好循環悪循環と敏感期鈍感期
生命力が衰えることによって邪気が溜まり、邪気が溜まることによってさらに生命力が衰えていくという悪循環に陥ったとき、人は身動きのとれない病となっていきます。
生命力が回復していくことによって邪気が流れ出し、邪気が流れ出すことによって生命力がさらに充実していくという良い循環に入ったとき、人は病から回復していきます。
体内の毒が排泄されていくときには、症状が激しくなります。生命力としてはこれまでより少し敏感になり、排泄機能が働くため、正邪の闘争が激しくなって、溜め込んだ邪気が排泄される状態となるためです。これを敏感期あるいは排泄期と呼びます。
生命力が少し敏感になると疲れてきます。休養を求めるわけです。そして体内の邪気を排泄したり身体を調えようとする機能はこの時、休養します。次の危機的状況に備えて生命力を養っているわけです。これを鈍感期あるいは停滞期と呼びます。
生理的に人は、この敏感期と鈍感期とがゆるやかに入れ替わっていくようなバイオリズムで生きています。邪気がまったくない状態というものは存在しないし、生命力がまったくない時期も存在しません。
問題なのは、患者さんが病気を自覚するのがこの敏感期だけだということです。症状が出ているときが、敏感期だからです。
好循環に入って敏感になってきているために出ている症状なのか、悪循環に入って最後のあがきとして出ている症状なのか、その違いを見極めることが患者さんにはできません。
治療家はこれを見極めて解説できるようにならなければなりません。そのために弁証論治をし病因病理を考えて、今の生命の状態を見極めようとしているわけです。
生命力が充実してくると、身体を調えようとする作用が強くなり、邪気があればそれを排泄しようとします。このさいには良い循環での正邪の闘争が起こり、さまざまな症状が起こることとなります。治療を契機としてこれがおこることを瞑眩と呼びます。養生をしているさいにもこの瞑眩が出ることがあります。
生命力が衰えてくると、身体は休養を求める作用が強くなり、邪気があってもそれが侵襲してこない限り問題にはせず、休養します。この休養は、普段の生活をして生命力を養おうとしていると言い換えることもできます。けれども普段の生活が忙しすぎて、生命力を損傷するようなものである場合、身体を養うことはできません。邪気を内にはらんだまま生命力の最前線を少しづつ引き下げて生活することとなります。邪気の重みが徐々に増加し、生命力の支配する場所が少しづつ狭くなるわけです。
そのような場合でも、内の邪気が強くなって深く侵襲してくると、生命力は生命の危機を感じとり、正邪の闘争を起こし始めます。ここに再度、敏感期が訪れることとなります。この敏感期はしかし、生命力がその最前線を下げて戦いを試みているともいえます。そのため、ここで生命力が勝たなければ前線はさらに後退することとなります。危険な状態になります。この前線において正邪の闘争を支配しているものは、安定した生命力の根源である腎気ではなく、肝気です。全身の持てる力を振り絞って頑張っていますす。そのため、肝気の頑張りに伴うさまざまな症状が出ることがあります。
内の邪気が侵襲してきても生命力がその敏感さを取り戻せなければ死にます。戦いにすでに疲れているため、外来の邪気に侵襲されやすくもなります。お年寄りなどが肺炎で急死するといった類がこれにあたります。若い人であっても不摂生が継続していて生命力の弱りに気づくことがなければ、同じような突然死はあり得るということが理解できるでしょう。
東洋医学ではこのように、風邪やインフルエンザという外来の邪気を問題にするのではなく、生命力の衰えを基本的には問題にしているわけです。
生命力が衰えることによって邪気が溜まり、邪気が溜まることによってさらに生命力が衰えていくという悪循環に陥ったとき、人は身動きのとれない病となっていきます。
生命力が回復していくことによって邪気が流れ出し、邪気が流れ出すことによって生命力がさらに充実していくという良い循環に入ったとき、人は病から回復していきます。
体内の毒が排泄されていくときには、症状が激しくなります。生命力としてはこれまでより少し敏感になり、排泄機能が働くため、正邪の闘争が激しくなって、溜め込んだ邪気が排泄される状態となるためです。これを敏感期あるいは排泄期と呼びます。
生命力が少し敏感になると疲れてきます。休養を求めるわけです。そして体内の邪気を排泄したり身体を調えようとする機能はこの時、休養します。次の危機的状況に備えて生命力を養っているわけです。これを鈍感期あるいは停滞期と呼びます。
