざまな表現)がどのような意味をもっているのか、評価することはできません。
言葉にするときに、このような前提を踏まえて解説してしまうと非常に繁雑となり、書きにくくなります。そのため、古典ではまるで一定の脉状というものが存在し、それに対応した病があるかのように書かれることになりました。そのような古典の文字面を信じた後代の人々は、それらの脉状に沿って症状や病が存在しているかのように誤まって理解し、記憶することになりました。それによってさらに多くの誤解や迷信が生じています。けれどもまたこの誤解を基礎としたまま、さらに多くの脉診に関する書物が書かれることともなってしまいました。
これらの迷妄を一掃する力を医師が持つのは、日本の江戸時代の、求道的な医師たちの誕生を待たなければなりませんでした。実際に見たものを見たものとし、見なかったものを見なかったものとする。事実そのものを断固として探究し、古典に対峙して探究する姿勢をもつことができるかどうか。そのことが問われてきたわけです。
このことは実は、現代の鍼灸師にも厳しく問われていることです。この書物で最初に掲げた「聖人を目指す志」をもてるかどうか、ということが問われています。この初心の一点こそが、東洋医学探究の基礎となるものだからです。
「聖人をめざす志」をもった求道的臨床家とは、自身の臨床を問い続け磨き続ける能力のある臨床家のことです。自信満々で人々を指導する臨床家のことではありません。厳しい自己批判に耐え、次は一歩でも確かな臨床をしようと、決意している臨床家のことです。
自己の慢心を捨て、自己の劣等感を捨て、ただあるがままにある自己を受容しなお、その内側に求道の炎を燃やす。そのような臨床家のみがこの、言葉を越えた臨床を切り開き、新たな東洋医学の道を開いていくことができるのです。
スポンサーサイト
弁証論治の土台づくり
この章では、人を構造的に見る方法である弁証論治を支える基盤である、情報の集め方とその評価方法について述べていきます。
四診をするということがいかに繊細な行為であるかということ。その繊細さを基礎として東洋医学は成り立っています。
言葉にし得ないものがあえて言葉として表現されて古典として構築されました。その言葉を表面的にしか読めなかった後代の人々は、備忘録のようにそれらの言葉を積み重ねてしまい、「本に読まれ」、言葉に踊らされて、誤解が誤解を生む状況も生み出してしまいました。東洋医学はこのような、勘違いも含めた重層的な言葉を基礎として成立している医学なのです。
それらの言葉が構築される以前の基盤について、これから解説していきます。言葉以前に存在している生命を、どのように見、まとめていくのかということは、これから生命の医学を構築していく上で重要な基礎となるものです。
東洋医学における治療は、そのようにして把握された生命に対して行われるものです。
この章では、人を構造的に見る方法である弁証論治を支える基盤である、情報の集め方とその評価方法について述べていきます。
四診をするということがいかに繊細な行為であるかということ。その繊細さを基礎として東洋医学は成り立っています。
言葉にし得ないものがあえて言葉として表現されて古典として構築されました。その言葉を表面的にしか読めなかった後代の人々は、備忘録のようにそれらの言葉を積み重ねてしまい、「本に読まれ」、言葉に踊らされて、誤解が誤解を生む状況も生み出してしまいました。東洋医学はこのような、勘違いも含めた重層的な言葉を基礎として成立している医学なのです。
それらの言葉が構築される以前の基盤について、これから解説していきます。言葉以前に存在している生命を、どのように見、まとめていくのかということは、これから生命の医学を構築していく上で重要な基礎となるものです。
東洋医学における治療は、そのようにして把握された生命に対して行われるものです。
気一元の観点から観る
四診を取る時も、五臓の弁別を作る時も、病因病理を作る時も、日々の治療をする時にも、その底にいつも必要なものは、勘をよく働かせるということです。
それでは、きちんとした勘というのはどこから起こるのでしょうか。
それは、「一」を意識するところから起こります。「一」というのは一部ではなく、全体まるごと一つのことです。全体とは何か、まるごと一つとは何かということを、実はここで考える必要があります。
よく考えてみてください。
その時その時、毎瞬々々の「不完全さの中に、全体まるごと一つがある」というのが人間の姿です。
いつも不完全なのですが、その時その時には、その時表現している以外の姿を取りようがありません。病があっても不調があっても、その時その瞬間は、そのままで完全です。そういうまるごと一つを見るわけです。そういうまるごと一つの変化していく姿が時系列であらわれます。それを見るわけです。時々刻々と変化する胃の気、時々刻々と変化する生命力を見ようとすること。これを勘働きと呼ぶわけです。
