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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

虚実


気虚気滞という言葉で考える必要があることは、完全な気虚、
完全な気滞はないということです。生命がそこにあるということ
は動いているということです。動くということは気を偏在させてい
るということです。気が偏在できるということは気一元の身体の
中に生命力が偏在するということを意味しています。この状態を、
気虚と気滞が同時に存在していると表現します。

どこが虚しどこが実しているのかすなわち、気の濃淡が生命に
はあり、それを構造的に見出すために四診があります。

虚実という言葉を使って述べていますけれども、これは相対的
なものなのです。絶対的な虚であれば死んでいます。絶対的な
実であれば動くことはできません。虚実甲錯していることが生命
の本体なわけです。

気一元の生命の中に生命力の濃淡があり、その生命は虚実が
甲錯している。それが生命の本体である。ということです。

その生命力を動かす、そもそもの生命力の量が少ない場合、こ
れを気虚の強い人と呼びます。その中には、生命力の量が少な
いため、少ない生命力を今あるべきところに集めなければ、生
活そのものがしにくい人もいます。食事をすると胃に生命力が
集まり他はおろそかになるために眠くなったり、月経や排卵に
ふりまわされて体調が大きく変化したりするわけです。

この気虚にも、レベルの強い気虚の人もいますし、そのレベル
が弱い人もいます。そして、生活状況との関連で、全身の気虚
が悪化している方向にある人と、緩解している方向にある人と
がいます。

このそもそもの生命力の量を充実させようとするということが脾
腎を調えようとすることです。脾腎の生命力に沿った生活をする
ことによってはじめて、それが可能になります。基本的にはこの
レベルを問い、解答をみつけようとすることが弁証論治というこ
とになります。
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思うに、幸福とは、さらにもっと生きようとすることであって、生きていることの「条件」とはまったく違う。〔伴注:金があるから幸福とか、家族があるから幸福とか、友人がいるから幸福とか、誰かに認められているから幸福とか、そういう「何らかの条件」があるから幸福であると思うのは、ほんとうの幸福ではない。〕生きることのなかに「強度の差」(ギュイヨー)があって、生をより強く感じられる生き方がある。植物や鳥や、生きているものたちに感じるのはそれである。道端の草花を見てはっとしたことを、振舞と言葉と思考に反映させ、諸感覚の快を喜びに転換することである。

〔伴注:短歌や俳句、踊りなどの芸術や武道の鍛錬。連鎖していく気づきによって深まる生の密度。感覚と思考の成長。それらが「振舞と言葉と思考に反映させ」られることによって、自身の生命の中に定着していく。このことを幸福と船木亨は述べている。

「振舞と言葉と思考に反映させ」られることによってはじめて、生の密度が自覚的に深まると考えているわけである。身につく、という言葉の本来の意味はこういうことなのだろう。

そしていつも気づきの喜びのなかにいることを、幸福と呼ぶ。


船木亨著『差異の哲学』に触発された私の言葉は、これで終わります。「気づき」が起こる心の位置を自覚すること、それが臨床の、初発の心の位置です。このみずみずしさ―初心を忘れないように私は心がけています。
.懸賞論文募集要項


目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。

方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。

第一期 期限:2020年10月10日

■参加方法■

■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。

■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。ban1gen@gmail.com宛メールしていただければ、振込先をご案内します。

■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。

■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。

■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。

■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
   出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。


懸賞金

■特別賞:十万円

■優秀賞:一万円

■奨励賞:五千円

選者:伴 尚志

送付先(2ヶ所に送ってください):ban1gen@gmail.com,ban@1
gen.jp

受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。

各賞の受賞本数は定めません。


【参考論文】

参考論文として私の発表しているものを提示しておきます。この参考論文は、私の興味の及んだ範囲ですので、狭いと思います。世界がもっと拡がると嬉しいです。

自分の井戸を掘る、ただし独断ではなく他の人々が理解できるように。ということを目標にしていただけると幸甚です。


論文【肝木の身体観】

 一元流鍼灸術の身体観



論文【一元流鍼灸術とは何か】

 一元流鍼灸術の道統



論文【奇経一絡脉論とその展望】

 奇経を絡脉の一つとした人間構造



論文【『難経』は仏教の身体観を包含していた】

 『難経』に描かれている身体観



論文【日本型東洋医学の原点】
 江戸時代初期の医学について



論文【本居宣長の死生観】

 死生観について



論文【疾病分類から生命の弁証論治へ】

 養生医学の提言



論文【鍼灸医学のエビデンス】

 エビデンスを磨く上での課題と目標





..始まりの時


始まりの時


東洋医学は、先秦時代に誕生し、漢代にまとめられ、人間学、養生医学として現代に伝えられています。天地を一つの器とし、人身を一小天地と考えた天人相応の概念を基礎とし、それをよりよく理解するために陰陽五行の方法を古人は生み出しました。臓腑経絡学は、あるがままの生命である「一」天人相応の「一」を実戦的に表現した、核となる身体観となっています。

天地を「一」とし、人を小さな天地である「一」とするという発想が正しいか否かということは検証されるべきところです。けれどもこれは東洋思想の基盤である「体験」から出ているということを、押さえておいてください。

この「一」の発想は、古くは天文学とそれにともなう占筮からでています。また、多くの仏教者はこのことを「さとり」として体験しています。そして多くの儒学者の中でも突出した実践家である王陽明は明確に、「万物一体の仁」という言葉で、この「一」を表現しています。

ですので、この「一」の視点は、思想というものを支える核となる体験を表現しているものです。これは、ひとり支那大陸において思想の底流となったばかりではなく、日本においても神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く視座となっています。


視座とは、ものごとを理解し体験するための基本的な視点の位置のことです。東洋思想の真偽を見極めるためにはこの「視座」を得る必要があります。それは、真実を求めつづける求道の精神を持ち続けることによって得るしかありません。このように表現すると何か古くさい感じがしますが、実はこれこそ、科学的な真理を求める心の姿勢そのものです。

この心の位置を始めにおいて、我々はまた歩き始めます。東西の思想や医学を洗い直し、新たな一歩をすすめようとしているわけです。

医学や思想の基盤を問うこと、ここにこの勉強会の本質は存在します。

体験しそれを表現する。その体験の方法として現状では体表観察に基づいた弁証論治を用い、臨床経験を積み重ねています。それを通じて浮かび上がってくるものが、これからの臨床を支える基盤となります。いわば今この臨床こそが医学の始まりの時です。

我々の臨床は自身のうちに蓄積された東西両思想、東西両医学の果てにあるものですが、その場こそがまさに思想と医学が再始動する場所なのです。

臨床において我々は、何を基礎とし、何を目標とし、何を実践しているのでしょうか。この問いは、古典をまとめた古人も問い続けた、始まりの位置です。この始まりの問いに対し、再度、向き合っていきましょう。
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何であれ自分が成長し、できなかったことができるようになるということは楽しいものである。「楽しい」とは不安をごまかすためにひとびとが集い、瑣末なことに集中するようなことではない。それは、確固とした思考と振舞と言葉をもつことであるだけでなく、生について知ること、感じられた不思議な、ひとを無力にさせるもの〔伴注:できないとして諦めることが、ひとを無力にすることである。〕から、かえってそこから力を得ることができるようなものを分かつことである。〔伴注:要するに、これまでできなかったことができるようになり、それを通じて自信が生まれていく過程のそれぞれの段階のことを、本当の意味での楽しいことであるとしているわけである。〕

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