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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

2、弁証論治


皆様は、抄録をどのように読んでこられたでしょうか。抄録を読むということは、言葉を通じて、作者の思いを理解しようとすることです。

これに対して弁証論治をするということは、四診を通じて、身体の言葉を聞き理解しようとすることです。


情報をどう理解し、その本来の意味、本当に言いたいことを洞察していくのかということは、病因病理を考えるということです。

その本当の状態を把握し、そこにある矛盾に気づき、それを解決する方法を考えていくことは、証を定め、治療方針を決定していくということです。

弁証論治は、ものごとを理解し、問題を把握し、その解決方法を探る技術の一つなのです。


一元流鍼灸術は、この弁証論治の方法論にもっとも特色があります。

まるごと一つの生命がそこにあるということを基本として人間を見つめるところからこの特色は発生しています。

気一元の観点に立つというこのことは、まるごとひとつの生命を時間と空間という側面から大きく把握しようとします。

時間的な側面から把握する方法論として、時系列の問診があります。成長過程を含めてその生命状況の変化をみていくものです。

空間的な側面から把握する方法論として、現状の問診およびその他の切診があります。これまで生き続けてきた生命の「現在の断面」をみていくものです。

このようにして人間を診、気一元の生命の流れの終端にある「現在」の解決課題として疾病を把握し、その治療方法を探っていくわけです。

1、東洋医学の伝統である四診にしたがって得た情報を、
2、臓腑経絡学を基本として把握しなおし、
3、その相互関係を見つめながら病因病理を考えて、
4、処置を決定する。

これが実際の具体的な流れとなります。

大切なことは、これらのすべての段階において、「気一元の身体観およびその観念を徹底させる」ということです。徹頭徹尾「気一元の身体観を徹底させる」ことが一元流鍼灸術の特色です。
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風邪の内陥は裏証か


> >>「風邪との闘争が表面化する」というのは、「内陥していると思われる風邪が
> >>症状(喉が痛くなったり、鼻水が出たり、発熱したり)として出てきたら」、
> >>風邪に対して治療の手を入れるということでしょうか?
> >
> > ●はい。正気が充実し、表に邪正闘争の位置が移動した時
> > に、反応の出てい>るツボ(太陽経)を使って風寒邪を散ら
> > すことができれば、と考えています。
>
> 初診の段階で大椎、陶道、風門に発汗が診られることから、内陥している風邪
> かもしくは新しく引いた風邪かわかりませんが、初診現在の時点で風邪との邪
> 正闘争が経穴のレベルでは窺えるのかなと思ったのです。
>
> なので風邪の治療も脾腎の補いと同時に行ってもいいのかなと感じたのです。
> ただ、これは治療をされる方の考え方の違いなのかとも思い、私にはまだよく
> 分かりませんσ(^_^;


ここには、いくつかの大切な問題が内包されていますでの少し詳しく解説してみようと思います。

まず、風邪の内陥の発想の経緯については以前、以下のように述べています。

「この病因病理で大切な課題となった「風邪の内陥」のことについては、よくよく考えを究めていただきたいと思います。これはいわゆる痺証(リュウマチなど)―風寒湿の邪気が内生の邪として自己の生命力を攻撃している状態―を考究していくことからそのヒントをつかんだもので、一元流独特の概念です。いわば、痺証という病気になる以前の未病を解説しているものとなります。」

風邪の内陥という概念は、風寒の外邪に罹患していながらすぐにはそれを追い出しきることができず、風寒の外邪がいつまでも居座り生命力を損傷し続けている状態のことを指しています。これが悪化して内湿などの他の邪気と絡み合ってさらに生命力を損傷するようになると、痺証になっていくわけです。


では、内陥している風邪はいったい、病位としてはどこにあたるのだろうかということが次の問題となります。まだ生命力を圧迫している程度で一般的な生活は侵されてはいず自覚症状も出ていない段階です。ただ、生命の弁証論治をたてる中から、体表観察をしていく中からのみ気づくことができるものです。


《傷寒論》で裏証というと二便の異常があり食欲に影響が出ている状態ということになりますから、裏証とは言えません。往来寒熱を伴う半表半裏でもありません。あえて言えば太陽表証の類ということになるでしょう。

それではなぜさっさと追い出すことができないのでしょうか?ここが問題とすべきところです。追い出しきるまでの充実した生命力はない、と言わざるを得ません。けれども逆の方向からみると、邪気を内陥させるほど生命力が虚してはいないとも言えるわけです。