時々刻々と変化する胃の気―生命力を感取することを「全体観」と呼びます。この全体観を離れて、文字にとらわれると、勘は死にます。全体観を離れて、経穴や脉にレッテル貼りを始めると、勘は死にます。
胃の気を見るということは、この全体の生命状況を見るということです。ですから、「胃の気」とレッテルを貼られた静的な状態が存在しているわけではありません。時々刻々変化する動きとしての胃の気の状態を、しっかり把握することが大切なのです。胃の気を眺めていく方から、今出ている現象を考えていく。このことがとても大切なことなのです。
胃の気の方から考えるということは、生命の方から考えるということです。生命力の有様を考えてその変化の中から今の状況を判断していくということです。このことが大切なわけです。
今の状況にレッテルを貼って辞書でひくことと、今の状況を気一元の観点から観る、すなわち生命力の側から眺めていく決意をするということの違い。繰り返しになりますが、このことこそが、よく理解されなければならないことです。
四診を取る時も、五臓の弁別を作る時も、病因病理を作る時も、日々の治療をする時にも、その底にいつも必要なものは、勘をよく働かせるということです。
それでは、きちんとした勘というのはどこから起こるのでしょうか。
それは、「一」を意識するところから起こります。「一」というのは一部ではなく、全体まるごと一つのことです。全体とは何か、まるごと一つとは何かということを、実はここで考える必要があります。
よく考えてみてください。
その時その時、毎瞬々々の「不完全さの中に、全体まるごと一つがある」というのが人間の姿です。
いつも不完全なのですが、その時その時には、その時表現している以外の姿を取りようがありません。病があっても不調があっても、その時その瞬間は、そのままで完全です。そういうまるごと一つを見るわけです。そういうまるごと一つの変化していく姿が時系列であらわれます。それを見るわけです。時々刻々と変化する胃の気、時々刻々と変化する生命力を見ようとすること。これを勘働きと呼ぶわけです。
時々刻々と変化する胃の気―生命力を感取することを「全体観」と呼びます。この全体観を離れて、文字にとらわれると、勘は死にます。全体観を離れて、経穴や脉にレッテル貼りを始めると、勘は死にます。
胃の気を見るということは、この全体の生命状況を見るということです。ですから、「胃の気」とレッテルを貼られた静的な状態が存在しているわけではありません。時々刻々変化する動きとしての胃の気の状態を、しっかり把握することが大切なのです。胃の気を眺めていく方から、今出ている現象を考えていく。このことがとても大切なことなのです。
胃の気の方から考えるということは、生命の方から考えるということです。生命力の有様を考えてその変化の中から今の状況を判断していくということです。このことが大切なわけです。
今の状況にレッテルを貼って辞書でひくことと、今の状況を気一元の観点から観る、すなわち生命力の側から眺めていく決意をするということの違い。繰り返しになりますが、このことこそが、よく理解されなければならないことです。
そのような脉診を少なくとも治療前と治療後にやり続けてきて徐々に理解してきたことは、実はそれよりも大きな脉の診方があるということでした。それは脉を見ることを通じて、「生命力の変化を見ている」のだということです。脉診を通じてみる生命力の変化は一瞬にして大々的に変わることもありますし、微妙な変化しかしないこともあります。それは患者さんの体質や体調により、また、治療の適否によります。細かく見ているだけでは表現しようのない大きな生命力の動きが、ダイナミックな変化として脉に現れることがあります。このことをおそらく古人も気がついていて、これを胃の気の脉と呼んだのだろうと思います。
胃の気の大きな変化こそ、脉診において中心として把握すべきものです。これは生命力の大きなうねりなのですから。
この胃の気の変化は、生命力全体という大きな視点から診た変化です。ですから、何という名前の脉状が胃の気が通っている脉状であると表現することはできません。より良い変化が起こっているか、より悪い変化が起こっているか、しか実はないわけです。
良い脉状にはしかし目標はあります。それは、いわゆる12歳頃の健康な少年の脉状です。楊柳のようにしなやかで、拘わり滞留することがなく、輪郭が明瞭でつややかな脉状。寸関尺の浮位においても沈位においても脉力の差がなく、ざらつきもなく華美でもないしなやかで柔らかな生命の脉状。これが胃の気のもっとも充実している脉の状態です。
