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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

弁証論治をたてる際に、確かなものを中心として考えを構築していくということをよくお話します。けれどもこの「確かなもの」というのが何かということは、なかなかわかりにくいのです。どうしてかというと、まじめであればあるほど細かい違いを問題にし、詳細な記述に走りやすいためです。そのほうが「わかった感」を得やすいためです。けれども、正確に詳細に記述しようとすればするほど、記述のための記述になり、生命の全体像を見失ってしまいます。記述が正確であればあるほどその背景に浮かび上がる生命そのものが、見えにくくなるわけです。

生命の全体像というのは何なのでしょうか。眼差しとしてはひとつの生命を括って、柔らかく愛おしむことです。これが一番最初の心。一の心です。善悪や判断を越えて、病や生死を超えて、そこに存在している生命そのものを愛おしむとこと。その美しさと出会ったことに感謝すること。同じ生命を自分も保持させていただいていることに感謝することです。ここにすっぽりいるとき、問題などは何もありません。

その次元で酔生夢死している意識を少し目覚めさせて、四診に入ります。問題は何なのだろう、何がこの人の活力を奪っている中心なのだろう、よりよく生きるには何が必要なのだろう。そんな心です。まだまだ分析的ではなく、よく聴いて心に映ったその人の姿を感じとりながら、痛みや悲しみや空洞感を共有してみます。この時表現されているものはさまざまな症状であったり怒りや嘆きや愚痴であったりする可能性はあります。けれども、それらに振り回されないように注意して「治療家の側の心を定めたまま」耳を傾けます。聴く。よりよく聴くということがこの際の課題となります。

充分に心に響いた所で記述します。それらの資料を五臓の弁別として緩やかにまとめていきます。分けることが目的ではありません。理解することが目的でもありません。何を感じたのか、何を観たのかを確かめるように、選り分けていくわけです。

五臓の弁別の効用として、思い込みを排除して客観性を保つということがあります。実はこの「心に響いた所」と「客観性」との淡い、一筋の糸の緊張の中で五臓の弁別は記載されなければなりません。ここが難しい所となります。


五臓の弁別を作成する時に、すでに言葉化されている情報に頼りすぎると、言葉化される以前の感覚を忘れてしまいます。これが大切でこれがたいした問題ではないということを、五臓の弁別をする前には確かに感じとっていたはずなのに、いつの間にか見失ってしまうことがあります。これは、心に響いたことを忘れて理屈に走ってしまうためによく起こる現象です。

このままの感覚で病因病理を書いていくと、正しそうだけれども理屈っぽくて、その患者さんの状態があまり浮き上がって見えてこないものとなります。部分部分は正しそうな理屈をつけているわけですけれども、時間的空間的な全体像を失っているものができあがるわけです。そしてこういう病因病理は、まじめな人ほど陥りやすい罠です。心よりも理論を追い求めるために起こる、深い問題です。言葉の罠とも言えます。

この解毒剤は、「充分に心に響いた所」の感覚を忘れないようにするところにあります。これが四診を通じて感じとった「確かなもの」を中心として論理を構築していく病因病理につながっていきます。確かなものは、見えやすい所にあります。無理なく見えるものを表現した言葉(大切)と、無理に見たものを表現した言葉(あまり大切ではない)とには、軽重をつける必要があるわけです。けれども目の前に言葉として並んでいると、この軽重をつけることが難しくなります。どうしてかというと、無理に見たものを表現した言葉の方が不安がある分だけ詳しく説明される必要があり、量として多くの言葉で飾られ見栄えがよくなってしまうためです。言葉の量が多くなるため、重要なことのように思えるのです。

