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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/


行灯の図


この絵図は、江戸時代中期の管鍼法の創始者である杉山和一作である《杉山流三部書》の〈医学節用集:先天〉というところに書かれている図です。

これは行灯(あんどん)です。胴の長い四角柱の明かり取りのを思い浮かべてください。一番てっぺんには蓋がされており、これが華蓋すなわち肺に形容されています。そして行灯は三層に分けられておりまして、一番上が上焦、真ん中が中焦、一番下が下焦に割り当てられています。

この下焦の一点は、行灯の明かりの基となる火です。火は油を必要とします。それによって長時間輝き続けるわけです。この油の部分が腎精、火の部分が命門の火です。この一点の火が輝くことによって行灯が全体として光を発するわけです。

《難経》には腎間の動気として紹介されているものがこの、一点の火。生命の中心となる腎の陽気です。

この《医学節用集》には、『腎間の動気を候うには、大体医師の手で臍下を診、先ず医師の気を鎮めて候っている手と心とを一体にして考えていくと理解することができる。』と書かれています。

『医師の気を鎮めて候っている手と心とを一体にして考えていく』という方法は、経穴診においてその生命力を診る際にも欠かすことのできないとても大切な技法であり心構えです。

これは「観る」ということを実際に工夫して行っている人のみが語れる言葉だと思います。
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生命を観ることから、古典は再構築される


五臓を組み合わせてみるということからは実は、生命の方から観るということは出てきません。生命の方から観るというところがあって始めて、五臓いう言葉で表現してみている「いのち」、
十二経絡という言葉で表現してみている「いのち」、を観ることができます。

壮大な仮説なのですね、東洋医学は。その仮説を検証あるいは再構築することなく「伝承」することに対する大批判の声を上げたのが、澤田健でした。「書物は死物なり、死物の古典を以て生ける人体を読むべし」(鍼灸真髄:代田文誌著 11p)これは、古典をきちんと信ずることを通じて、眼前の患者さんを診るということを澤田健が述べているものです。そのことを通じて、生命あるものとして古典を読み込んでいくわけです。

ここに古典そのものに生命を吹き込むという視点が生まれます。

そしてその視点を通じて、古人が本当に語りたかったこと、古人が実は語り尽くされていなかったこと、古人が語りすぎていたことなどが理解できます。古典の本来の本体である、患者さんの身心(場)にもとづいて、古典で書かれている古人の言葉の真偽が、我々の眼前に明らかになっていくわけです。

古典批判・古典検証はここから始まります。

伝承医学の再構築はこの次に来る課題となります。症状治療―治療法のつまみ食いから出てくるものではないのですね。
基礎的な人間観 人は中心を持つ気一元の統一体


気一元の観点から進めていく弁証論治には、多くの矛盾が出やすいものです。几帳面な人ほど無理にでもつじつまを合わせようとするわけですが、自然に整合性が取れていくよう、ゆとりをもって見守ることが大切です。

どこに問題があるのかということを認識することができれば、答えはおのずから湧いてきます。

問題を認識するためには、東洋医学的な生命観への理解が大切になります。一元流鍼灸術では、《難経》と江戸時代の生命観を中心に据えています。このことについての詳細は《一元流鍼灸術:古典篇》で、日本医学とは何かという考察を通じて解説しています。


....人は中心を持つ気一元の統一体



【六十六難の図】

臍下丹田が中心 これがいわゆる腎間の動気

《難経》六十六難は三焦を通じた腎間の動気が全身に充満する様子を表したもの
『三焦は原気の別使』
『臍下腎間の動気は人の生命であり、十二経の根本』

《難経》ではこのように人間を把握していました。

澤田健先生が称えられた江戸中期の《難経》の解説書の《難経鉄鑑》には、「《難経》は元気を説いた書物である」と語られています。
処置とその確認


◆治療穴を決めつけない。

病因病理を作成し、生命力の動き具合や気の厚薄が明らかになったからといって、身体を診る前に使用経穴を決めるということはしません。

事前に体表観察をしておりますので、いちおう経穴の表現状況等は手に入った上で病因病理を作成しているわけですけれども、作成された病因病理にしたがって、反応の出ていそうな経穴を探してみたり、病因病理が正確かどうか経穴や経脉を摸る中で再度確認していきます。