胃の気が少し弱るとさまざまな表情がまた出てきます。千変万化するわけです。脉位による差も出てくるでしょうし、脉圧による差も出てくるでしょう。脉状にもさまざまな違いが出てきて統一感がなくなります。輪郭も甘くなったり堅く弦を帯びたり反対に何とも言えない粘ったような柔らかい脉状を呈するようになるかもしれません。
このことが何を意味しているのかということを、歴代の脉書は伝えていますけれども、そこに大きな意味はありません。ましてそれぞれの脉状に対して症状や証をあてるなど意味のないことです。そんなことよりもよりよい脉状に持って行くにはどうすればよいのか、という観点から治療方針を定めていくことの方が、はるかに重要です。
このようにして、陰陽五行によるカテゴリー分けにすぎなかった脉状診から、生命そのものを見る胃の気の脉診法が生まれました。そしてこの胃の気の脉を見るということへの気づきが、それまでの陰陽五行論を大きく発展させました。それが、気一元の場を、陰陽という観点 五行という観点から眺める、という一元流鍼灸術独自の陰陽五行論となっていきました。
書物を読んで勉強していると生命力が「ある位置」で固まっているような感じがします。そのため、ある脉状を掴まえてその名前を決め、それに関連する症状と治し方を決めていこうとしたりするわけです。これはまるで、滔々と流れる川の流れの中の小さな渦に名前をつけて、その渦の位置と深さと強さとによって川の流れを調整する鍼の立て方を決めようとしているようなものです。よく考えてみてください。これはあまりにも現実離れしているとは思いませんか?
生きて動いている生命を眺めるということ―すなわち胃の気を眺めるということは、カテゴリー分けするための道具の位置にすぎなかった陰陽五行論の使い方を一段高い位置に脱せしめ、生命の動きを見るための道具へと深化させていくためのキーとなる概念です。
そのためこれを「気一元の観点から観る」と表現して、一元流鍼灸術では大切にしています。
胃の気の大きな変化こそ、脉診において中心として把握すべきものです。これは生命力の大きなうねりなのですから。
この胃の気の変化は、生命力全体という大きな視点から診た変化です。ですから、何という名前の脉状が胃の気が通っている脉状であると表現することはできません。より良い変化が起こっているか、より悪い変化が起こっているか、しか実はないわけです。
良い脉状にはしかし目標はあります。それは、いわゆる12歳頃の健康な少年の脉状です。楊柳のようにしなやかで、拘わり滞留することがなく、輪郭が明瞭でつややかな脉状。寸関尺の浮位においても沈位においても脉力の差がなく、ざらつきもなく華美でもないしなやかで柔らかな生命の脉状。これが胃の気のもっとも充実している脉の状態です。
胃の気が少し弱るとさまざまな表情がまた出てきます。千変万化するわけです。脉位による差も出てくるでしょうし、脉圧による差も出てくるでしょう。脉状にもさまざまな違いが出てきて統一感がなくなります。輪郭も甘くなったり堅く弦を帯びたり反対に何とも言えない粘ったような柔らかい脉状を呈するようになるかもしれません。
このことが何を意味しているのかということを、歴代の脉書は伝えていますけれども、そこに大きな意味はありません。ましてそれぞれの脉状に対して症状や証をあてるなど意味のないことです。そんなことよりもよりよい脉状に持って行くにはどうすればよいのか、という観点から治療方針を定めていくことの方が、はるかに重要です。
このようにして、陰陽五行によるカテゴリー分けにすぎなかった脉状診から、生命そのものを見る胃の気の脉診法が生まれました。そしてこの胃の気の脉を見るということへの気づきが、それまでの陰陽五行論を大きく発展させました。それが、気一元の場を、陰陽という観点 五行という観点から眺める、という一元流鍼灸術独自の陰陽五行論となっていきました。
書物を読んで勉強していると生命力が「ある位置」で固まっているような感じがします。そのため、ある脉状を掴まえてその名前を決め、それに関連する症状と治し方を決めていこうとしたりするわけです。これはまるで、滔々と流れる川の流れの中の小さな渦に名前をつけて、その渦の位置と深さと強さとによって川の流れを調整する鍼の立て方を決めようとしているようなものです。よく考えてみてください。これはあまりにも現実離れしているとは思いませんか?
生きて動いている生命を眺めるということ―すなわち胃の気を眺めるということは、カテゴリー分けするための道具の位置にすぎなかった陰陽五行論の使い方を一段高い位置に脱せしめ、生命の動きを見るための道具へと深化させていくためのキーとなる概念です。
そのためこれを「気一元の観点から観る」と表現して、一元流鍼灸術では大切にしています。