〔伴注:生命を見るわれわれにとって、エビデンスは「気づき」にある〕
300P
特異な差異を発見することが、「分かること」の実践である。ここでの「分かる」とは、「これこそそのものだ」というように、〈もの〉にはっとさせられることである。同一性に規定された諸事物についての言説を拒絶して、異なるもろもろの〈もの〉を、ただ異なると感じ、知ることである。〔伴注:ただ異なると感じ、知るという精神的な営為は、日々研ぎ澄まされていく。それによって、ただ異なると感じ、知るという精神的な営為そのものが変化していく。いわば、気づきの日々が積み重ねられることによって「次元の異なる存在」に自分がなっているわけである。〕
〔伴注:真実の宗教は、この気づきを養うものである。それは信仰を排除するものであるとも言える。しかし、信仰を通じてはじめて気づきの世界に入ることができるとも言える。ここが大問題となる。自分のすでにもっている概念―思いこみ―「常識」の枠組から離脱することは、それほどたいへんなことなのだ。信仰という力を使ってはじめて「自分」から救い出される道もある。しかし、さらに、その信仰そのものをも捨てることができなければ、「気づき」の世界に入ることはできない。なぜなら自分自身以外に世界に気づくことができるものは存在しないのだから。自分を捨て再度自分を基盤にすることを獲得しなおす。自分を磨き続けるところにしか、新たな道―新しい自己を獲得し続ける方法はない。「気づき」に入る人はこの深い孤独と絶望を覚悟しなければならない。それほどまでに自己を超えることが困難であるということを自覚する必要がある。〕
〔伴注:真実の宗教とエセ宗教の違いは、自覚をうながすために信仰を使うのか(真の宗教)、信仰させることを通じて教えを記憶させるのか(エセ宗教)の違いにある。永遠の気づきのなかに自己を置くということは、自己否定に通じる永遠の不安定のなかに安住を見いだすということでもある。その不安定に対して安易な安定と協調とを忍びこませるものが、エセ宗教である。信仰の暴力によって他者を否定していく傲慢さを、彼らエセ宗教家はもつこととなるのである。しかし実はこのような傲慢さ―暴力―は、いわゆる社会常識―あたりまえ―のなかに深く強く潜んでいるということはいうまでもない。人はそれほどまでにあたりまえの今に安住したがるものなのである。自身が培って済んでいる今のあたりまえを疑うことができるか。そのことが今を磨き、自己を毎瞬の「気づきの場」に存在させる源となる心の位置なのである。〕
〔伴注:このように「気づき」ということについて語ると、宗教的であるというレッテルを貼る人がいる。宗教を超える道、信仰を超える道を道とすると述べているにも関わらず、彼らにとって自分が理解できないことは宗教的なことなのである。彼らのその惰性の宗教―無自覚の常識に安住し生命にレッテルを貼って満足する傲慢な宗教―こそ打破されなければならないものである。そこを超えることができなければ、到底「真の理解」「気づき」には辿り着くことができない。すなわち体表観察すらまともにできない、頭でっかちの鍼灸師ができあがるのである。重要なことは言葉にあるのではなく、言葉を超えたリアリティー―生命そのものをいかにしてつかみ表現するのかというところにある。表現された言葉は蓄積されてゆき、理屈を考えるひとびとによってまとめられてゆく。しかしその言葉の群れを通じてつかまなければならないものは実は、生命そのものの動きなのである。〕
300P
特異な差異を発見することが、「分かること」の実践である。ここでの「分かる」とは、「これこそそのものだ」というように、〈もの〉にはっとさせられることである。同一性に規定された諸事物についての言説を拒絶して、異なるもろもろの〈もの〉を、ただ異なると感じ、知ることである。〔伴注:ただ異なると感じ、知るという精神的な営為は、日々研ぎ澄まされていく。それによって、ただ異なると感じ、知るという精神的な営為そのものが変化していく。いわば、気づきの日々が積み重ねられることによって「次元の異なる存在」に自分がなっているわけである。〕
〔伴注:真実の宗教は、この気づきを養うものである。それは信仰を排除するものであるとも言える。しかし、信仰を通じてはじめて気づきの世界に入ることができるとも言える。ここが大問題となる。自分のすでにもっている概念―思いこみ―「常識」の枠組から離脱することは、それほどたいへんなことなのだ。信仰という力を使ってはじめて「自分」から救い出される道もある。しかし、さらに、その信仰そのものをも捨てることができなければ、「気づき」の世界に入ることはできない。なぜなら自分自身以外に世界に気づくことができるものは存在しないのだから。自分を捨て再度自分を基盤にすることを獲得しなおす。自分を磨き続けるところにしか、新たな道―新しい自己を獲得し続ける方法はない。「気づき」に入る人はこの深い孤独と絶望を覚悟しなければならない。それほどまでに自己を超えることが困難であるということを自覚する必要がある。〕
