人間理解のための二つの角度
1、時系列で把える
時系列で把えるということは、人生を東洋医学の観点から把握しなおすということです。人間の成長収蔵の生命の流れの中で、どのような傾向を持って暮らしてきたのか、そして、その過程において頑強になった部分脆弱になった部分はどこかということを探ります。それによって現在の疾病の原因と経過予測を立てていくわけです。
2、現状を四診で把える
時系列の結果として出来上がっている、現在の心身状況を直接診察していきます。ここには、時系列以外の問診を初めとして、望診・聞診・舌診・脉診・腹診・経穴診(原穴診から派生)・背候診などが入ります。各々の診察部位の位置に従って反応の出方の傾向がありますのでそこに注意を払いながら観察していきます。注意の払い方は、体幹の中心にあるのかそれとも末端にあるのか、上焦中焦下焦いずれにその診察部位が位置しているのかといったことです。
このことは、臍下丹田を中心とした気一元の身体のどの部位を診察しているのか意識しながら診ていく、と言い換えることができます。ここで思い出していただきたいことは、《難経六六難》の『腎間の動気』のことです。
【六六難図】
ここでは、原穴が、中心の生命力である腎間の動気をいかに忠実に表現しているのかということを述べています。五行穴の中での原穴の位置関係を、再度全身における中心と末端に置き換えることによって、経穴診が非常に大きな可能性をもって開けてくることが理解できるでしょう。これはまた、経穴という一点を把える際に、最初から一点を探すのではなく、筋や腱などの「面のアンバランス」を探る中からそれを引き起こしている一点を探るという方向性へと、その探索方法が進化していく可能性を秘めているものです。
1、時系列で把える
時系列で把えるということは、人生を東洋医学の観点から把握しなおすということです。人間の成長収蔵の生命の流れの中で、どのような傾向を持って暮らしてきたのか、そして、その過程において頑強になった部分脆弱になった部分はどこかということを探ります。それによって現在の疾病の原因と経過予測を立てていくわけです。
2、現状を四診で把える
時系列の結果として出来上がっている、現在の心身状況を直接診察していきます。ここには、時系列以外の問診を初めとして、望診・聞診・舌診・脉診・腹診・経穴診(原穴診から派生)・背候診などが入ります。各々の診察部位の位置に従って反応の出方の傾向がありますのでそこに注意を払いながら観察していきます。注意の払い方は、体幹の中心にあるのかそれとも末端にあるのか、上焦中焦下焦いずれにその診察部位が位置しているのかといったことです。
このことは、臍下丹田を中心とした気一元の身体のどの部位を診察しているのか意識しながら診ていく、と言い換えることができます。ここで思い出していただきたいことは、《難経六六難》の『腎間の動気』のことです。
【六六難図】

ここでは、原穴が、中心の生命力である腎間の動気をいかに忠実に表現しているのかということを述べています。五行穴の中での原穴の位置関係を、再度全身における中心と末端に置き換えることによって、経穴診が非常に大きな可能性をもって開けてくることが理解できるでしょう。これはまた、経穴という一点を把える際に、最初から一点を探すのではなく、筋や腱などの「面のアンバランス」を探る中からそれを引き起こしている一点を探るという方向性へと、その探索方法が進化していく可能性を秘めているものです。
スポンサーサイト

人間理解のための二つの角度
1、時系列で把える
時系列で把えるということは、人生を東洋医学の観点から把握しなおすということです。人間の成長収蔵の生命の流れの中で、どのような傾向を持って暮らしてきたのか、そして、その過程において頑強になった部分脆弱になった部分はどこかということを探ります。それによって現在の疾病の原因と経過予測を立てていくわけです。
2、現状を四診で把える
時系列の結果として出来上がっている、現在の心身状況を直接診察していきます。ここには、時系列以外の問診を初めとして、望診・聞診・舌診・脉診・腹診・経穴診(原穴診から派生)・背候診などが入ります。各々の診察部位の位置に従って反応の出方の傾向がありますのでそこに注意を払いながら観察していきます。注意の払い方は、体幹の中心にあるのかそれとも末端にあるのか、上焦中焦下焦いずれにその診察部位が位置しているのかといったことです。
このことは、臍下丹田を中心とした気一元の身体のどの部位を診察しているのか意識しながら診ていく、と言い換えることができます。ここで思い出していただきたいことは、《難経六六難》の『腎間の動気』のことです。