このため、本当は大切な所から遠く離れている情報であっても大切に見えたり、大切な情報であってもあまり大切ではないように見えたりします。「充分に心に響いた所」の感覚、その心の位置をしっかりと踏み固め、近いものは明確にはっきりと見、遠いものは遠くに霞んで見えるという距離感を持てるようにすると、より実態に合った病因病理を構築していくことができるでしょう。この遠近感は、記載されている言葉が多いか少ないかによるものではありません。言葉の量に振り回されないよう、注意する必要があります。
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東洋医学が記述されてきた歴史の中でおそらくもっとも重大な問題は、わかりもせずに記述が積み重ねられているということでしょう。

これは戦乱の中にありながら伝統を残していこうとしてきた、主に支那大陸の先人たちの、必死な志の精華であるとも言えます。けれども、後代の人間がそれらの言葉を鵜呑みにし、文字に文字を重ねる形で論を広げていく段になると、容認しがたい空論の積み重ねとなっていきます。

現代の日本においても未だにこのような、妄想に妄想を重ねて理論らしきものを作り上げようとしている団体があることは、まことに悲しむべき悼むべきことです。

惑いの中にいる人々は、たとえば脉状には名前があるべきだとしてその名称を先に覚え、それを今診ている脉状に当てはめようとしてしまいます。疾病には名前があるべきだとしてその名称を先に覚え、それを目の前の患者さんに当てはめようとしてしまいます。

これでは正しく人間(上記の例で言えば脉や疾病)を診るということはできません。分類してレッテルを貼っているだけです。言葉に踊らされてその奴隷となっているに過ぎないのです。目の前にある存在をありのままに診るのではなく、分類した箱の中に入れてレッテルを貼り、安心したいだけなのです。

この行為は、「まるごと一つとして生きている生命」をはなはだ侮辱し侵害するものです。そしてこれが政治的にも大々的に行われているのが中医学や西洋医学である、ということは言うまでもありません。


人間そのものを診る。人間そのものに肉薄するという東洋医学の伝統に沿う時、このような軽薄な分類は、もっとも避けるべきことです。

診る、そしてわからずに戸惑う。診る、そしてそのわからない中から言葉を探り出し、今わずかでもみえている状況を表現しようとする。この戸惑いの中にこそ「行為としての東洋医学」を実践し人間を理解していく原点があります。

愚かな人々の中には、見えてもいないのにそれを言葉で表現してしまう人々がいます。いつも自己批判的に行っている、一元流鍼灸術の勉強会を実践している中でさえ、そのような人が現れることがあります。反省意識の薄い勉強会であればなおさら推して知るべきでしょう。

そしてこれは実は、東洋医学の古典に記述されている言葉もそうであるということは、押さえておかなければいけないことです。見えていないにもかかわらず愚かにもそれを語り述べ広げてしまう。この愚行の走りは、実に「脉経」〈280年頃王叔和著〉の時代からすでに支那大陸には存在しています。


これらの言葉の群れに惑わされないためにはどうすればいいのでしょうか。

それは東洋医学における人間把握の方法の原点である黄老道について研究し、その根底にある人間観を身につけることです。黄老道の到達点は、天と人とが対応関係にあるという観方と、それに基づく陰陽五行理論です。これこそが無明の存在を見分け理解しようとする東洋医学的なアプローチの原点です。

そしてこれはもとより、陰陽や五行に分けることが目的なのではなく、「まるごと一つとして生きている生命」をありのままに把握し解説しようとする行為の中で産み出された方法です。見るという戸惑いのただ中にありながら、見ているものをなんとか正確に理解し表現しようとする情熱によって産み出された方法なのです。

弁証論治を考えていくということでもそうですし、脉を診るとか経穴を観察するということでもそうなのですが、実際にそこにいて観察できることはそれほど多くはありません。観察したことに評価を加えることができるものはなおさら少なくなります。

これは歴史の展望とか、個人史の記憶という時間軸においても共通するところです。

同じ仲間として、同じ食事を摂って同じように旅をしても、見える範囲も見えているものも異なるものです。ましてや微細な脉状や顏色や経穴などを診てそれを五臓に弁別していくという段に至っては、その正確さがいかにすれば担保できるのか、非常に難しいことであると言わなければなりません。患者さんの、時には生命を預かることもある仕事なわけですから、このあたりは用心に用心を重ねるべきであろうと思います。