〔伴注:真実の宗教とエセ宗教の違いは、自覚をうながすために信仰を使うのか(真の宗教)、信仰させることを通じて教えを記憶させるのか(エセ宗教)の違いにある。永遠の気づきのなかに自己を置くということは、自己否定に通じる永遠の不安定のなかに安住を見いだすということでもある。その不安定に対して安易な安定と協調とを忍びこませるものが、エセ宗教である。信仰の暴力によって他者を否定していく傲慢さを、彼らエセ宗教家はもつこととなるのである。しかし実はこのような傲慢さ―暴力―は、いわゆる社会常識―あたりまえ―のなかに深く強く潜んでいるということはいうまでもない。人はそれほどまでにあたりまえの今に安住したがるものなのである。自身が培って済んでいる今のあたりまえを疑うことができるか。そのことが今を磨き、自己を毎瞬の「気づきの場」に存在させる源となる心の位置なのである。〕
〔伴注:このように「気づき」ということについて語ると、宗教的であるというレッテルを貼る人がいる。宗教を超える道、信仰を超える道を道とすると述べているにも関わらず、彼らにとって自分が理解できないことは宗教的なことなのである。彼らのその惰性の宗教―無自覚の常識に安住し生命にレッテルを貼って満足する傲慢な宗教―こそ打破されなければならないものである。そこを超えることができなければ、到底「真の理解」「気づき」には辿り着くことができない。すなわち体表観察すらまともにできない、頭でっかちの鍼灸師ができあがるのである。重要なことは言葉にあるのではなく、言葉を超えたリアリティー―生命そのものをいかにしてつかみ表現するのかというところにある。表現された言葉は蓄積されてゆき、理屈を考えるひとびとによってまとめられてゆく。しかしその言葉の群れを通じてつかまなければならないものは実は、生命そのものの動きなのである。〕
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■むすび ―反存在論的に
『差異とは何か』〈分かること〉の哲学 船木亨著 世界思想社 刊 2014年7月30日 第1刷発行 「あとがき」より。
〔伴注:「差異の哲学」とは、私の言葉でいえば「気づきの哲学」になる。本書は、「気づき」の中身について哲学史に基づいて精緻に述べている書物である。〕
〔伴注:鍼灸師の体表観察において、惰性に流されないためにはいつも新鮮な「見る」姿勢をとり続けることが求められる。それは日常に流されず、新たな気持ちでいつも初めての患者さんを診るように見る、そういう心の位置を定めることである。その心の位置にない場合、「見た」ものを「見る」ことしかできない。「見た」ものをいくらたくさん集めても、新たに「見る」ことはできない。すでにあるもの―過去を集積しているだけでは、新しい今は生まれない、「生命にまなぶ」姿勢を取ることはできていない。「生命にまなぶ」ためにはいつも心を新たにして生命に向かう姿勢が必要だからだ。新しい心、気づきに気がつく姿勢こそが、生命にまなぶ必須の姿勢である。〕
〔伴注:昨日と同じ今日はない。「今」はいつも新たな血なまぐさい深淵を開いている。そこにすべての防具を投げ捨てて突入する。これができなければ気づきうるということはできない。防具は、言葉や過去の経験に基づいて湧き起こる感情を指している。〕
■〔伴注:惰性(同一性の思考)から気づき(差異の哲学)へ。そして感じることの再発見へ〕
298P
同一性の思考とは、存在、実在、実体、本質といった形而上学的諸概念を使って、ただ眼のまえにある〈もの〉〔伴注:〈もの〉とは、あるがままにある「相互主観性の実体」のことを意味している〕〔伴注:「相互主観性」とは、私が捉えたものと同じものをあなたが捉えているというときの、私が捉えたものとあなたが捉えたもののことである。捉えたものの実体は実は同じとは言えない―すなわち異なる。その新鮮な今を少し捨てることによって、主観が交わる。ここに「相互」という言葉をつけた「主観性」が成立し、共有できそうな言葉が生まれる。〕ではなく、無時間的ないし普遍的にあるものによって、経験を「あるもの」と「あらぬもの」に分類して説明しようとする思考である。それが、近代においては、言語の指し示す権能を活用して、ひとびとの身体を事物のようなものへと形成し、機械的、定型的な行動に閉じ込めて、「わたし」を孤立した主観として思考させるようにした〔伴注:そのようにして個々人が相互主観性のなかから独立して粒立ち、孤独の牢屋に入りこんでしまう。〕―――そのようにして、〈もの〉を思考させない299Pようにしているのである。〔伴注:ここでいう思考のなかには、頭の中で考えるという意味だけではなく、さらに、見て感じることを包含している。言葉を超えて存在そのものに肉薄することこそが、思考の本体である。それに対して惰性で生きること、すなわち機械的、定型的な行動に閉じこもるということは、思考停止させられているということである。このことを船木亨は同一性の思考と呼んでいる。書物を死物である。活物としてこれを読むには、患者さんのあるがままの生をあるがままに見ることによって、書物を点検していく姿勢が必要なのである。〕