生理的に人は、この敏感期と鈍感期とがゆるやかに入れ替わっていくようなバイオリズムで生きています。邪気がまったくない状態というものは存在しないし、生命力がまったくない時期も存在しません。
問題なのは、患者さんが病気を自覚するのがこの敏感期だけだということです。症状が出ているときが、敏感期だからです。
好循環に入って敏感になってきているために出ている症状なのか、悪循環に入って最後のあがきとして出ている症状なのか、その違いを見極めることが患者さんにはできません。
治療家はこれを見極めて解説できるようにならなければなりません。そのために弁証論治をし病因病理を考えて、今の生命の状態を見極めようとしているわけです。
生命力が充実してくると、身体を調えようとする作用が強くなり、邪気があればそれを排泄しようとします。このさいには良い循環での正邪の闘争が起こり、さまざまな症状が起こることとなります。治療を契機としてこれがおこることを瞑眩と呼びます。養生をしているさいにもこの瞑眩が出ることがあります。
生命力が衰えてくると、身体は休養を求める作用が強くなり、邪気があってもそれが侵襲してこない限り問題にはせず、休養します。この休養は、普段の生活をして生命力を養おうとしていると言い換えることもできます。けれども普段の生活が忙しすぎて、生命力を損傷するようなものである場合、身体を養うことはできません。邪気を内にはらんだまま生命力の最前線を少しづつ引き下げて生活することとなります。邪気の重みが徐々に増加し、生命力の支配する場所が少しづつ狭くなるわけです。
そのような場合でも、内の邪気が強くなって深く侵襲してくると、生命力は生命の危機を感じとり、正邪の闘争を起こし始めます。ここに再度、敏感期が訪れることとなります。この敏感期はしかし、生命力がその最前線を下げて戦いを試みているともいえます。そのため、ここで生命力が勝たなければ前線はさらに後退することとなります。危険な状態になります。この前線において正邪の闘争を支配しているものは、安定した生命力の根源である腎気ではなく、肝気です。全身の持てる力を振り絞って頑張っていますす。そのため、肝気の頑張りに伴うさまざまな症状が出ることがあります。
内の邪気が侵襲してきても生命力がその敏感さを取り戻せなければ死にます。戦いにすでに疲れているため、外来の邪気に侵襲されやすくもなります。お年寄りなどが肺炎で急死するといった類がこれにあたります。若い人であっても不摂生が継続していて生命力の弱りに気づくことがなければ、同じような突然死はあり得るということが理解できるでしょう。
東洋医学ではこのように、風邪やインフルエンザという外来の邪気を問題にするのではなく、生命力の衰えを基本的には問題にしているわけです。
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虚実補瀉
「生命の弁証論治」は、四診を通じて生命の状態をありのままに把握して得られる弁証論治です。いわゆる、証候名を把握してその証候に沿った治療技術を東洋医学の歴史の中から選択し、それを患者さんに施す、という「中医学」で行われているようなものではありません。
あくまでも事実を集積し、それを陰陽五行の観点から分析し、構成し直して病因病理を考察し、生命力の厚薄にしたがって処置を決定していくものです。まるごとひとつの生命という視点から一歩も外れることなく、最初から最後まで構成されている弁証論治の方法です。
鍼灸において生命力を調えるということは、主として体表における生命力の厚薄を見極め、それを調えるということになります。呼吸が身体全体に行き渡るように鍼灸の治療もすぐに身体全身に行き渡ります。このことは処置の前後の体表観察をしているとよくわかります。一瞬で脉は変化しますし、皮膚の状態も変化します。これは上手だからそうなるということではなく、人と人とが触れあうということがそういうものだということなのでしょう。ふだんなにげなく行っている言葉かけや触れあいの中でもおそらく、身心は大きく変化していることでしょう。治療家はその変化を体表観察を通じてとらえることができるということにすぎません。
問題は、変化が起こるということではなく、「何をして何がおこっているのか」ということを見極めるというところにあります。古来の鍼灸理論には、虚実補瀉を見極めることができれば鍼灸の半ばは終わると言っていました。非常に有名な言葉です。そして著名な鍼灸師の中には、その古典の言葉の故に、自身は、虚実補瀉を理解していると思っている人がたくさんいます。
