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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/


人はいつか死にます。そして鍼灸漢方が治病の重要な手段であった時代、死は現代よりもはるかに身近にありました。対処できない疾病もたくさんありました。江戸時代末期には、コレラや梅毒が蔓延し、大正時代に至るまで死因のトップだったものは結核でした。

これは、世界共通の対処すべき課題でした。

この課題を解決し、人類を長寿に導いた中心は、ウィルス研究を含む細菌学の発展によるものです。それまでは、西洋においてはホメオパシーと瀉血療法が医療の中心であり、東洋では漢方と鍼灸とが医療の中心でした。19世紀の末、日本の明治時代末期まで、病原菌による淘汰を人類は受けていたわけです。

この戦いに勝利し始めたのは実に20世紀に入ってからのことであり、わずか100年と少しの歴史しかありません。体外からの自然の脅威を克服した人類は、その勢いをかって体内における自然を克服したとも言えるのかもしれません。この病原菌と、それに対処するための薬という、悪魔と天使の闘争は、耐性菌の出現をみればわかるとおり、これからもずっと続けられていくこととなるのでしょう。

東洋医学では、「内傷がなければ外邪は入らない」と述べられています。内側の生命力の構えがしっかりしていれば、ウィルスや細菌に侵されることはなく、もし侵されたとしても自分で自然に治すことができるという意味です。実際、コレラや梅毒が蔓延して多くの人が亡くなったわけですが、感染しても発症しなかった人や軽症だった人や感染しなかった人もいました。そのため、人類は現代に至るまでその生をつなぐことができているわけです。

鍼灸は、この内側のかまえを充実させることができます。生命力を強めていくという側面において、鍼灸師はその力をもっと発揮することができるでしょう。

生命力は全身まるごと一つのものとして存在しています。その全体観を離れて生命を語ることはできません。

このことが実は、もっとも大切なことだったわけです。
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あるがままに診、治す


一元流鍼灸術の勉強会に入会希望の方からいただいたメールに「患者さんの生命をシステムに当てはめるのではなく、ありのまま診て治療できるようになるにはどのように勉強し経験を積んで行けば良いのかを学生時代からずっと考えていました。」というものがありました。

ありのままに診、治療する。ということはまさに一元流鍼灸術で目的としていることです。そして、ここには乗り越えなければならない大きな課題があります。

その一つは、ありのままに診るというとき、それを行う際の治療者側の心の姿勢が問われるということです。

患者さんが治療を受けにやってくる際、多くの場合は、症状をとってほしいという目的で来院されます。そうすると、患者さんの要求に応じようと術者の側も症状をとるために身体を診、症状をとるための処置穴を捜すということをやりがちになります。

これでは、ありのままに診るということにはなりません。一定の目的を持って診るということはありのままに診るということとはまったく異なる行為となります。ありのままに診ていくためには、心の状態はフラットでなければなりません。その状態を保った上で、その心におこること、指尖に感じられることを感じていくわけです。

ですから、ありのままに診、治すというとき、患者さんの訴えであっても、そこに心を動かされるようなことがあってはいけません。主訴も副訴も不定愁訴も、すべては身体の揺らぎの表現の一つに過ぎません。そこを見抜いた上で、全体の身体状況を調えようとする中にこそ、ありのままに診、治療するという花が咲くこととなるのです。

ですから、ありのままに診るためには、術者の心が安定している必要があります。ちゃんと診れていないのではないか、治せなかったらどうしよう、うまく治すにはどうすればいいのだろうというように、患者さんを目の前にすると術者の心が揺れます。心が揺れて乱れてしまうと、脉も経穴も分からなくなってしまいます。これは患者さんに振りまわされた結果です。来院された患者さんを少しでも楽にして返したいという思いが昂じて、術者のこのような精神状態を作るわけです。

けれどもそのような場合でも、心を乱さず、過度に入れ込まず、淡々と四診をしていく必要があります。それは、まるでスクリーニングの作業をするかのようです。ただ診て、処置を施し、施した処置が患者さんにどのような影響を与えたのか確認する作業をしていきます。このような淡々とした、あたりまえの、けれどもていねいな一連の作業の積み重ねが、ほんとうは患者さんのためにもなりますし、術者の人間理解―成長にとっても大切なこととなります。

診る際には、患者さんが生きている人間であるということを忘れてはなりません。あたりまえのことですが、患者さんは診ている対象物でも治療の対象物でもありません。診ることと診られることとは相互に関係しあって始めて成立している行為です。診ることですでに、感応が始まっているわけです。冷酷な科学者のように患者さんを「他者として客観的に診ることができる」という考えは、思い込みの甚だしいものです。

また、目の前の患者さんは生きているわけですから揺らいでいます。揺らいでいるということは、その身体が毎瞬々々変化している、ということです。固定した死物を診ているわけではありません。

いつも術者はその感覚を洗いなおし、初めてみるような気持ちで患者さんを捉える必要があります。そのような初心をもつことによってはじめて、患者さんの身体の変化に気づくことができるからです。

術者は、変化していく患者さんの身体の中の、今の瞬間を切り取ってみているわけです。そのような揺らぎ変化する患者さんの生命の動きをみながら、鍼灸師は処置すべき経穴を見つけ、そこに処置していくわけです。
全身の生命力を調えることを目標とする


症状の出方や四診を通じて、全身の生命力の問題の所在を明らかにし、その修正方法を提示していくことが弁証論治です。これは、諸検査を通じて症状の理由―病気の原因を明らかにしていく西洋医学と、手段は異なりますが方法は似ています。