それに対するわたしの主張はシンプルである。言葉で与えられる諸事物は、われわれが生きている〈もの〉のことではない。〔伴注:すなわち、言葉は表現方法のひとつにすぎない。われわれが生きている〈もの〉を何とか表現しようとして生まれたもののひとつが、言葉なのである。〕われわれの宇宙、世界、自然、社会は、同一性に由来する事物相互の見かけの差異に覆われてしまっているが生きることを真に理解するためには、特異な差異、差異それ自身を知っていなければならない。〔伴注:言葉を超えて存在そのものに肉薄する必要がある。自分が現在もっている言葉を超えた、全く新しい「気づき」を得るほどに〕
それが「差異の哲学」なのであるが、それは何であれ同一性にのみ基づけようとする日常の思考〔伴注:すなわち、日常という名の惰性。言葉で存在を切り取って表現してしまうことによって、気づきへの思考を停止させるもの。すなわち日常の思考〕を批判する哲学である。いたるところに隠蔽された特異な差異を蒸し返し、〔伴注:特異な差異とは、言葉を超えて存在そのものに気づくこと。〕記憶の詰まっている宿命的な身体〔伴注:記憶は言葉によって分類され潜在化された無意識の構造である。そのため、「宿命的な身体」と表現している。〕から身をもぎ放つことを勧める哲学である。言葉が差異を飼いならし、特異な差異を追放してひとを事物の世界に住まわせているわけだが、それとは逆に、言葉が差異を掬いだし、感じられる生の世界を人々に発見させる―――それも不可能ではないであろう。〔伴注:この言葉は、船木亨が自身に対して述べている、哲学者あるいは哲学の存在理由。いわば、存在のリアリティーに気づくことによって開けて来る社会を招来しようと船木亨はしている。しかしさて、敵は巨大な無知、怠惰、惰性、習慣的な思考である。ここには、積み重ねられた古典の群れと、それをパターン化して読み解こうとする中医学の常識とがある。沢田健が、「書物は死物である」としながらも、その「書物」を読み砕く先に活物である生命を見ていこうとした決然たる覚悟を見なければならない。すなわちパターン化した読み方では古典を読み解くことはできない。生命の書として古典を読まなければならないということである。文字の先に生命がある。その生命を読む、理解できるところまで、文字を言葉を超えていかなければならない。〕
生の世界とは、匿名で生きている感覚と振舞の世界である。〔伴注:言葉を超え、言葉の介入を許さないため、匿名という言葉を用いている。しかしこれは、言葉を超えることによって真の言葉の使い方を手にした、詩的な世界のことである。〕(現象学のいうような)真なる認識のための下絵のようなものではなく、ここそこに息づいていて、われわれの言葉と振舞を揺さぶり賦活する。〔伴注:ここでの賦活という言葉の新鮮な響きに耳を澄ますべきである。賦活とは新たに生まれること。生命そのものを新たに捉えなおすことである。〕それらは〈いま〉の推移からはじまって、時間の差異、感覚の差異、振舞の差異、言葉の差異の体系の、それぞれに特異な差異のもとにある。差異の経験とは、それらに気づくことにほかならない。〔伴注:気づくことによって起こるこの経験のことを私は、精神のジャンプと呼んでいる。船木亨はそのことを、哲学史の言語体系に従って「差異」と呼んでいる。〕
『差異とは何か』〈分かること〉の哲学 船木亨著 世界思想社 刊 2014年7月30日 第1刷発行 「あとがき」より。
〔伴注:「差異の哲学」とは、私の言葉でいえば「気づきの哲学」になる。本書は、「気づき」の中身について哲学史に基づいて精緻に述べている書物である。〕
〔伴注:鍼灸師の体表観察において、惰性に流されないためにはいつも新鮮な「見る」姿勢をとり続けることが求められる。それは日常に流されず、新たな気持ちでいつも初めての患者さんを診るように見る、そういう心の位置を定めることである。その心の位置にない場合、「見た」ものを「見る」ことしかできない。「見た」ものをいくらたくさん集めても、新たに「見る」ことはできない。すでにあるもの―過去を集積しているだけでは、新しい今は生まれない、「生命にまなぶ」姿勢を取ることはできていない。「生命にまなぶ」ためにはいつも心を新たにして生命に向かう姿勢が必要だからだ。新しい心、気づきに気がつく姿勢こそが、生命にまなぶ必須の姿勢である。〕
