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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

―    平成16年 中医学大交流会鍼灸部会 講演記録


...一、はじめに


はじめまして。伴 尚志と申します。よろしくお願いいたします。皆様と同じように、東洋医学の真実の道を見極めたいと思って日々臨床を行っている、一介の鍼灸師です。たまたまご縁がありまして、このたび講師としてこの会に参加することとなりました。


中医学との縁はけっこう古くて、25年ほど前、「中国書店」から出版された「鍼灸学講義」という上海中医学院の教科書の翻訳書を入手したころに始まります。これを手にして鍼灸学校に入学したのですが、その当時はまだ経絡治療が支配的な時代で、その書物は宝の持ち腐れ状態でした。ただ、その学校にたまたま北辰会の藤本蓮風先生がおられて、そのご縁で中医学を学ぶこととなりました。

また、クラスの仲間とともに単玉堂の《傷寒論鍼灸配穴選注》を翻訳し始めたのもこの頃で、これは卒業後数年で全訳にいたりました。現在のように古典や中医学の教科書や先生方がいる状態ではありませんでしたので、とにかく無理やり中医学書を読むという意欲だけでやっておりました。

学生の頃から、いつかは読むぞと中医学書を買い集めていきました。集めたものははじめのうちは現代中医学の教科書的なものでしたが、すぐに古典が中心となりました。大きなスーツケースをほぼ空の状態で中国に旅行し、数十キロの書籍を買い集めてくるという作業を何回か行いました。お陰で書棚には簡体字で書かれた日中の古典がたくさん並ぶこととなりました。


北辰会在籍当時には、《臓腑経絡学ノート》《鍼灸医学における実践から理論へ》という書籍の編集に携わりました。また依頼されて《杉山流三部書》の現代語訳を出版し、当時まだ日本には定着はしていなかった穴性の発想を中心課題とした《穴性学ハンドブック》という書籍を出版いたしました。これは昨年台湾で繁体字に訳されて出版されております。


内弟子を卒業して奈良で開業しながら、六妖會という名前の勉強会を大阪で十年ちょっと行いました。その中で当時私が翻訳して一部出版にこぎつけた《景岳全書》の講読や、昨夜できあがり本日初公開となりました《難経鉄鑑》の研究発表を続けました。この十年間は中医学のほうでは、日本において非常に力を持ち、また、多くの立派な教科書や雑誌が出、また研究会などもあったのだろうと思います。しかし私はそちらとのご縁はほとんどありませんでした。淡々と臨床を行い古典の勉強をしていたという感じです。

そうはいってもパソコンを持っておりましたので、NIFTYというパソコン通信を通じて、外部とはつながっておりました。そこでは漢方フォーラムというものがあり、その一室に鍼灸の部屋がありました。依頼されてそのボードオペ(室長)をしながら、それまで学んだことやどのように考えて治療を行っているのかということに関してたくさんの発言を行いました。その過程で貴重なご意見を伺ったり、漢方薬の勉強に目を開かされたりしました。


そのような積み重ねを経て東京に移転することとなり、この機会にこれまで考えてやってきたことをまとめておこうと思って書き上げたものが《一元流鍼灸術の門》です。これはたにぐち書店から出版していただきました。

この中身についてまた後で解説することとなります。鍼灸の弁証論治はどのようにあるべきかということを、東洋医学的な人間理解を基礎として書いたものです。

東京に移転してから、この《一元流鍼灸術の門》を基礎とした実際に使える弁証論治の勉強会を開くこととなりました。これが現在に続く一元流鍼灸術ゼミナールです。ゼミのメンバーがここで実際に弁証論治を作る練習をしています。この過程で、弁証論治のまとめ方などがさらに洗練されてきました。今回はその、現在までの成果を皆様にご紹介いたします。
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首章:一元流鍼灸術の概要