伝統的な東洋医学の場合は全身の生命力を問題にする、という観点から離れることはありません。

四診を通じて表れているものも全身の生命力の状態ですし、考察していく病因病理も、全身の生命力の盛衰を基本とし、その状態を眺めていくものです。その姿勢のまま、問題の所在が深く臓腑にあるのか、浅く経絡経筋にあるのか見極めていきます。

いわゆる肩凝りや腰痛であっても、浅い経絡経筋の問題の中でとらえることができるものと、臓腑のバランスの問題として捉えないといけない問題とに分けられます。

経絡経筋の問題としてとらえることのできる場合であれば、生命力の偏在を調えるためのさまざまな手法を用いればすみます。いわゆる、偏在している生命力を、逆に偏らせることによって調整する、という手法が使えるわけです。古典以来の経絡に沿って処置をするとか、右に病があれば左に治療穴をとり、上に病があれば下に治療穴をとるといった手法が、劇的な効果を上げることがあります。

これに対して内に臓腑を病んでいる場合は、養生指導とともに根気のよい治療が必要となります。

四診を通じて理解することができることは、現在の生命力の状態です。疾病の状態ではありません。

現在の生命力の状態を診ていくことによって、症状を表現するに至った道筋を理解し、その道筋を逆にたどるようにして、患者さんの状態を考えていくということが、病因病理を作成するということです。そして治療と養生とを通じて、症状とともにある患者さんの生命の状態を少しづつ磨いていく共同作業を、治療家はしていくわけです。

症状や病気はあっても、今の自分は今の自分です。「症状や病気をも包含したありのままの自分自身の生命」を抱いたまま、少しづつよりよい生を受け容れていく、よりよく生きようと努力を積み重ねていく。その自己変革のお手伝いを治療家はしていくわけです。
生活提言


生活習慣は、日々いつも行われていることです。ですから、一時的な鍼灸の治療よりも当然大きな影響力を身体に対してもっています。そのため、養生的な生活を行うことと鍼灸治療の頻度を上げることとは、車輪の両輪のように大切なこととなります。

治療家の側としては、患者さんの身体における中心である臍下丹田を充実させるように努めつつ、気の厚薄―すなわち生命力の濃淡を調えることを目標としていきます。患者さんは、生活習慣で得た現在の心身を用いて生活しています。治療家は、より充実した人生を送れるよう、そこに介入しているわけです。

健康は目的ではなく手段です。よりよい充実した人生を送るための手段です。ですから治療家は、今できる全力を鍼灸を用いて行いますけれども、患者さんの人生ですから、すべての決断を患者さんが握るようにします。そうすべきであると、私は考えているわけです。

治療家として行うこのあたりのことを器の概念を用いて述べるならば、中心を定め、より敏感で、より大きく、よりきめ細かな生命をもたらすように努力する、という表現となります。それを通じて治療家は、現時点での「まるごとひとつの生命」を少しづつ磨いていこうとしているわけです。

完璧な人生が存在しないように、完璧な健康は存在しません。いつもゆらゆら揺らぎながら、生の淵をさまよいながら、人は生きています。その揺らぐ頼りない生を、少しでも安定した方向にもっていけるよう、患者さんとともに挑戦しているわけです。

弁証論治は、現在の「まるごとひとつの生命」の状態に対して、どのように手を入れていくとより活発な充実した生命を患者さんが手に入れることができるのかと考え、たてられます。現時点のライフステージの上ではじめて、弁証論治がたてられることとなるわけです。

治療家はその弁証論治を手にして、患者さんの気の厚薄―すなわち生命力の濃淡をそのつど見極め、処置していくわけです。
内傷病と外感病


風邪やインフルエンザなどは基本的に外感病と呼びます。

外感病は外からやってきて、生命力の弱りに乗じて侵襲します。生命力が充実している人には侵襲しません。けれども、外邪としては強力ですから、正邪の闘争を起こします。正邪の闘争が激しければ激しいほど、症状としては強くでます。発熱や咳や悪寒で慄えるといった症状です。そのようにして体表や肺気を盛んにし、生命力をそこに集めて外邪を排泄しようとしているわけです。体表に生命力が集まるわけですから、その根を支えるためには脾胃の力を借りたり腎気を借りたりします。紀元200年頃に書かれた『傷寒論』には、そのために工夫されたさまざまな処方が記載されています。


内傷病はいわば生活習慣病です。徐々に内の構えを弱らせていきます。一般的には日々の食生活や身体の使い方、加齢による腎気の衰えによっておこります。食事の不摂生が継続することによって内生の邪気である湿痰をため込んだり、偏り疲労が継続することによって体の構造が歪んで生命力が停滞しやすくなったりするわけです。生活習慣に対しては、さまざまな対処法や情報が提示されています。患者さんの側も、養生法として実行しやすいところです。

内傷病の中でもっとも注意が必要なものは、心の持ち方です。自暴自棄になって身を滅ぼす人がたくさんいることから考えても容易に理解できることです。心の持ち方によっては、簡単にその生命を滅ぼす事態に陥ります。

内傷病は基本的に、生命力を内側から徐々に弱めていきます。日常的な身心の使い方である生活習慣に基づいて徐々に変化しているため、自分では気づきにくいものです。そのため一元流鍼灸術では、弁証論治に基づいて、個別具体的な生活提言をすることにしています。個々にあった養生法を提示しなければならないわけです。

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