〔伴注:昨日と同じ今日はない。「今」はいつも新たな血なまぐさい深淵を開いている。そこにすべての防具を投げ捨てて突入する。これができなければ気づきうるということはできない。防具は、言葉や過去の経験に基づいて湧き起こる感情を指している。〕
■〔伴注:惰性(同一性の思考)から気づき(差異の哲学)へ。そして感じることの再発見へ〕
298P
同一性の思考とは、存在、実在、実体、本質といった形而上学的諸概念を使って、ただ眼のまえにある〈もの〉〔伴注:〈もの〉とは、あるがままにある「相互主観性の実体」のことを意味している〕〔伴注:「相互主観性」とは、私が捉えたものと同じものをあなたが捉えているというときの、私が捉えたものとあなたが捉えたもののことである。捉えたものの実体は実は同じとは言えない―すなわち異なる。その新鮮な今を少し捨てることによって、主観が交わる。ここに「相互」という言葉をつけた「主観性」が成立し、共有できそうな言葉が生まれる。〕ではなく、無時間的ないし普遍的にあるものによって、経験を「あるもの」と「あらぬもの」に分類して説明しようとする思考である。それが、近代においては、言語の指し示す権能を活用して、ひとびとの身体を事物のようなものへと形成し、機械的、定型的な行動に閉じ込めて、「わたし」を孤立した主観として思考させるようにした〔伴注:そのようにして個々人が相互主観性のなかから独立して粒立ち、孤独の牢屋に入りこんでしまう。〕―――そのようにして、〈もの〉を思考させない299Pようにしているのである。〔伴注:ここでいう思考のなかには、頭の中で考えるという意味だけではなく、さらに、見て感じることを包含している。言葉を超えて存在そのものに肉薄することこそが、思考の本体である。それに対して惰性で生きること、すなわち機械的、定型的な行動に閉じこもるということは、思考停止させられているということである。このことを船木亨は同一性の思考と呼んでいる。書物を死物である。活物としてこれを読むには、患者さんのあるがままの生をあるがままに見ることによって、書物を点検していく姿勢が必要なのである。〕
それに対するわたしの主張はシンプルである。言葉で与えられる諸事物は、われわれが生きている〈もの〉のことではない。〔伴注:すなわち、言葉は表現方法のひとつにすぎない。われわれが生きている〈もの〉を何とか表現しようとして生まれたもののひとつが、言葉なのである。〕われわれの宇宙、世界、自然、社会は、同一性に由来する事物相互の見かけの差異に覆われてしまっているが生きることを真に理解するためには、特異な差異、差異それ自身を知っていなければならない。〔伴注:言葉を超えて存在そのものに肉薄する必要がある。自分が現在もっている言葉を超えた、全く新しい「気づき」を得るほどに〕
それが「差異の哲学」なのであるが、それは何であれ同一性にのみ基づけようとする日常の思考〔伴注:すなわち、日常という名の惰性。言葉で存在を切り取って表現してしまうことによって、気づきへの思考を停止させるもの。すなわち日常の思考〕を批判する哲学である。いたるところに隠蔽された特異な差異を蒸し返し、〔伴注:特異な差異とは、言葉を超えて存在そのものに気づくこと。〕記憶の詰まっている宿命的な身体〔伴注:記憶は言葉によって分類され潜在化された無意識の構造である。そのため、「宿命的な身体」と表現している。〕から身をもぎ放つことを勧める哲学である。言葉が差異を飼いならし、特異な差異を追放してひとを事物の世界に住まわせているわけだが、それとは逆に、言葉が差異を掬いだし、感じられる生の世界を人々に発見させる―――それも不可能ではないであろう。〔伴注:この言葉は、船木亨が自身に対して述べている、哲学者あるいは哲学の存在理由。いわば、存在のリアリティーに気づくことによって開けて来る社会を招来しようと船木亨はしている。しかしさて、敵は巨大な無知、怠惰、惰性、習慣的な思考である。ここには、積み重ねられた古典の群れと、それをパターン化して読み解こうとする中医学の常識とがある。沢田健が、「書物は死物である」としながらも、その「書物」を読み砕く先に活物である生命を見ていこうとした決然たる覚悟を見なければならない。すなわちパターン化した読み方では古典を読み解くことはできない。生命の書として古典を読まなければならないということである。文字の先に生命がある。その生命を読む、理解できるところまで、文字を言葉を超えていかなければならない。〕