では邪気を追い出すにはどうすればよいのでしょうか。その正邪の闘争部位を見定めて、その部位の生命力すなわち正気を補うようにすればよいということになります。

この正邪の闘争部位の見出し方には大きく分けて二種類あります。ひとつは術者がその四診の能力を駆使して定めるものです。もうひとつは全体の生命力を高めることによって患者さん自身の生命力で邪気を見出しそれを排泄するように導くということです。


Kさんの「正気が充実し、表に邪正闘争の位置が移動した時に、反応の出ているツボ(太陽経)を使って風寒邪を散らすことができれば」という言葉の問題は、すでに衛気が弱って風寒の外邪の内陥を赦している患者さんの、「正気が充実して風邪の症状が出るのか」「再感して風邪を引いているのか」どちらなのか区別がつきにくいということにあります。別の角度からいえば、「寒邪が内陥している徴候が経穴において明瞭なのに、正気の充実を待つ必要があるのだろうか」というFさんの疑問に行き当たります。


そこで考えるべきことが実はもう一つあります。それは、《傷寒論》の承気湯類の解説の中で、裏を攻めることが早すぎて風寒の外邪を内陥させてしまうことを忌む記載がたくさんあることです。Kさんの頭の中にはこれがあったために、正気を十分に補って表証であることが確認された後に表を攻めるべきなのではないか、という記載がなされたのでしょう。

けれどもよく考えてみると、承気湯類は邪気を排泄するために生命力を裏に集める処方です。承気湯類を用いて生命力を裏に集めて大便として抜いてしまうと、それに乗じて表(あるいは半表半裏)に残っている風寒の外邪が内陥し、複雑な病を起こす危険性があるとして張仲景は繰り返し注意を与えているわけです。(漢方薬を用いると、集めた生命力以上に、排便を通して生命力が抜ける可能性があるということを経験的にして知っていたため、このような厳しい注意を張仲景は行ったのでしょう。)

それに対して鍼灸治療で裏を建てるとか脾腎を補うという場合になすことは、経穴に対して処置をして裏の生命力を補うことです。それによって全身のバランスを調えて生命力全体を充実させようとします。ということは、漢方薬を用いて行う《傷寒論》の発想と鍼灸治療の発想とはここでかなり異なることとなるわけです。

《傷寒論》は汗吐下を用いて外邪を排泄することを目標としていますので、その邪気の位置に従って用いる処方を決めていきます。それに対して鍼灸は生命力を充実させるということを基本とし、その生命力を正邪の闘争部位すなわち経穴の反応が出ている部位に集め、そこにおける生命力を補うことに主眼があるわけです。

このように考えていくと、Fさんがいわれている言葉「初診現在の時点で風邪との邪正闘争が経穴のレベルでは窺えるのかなと思ったのです。なので風邪の治療も脾腎の補いと同時に行ってもいいのかなと感じたのです。」という言葉の意味がよく理解できることでしょう。


ということで、症状が出てくることを待つまでもなく、すでに出ている経穴に対して処置をしていく方が、未病を治すという東洋医学本来の目標に合致することになると私は考えています。
丹田の調整に力を発揮する可能性があるかもということで紹介しておきます。

水兪二十五穴とは、《霊枢・四時気篇》の中の、腰背部の経穴、
二十五穴のことです。

■ 一元流鍼灸術 裏テキストの古典篇、
■ 第七章 古典に記載されているその他の絡脉
■ 三、臓の陰絡―水兪―《霊枢・四時気篇》に記載されていま
す。


帝曰く:水兪には五十七ヶ所ありますが、これは何が主るのでしょうか?