そのように考えると、いわゆる名人の人たちがこれまで行ってきた、どの反応があれば肝とか腎とかという一対一対応での断定や、何なにの症状を目標として処方を決めるという手段などは、危なっかしくて使えないということになります。

そこで一元流鍼灸術で行っていることが、四診で得た情報は柔らかく握り、気一元の観点で病因病理を考察してまとめていくということです。


四診を用いて情報を得るという行為そのものは非常に熱心に行いますし、それなりの修煉を積み上げていくわけです。けれども、その情報そのものを漫然と信じるのではなく、限界を定めて利用するという姿勢を取ります。限界というのは自身の、現時点における限界でもありますし、また何を診ているのかということをきちんと理解した上で情報を活用するという、情報の価値そのものの限界もあります。

得た情報を気一元の身体の中で位置づけ利用しながら病因病理を考えていきます。そこには一気の動き、生命の動きというものはどのようになっているかという総合的な判断が求められます。この総合性こそが実は東洋医学の宝―生命です。

総合していく中で、伝統的な解釈におかしなところが見えたり、現代に通用しない概念が出てきたりします。そのような時には、現代の我々の観点から考察しなおして、新たな解釈を用いて病因病理を作成していきます。四診を柔らかく持ち、五臓の弁別を患者さんの個人史に沿って柔らかく行い、それらを磨き上げて、病因病理として作成していくことを通じて統合していくわけです。


このような作業を自分で「見えていること」を中心として行います。けれども見えていないことを排除はしません。見えていること確実そうなことが病因病理を作成するための基礎になるわけです。けれども、病因病理を作成しているうちに、論理として存在しなければならない情報が欠けていたり、無駄な情報が入っていたりすることに気がつきます。そこで今度はその論理にしたがって再度、四診で収集した情報を点検していくという作業を行います。これが臨床にしたがって病因病理を再検証していく作業につながります。

このようにして患者さんの実態にできるだけ迫っていこうとしているわけです。

ですから、わからないこと不確かなことを把握しておくということは、とても大切なことになります。不確かなところを心にしっかり位置づけておくことが、患者さんそのものへとさらに肉薄していく鍵となり、臨床的な姿勢が深化するきっかけになるためです。
理解できる範囲で論を立てる


脉を診ていてもそうですし問診をしていてもそうなのですが、どのように努力しても、自分が見ている範囲というのは意外に狭いものでしかありません。その狭さを自覚しながらその中で病因病理を立てて弁証論治をしていくわけです。

また逆に、弁証論治をしようとして集めた四診の資料が詳細過ぎて、まとめきれない場合もあります。

大切なことは、より正確にみるという努力だけではなく、バランスよく観るということです。自分の限界をしっかりと自覚しながら、何をどれだけの範囲で観ているのかをきちんと押さえておくようにすることです。

そのためにももっとも最初に押さえておかなければならないところが、「一」の範囲を規定するということです。

範囲を定めて、大切なところと大切でないところとを分けていく。あたかも遠くのものがぼやけて近くのものがはっきりと見えるような感じ。気の濃淡を見極めていく感じ。見えやすいものがよく見えて、見えにくいものがよく見えない。

それらの中で、もっとも見えやすいところ、明確なところ、すなわち気-生命力のもっとも薄そうな所やもっとも濃そうな所を中心として表現していきます。分かりやすいところ、目立つところから始めていくわけです。

「一」という範囲を決めて脉状を見、「一」という範囲を決めて論を立て、明らかなところを中心にして、病因病理を作っていくわけです。

見落としがちですがここは、非常に大切なところです。

自分自身が上手だと思ってしまうと、ちゃんと見てちゃんと弁証論治ができていると思いがちですが、それは誤解の始まりです。

いつもいつまでも、これでいいのだろうかと、患者さんの身体に聞き続け、病因病理を練り続けなければなりません。

基本は「自分が理解できている範囲」「見えている範囲」です。その内側で勝負する。勝負している。勝負せざるを得ないということを自覚する。だからこそ、いつまでも未熟者であることを自覚でき、いつまでも成長していけるのです。
.懸賞論文募集要項