【六六難図】
ここでは、原穴が、中心の生命力である腎間の動気をいかに忠実に表現しているのかということを述べています。五行穴の中での原穴の位置関係を、再度全身における中心と末端に置き換えることによって、経穴診が非常に大きな可能性をもって開けてくることが理解できるでしょう。これはまた、経穴という一点を把える際に、最初から一点を探すのではなく、筋や腱などの「面のアンバランス」を探る中からそれを引き起こしている一点を探るという方向性へと、その探索方法が進化していく可能性を秘めているものです。
勉強会の報告を、いつもていねいにしていただいて、ありがとう
ございます。
今回の話題は、伝統医学のキモである、生命の方から観るとい
うことでしたね。一つの生命を観ているということ、ここが大切。
ということを私は解説していました。
このことに気づいたのはとても古く、30年前、奈良で臨床を始
めた当初でした。そして観察と考察と勉学を深め、これは各国
の伝統医学の基本的な特徴であったという確信を今は持ってい
ます。
あるがままの生命は、言葉を超えてそこに存在しています。言
葉はその一部の状態を表現しているにすぎません。言葉にされ
たものは積み重ねやすいのですが、言葉にされずに抜け落ちて
いったものは、そのつど、言葉を手がかりにして考え気づいてい
く必要があります。
記憶された言葉を超えて、眼前にある実態である生命に迫る姿
勢が、この気づきを得るには大切になります。
伝統医学のアプローチはていねいで繊細です。診ている生命の
取りこぼしをしないよう、全面的にまるごと一つの生命としてみ
ようとしているためです。東洋医学でいうところの陰陽五行のこ
とです。ただ、これも、一元流のテキストにあるように、気一元
の生命を、二つの観点・五つの観点から眺め表現しようとしてい
るものであるという、読み方が大切になります。陰や陽があり、
木火土金水があり、それが重ね合わされて生命が存在している、
そう、考えているわけではないのです。本来は。
けれども残されている言葉は残酷なものです。生命の一部の表
現に実は過ぎないものなのに、言葉にするとそれがあたかも実
体として存在しているように見えてきます。言葉にすると強調さ
れてしまうわけです。そのため、言葉を読むときには、上記した
ように、「言葉を手がかりにして考え気づいていく」読み手の力
量が必要になるのです。
その力量の背景にあるもっとも大切なものは、心の姿勢です。
生命に学び続ける覚悟―わかってはいないという謙虚な姿勢が
それです。その謙虚さは、まだまだ理解し気づいていくことがで
きるという、心の器の大きさを実は示しています。
わかったと思ったときが、学びの終わり気づきの終わりの時で
す。今、わからないなぁという姿勢でい続けることこそが、不安
ではありますけれども、理解への道―気づきの姿なのです。不
安定なその「わからないという心の位置」こそが、新しい理解、
新しい気づきの、原点となるわけです。
たくさん勉強した人ほど、書物に読まれて、知識が増え、気づき
が失われやすくなります。学び続ける謙虚さという、柔らかな心
を失ってしまい、自分はわかっているという傲慢さを身につけて
しまうためです。
ですので、「やろうとしていると思うけど、できているかが分から
ない」と思いつつ、やり続けている今のその姿勢こそが尊いとい
うことになります。
生命の誕生から消滅までの大きな生命の動きの流れは、『一元
流鍼灸術の門』の、最初の方、「器」のところに書いてあります。
ここを押さえた上で、眼のまえの生命の今の変化している状態
を捉えて行きます。その際に肝木の身体観が便利であるという
ことは勉強会でも述べました。
生命のバランスを重視し、生命力を安定させ充実させることに
よって疾病を治療していこうとするものが、伝統医学です。養生
医学と呼ばれるわけですね。
ございます。
今回の話題は、伝統医学のキモである、生命の方から観るとい
うことでしたね。一つの生命を観ているということ、ここが大切。
ということを私は解説していました。
このことに気づいたのはとても古く、30年前、奈良で臨床を始
めた当初でした。そして観察と考察と勉学を深め、これは各国
の伝統医学の基本的な特徴であったという確信を今は持ってい
ます。
あるがままの生命は、言葉を超えてそこに存在しています。言
葉はその一部の状態を表現しているにすぎません。言葉にされ
たものは積み重ねやすいのですが、言葉にされずに抜け落ちて
いったものは、そのつど、言葉を手がかりにして考え気づいてい
く必要があります。
記憶された言葉を超えて、眼前にある実態である生命に迫る姿
