fc2ブログ

一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

論文は気づきの礎


論文とは何かというと、自分の中に気づきを与えてくれるものであると、私は考えています。

文体や構成の中に論文があるのではなく、それを書き上げた人の志が貫かれ、自分自身を含めた人の心に気づきを与えるものということです。

気づきとは、自分自身を乗り越えることで始めて得ることができる感動です。

年をとればとるほど、経験をつめばつむほど。自信があればあるほど、この気づきの機会を失っていきます。これまでと同じ道を歩き、同じ考え方をし、同じ感覚で物事を見るようになるためです。いわゆる成功体験で自らを滅ぼすことになるのがこれです。

そういう意味で、自分が感じる失敗というのは大切です。自信がないということ、わからないということは気づきの大きな種となります。初心の心の大切さとはここにあるものなのですね。

このような気づきの心の位置の大切さは、人生を送るということにおいてそうなのですが、体表観察をするという、その一点においてもそうです。


勉強会では診るということに焦点を置いています。そして脉診や腹診や経穴診といった、ひとつひとつの体表観察を行うことによって、それぞれの診察位置で診ることを探究していこうとしています。その際、他の方法、たとえば脉診をしているときに問診をしたり、背候診をしているときに腹診をしたりということはしないようにします。それぞれの体表観察が粒だつことで始めてみえてくる、全体への違和感があるためです。

違和感。疑問。それが新しい気づきの種となります。最初から統合してしまうと、その違和感を見逃してしまいます。新たな気持ちで相手を診ているつもりでも、自分の中でパターン化したものを相手に投影してしまっていることが多いためです。これは臨床に自信がある人がよく陥る罠です。自分の臨床を正当化しすぎるために、相手を見ることをおろそかにしてしまうわけです。そしてパターン化することで手抜きをすることになるわけです。


この同じことが書物を読むということでも起こります。

自分が理解していることを書物に投影し、わかっているところだけを読んでしまう。そのため、著者が言いたかった大切なことを見逃すわけです。『一元流鍼灸術の門』を毎年最初から読んでいるのは、そのためです。新たな気持ちで物事に取り組むという、その新たな気持ちになれるかどうか。そこが自分自身の思いこみに気づき、書物への理解を深めることができるかどうかということに深く関わってきます。その新たな気持ち。無知である自分をあらためて知るということ。そこが書物を読んでいく上でも大切なことになるわけです。


古典を読むということにおいても同じことが言えます。

思いこみで古典を読んでしまう。書かれていることを理解しようとするのではなく、自分が欲しい情報だけを抜き出す。自分が現在知っている概念だけを抜き出し、そのパターンに古典を当てはめる。そういうことを行って古典解釈であると称している人々がいることを私は知っています。それは古典を読んでいるのではなく、自分自身の思いこみを古典の言葉で補強しているだけです。

何を古人は書こうとしたのか、何を古人は言おうとしているのか、そのことを初心になって考えていく。そこが古典を読み始める上でもっとも大切なことになります。


今回論文を書くという体験をされた方は理解できるかもしれません。自分自身が漠然と思っていたことでもまとめるということはたいへんなことです。そして、自分自身が正しいと思ってしていることであっても実は矛盾だらけだったりします。まとめてみて始めて、自分自身の中の矛盾に気づかれた方もあるでしょう。そして物事の理解の不十分さにめまいしたことでしょう。

自分自身というものは矛盾だらけです。そして場当たり的に惰性で生きているものです。自らパターン化した人生を送り、人生を理解したと思いこみ、それに満足して死んでいきます。若い頃にしか成長できない理由は、その後の人生がパターン化された自分の内面を生きているに過ぎないことが多いからです。

そこを越えていく力のことを、ここでは気づきと呼んでいるわけです。この気づきを得るために論文を書いていくわけです。論文というとかしこまってしまうようであれば、文章をまとめてみるといってもいいでしょう。

一歩一歩、自分を乗り越えていく。そのためには自分自身の今を理解しておく必要があります。そのためにまとめてみる。そしてそれを初心にかえって外から眺めなおすことによって、さらなる気づきの道が開けてきます。論文を書く―文章にしてまとめておくということのおもしろさはここにあるのだと私は考えています。
スポンサーサイト



病因病理の作成法


人間理解ということを東洋医学的に表現していく場面においてもっとも大切なものがこの病因病理を作成するということとなります。


ここで、【一元流鍼灸術の門】の『気一元の医学』の冒頭の言葉が思い浮かびます。すなわち、患者さんの身心という『言葉の存在しない未整理の混沌たる状況の真っ只中に立ち』、四診を用いてその『存在の声を聞』き、聖人の作り上げた陰陽五行という言葉に従って人間理解への端緒を得、どのように理解したのか病因病理で表現していくわけです。


