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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

知識を得ること知恵を得ること


一元流鍼灸術では、「一」ということを学びます。「一」の眼差しがすべてを貫通しています。このことを理解できるようにテキスト「一元流鍼灸術の門」は祈りを込めて作られています。

けれどもこれを理解することは、なかなか難しいらしいのです。難しい理由は、多くの場合これまでの勉強法にあります。言葉を暗記してそれで試験を受けて合格する。この繰り返しを勉強と称して行ってきた方がほとんどでしょう。社会的な要請としても、それがその人の技術のレベルを示すものとされてもいるわけで、免状などもそれを規準に与えられるようになっています。

これに対して一元流鍼灸術では、「一」の理解を通じて人間を理解するということに特化しています。応用自在の知恵である「一」に対する理解の方法を提供することによって、人間理解を個別具体的に行えるように工夫しているわけです。

知識というものは、この「一」に対する理解を、言葉を使って表現したことから始まります。ですから知識は本来、飾りでにすぎません。群盲が象を撫でて語った言葉の集合なのです。そのため、知識をいくら積み重ねても、目の前の人間を理解することはできません。

見て感じて表現する者として、そこすなわち対象が存在する場所に、自身を存在させることがなければ、始まりの理解は得られないわけです。暗記した言葉、文字として書かれている古典などは、その「表現された言葉」に過ぎません。表現された言葉をいくら積み重ねてみても、それだけでは存在そのものに肉薄することはできません。存在そのものは言葉を超越しているためです。

言葉は、存在しているものをパターン化し、その作成されたパターンに存在を当てはめてしまいがちです。これでは、理解にはなりません。パターンが作成される以前に存在はそこにあり、それを理解するために「仮に」パターン化された言葉でそれを表現しているに過ぎないからです。言葉は仮の姿です。仮の姿は―あたりまえのことですが―実在ではありません。この「実在」こそが本来の意味での「古典」であると、一元流鍼灸術では主張しています。つまり、目の前の患者さんこそが、ほんとうの古典なのです。


『易』の「繋辞上伝」には、「易は天地と準(なら)う。故に能く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す。」と述べられています。どういう意味かというと、六十四卦で構成されている「易」というものは、天地の完璧さを基準としてそれを表現しているものなので、天地の法則をすべて包み込んでいるものである。その解説書である本書『易経』は、実際にそこにある天文と地理とを観察することによって書かれているものである。ということです。

易はもともと、八卦〔伴注:一を八つの角度から眺めること〕から始まり、それを上下に合わせて六十四卦〔伴注:一を六十四の角度から眺めること〕に拡げられたものです。初めは解説などはありませんでした。その六十四卦のひとつひとつに周の文公が解説を書いたことが実際の『易』の始まりとなります。孔子がその解説にさらに付け加えて解説したので、『易経』と呼ばれることとなったとされています。けれども実際には孔子の孫である子思(紀元前483年?-紀元前402年?)とそのグループが最終的にその内容を書いたと考えられています。時代は、戦国時代、紀元前450年頃のことです。

この言葉を現代の私が解釈すると以下のようになります。自身が生き生かされているこの自分の位置、自分の生命を明らかに体験する中から、初めて瑞々しく生まれ出てくる生命-知恵によって再発見された生命-に触れることができる。これこそが存在そのものに触れることのできる位置である、と。

この生命を生きている私が、この私の生命を用いて全力で相手を理解しようとする。このことが知恵による人間理解の基本となるわけです。

言葉を多く積み重ねて記憶し、パターン化し、それをその人間存在に当てはめることは「人間理解」ではない。そのようなパターン化された思考に執着することは、「人間理解」とはまったくかけ離れたものであり、ほんとうの「人間理解」を阻害することになりやすいものです。
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鍼灸道の構築に向けて


見るということを探究の基本としていくとき、鍼灸術は言葉を超えていくこととなりました。技術は伝えることはできますけれども、技術を超えたものは伝えることはできません。