目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。

方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。

第一期 期限:2020年10月10日

■参加方法■

■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。

■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。

■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。

■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。

■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。

■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
   出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。


懸賞金

■特別賞:十万円

■優秀賞:一万円

■奨励賞:五千円

選者:伴 尚志

送付先:ban1gen@gmail.com

受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。

各賞の受賞本数は定めません。


【参考論文】

参考論文として私の発表しているものを提示しておきます。この参考論文は、私の興味の及んだ範囲ですので、狭いと思います。世界がもっと拡がると嬉しいです。

自分の井戸を掘る、ただし独断ではなく他の人々が理解できるように。ということを目標にしていただけると幸甚です。


論文【肝木の身体観】

 一元流鍼灸術の身体観



論文【一元流鍼灸術とは何か】

 一元流鍼灸術の道統



論文【奇経一絡脉論とその展望】

 奇経を絡脉の一つとした人間構造



論文【『難経』は仏教の身体観を包含していた】

 『難経』に描かれている身体観



論文【日本型東洋医学の原点】
 江戸時代初期の医学について



論文【本居宣長の死生観】

 死生観について



論文【疾病分類から生命の弁証論治へ】

 養生医学の提言



論文【鍼灸医学のエビデンス】

 エビデンスを磨く上での課題と目標





..始まりの時


始まりの時


東洋医学は、先秦時代に誕生し、漢代にまとめられ、人間学、養生医学として現代に伝えられています。天地を一つの器とし、人身を一小天地と考えた天人相応の概念を基礎とし、それをよりよく理解するために陰陽五行の方法を古人は生み出しました。臓腑経絡学は、あるがままの生命である「一」天人相応の「一」を実戦的に表現した、核となる身体観となっています。

天地を「一」とし、人を小さな天地である「一」とするという発想が正しいか否かということは検証されるべきところです。けれどもこれは東洋思想の基盤である「体験」から出ているということを、押さえておいてください。

この「一」の発想は、古くは天文学とそれにともなう占筮からでています。また、多くの仏教者はこのことを「さとり」として体験しています。そして多くの儒学者の中でも突出した実践家である王陽明は明確に、「万物一体の仁」という言葉で、この「一」を表現しています。

ですので、この「一」の視点は、思想というものを支える核となる体験を表現しているものです。これは、ひとり支那大陸において思想の底流となったばかりではなく、日本においても神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く視座となっています。


視座とは、ものごとを理解し体験するための基本的な視点の位置のことです。東洋思想の真偽を見極めるためにはこの「視座」を得る必要があります。それは、真実を求めつづける求道の精神を持ち続けることによって得るしかありません。このように表現すると何か古くさい感じがしますが、実はこれこそ、科学的な真理を求める心の姿勢そのものです。

この心の位置を始めにおいて、我々はまた歩き始めます。東西の思想や医学を洗い直し、新たな一歩をすすめようとしているわけです。

医学や思想の基盤を問うこと、ここにこの勉強会の本質は存在します。

体験しそれを表現する。その体験の方法として現状では体表観察に基づいた弁証論治を用い、臨床経験を積み重ねています。それを通じて浮かび上がってくるものが、これからの臨床を支える基盤となります。いわば今この臨床こそが医学の始まりの時です。

我々の臨床は自身のうちに蓄積された東西両思想、東西両医学の果てにあるものですが、その場こそがまさに思想と医学が再始動する場所なのです。

臨床において我々は、何を基礎とし、何を目標とし、何を実践しているのでしょうか。この問いは、古典をまとめた古人も問い続けた、始まりの位置です。この始まりの問いに対し、再度、向き合っていきましょう。

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