勢が、この気づきを得るには大切になります。
伝統医学のアプローチはていねいで繊細です。診ている生命の
取りこぼしをしないよう、全面的にまるごと一つの生命としてみ
ようとしているためです。東洋医学でいうところの陰陽五行のこ
とです。ただ、これも、一元流のテキストにあるように、気一元
の生命を、二つの観点・五つの観点から眺め表現しようとしてい
るものであるという、読み方が大切になります。陰や陽があり、
木火土金水があり、それが重ね合わされて生命が存在している、
そう、考えているわけではないのです。本来は。
けれども残されている言葉は残酷なものです。生命の一部の表
現に実は過ぎないものなのに、言葉にするとそれがあたかも実
体として存在しているように見えてきます。言葉にすると強調さ
れてしまうわけです。そのため、言葉を読むときには、上記した
ように、「言葉を手がかりにして考え気づいていく」読み手の力
量が必要になるのです。
その力量の背景にあるもっとも大切なものは、心の姿勢です。
生命に学び続ける覚悟―わかってはいないという謙虚な姿勢が
それです。その謙虚さは、まだまだ理解し気づいていくことがで
きるという、心の器の大きさを実は示しています。
わかったと思ったときが、学びの終わり気づきの終わりの時で
す。今、わからないなぁという姿勢でい続けることこそが、不安
ではありますけれども、理解への道―気づきの姿なのです。不
安定なその「わからないという心の位置」こそが、新しい理解、
新しい気づきの、原点となるわけです。
たくさん勉強した人ほど、書物に読まれて、知識が増え、気づき
が失われやすくなります。学び続ける謙虚さという、柔らかな心
を失ってしまい、自分はわかっているという傲慢さを身につけて
しまうためです。
ですので、「やろうとしていると思うけど、できているかが分から
ない」と思いつつ、やり続けている今のその姿勢こそが尊いとい
うことになります。
生命の誕生から消滅までの大きな生命の動きの流れは、『一元
流鍼灸術の門』の、最初の方、「器」のところに書いてあります。
ここを押さえた上で、眼のまえの生命の今の変化している状態
を捉えて行きます。その際に肝木の身体観が便利であるという
ことは勉強会でも述べました。
生命のバランスを重視し、生命力を安定させ充実させることに
よって疾病を治療していこうとするものが、伝統医学です。養生
医学と呼ばれるわけですね。
人間観は陰陽五行
陰陽五行という概念を使って観るということに関して体系的に整理されたものとして「太極図」があります。これに関して詳細は『一元流鍼灸術の門』に記載されておりますので参照してください。そこで書かれていることで最も重要なことは、この図を生成論としての解釈するのではなく存在論・認識論として解釈しなおしていくということです。ここにおいてはじめて、統一的な人間理解の方法論として陰陽五行が立ち上ってくることとなります。
このような気一元の観点と陰陽五行の使い方を身につけたときに立ち上るものは、古色蒼然とした五行論ではありません。存在そのものをありのままに理解する際、すなわち臨床において、人間理解のための鋭利な刃物を手にすることができるわけです。
刃物は、研ぐためにあるのではありません。ありのままに人間を理解しようとするその意欲に従って、その刃物は自然に鋭利になっていくものです。その刃物は、切り分けのためにあるのではなく、すでに分かれているところを明確にするためにあります。目的は、分けるところにあるのではなく、存在そのものを理解するためにあるのです。
人間理解のためにそれはあるわけですから、そこから生じるものは、硬く身動きできない規律ではなく、一定の秩序だった観点から眺めることのできる人間の活き活きとした姿であり、そこにかかわる治療家に対して自由自在な手段を与えるものです。
このゆえに、一元流鍼灸術は、気一元の東洋医学の観点に立ちながら、カイロであれマッサージであれオステオパシーであれ指圧であれ、あらゆる治療概念をしなやかに受け入れ消化する胃袋を有するものとなっているわけです。
陰陽五行という概念を使って観るということに関して体系的に整理されたものとして「太極図」があります。これに関して詳細は『一元流鍼灸術の門』に記載されておりますので参照してください。そこで書かれていることで最も重要なことは、この図を生成論としての解釈するのではなく存在論・認識論として解釈しなおしていくということです。ここにおいてはじめて、統一的な人間理解の方法論として陰陽五行が立ち上ってくることとなります。