日々、自分自身を形成し、向上心を持って変化し続けていく心を持ち続けるという、基本的な姿勢が大切です。

変化を怖れないということは、今の自分が未熟であるということを忘れない、ということでもあります。

そしてそれは、何者をも信じずただ見ることに特化していく、すなわち言葉を超え自分を超えていく心の位置に、自身を置き続けることを意味しています。

そのような姿勢をとるとき、鍼灸は技術であることを超えていきます。いわば、術から道へ、技術から生き方へと、そのあり方が飛躍していくわけです。

そしてこのような鍼灸道は、症状に着目せず、生命力の充実安定に着目することになります。症状は、生命力が向上する時と低下する時すなわち、身心が変化する時に現れる生命の揺らぎであることを理解しているためです。

このようにして、臍下丹田を中心とした気一元の人間観を基本とし、内なる樹をしっかり育てていくことを目標として、自身の身体とともに患者さんの身体を育てていく工夫を重ねていくわけです。
生の奇蹟


そもそも生命は奇蹟です。この奇蹟に寄り添い気づき、生命を尊崇することから東洋医学は始まっています。この奇蹟をさらに磨いて、より完璧なものへと築いていくことが、養生の下で生活するということです。この養生という言葉の中には、とても深い意味が隠されています。生命という奇蹟に寄り添う治療という言葉に、とても深い意味が隠されているのです。

磨くということは、今が不完全であるということを意味しています。不完全な生命―身心を自覚し、そこにさらに磨きを掛けていくことが養生であると述べているわけです。そしてこれは、実は「自己の身心を乗り越えてその生をまっとうする」という位置にまでつながっていくことです。

養生の果てにあるものは実はこの、「いかに生きるべきか」という生き様を探究する覚悟でした。しかし、そのはるか手前で、この生命が存在することそのものが奇蹟であるということはすでに述べました。その奇蹟の上に立ち、この生命を「いかに生きるべきか」「この生命をどのように使っていくのか」という角度から磨いていくこと、これが養生的生活の全体像となるわけです。


この生の奇蹟に、よりスムーズに寄り添うための知恵、それが東洋医学―東洋思想には隠されています。これからの医学はそのようなものでなければならないでしょう。ほんとうの意味で、生の質を高めるための医学が、これから展望されなければならないのです。

生あるもの全てが死んでいきます。それは大いなる生命の代謝―活性化として、すべての過程が起こっていると言うことができます。おそらく人間だけがこの個体の生を意識し、個体の生にしがみつきます。けれども、「時」を止めておくことは一瞬たりともできません。ただ、今ある瞬間瞬間変化していく生を受容して、それを「ありがとうございます」と生きていくしかないのです。

いつかは誰もが、大いなる生命の垢が落ちるように死んでいくのですから。
養生の医学


東洋医学はもともとその特徴として、未病を治す医学であり、養生の医学であるといわれてきました。そもそも死から逃れることのできない「人」の生にとって、養生とは一体なんなのでしょうか。

養生という言葉を、よりよく生きるという言葉に代えてみると、その実態がより鮮明になっていきます。よりよく生きるという言葉の中には、他者との関係が含まれてくるからです。人が生きるということの中には実は、個人の生だけではない、より大きな「関係性としての生」が隠されています。

人は関係性の中で生きています。ただひとりで生きているわけではありません。そこには、他者との共感を通じた「関係性としての生」の空間が、強弱や広がりはさておき存在しています。この関係性の中で初めて、養生という言葉が生きてきます。個として生きているわけではないからこそ、自分の身を修め、よりよく生きる意志が生まれます。関係性の中で生きているからこそ、「よりよく生きる」という言葉の中に「よりよく死ぬ」という言葉が包含されてくることになります。

「関係性としての生」に目覚めることによって始めて、我々は、現代西洋思想の個人主義を脱却することができます。


東洋医学を生命の学として学んできた私は、養生とは、生命状態を少しでも向上させることであるということを理解しています。養生の果てに存在する場所がなくなったさまざまな疾病は、消えていきます。東洋医学における治病とは、このような機序で起こるものです。

ですから、治療の目標は疾病治療ではありません。治療の目標はこの生命を少しでもバランスのとれた方に向かわせることです。そして、今の生命力に従って人は、その人生をまっとうしていきます。治療家は、患者さんのその生命力が少しでもより活力を持てるようになるよう、お手伝いをしているわけです。

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