けれども、気一元という言葉の中身が理解できていなければ、虚実補瀉という言葉は理解されることはありえません。何を気一元の場としてみているのかということがなければ、虚実の判断はありえないのです。何を気一元の場としてみているのか理解できない人が、患者さんに補瀉を施すことなどできてはいないのです。けれども古典を信仰している人々はそれができると信じています。理解しているのではなく信仰しているわけです。そのため、すべては治療家の手のひらの中で行われるとばかり、手技の中に補瀉があるかのような誤解を持ちながら、平然としていられるわけです。
虚実とは、生命力の虚と邪気の実のことであり、補とは生命力を補うこと瀉とは邪気を瀉すことであるということは、中医学における定義のようになっており、よく言われている言葉です。読んでいれば理解できたような気がする言葉です。けれども、実際に照らしてみるとこの言葉はまったくナンセンスです。
そもそも生理的な現象というものは、生命力を自然に内に蓄え(補)ていき、不要なものを外に排泄している(瀉)ものです。補瀉は同時に行われて初めて生命は成り立っているわけです。これを新陳代謝と呼びます。生命力の虚と邪気の実が虚実という言葉の意味ではなく、生命力が充実していて正常に働いていることによって、虚実の転換、新陳代謝がうまくいっているわけです。
これに対して病理的な現象になると、排泄する場合にも過剰に排泄して生命力まで流れ出ていくような場合(排便後の疲れや発汗による疲れなど)もあります。便通や発汗などで疲労するというのは、生命力が損傷されている証拠です。邪気を排泄するとともに、身体から生命力が流れ出ているわけです。古い定義で言えば、邪気が虚すれば生命力は充実するはずでした。けれども実際にはそうならないわけです。邪気が虚するにつられて生命力も虚していく状態になっている。生命力を内にしっかり保つことのできない状態が問題なわけです。これはいわば、正邪の分離がうまくできていない状態であるといえます。排泄するための生命力が、邪気につられて流れ出していってしまっているわけです。
また、これとは逆に、排泄が滞り体内に毒素を溜め込む場合(病的な肥満や排尿不良による尿毒症など)もあります。生命力を排泄することはないわけですけれども、邪気も溜込んでしまう。これを一義的に排泄機能の低下と呼ぶことはできません。無理に排泄させようとして強い薬を与えたり、強い刺激を与えると、邪気の排泄とともに生命力も流れ出してしまう可能性があるためです。溜め込んでしまう理由は、生命力が弱っていて、邪気の排泄ができないというところにあるわけです。もっといえば、生命力が邪気とともに排泄されないよう、内に溜め込んでいる状態であるともいえます。
問題の焦点は両方とも、生命力が充実していくような方向で新陳代謝が行われることができなくなっているというところにあるのです。生命力が充実するということは自在に邪気が排泄されて生命力が充実していく、正邪の分離が明瞭に行われるところにあったわけです。
身体に負担がかかり続けている慢性疲労状態となると、この正邪の分離をする機能が低下していきます。これを器の問題で考えると、敏感さが失われてくると、一元流鍼灸術では表現しています。
身体には、生命力の虚と邪気の実があり、邪気の実を瀉すと生命力の虚が補われ、生命力の虚を補うと邪気の実は消えていくという、古代からの鍼灸師の信仰はここに、根拠のないものとして葬り去られなければなりません。
「生命の弁証論治」は、四診を通じて生命の状態をありのままに把握して得られる弁証論治です。いわゆる、証候名を把握してその証候に沿った治療技術を東洋医学の歴史の中から選択し、それを患者さんに施す、という「中医学」で行われているようなものではありません。
あくまでも事実を集積し、それを陰陽五行の観点から分析し、構成し直して病因病理を考察し、生命力の厚薄にしたがって処置を決定していくものです。まるごとひとつの生命という視点から一歩も外れることなく、最初から最後まで構成されている弁証論治の方法です。