生の世界とは、匿名で生きている感覚と振舞の世界である。〔伴注:言葉を超え、言葉の介入を許さないため、匿名という言葉を用いている。しかしこれは、言葉を超えることによって真の言葉の使い方を手にした、詩的な世界のことである。〕(現象学のいうような)真なる認識のための下絵のようなものではなく、ここそこに息づいていて、われわれの言葉と振舞を揺さぶり賦活する。〔伴注:ここでの賦活という言葉の新鮮な響きに耳を澄ますべきである。賦活とは新たに生まれること。生命そのものを新たに捉えなおすことである。〕それらは〈いま〉の推移からはじまって、時間の差異、感覚の差異、振舞の差異、言葉の差異の体系の、それぞれに特異な差異のもとにある。差異の経験とは、それらに気づくことにほかならない。〔伴注:気づくことによって起こるこの経験のことを私は、精神のジャンプと呼んでいる。船木亨はそのことを、哲学史の言語体系に従って「差異」と呼んでいる。〕
船木亨『差異とは何か』
船木亨は、現代の日本の哲学者です。その『現代思想史入門』の裏表紙に書かれている自己紹介によると。
1952年東京都生まれ。東京大博士(文学)。東京大学大学院科学研究科(倫理学専攻)博士課程修了。専修大学文学部哲学科教授、放送大学客員教授。専攻はフランス現代哲学。著書に『メルロ=ポンティ入門』(ちくま新書)、『進化論の5つの謎』(ちくまプリマー新書)、『ドゥルーズ』(清水書院)『〈みること〉の哲学』『差異とは何か』(ともに世界思想社)『現代哲学への挑戦』(放送大学振興会)など。
ということです。わたしはその『進化論の5つの謎』にはじめに触れて感銘を受け、今年の収穫として勉強を続けています。上記書籍以外にもおそらくは大学での資料を書いているうちに大部になって、出版に至ったと思われる『現代思想講義』『現代思想史入門』といった、包括的な書物も書かれています。
数ある著書のなかでももっとも独創的であるとわたしが感じた『差異とは何か』との格闘について少し提示しておこうと思います。感銘を受けた著書とどのようにわたしが格闘しているのかという姿を見ていただけると、皆さんの勉強の参考になるのではないかと感じたためです。
以前紹介しましたように、わたしは感銘を受けた著書については読書記録を作っています。書名と著者名と刊行書店名、刊行年月日などを付したファイルを作り、その中にページを付して、感銘を受けた文章をタイピングしています。書物というものは本来、その全体で表現されているものです。ですからほんとうは、全体を読み込むなかからひとつの文章の意味を読みとり、解釈していくという読み方をするべきなのでしょう。
けれどもこの船木亨の場合(精神分析学者の木村敏やカウンセラーの熊倉伸宏もそうですが)全体の山が高く、最初からその全貌を把握することは困難です。そのため、その裾野で文章をピックアップしつつ、自分の中で対決しています。そうやって、「智の山登り」をしているわけです。
船木亨の書物にはひとつ特徴があります。それは最後の「むすび」の章で、その書物の解題を行っていることです。緻密な論証を加えて書かれている本文を少し離れて、自身で何を考えているのか俯瞰し検証しようとしているわけです。
『差異とは何か』という書物の「むすび」の部分の文章からいくつか引用し、わたしの解釈を入れておきたいと思います。上記しましたようにわたしは智の登山中ですので、わたしの解釈が正しいということではありません。このように考えながら今のところ、登山中の風景を楽しんでいるよということです。
基本的に原文を書き写し、それに〔伴注:〕として、わたしが注を入れています。注とはいいますけれども、原文に触発されて考えたことを書いています。
次回から内容に入ります。
船木亨は、現代の日本の哲学者です。その『現代思想史入門』の裏表紙に書かれている自己紹介によると。
1952年東京都生まれ。東京大博士(文学)。東京大学大学院科学研究科(倫理学専攻)博士課程修了。専修大学文学部哲学科教授、放送大学客員教授。専攻はフランス現代哲学。著書に『メルロ=ポンティ入門』(ちくま新書)、『進化論の5つの謎』(ちくまプリマー新書)、『ドゥルーズ』(清水書院)『〈みること〉の哲学』『差異とは何か』(ともに世界思想社)『現代哲学への挑戦』(放送大学振興会)など。
ということです。わたしはその『進化論の5つの謎』にはじめに触れて感銘を受け、今年の収穫として勉強を続けています。上記書籍以外にもおそらくは大学での資料を書いているうちに大部になって、出版に至ったと思われる『現代思想講義』『現代思想史入門』といった、包括的な書物も書かれています。
数ある著書のなかでももっとも独創的であるとわたしが感じた『差異とは何か』との格闘について少し提示しておこうと思います。感銘を受けた著書とどのようにわたしが格闘しているのかという姿を見ていただけると、皆さんの勉強の参考になるのではないかと感じたためです。
以前紹介しましたように、わたしは感銘を受けた著書については読書記録を作っています。書名と著者名と刊行書店名、刊行年月日などを付したファイルを作り、その中にページを付して、感銘を受けた文章をタイピングしています。書物というものは本来、その全体で表現されているものです。ですからほんとうは、全体を読み込むなかからひとつの文章の意味を読みとり、解釈していくという読み方をするべきなのでしょう。