◆解決法を決め付けない:最も確かそうな事実を核として論理的な整合性を作っていく

聖人の言葉に従って五臓の弁別をするわけですけれども、実際に集めた情報は、その正確さにおいてさまざまなレベルが存在することとなります。これは生物をそのまま扱うのですから当然のことです。緩み揺らぎの中で情報を取り扱う理由はこのためです。そして、緩み揺らぎの中で、なお、確かな位置を占めているものを核としてその他の情報を統合していきます。


◆時系列に沿って大枠における間違いがないように何種類かのパターンを作って検討してみる。

統合していく中で論理に迷ったり、情報が曖昧なためにさまざまな角度から把えられるような場合には、別のパターンで考えを進めてみることが大切です。どの情報があればこちらのパターン、別の情報が入ればこちらのパターンという風に考え定めておくと、改めて問診する際により気をつけて聞くべき点に気が付きます。また、実際治療をしていく中で正しいパターンの病因病理を見つけていくこともできるようになります。


◆自信のない情報は副情報とし、判断の補助にとどめる

ですから、得た情報のすべてを盛り込む必要は実はありません。情報の価値の低いものには、捨てるべきものもあります。この情報の価値の高低を見極める力が、病因病理の作成においては非常に大切なこととなります。


◆曖昧であることを恐れる必要はない。正確な弁証論治であるとして固く信じるほうが危険。

人間は生きており、日常生活があり、その中でさまざまな経験をします。病因病理といい弁証論治というものは、その生活を仮に言葉で書きとめたものにすぎないわけですから、日常生活が変化した場合にはそれにしたがって書き換えられる必要があります。ですから、どんなに熱心に書き上げたとしても所詮それで人生を規定することはできないものと観じ、緩み揺らぎをもって柔らかくそれを手にしておくだけにしておくことです。これこそが唯一絶対の正確な弁証論治であるとして患者さんを規定してしまうと、かえってその実態から乖離した治療やアドバイスを行ってしまう可能性もあります。変化しない部分はどこか、変化した部分はどこか、変化はどの深さまで及んでいるのかなど、状況の変化に合わせてしなやかにしかしゆるぎなく診方を合わせていけるようにします。
世の中には補瀉の手技について書かれている伝承本が非常にたくさんあります。けれどもこれらは、補瀉の基本において根本的な、大きな間違いを犯しています。それは、補瀉というものの中身には、手技のみに押し込めることのできない、もっと大きく深い構造があるためです。

基本的に鍼灸の手技は、経穴に対して行われます。ということは当然、補瀉の手技は、経穴の状態に対して行われるわけです。にもかかわらず、手技だけで補瀉ができるかのように解説されているのはなぜなのでしょうか。このことについて考えてみたことのある鍼灸師はどれほどいるのでしょうか。

経穴の状態に対して鍼灸の手技を行うわけですから、処置をするためには、経穴の状態に対する理解が必要です。経穴がどのような状態にあるのかということは、触れて感じてみなければ知ることはできません。それでは、触れて感じてみるだけで 経穴の状態を理解することができるのでしょうか。

そもそも経穴は、経穴単独で存在しているわけではありません。経絡全体の中の一つの表現として、あるいは全身の状態の一つの表現としてそこにあります。経穴は、全身の状態の一部であり、全身の状態を表現しているもののうちの一つなのです。

ということは当然、全身がどのような状態にあるのか診断されていなければ、経穴の位置づけが理解できないということになります。経穴の位置づけが理解できないということは、その表情を呈している経穴の意味が理解できないということです。そしてそれはとりもなおさず、その経穴に対してどのような処置をすればいいのか理解できていない、ということを意味しています。

しかし残念ながらこのようなレベルに至ることなく鍼灸による処置がされてきたということは、補瀉について勉強されている方はすでに理解されていることでしょう。

一元流鍼灸術は、今、これまであったそのようなレベルの鍼灸を明確に超えていこうとしています。

それは、弁証論治と体表観察と経穴の意味と手技の意味を考えていくことを通じてなされます。

それはまた、しっかりした東洋医学的な身体観を理解することを通じて構築されていきます。


さて、鍼灸師が相手にする患者さんは、いつも個別具体的な患者さんです。鍼灸に対する反応のしかたもそれぞれに異なります。また、同じ患者さんであってもその時期によって、疲労度によって、緊張度によって、異なる反応が出てきます。

異なる反応はまた、経穴に対して処置をしたときの感受性としても起こります。あるときには敏感で鍼灸による処置に対して良く変化を示し、全身にも強い影響を与える経穴であっても、別の時には鍼灸に対する反応も悪くなり、全身に対する影響をあまり発揮しない経穴となっている場合があるわけです。

そのような、生きて動いている生命を相手に、鍼灸治療はなされているということを、よく理解しなければなりません。

生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのか、生命力とは何か、病むとは、症状が出るとはどういうことなのか、ということを、あらかじめ徹底的に考えておく必要があります。