鍼灸において生命力を調えるということは、主として体表における生命力の厚薄を見極め、それを調えるということになります。呼吸が身体全体に行き渡るように鍼灸の治療もすぐに身体全身に行き渡ります。このことは処置の前後の体表観察をしているとよくわかります。一瞬で脉は変化しますし、皮膚の状態も変化します。これは上手だからそうなるということではなく、人と人とが触れあうということがそういうものだということなのでしょう。ふだんなにげなく行っている言葉かけや触れあいの中でもおそらく、身心は大きく変化していることでしょう。治療家はその変化を体表観察を通じてとらえることができるということにすぎません。
問題は、変化が起こるということではなく、「何をして何がおこっているのか」ということを見極めるというところにあります。古来の鍼灸理論には、虚実補瀉を見極めることができれば鍼灸の半ばは終わると言っていました。非常に有名な言葉です。そして著名な鍼灸師の中には、その古典の言葉の故に、自身は、虚実補瀉を理解していると思っている人がたくさんいます。
けれども、気一元という言葉の中身が理解できていなければ、虚実補瀉という言葉は理解されることはありえません。何を気一元の場としてみているのかということがなければ、虚実の判断はありえないのです。何を気一元の場としてみているのか理解できない人が、患者さんに補瀉を施すことなどできてはいないのです。けれども古典を信仰している人々はそれができると信じています。理解しているのではなく信仰しているわけです。そのため、すべては治療家の手のひらの中で行われるとばかり、手技の中に補瀉があるかのような誤解を持ちながら、平然としていられるわけです。
虚実とは、生命力の虚と邪気の実のことであり、補とは生命力を補うこと瀉とは邪気を瀉すことであるということは、中医学における定義のようになっており、よく言われている言葉です。読んでいれば理解できたような気がする言葉です。けれども、実際に照らしてみるとこの言葉はまったくナンセンスです。
そもそも生理的な現象というものは、生命力を自然に内に蓄え(補)ていき、不要なものを外に排泄している(瀉)ものです。補瀉は同時に行われて初めて生命は成り立っているわけです。これを新陳代謝と呼びます。生命力の虚と邪気の実が虚実という言葉の意味ではなく、生命力が充実していて正常に働いていることによって、虚実の転換、新陳代謝がうまくいっているわけです。
これに対して病理的な現象になると、排泄する場合にも過剰に排泄して生命力まで流れ出ていくような場合(排便後の疲れや発汗による疲れなど)もあります。便通や発汗などで疲労するというのは、生命力が損傷されている証拠です。邪気を排泄するとともに、身体から生命力が流れ出ているわけです。古い定義で言えば、邪気が虚すれば生命力は充実するはずでした。けれども実際にはそうならないわけです。邪気が虚するにつられて生命力も虚していく状態になっている。生命力を内にしっかり保つことのできない状態が問題なわけです。これはいわば、正邪の分離がうまくできていない状態であるといえます。排泄するための生命力が、邪気につられて流れ出していってしまっているわけです。
また、これとは逆に、排泄が滞り体内に毒素を溜め込む場合(病的な肥満や排尿不良による尿毒症など)もあります。生命力を排泄することはないわけですけれども、邪気も溜込んでしまう。これを一義的に排泄機能の低下と呼ぶことはできません。無理に排泄させようとして強い薬を与えたり、強い刺激を与えると、邪気の排泄とともに生命力も流れ出してしまう可能性があるためです。溜め込んでしまう理由は、生命力が弱っていて、邪気の排泄ができないというところにあるわけです。もっといえば、生命力が邪気とともに排泄されないよう、内に溜め込んでいる状態であるともいえます。
問題の焦点は両方とも、生命力が充実していくような方向で新陳代謝が行われることができなくなっているというところにあるのです。生命力が充実するということは自在に邪気が排泄されて生命力が充実していく、正邪の分離が明瞭に行われるところにあったわけです。
身体に負担がかかり続けている慢性疲労状態となると、この正邪の分離をする機能が低下していきます。これを器の問題で考えると、敏感さが失われてくると、一元流鍼灸術では表現しています。
身体には、生命力の虚と邪気の実があり、邪気の実を瀉すと生命力の虚が補われ、生命力の虚を補うと邪気の実は消えていくという、古代からの鍼灸師の信仰はここに、根拠のないものとして葬り去られなければなりません。

これまでお話ししてきたことは、このチャート図の上の部分までです。学ぶ姿勢、見る姿勢を調えて、臨床における立ち位置を定めます。そしてその立ち位置のまま、患者さんに返していく。実際のフィードバックを行い、その反応を再度手にし、考察を深めていく。その循環する作業をコツコツ継続していくことが、臨床を通じて学ぶということになります。