岐伯曰く:腎兪の五十七穴は、積陰の聚まる場処であり、水が
よって出入りする場所です。〔景岳注:腎は水を主るため、すべ
てを腎兪と述べています。〕尻上の五行、五を行くもの、これは
腎兪です。〔景岳注:尻上の五行の、中行するものは督脉のこと
です。傍らの四行は足の太陽膀胱経です。五を行くものの中行
の五穴とは、長強・腰兪・命門・懸枢・脊中です。次の二行のそ
れぞれの五穴は、白環兪・中膂内兪・膀胱兪・小腸兪・大腸兪
です。さらに次の二行のそれぞれ五穴は、秩辺・胞肓・志室・肓
門・胃倉です。すべて下焦に位置して水を主りますので、腎兪と
呼んでいます。〕・・・(中略)・・・伏兎の上それぞれ二行、五を
行くものは腎の街です。〔景岳注:伏兎は足の陽明の経穴です。
伏兎の上とはすなわち腹部のことです。腹部の脉の任脉は中行
に位置し、左右のそれぞれ二行は臍をはさんで二行するもので
あり、足の少陰ならびに衝脉の発する場所です。行くところのそ
れぞれ五穴とは、横骨・大赫・気穴・四満・中注がこれです。次
の外の二行は、足の陽明経の行くところです。行くところのそれ
ぞれ五穴とは、気衝・帰来・水道・太巨・五陵〔伴注:外陵〕がこ
れです。左右あわせて二十穴。これらはすべて水気の往来する
道路ですので、腎の街と呼んでいます。〕三陰の交わるところは、
脚に結しています。踝上それぞれ一行、行くところの六穴は、腎
脉の下行するものです。名づけて太衝と呼んでいます。〔景岳
注:三陰とは、肝脾腎の三経のことです。三陰の交わるところは
ともに脚に結しています。このため足の太陰に三陰交があるわ
けです。踝上のそれぞれ一行とは、ただ足の少陰腎経だけを指
して言っているものです。行くところの六穴とは、大鐘・照海・復
溜・交信・築賓・陰谷がこれです。左右あわせて十二穴です。腎
の大絡は衝脉と併さって下に足に行き、合して盛大となります
ので、太衝と呼ばれています。〕


この五十七穴はすべて臓の陰絡であり、水の客するところです。
《霊枢・四時気篇》


                  伴 尚志
9月の勉強会、読み合わせは302p「第十章 実戦編 第二節
 選穴と処置について 5 全身の問題か部分の問題か」からと
なります。


8月には、経穴反応が出る理由は何だろう、というとても深い疑
問について討論しました。この、「経穴反応が出る理由は何だろ
う」ということはしかし、いつもいつまでも考え続けていくべき鍼
灸師にとっての課題です。


そしてこの課題の裏にはいつも、あるべき経穴反応がどうして
出ていないのだろうという、体表観察およびそれに向かう鍼灸
師―治療家の、自身で組み立てている治療理論への反省がな
ければなりません。


この自問自答のなかからはじめて、治療処置への姿勢が生ま
れてくることとなります。自分自身が何をやっているのか、何を
やろうとしているのかという確認と実践、自己批判と反省と、治
療理論の再構築がここで始めて行われるわけです。そうやって
古典は乗り越えられていくわけです。



一つの大きな経穴としての時系列をともなう全身の弁証論治、
一つの大きな経穴である今の腹診、一つの大きな経穴である背
候診、一つの大きな経穴である舌診、を通じて、本年もこれまで
体表観察―小宇宙の観察をしてきました。


9月の勉強会は、今話題の風邪の内陥が示される可能性が強
い上背部の背候診、それに手足の経穴診の実技を行います。


体表観察を通じて、今のこの身体は何を表現しているのだろう
かと考えていくわけです。楽しいですね。


                  伴 尚志
懸賞論文募集要項


目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。

方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。

第一期 期限:2020年10月10日

■参加方法■

■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。

■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。ban1gen@gmail.com宛メールしていただければ、振込先をご案内します。

■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。

■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。

■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。

■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
   出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。


懸賞金

■特別賞:十万円

■優秀賞:一万円

■奨励賞:五千円

選者:伴 尚志

送付先(2ヶ所に送ってください):ban1gen@gmail.com,ban@1
gen.jp

受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。

各賞の受賞本数は定めません。

東洋医学は生きている人間をありのままに理解するための技術であると私は考えています。このことについて1989年に『臓腑経絡学ノート』の編集者序として以下のように私は書いています。

『医学は人間学である。人間をどう把えているかによって、その医学体系の現在のレベルがわかり未来への可能性が規定される。また、人間をどう把え人間とどうかかわっていけるかということで、治療家の資質が量られる。

東洋医学は人生をいかに生きるかという道を示すものである。天地の間に育まれてきた生物は、天地に逆らっては生きることができない。人間もまたその生長の過程において、天地自然とともに生きることしかできえない。ために、四季の移ろいに沿える身体となる必要がある。また、疾病そのものも成長の糧であり、生き方を反省するよい機会である。疾病を通じて、その生きる道を探るのである。』と。

この考え方は今に至るも変わらず私の臨床と古典研究とを支えています。

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