けれどもこの船木亨の場合(精神分析学者の木村敏やカウンセラーの熊倉伸宏もそうですが)全体の山が高く、最初からその全貌を把握することは困難です。そのため、その裾野で文章をピックアップしつつ、自分の中で対決しています。そうやって、「智の山登り」をしているわけです。
船木亨の書物にはひとつ特徴があります。それは最後の「むすび」の章で、その書物の解題を行っていることです。緻密な論証を加えて書かれている本文を少し離れて、自身で何を考えているのか俯瞰し検証しようとしているわけです。
『差異とは何か』という書物の「むすび」の部分の文章からいくつか引用し、わたしの解釈を入れておきたいと思います。上記しましたようにわたしは智の登山中ですので、わたしの解釈が正しいということではありません。このように考えながら今のところ、登山中の風景を楽しんでいるよということです。
基本的に原文を書き写し、それに〔伴注:〕として、わたしが注を入れています。注とはいいますけれども、原文に触発されて考えたことを書いています。
次回から内容に入ります。
東洋医学は、先秦時代に誕生し、漢代にまとめられ、人間学、養生医学として現代に伝えられています。天地を一つの器とし、人身を一小天地と考えた天人相応の概念を基礎とし、それをよりよく理解するために陰陽五行の方法を古人は生み出しました。臓腑経絡学は、あるがままの生命である「一」天人相応の「一」を実戦的に表現した、核となる身体観となっています。
天地を「一」とし、人を小さな天地である「一」とするという発想が正しいか否かということは検証されるべきところです。けれどもこれは東洋思想の基盤である「体験」から出ているということを、押さえておいてください。
この「一」の発想は、古くは天文学とそれにともなう占筮からでています。また、多くの仏教者はこのことを「さとり」として体験しています。そして多くの儒学者の中でも突出した実践家である王陽明は明確に、「万物一体の仁」という言葉で、この「一」を表現しています。
ですので、この「一」の視点は、思想というものを支える核となる体験を表現しているものです。これは、ひとり支那大陸において思想の底流となったばかりではなく、日本においても神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く視座となっています。
視座とは、ものごとを理解し体験するための基本的な視点の位置のことです。東洋思想の真偽を見極めるためにはこの「視座」を得る必要があります。それは、真実を求めつづける求道の精神を持ち続けることによって得るしかありません。このように表現すると何か古くさい感じがしますが、実はこれこそ、科学的な真理を求める心の姿勢そのものです。
この心の位置を始めにおいて、我々はまた歩き始めます。東西の思想や医学を洗い直し、新たな一歩をすすめようとしているわけです。
医学や思想の基盤を問うこと、ここにこの勉強会の本質は存在します。
体験しそれを表現する。その体験の方法として現状では体表観察に基づいた弁証論治を用い、臨床経験を積み重ねています。それを通じて浮かび上がってくるものが、これからの臨床を支える基盤となります。いわば今この臨床こそが医学の始まりの時です。
我々の臨床は自身のうちに蓄積された東西両思想、東西両医学の果てにあるものですが、その場こそがまさに思想と医学が再始動する場所なのです。
臨床において我々は、何を基礎とし、何を目標とし、何を実践しているのでしょうか。この問いは、古典をまとめた古人も問い続けた、始まりの位置です。この始まりの問いに対し、再度、向き合っていきましょう。
ということで、一元流鍼灸術では、懸賞論文を募集しています。
ふるってご応募ください。
■懸賞論文募集要項
目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。
方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。
第一期 期限:2020年10月10日
■参加方法■
■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。
■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。ban1gen@gmail.com宛メールしていただければ、振込先をご案内します。
■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。
■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。