文字学問としての東洋医学の勉強も継続されることでしょう。けれども、それよりもはるかに重要なことは、臨床を通じて学び続けるということです。それによって文字学問を批判的にみることができますし、新たな発想を得ることもできます。
以前触れた「肝木の身体観」の発想は、このような臨床を通じて把握した成果のひとつです。
おそらくより大きな、けれども目立たない成果は、見るということ学ぶということにおける、心の位置を得ることができたことです。この位置においてはじめて私は、禅や儒教や神道を捉えなおし、統一的に理解していくことができるようになりました。
病因病理を書くにあたって
病因病理を書いていくにあたって、もっとも気をつけることは何かというと、症状を見るのではなく生命状況の変化を見、それを表現していくということです。
生まれてからこれまで患者さんは生きてきているわけです。ということは、圧倒的な生命力がそこに働いている、生きるということを赦されて生き続けているということです。
その生命の流れの中には、分厚く揺るぎなさそうな時期もあるでしょうし、少し踏み誤れば大病になるような綱渡りをしているような時期もあるでしょう。
その全体をまずゆったりとした眼差しで見ていきます。その流れがみえたら、弱った理由は何だったのだろう、強かった理由は何だったのだろう。ほんとうに弱ったのだろうか、ほんとうに強かったのだろうか。そんな風に症状を区切りにするのではなくその時期の生命状況を想像しながら書いていきます。
ぜったいに間違いのないことは、生まれてからこれまで生きてきた、ということです。この一言で病因病理が終わるのもいいかもしれません。そのようなつもりでいると、そこに表現したい揺らぎが生まれてきます。それをそのまま少しづつ書き綴っていくわけです。
基本的にはその生命力の盛衰の歴史を現時点まで眺めて記載するということになります。そのため、これを中医学で付けられた名前を借りて「病因病理」と呼ぶのはふさわしくないのかもしれません。
けれども患者さんは、症状を治してほしいとその身心を提供してくれています。ですから、その症状群を治すために理解すべきその生命の器の変遷を記載しているという意味で、やはり病因病理と名づけておく方が適切でしょう。患者さんともその方が情報を共有しやすいと思います。
さまざまな症状を呈する患者さんの現状が、なぜ引き起こされたのか。そのことをさまざまな角度から検証していく、そのような目的のために病因病理として、患者さんの生命の物語を書いていくわけです。
病因病理を書いていくにあたって、もっとも気をつけることは何かというと、症状を見るのではなく生命状況の変化を見、それを表現していくということです。
生まれてからこれまで患者さんは生きてきているわけです。ということは、圧倒的な生命力がそこに働いている、生きるということを赦されて生き続けているということです。
その生命の流れの中には、分厚く揺るぎなさそうな時期もあるでしょうし、少し踏み誤れば大病になるような綱渡りをしているような時期もあるでしょう。
その全体をまずゆったりとした眼差しで見ていきます。その流れがみえたら、弱った理由は何だったのだろう、強かった理由は何だったのだろう。ほんとうに弱ったのだろうか、ほんとうに強かったのだろうか。そんな風に症状を区切りにするのではなくその時期の生命状況を想像しながら書いていきます。
ぜったいに間違いのないことは、生まれてからこれまで生きてきた、ということです。この一言で病因病理が終わるのもいいかもしれません。そのようなつもりでいると、そこに表現したい揺らぎが生まれてきます。それをそのまま少しづつ書き綴っていくわけです。
基本的にはその生命力の盛衰の歴史を現時点まで眺めて記載するということになります。そのため、これを中医学で付けられた名前を借りて「病因病理」と呼ぶのはふさわしくないのかもしれません。
けれども患者さんは、症状を治してほしいとその身心を提供してくれています。ですから、その症状群を治すために理解すべきその生命の器の変遷を記載しているという意味で、やはり病因病理と名づけておく方が適切でしょう。患者さんともその方が情報を共有しやすいと思います。
さまざまな症状を呈する患者さんの現状が、なぜ引き起こされたのか。そのことをさまざまな角度から検証していく、そのような目的のために病因病理として、患者さんの生命の物語を書いていくわけです。