気一元の生命力として把握したものを、陰陽の観点、五行の観点で整理しながら把握しなおして、古人はその死生観を養っていきました。

われわれは現代において、その同じ視点をもつことが可能になっています。

それが臓腑経絡学であり、それをさらに気一元の観点からまとめ上げた「一元流鍼灸術の門」というわれわれのテキストの持つ意味です。


さて、ここからは実際の処置について述べていきます。

処置においては、その患者さんの身体の状態に沿って現れている、経穴の状態の意味を考えて処置していきます。その経穴に対して影響を与えたとき、全身にどういう作用を与えるのか、どういう作用を与えることを望んで、その経穴に処置するのかを考えます。これはもちろん、別の経穴の方が反応が良さそうな場合、そちらを使うという選択肢もそこにはあります。そのようなことを総合的に考えて選穴していくわけです。

いくつかの経穴を組み合わせる場合には、それをなんのために行っているのか考えます。対症療法的に考えるのではありません。気一元の生命に対して関わっていく、その「生命力の厚薄、アンバランスをいかにして調えるのか」という視点から選穴を考えていきます。

選穴が定まったなら、経穴の表情に寄り添うように手技を行います。これが基本です。

一元流鍼灸術では基本的に、弱った反応が出ている経穴を用います。もちろんその弱り方にはいろいろあります。これに関しては、テキストの実戦編、「経穴を選ぶための経穴学」を読んでください。

弱った経穴に対して、そこに生命力を集めるために鍼灸治療を行うわけです。これが基本です。経穴を補うように鍼灸の処置を入れていくわけですから、補法が中心ということになります。


最初に書きましたが、補瀉の手技というものが経穴とは別に存在していると考えている鍼灸師さんが、現代では大半だと思います。けれどもそれは間違いです。経穴の状態、その弱り具合に応じて、そこに生命力を集めることを目的として処置していきます。

経穴の状態を変化させることを目的として処置していきますので、さまざまな手技や方法がそこに生まれる可能性があります。経穴の一点に生命力を集めるために、さまざまな工夫をしていくわけです。

瀉法とは少しニュアンスが異なりますが、経穴の生命力が弱ることによって、そこに邪気がたまることがある。ということも頭に入れておいた方がいいかもしれません。そのような邪気は、生命力が回復することによってとれます。また、邪気が外に出ることを鍼などで導くこともできます。それによって、その経穴の生命力の回復を促進させることもできますので、これは、瀉することによって補う方法である、と言うこともできるでしょう。


このような処置をおこなうことによって、経穴の表情が、どう変化したかということから、処置の適否を判断します。

経穴の表情の変化を読み取るためには、処置が複雑になりすぎないことがまず必要です。どうしてかというと、経穴の表情としてさらにきつい弱り方を示した場合、その生命力の本体が表面に出てきたのか、それとも処置が悪いために生命力がさらに低下してしまったのか、という判断が最初はつきにくいためです。

ていねいに補うように、生命力を集めるように、処置していくということを基本にしておきます。そのような癖を付けておくと、経穴の変化と全身の状態の変化とが結びつき、弁証論治とそれにしたがった治療経過との関係が理解しやすくなります。

このようにして、処置した経穴の変化が、他の経穴にどのような影響を及ぼしているのかを観察します。また他の診処(脉診・腹診・舌診などの診処:筋肉の状態の変化や処置していない経穴の状態の変化も入ります)にどのような変化を与えたかということも観察していくことができます。このためには、事前に「処置後の診処」を決めておくとよいでしょう。

このようにして、治療処置と治療指針と弁証論治とを結びつけて理解していくことができるようになっていきます。それによって、少なくとも自分がなにを患者さんにしているのかということが理解できるようになります。

この積み重ねがこれからの東洋医学を作っていくための基礎となっていくと、私は考えています。
収集した情報をまとめる


以上のようにして集めた情報を、いったん五行で分類していきます。このことを五臓の弁別と呼んでいます。

五臓の弁別を行う理由は、

1、臨床を重ねれば重ねるほどもってしまう、患者さんに対する決め付けを排し、初心に戻る

1、中医学などを通して積み重ねてきた臓腑経絡学の学習の成果をここで表現する。

1、初心にかえって臓腑経絡学の検討をすることによって、気一元の身体観を基礎とした新たな臓腑経絡学を構築する。

1、気一元として把握した情報を、いったん分類していくことによって分析し、これを再度組み立てることによって、人間理解をよりゆるぎないものとする。

などです。


実際の方法論として心に止めておきべきことに、緩み揺らぎを大切にして、決め付けずあいまいに、ダブルことを恐れず気持ちよく行うといったことがあげられます。そのためには、いちおう五行論への傾斜を強くしておくわけですけれども、正確に弁別するということを意識するよりも、できる範囲でぽんぽんと五臓の籠に投げ入れておくという軽めの意識が大切です。これは、分類することが目的ではなく、気一元の身体のありようを明確に理解することが目的だからです。ですから五臓で弁別しにくければ、瘀血や気虚や湿痰といった項目を新たに作っていくわけです。

この人とブロともになる