一、はじめに

二、基礎概念
1、医学は人間学である
2、弁証論治
3、気一元として観る
4、人間観は陰陽五行

三、一元流鍼灸術の実際
1、人間理解のための二つの角度
2、収集した情報をまとめる
3、病因病理の作成法
付:分かることを積み重ねる
4、処置とその確認

四、基礎的な人間観
人は中心を持つ気一元の統一体
付1:《難経》六十六難の図
付2:行灯の図
付3:肝木を中心とした生命観

五、まとめ

六、付記
一元流鍼灸術。この名前でもっとも大切なものは、一元という言葉です。なぜこの名前を用いたのかというと、陰陽を語り五行を語り中医学を語る人々はいますけれども、一を語ることがもっとも大切であるということを教えてくれたところは私が学んだ限りなかったためです。

一すなわち気一元という言葉そのものはこれまでの中医学や朱子学などで出てきてはいました。そしてかの張景岳もその有名な「景岳全書」の冒頭の伝忠録においてそのことを強調してはいるのですが、目先の治療にとらわれて書物を読んでいる人々にはその大切さが理解されていないようなのです。そのためこの「一」という言葉を用いて当流の名前としました。この名前を知っているだけで、徐々に東洋医学の中心に近づくことができるように、気一元の生命のあり方を観ているのだという基本に気づけるようにと配慮しているわけです。

気一元の生命の変化、あるいは一元の気がその形を変えあるいはバランスを崩すことの中に病気があるということ。これはすなわちそのまま、今生きている生命を観ている者―すなわち我々施術者にとって、その統合された生命こそが当たり前であり、「統合された生命の観点から観ない限りその生命の有り様を観ることはできない」ということを意味しています。

西洋医学が陥っていた機械的な人間観に通じる問題が、東洋医学においてもありました。そしてそれは陰陽―五行という抽象的概念を操作しているものであるため、西洋医学よりもたちの悪い「妄想」となってしまいました。気一元の生命を観ているという視点から始めるのではなく、陰陽や五行という枠組みで症状を機械的に分類することで、病気が理解でき治療ができると思い込んでしまっているのです。

ただ、根本的な生命観を問うことなく東洋医学の歴史は経過してきたため、このおかしな病気の把握方法は逆に大きな問題となりませんでした。このことを問題にするよりもはるかに大きな問題が実は東洋医学にはあったとも言えるのかもしれません。

それは、症状に対して処置をするという民間療法的な治療の積み重ねによって起こったものです。症状以前に人間があると考えて、人間全体を観ようとすることへの姿勢の脆弱さによるものでした。

四診合参に基づいた弁証論治の目的は、目の前にいる人間の生命状況を把握することです。生命の前に病気があるのではなく、生命が厳然と存在しているから病気があり症状が出ているのです。生命全体を見るからこそ、陰陽―五行という観点からの把握方法が生きてきます。

けれどもそのことが理解できず、「弁証論治は症状に対して行うもの」とまで述べてしまう「鍼灸名人」〔注:「上下左右の法則」序文:藤本蓮風著〕まで現れることとなってしまったのです。


一元流鍼灸術における弁証論治は患者さんの生命の状態を記述することに注力します。これを「生命の弁証論治」と呼んでいます。患者さんの生命状況の理解の上に初めて病状の理解があります。

もし弁証論治というものにまじめに取り組んでおられたなら、この生命の弁証論治に到達せざるを得ないはずです。なぜなら、病気は生命の一時期のバランスの小さな崩れにすぎないからです。

そして東洋医学を特徴付けている養生術というものは、この病気となる以前のかすかな生命のバランスの崩れを調整するためにあり、この生命の弁証論治によらなければ患者さんの状態を把握することなどできないためです。


西洋医学が現代においてその病を治療するのに苦しんでいるように、東洋医学も苦しんでいます。医学の本質は養生指導にあるということに気がつき、今目の前にある症状は生命力の現れの一形態にすぎないという基本的な理解の下、一元流ではどのようにしてそのような生命を把握しようとしているのかということがここでは述べられています。