選穴をする際には、面の視点を大切にします。点ではなく面です。これを気の厚薄とも言います。一元流鍼灸術では、弁証論治は大きな揺らぎの中で大まかに表現するようにしています。それによって、この実際に手を動かす時点でゆとりを持つことができます。体表観察にしたがって一点を定めていくことができるようになるわけです。


◆面の視点

体表観察といっても弁証論治を用いて問題のありそうな場処が大まかには出て来ていますので、それをそのまま体表に置き換えて診ていきます。この際には臓腑経絡学を応用します。

中心となりそうな範囲が見えてきたら、その中でさらに中心となりそうな点を摸っていきます。これが一点にまとまる場合と何点かの相互関連で出ている場合がありますが、そのあたり用心深く反応点を観察していきます。

その過程で意外な反応が出ている場合には、その理由を考えながら体表観察をしていきます。このようにして使用する一点を決めていきます。

そんな中で、新たに発見してきた経穴の「反応が出ている理由」を考え、整理しながら使用する経穴を決定していきます。


◆処置方法の工夫

また、弁証論治を、臨床において正確にしたり深くし、状況の変化に合わせて変化していく心身により沿うことも目的の一つにおいて、処置方法を工夫します。

全身の中から選穴した経穴ですので、その処理によってどのような効果が全身に及ぶのか考えながらしかし、その経穴の状態をどうすればよい方向へ変化させることができるのかということを考えて処置します。

経穴の中の小宇宙の状態をよく観察して、そこに処置をし、その小宇宙を変容させていくこと。それが処置の直接の目標となります。


◆治療効果の確認

ですから治療効果の確認の第一は、処置した経穴の状態がどれほど変化したのかということを確認することとなります。そしてさらに、その経穴の所属する範囲の変化を見ていくわけです。

また、治療効果を確認するために、脉診や腹診や舌診を用いることは当然ですが、経穴の変化もまたその確認のために用います。用いる経穴以外に診断穴とする経穴を定めておき、その変化を診ていくということもします。さまざまな工夫をして、自身の行った処置に対して身体がどのように反応したのかということを観察し、情報として蓄積していくわけです。
分かることを積み重ねる

鍼灸の勉強会には、微細な脉の変化を追いかけ、皮膚の変化を追いかけられるようになることを目標としているものがあります。わからない脉診を何十年もやりつづけ、結局何もわからずに他界された先生を私は知っています。とても残念なことだと思います。

一元流鍼灸術は、分かったこと見えていることを積み重ねることを基本としています。

無理に見ようとすることで、自分の思い込みに支配され、反って見間違いをしやすくなります。

情報を統合していく際には、矛盾が浮かび上がることがよくあります。しっかりと見えている情報であれば、そこからさらに深い理解へと進むことができますが、基本的な情報そのものが揺らいでいると、ただ混乱が深まり、独断的なキメツケで乗り越えるか、自信をなくし、論理的に考えることを諦めることになります。

ですから、一元流鍼灸術は、分かったこと見えていることを積み重ねることを基本としてるわけです。
受賞論文の発表です


このたびは懸賞論文への多くのご応募ありがとうございました。
今回受賞された方も受賞されなかった方も、自身を踏み台にして次の気づきの道へと歩みを進めていって下さい。己の井戸を掘る。自分自身の井戸をしっかり丁寧に掘り進めることによって新たな気づきを得ることができます。新たな気づきを得た時には、再度まとめ直し提出して下さい。その時のために、懸賞論文を継続的な制度として残しておくことにします。もちろん今回落選された方、新しく挑戦される方が、新たな課題に挑戦して応募されても構いません。楽しみにお待ちしております。

特別賞 『生きる意志としての肝の臓象』 福邑真由美
優秀賞 『澤田流太極療法の原点』 木村辰典
優秀賞 『風邪を考える』 萩谷明美
優秀賞 『自分という自然、災害対策としての養生』 加藤実穂

以下のページからアクセスすることができます
http://1gen.jp/1GEN/RONBUN/RONBUN.HTM

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