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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

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五臓の弁別


一元流鍼灸術では、このようにして得られた情報を五つの角度で振り分けることから始めます。まるごと一つの生命を観察し、得た情報を古人と同じように五行で捉えなおしてみるわけです。そうすることによって、古典の記載を確認しつつ、それを乗り越えて問題の所在にさらに肉薄していくことができるためです。

分けてみはするわけですけれども、分けることが目標ではありません。あるがままの生命を理解することが目標です。ですので、分けるときにも、その患者さんの全体像を見失わないように意識します。このことが大切です。

五行は人の五臓に対応しているため、これを「五臓の弁別」と呼んでいます。分けることが目的ではないので、五臓それぞれに同じ項目が重なることがありますし、分けられない部分が出てきます。そのような場合には、五臓以外の大きな枠組みを用意します。「気虚」「気滞」「瘀血」「湿痰」「内湿」などがそれです。

また、五臓で分けると臓腑の盛衰の問題が中心になりがちなので、「経絡経筋病」という項目を用意することもあります。「経絡経筋病」は、体表から筋肉にかけての問題の原因が、体表から筋肉にかけてにあるとする考え方です。これは患者さんの症状のある位置感覚と符合しやすく、西洋医学の発想とも繋がりやすい部分となります。

けれども東洋医学では、経絡経筋もまた五臓に統合されています。

経絡経筋に沿ってつけられている経穴名もまた、五臓の状態の現れであると考えています。そのため、経穴も、五臓の弁別に基本的には統合されていきます。これは五臓が生命の基本、根であり、経絡経筋はその枝葉であるという発想があるためです。

『難経』ではさらに、十二経絡の根が腎間の動気にあるとし、それをつないでいるものが人身に充満している生命力、「三焦」であるとしています。腎間の動気というのは臍下丹田にある陽気のことです。ですから、臍下丹田こそが生命の根本であるということを『難経』は述べているわけです。この記載が、「臍下胆田を中心とした気ー元の身体観」という発想の基になっています。そしてこの身体観が仏教由来の体験によるものであるということを含め、前に述べたとおりです。
次に、得た情報のまとめ方について解説していきます。

望聞問切のいわゆる四診で得た情報は、一次情報です。けれども術者の四診能力によって、その一次情報についての信頼性には、基本的に大きな差異が出てきます。

術者の得手不得手がそのままあらわれるわけです。

問診や時系列の問診は、患者さんとの言葉を用いた対話によって成立しています。言葉というものは実は、人によって微妙に異なる意味をもっているものです。語っている患者さんの価値観、聞いている術者の価値観という、微妙にずれをもった価値観が問診に反映されることとなるということは、よく気をつける必要があります。

この価値観の相違は、患者さんと術者の年齢が異なるとより大きくなります。同じ言葉でももっている意味が異なってくるわけです。また、文化の違い、美的感覚の違いも、表現された言葉に違いをもたらします。患者さんによっては、正直には答えづらい状況が、問診項目の中にたくさん出てくる場合があるわけです。

東洋医学をよくかじっている患者さんなどの場合は、その独自の解釈が問診に反映されてしまうことがあります。それによって実際の状態が、見えにくくなる場合も多々あります。

いずれの場合も、虚飾を剥ぎ取る必要があります。けれども、その虚飾を剥ぎ取る術者の行為そのものが問診に影響を与えてしまいます。そのため、問診を捨て、体表観察だけに頼って処置をするという場合もよく出てくるわけです。


体表観察は、患者さんの現在の身体と術者との交流―感応を基礎としています。「第三章 生命の揺らぎ」で、生命は揺らいでいるものであると述べています。その中で、揺らぐ生命が揺らぐ生命を見ているのであるということを前提として「四診に表現されているものすべてが、生命の揺らぎを表現しているものであるということです。あるいはもっというと、四診で捉えていることを通じて、その生命の揺らぎをそのまま捉えていこうとする、これが東洋医学の基本的な方法である」と述べました。


四診を通じて正確な情報を得ることそのものが非常に難しいものです。また、得ることができたとしても、その正確な情報そのものが生命の揺らぎによって揺らいでいるわけです。ですから、一次情報であるからといって、それをそのまま鵜呑みにすることはできません。けれども、得た情報の信頼度に差があることを前提としつつ、それを基礎としてまとめていかなければならないわけです。

その信頼度には軽重があり、術者の力量がそこで問われます。問われるのは、問診力や体表観察の能力だけでなく、得た情報を自己批判的に眺めることができるかどうかという自己観察力―自己批判能力がより重要な課題となってきます。ほんとうはどうかということを求めつづけること。この求道的な精神がまたここで必要になるわけです。

自分はほんとうに患者さんのことを捉えられているのだろうか、ということを術者はいつもいつまでも問い続けることとなります。そのように問いつつ、今、得られている情報で諦めること。そこを一次情報として基盤とせざるを得ないと諦めることから、弁証論治は始まるということが理解されなければなりません。

さて、全体観を見失わないで見る、生命力を見るということは、脉診以外の体表観察でももちろん大切になります。また、体表観察だけでなく、問診や時系列の問診においても、さらには病因病理を考えていく上でも、もっとも大切なこととなります。これら個別の項目についての詳細については、繁雑になり過ぎ、この文章の目的から逸れますので省略します。鍼灸師のための専門書である『一元流鍼灸術の門』(拙著、たにぐち書店刊)に詳細が記載されていますので、それを参考にしてください。また、実際にどのように行うのかということについては、月に一回、第二日曜日に東京の大森で勉強会をしていますので、そこに参加されることがもっとも手っ取り早いと思います。「一元流鍼灸術」で検索すると、勉強会の情報が出てきます。


上にも述べましたが、四診の情報は、患者さんによってその現れ方が異なるものです。本来的な生命力が弱い人と、それが剛強な人とでは、一見同じような脉状であっても、その評価はまったく異なるものです。

生命を見ているわけですから、これは当然のことであると言わなければなりません。四診の情報は、基本的な生命力の基盤の上に表現されているものなのです。ですから、その基本的な生命力を見極めることができていないと、それによって表現されている情報を評価することなどできるわけがありません。



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