本書の内容は、一元流鍼灸術の勉強会の仲間たちへのメッセージを中心とし、そこから派生した質疑応答などが、現時点(2013年末)までまとめなおされています。

全ては、
学びつづけていくための心の姿勢を説いた「学ぶ」、
学びつづけていくための資料の集め方を説いた「観る」、
学びつづけた蓄積を社会に還元するための「治療する」
という、三項目に分けられています。

冒頭の「一元流鍼灸術の概要」は、一元流鍼灸術をご存じない方のためにまとめたもので、もともと2006年の中医学大交流会で発表した原稿に少し手を入れたものです。

この書によって生命を応援する弁証論治を作成するための、実際的な方法を入手することができるでしょう。
知識と知恵


一元流鍼灸術と、中医学との違いの中心は何かというと、
知恵(一元流)と知識(中医学)の違いにあります。

知識は、積み重ねて記憶すれば増えていきます。
知恵は、物事の理解の深さによって変化します。
知識は量的なものですが、知恵は質的なものです。

ものごとを理解するということはほんとうは知恵を深めるという
ことを意味しています。
けれども現代では知識の量を競う傾向にあるようです。

知恵は個人的な理解であり、他者と比較することはできず、教
えることも難しいものです。気づくことを続けることによってしか
深まることのできないものです。この気づきを得るために言葉
が使われます。

知識はその量を他者と競うことができますし、正確かどうかとい
う観点からも計りやすいものです。理解することはできなくても
増やすことができます。ですからテストをすることなどで比較す
ることができます。

けれども、蓄積した知識を総合し、ほんとうの理解にしていこう
とすると、知恵の力が必要になります。そのとき、知識のほとん
どは必要がないものだったと気づき、愕然とすることになります。
知識は不安の覆いのようなものでえ知恵を曇らせることが多い
わけです。

一元流鍼灸術で行っていることは、探究以前のとっかかり。知
恵を深めるための基盤づくりにあります。鍼灸という言葉を超え
た世界に住むわれわれは、その道を理解し探究していくことが
できると考えているためです。

知識を横軸とすれば知恵は縦軸です。縦軸は大黒柱のようなも
のです。さまざまな知識はそこから出てきます。言葉が流れ出
す源のようなものです。流れ出した言葉は知識として集積されて
います。知恵のない人が集積された知識をまとめたものが中医
学です。ですから中医学を乗り越えることが必要になるわけで
す。
8月の勉強会は、初めに、経穴反応の出る理由とは何だろうという私の発議を中心にしてさまざまなお話しが出ました。生理的な個々人の肉体の上に生理的な経穴反応が出る。これもゆらいでいるわけですけれども、そこに病理的な状態が加わることによってさらに個々の状況に従って経穴反応が出る。鍼灸の弁証論治はそのあたりのゆらぎを明らかにするために行われる。

内傷の問題なのか外感の問題なのか、臓腑病か経絡経筋病かということはまず大切なことになる。そのあたりをあきらかにし、気の偏在すなわち濃淡を明確にすることによって鍼灸の手の入れ方を考えていけるようにすることが、鍼灸における弁証論治の役割であろう。

このような鍼灸における弁証論治と、生薬による弁証論治とでは自ずとその方法は異なってくる。鍼灸で人を殺すことは難しく、ほとんどは補法として作用する。それに対して、生薬では無理に汗吐下を起こさせることもできるし、毒薬を処方することもできる。そのため発想が異なる。といったことをお話ししたような気がします。まだいろいろ話したと思いますが、私は今のところ記憶にございません。

読み合わせは、『選穴と処置について』296p~301pまででした。

休憩の後、胸腰部の背候診を行いました。現在出現している経穴反応を、背後にある筋肉の状態の変化の可能性とともに解説しました。

飲み会では、野口整体の話をずいぶんしていた気がします。

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