このような気一元の観点と陰陽五行の使い方を身につけたときに立ち上るものは、古色蒼然とした五行論ではありません。存在そのものをありのままに理解する際、すなわち臨床において、人間理解のための鋭利な刃物を手にすることができるわけです。
刃物は、研ぐためにあるのではありません。ありのままに人間を理解しようとするその意欲に従って、その刃物は自然に鋭利になっていくものです。その刃物は、切り分けのためにあるのではなく、すでに分かれているところを明確にするためにあります。目的は、分けるところにあるのではなく、存在そのものを理解するためにあるのです。
人間理解のためにそれはあるわけですから、そこから生じるものは、硬く身動きできない規律ではなく、一定の秩序だった観点から眺めることのできる人間の活き活きとした姿であり、そこにかかわる治療家に対して自由自在な手段を与えるものです。
このゆえに、一元流鍼灸術は、気一元の東洋医学の観点に立ちながら、カイロであれマッサージであれオステオパシーであれ指圧であれ、あらゆる治療概念をしなやかに受け入れ消化する胃袋を有するものとなっているわけです。
気一元として観る
もっとも基本的なことがこの、気一元の観点から観るということです。気一元の観点から観るということは、全体観を大切にするという言葉と似ていますが、少し違います。個別のものを積み上げて構成される全体を観るのではなく、初めに一として観る範囲を心の内に括り、そこから観ていきます。
この観方がどこで重要になるのかというと、陰陽や五行という概念で一を観るときです。陰陽や五行でまるごと一つのものを観るとき、そこには必ず間(あわい)があります。その間こそが大切であるということは、気一元としてみることによってはじめて理解できるものです。
存在を理解するために陰陽五行という概念があります。しかしこれは概念が先にできたのではなく、存在するものを見つめ続けた果てに揺らぎながら立ち上ってきた概念であると私は考えています。混沌たる存在をまるごと一つの生命としてみようと決意する。その決意にしたがって徐々に陰陽で見分けることができるようになり、徐々に徐々に五行を観ることができるようになる。まるで闇の中で目を凝らしているうちに目が慣れてきて、ものがはっきりと見えてくるような感じです。
言葉を替えて言ってみましょう。陰陽五行というのは抽象的な概念だと思われるかもしれません。がしかし、それはすでに陰陽五行という言葉が存在し成立している側から観ているためです。陰と陽とを積み重ねても、生きとし生ける気一元の生命にはたどり着きません。木火土金水の五行を何万回積み重ねても、生きとし生ける気一元の生命にはたどり着きません。生命を感じ、生命そのものに参入し、それをなんとか少しでも理解して整理していきたいという情熱が、陰陽という概念(切り口)を生み出し、五行という概念(切り口)を生み出したのだという、その原点に帰らねばなりません。
もっとも基本的なことがこの、気一元の観点から観るということです。気一元の観点から観るということは、全体観を大切にするという言葉と似ていますが、少し違います。個別のものを積み上げて構成される全体を観るのではなく、初めに一として観る範囲を心の内に括り、そこから観ていきます。
この観方がどこで重要になるのかというと、陰陽や五行という概念で一を観るときです。陰陽や五行でまるごと一つのものを観るとき、そこには必ず間(あわい)があります。その間こそが大切であるということは、気一元としてみることによってはじめて理解できるものです。
存在を理解するために陰陽五行という概念があります。しかしこれは概念が先にできたのではなく、存在するものを見つめ続けた果てに揺らぎながら立ち上ってきた概念であると私は考えています。混沌たる存在をまるごと一つの生命としてみようと決意する。その決意にしたがって徐々に陰陽で見分けることができるようになり、徐々に徐々に五行を観ることができるようになる。まるで闇の中で目を凝らしているうちに目が慣れてきて、ものがはっきりと見えてくるような感じです。
言葉を替えて言ってみましょう。陰陽五行というのは抽象的な概念だと思われるかもしれません。がしかし、それはすでに陰陽五行という言葉が存在し成立している側から観ているためです。陰と陽とを積み重ねても、生きとし生ける気一元の生命にはたどり着きません。木火土金水の五行を何万回積み重ねても、生きとし生ける気一元の生命にはたどり着きません。生命を感じ、生命そのものに参入し、それをなんとか少しでも理解して整理していきたいという情熱が、陰陽という概念(切り口)を生み出し、五行という概念(切り口)を生み出したのだという、その原点に帰らねばなりません。