■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。
■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。
懸賞金
■特別賞:十万円
■優秀賞:一万円
■奨励賞:五千円
選者:伴 尚志
送付先(2ヶ所に送ってください):ban1gen@gmail.com,ban@1
gen.jp
受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。
各賞の受賞本数は定めません。
天地を「一」とし、人を小さな天地である「一」とするという発想が正しいか否かということは検証されるべきところです。けれどもこれは東洋思想の基盤である「体験」から出ているということを、押さえておいてください。
この「一」の発想は、古くは天文学とそれにともなう占筮からでています。また、多くの仏教者はこのことを「さとり」として体験しています。そして多くの儒学者の中でも突出した実践家である王陽明は明確に、「万物一体の仁」という言葉で、この「一」を表現しています。
ですので、この「一」の視点は、思想というものを支える核となる体験を表現しているものです。これは、ひとり支那大陸において思想の底流となったばかりではなく、日本においても神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く視座となっています。
視座とは、ものごとを理解し体験するための基本的な視点の位置のことです。東洋思想の真偽を見極めるためにはこの「視座」を得る必要があります。それは、真実を求めつづける求道の精神を持ち続けることによって得るしかありません。このように表現すると何か古くさい感じがしますが、実はこれこそ、科学的な真理を求める心の姿勢そのものです。
この心の位置を始めにおいて、我々はまた歩き始めます。東西の思想や医学を洗い直し、新たな一歩をすすめようとしているわけです。
医学や思想の基盤を問うこと、ここにこの勉強会の本質は存在します。
体験しそれを表現する。その体験の方法として現状では体表観察に基づいた弁証論治を用い、臨床経験を積み重ねています。それを通じて浮かび上がってくるものが、これからの臨床を支える基盤となります。いわば今この臨床こそが医学の始まりの時です。
我々の臨床は自身のうちに蓄積された東西両思想、東西両医学の果てにあるものですが、その場こそがまさに思想と医学が再始動する場所なのです。
臨床において我々は、何を基礎とし、何を目標とし、何を実践しているのでしょうか。この問いは、古典をまとめた古人も問い続けた、始まりの位置です。この始まりの問いに対し、再度、向き合っていきましょう。
ということで、一元流鍼灸術では、懸賞論文を募集しています。
ふるってご応募ください。
■懸賞論文募集要項
目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。
方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。
第一期 期限:2020年10月10日
■参加方法■
■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。
■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。ban1gen@gmail.com宛メールしていただければ、振込先をご案内します。
■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。
■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。
■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。
■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。
懸賞金
■特別賞:十万円
■優秀賞:一万円
■奨励賞:五千円
選者:伴 尚志
送付先(2ヶ所に送ってください):ban1gen@gmail.com,ban@1
gen.jp
受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。
各賞の受賞本数は定めません。
おわりに 生命の医学に向けて
東洋医学は、生命をありのままに診て捉え、生命力の偏在を調える技法を内包しています。けれども実際に何が行われて、どうして治療効果が上がっているのかきちんと理解されてません。その理由は、古典の理解のしかたの甘さや、探究の不足によります。
今、目の前にある患者さんを通じて理解するべきなのは。古典の記載がいかに甘いかということです。言葉としてたくさん書かれ理論として学校で教えられるものよりも、患者さんの身体は無言でたくさんのことを教えてくれています。
その無言の言葉を聞く耳を持たなければ、臨床は実は成り立ちません。その耳の澄まし方と、それによって聞き取っている言葉について、ここまで少しだけですが私の意見を述べてきました。
大切なことで言い足りなかったことも多く、強調したいために繰り返し述べているところも多くなりました。
これからさらに自身を磨き上げていくことによって、さらに新たな世界が見えてくることを予感しています。その時にはこの文章は、自ら振り返って恥ずかしいものとなっているかもしれません。けれども、これが今の私の実力です。今表現できることの中心をお話しすることはできたと思います。
人々の生命を応援していきたい。そのために私は何ができるのだろうか。そういうところから探究は始まっています。
ギリシャ医学―いわゆる紀元前400年頃のヒポクラテスの医学とそれを継承しまとめた紀元後200年頃のガレノスの医学、それがイスラム諸国に継承されたユナニ医学、それを継承した中世西洋の修道院における医学及び、それを継承した西洋における伝統医学は、体内における体液(生命力)のバランスをとることによって生命力を向上させ、疾病からの離脱を図るという発想を持っていました。
そしてこの考え方は18世紀のドイツにおける医学大学でも医学の基礎として教育されていました。
これはまさにここで述べた生命の医学そのものに思えます。もしかすると、伝統医学というのは実は生命力を問題にしそれに関わろうとしていた医学なのかもしれません。であれば、第九章の医学の目的で引用した木村敏の言葉はまさに、エビデンスを求め科学主義に偏してしまった人を人とも思わぬ医学から、生命医学の伝統を取り戻そうとする、精神分析学者からの呻き声とも聞こえます。
東洋医学を行ずる者たちが、生命医学の伝統を取り戻そうと意志することはあるのでしょうか?それとも、このままエビデンスという名の科学主義に押しつぶされていくのでしょうか。
この論考が、機械論的な症状の医学ではなく、総合的な生命の医学へと鍼灸医学が脱皮していくための足がかりとなれば幸いです。
東洋医学は、生命をありのままに診て捉え、生命力の偏在を調える技法を内包しています。けれども実際に何が行われて、どうして治療効果が上がっているのかきちんと理解されてません。その理由は、古典の理解のしかたの甘さや、探究の不足によります。
今、目の前にある患者さんを通じて理解するべきなのは。古典の記載がいかに甘いかということです。言葉としてたくさん書かれ理論として学校で教えられるものよりも、患者さんの身体は無言でたくさんのことを教えてくれています。
その無言の言葉を聞く耳を持たなければ、臨床は実は成り立ちません。その耳の澄まし方と、それによって聞き取っている言葉について、ここまで少しだけですが私の意見を述べてきました。
大切なことで言い足りなかったことも多く、強調したいために繰り返し述べているところも多くなりました。
これからさらに自身を磨き上げていくことによって、さらに新たな世界が見えてくることを予感しています。その時にはこの文章は、自ら振り返って恥ずかしいものとなっているかもしれません。けれども、これが今の私の実力です。今表現できることの中心をお話しすることはできたと思います。
人々の生命を応援していきたい。そのために私は何ができるのだろうか。そういうところから探究は始まっています。
ギリシャ医学―いわゆる紀元前400年頃のヒポクラテスの医学とそれを継承しまとめた紀元後200年頃のガレノスの医学、それがイスラム諸国に継承されたユナニ医学、それを継承した中世西洋の修道院における医学及び、それを継承した西洋における伝統医学は、体内における体液(生命力)のバランスをとることによって生命力を向上させ、疾病からの離脱を図るという発想を持っていました。
そしてこの考え方は18世紀のドイツにおける医学大学でも医学の基礎として教育されていました。
これはまさにここで述べた生命の医学そのものに思えます。もしかすると、伝統医学というのは実は生命力を問題にしそれに関わろうとしていた医学なのかもしれません。であれば、第九章の医学の目的で引用した木村敏の言葉はまさに、エビデンスを求め科学主義に偏してしまった人を人とも思わぬ医学から、生命医学の伝統を取り戻そうとする、精神分析学者からの呻き声とも聞こえます。
東洋医学を行ずる者たちが、生命医学の伝統を取り戻そうと意志することはあるのでしょうか?それとも、このままエビデンスという名の科学主義に押しつぶされていくのでしょうか。
この論考が、機械論的な症状の医学ではなく、総合的な生命の医学へと鍼灸医学が脱皮していくための足がかりとなれば幸いです。