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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

気一元の考え方とは何かというと、五行論といっても、五があっ
て存在を構成しているのではなく、気一元の存在を観る角度と
して、五つの角度から観ているに過ぎないのではないというもの
です。

陰陽論というものも、陰陽があるのではなく、陰陽という相対概
念で存在を観ていくと、全体をバランスよく観やすくなるというこ
とです。

つまり、観ている対象は「一」であって、その観方として、陰陽五
行があるという考え方です。

ですから、陰陽に分けた後で発生している言葉が問題ではなく、
その間が問題。五行に分けることが問題ではなく、五行の間の
関係性こそが、気一元の生命を観ていく上では大切なことにな
ります。言葉を記憶するときには分けること、違いを見つけるこ
とに目がいきます。けれども、言葉は道標きすぎない。生命は
その言葉を包含して、ただありのままにそこにあるわけです。


で、人としての「一」すなわち「場」には、現状の性質―器があり
ます。その性質の捉え方を陰陽論を用いて、大小・敏鈍・粗密
の三方向から表現するのがよいのではないかと、提示していま
す。テキストには、その解説として、生成老死による一般的な変
化が記載されています。

内側の力としての生命力のバランスが、今どういう状態のなの
かということを観るのが陰陽五行であるのに対して、その陰陽
五行している現状の場の状態を器と呼んでいるわけです。

五臓のバランスはダイナミックに変化していくけれども、器は徐
々にしか変化しない。器を充実させるために五臓のバランスを
調えようとします。けれども元の木阿弥になりやすいのは、器が
変化するほどの治療の濃度(頻度や強さや養生―生活習慣の
改善の深さ)としての手を入れられていないからである。

そんなふうに考えを進めていっています。
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> > 〔注:ここではひとことで儒学と呼んでいますけれども、漢代
> > の儒学と宋代の儒学と神大の儒学ではその内容がとても大
> > きく異なります。

「神大」ではなく「清代」でした。
お詫びして訂正します。m(_._)m


> > > 「朱子学のその後」みたいな陽明学も禁止してたのですか?
> > > それは意外でした。それは少し臭いですね…。
> >
> > 陽明学は、朱子学の理解から出ていますが、王陽明の悟りを基
> > 本として、朱子学が実戦的なものになっています。
> >
> > 朱子学が人民を管理するための官僚のための学問であるのに
> > 比し、自らの心情に立脚するなど自己陶冶に努める側面が強い
> > ものです。
>
> 個人の考えに基づいて行動されると困るから、幕府としては
> 人の管理に便利な朱子学を選んだということですか。

五代将軍徳川綱吉の時代などは特に、朱子学を自ら学び実践
し、それを武家や人々に学ばせるという、学問的気風が育って
いました。

そのことから考えると、日本においては支那大陸とは異なり、自
らを律するものとしての朱子学の本来のありようがはじめから
花開いていたのではないかと思います。

支那大陸においては、宋元明清という時代推移のうち、元と清
とは異民族による支配の時代ですから、朱子学が統治理論とし
て使われたということもしょうがない側面があるのでしょう。

朱子学が堕落したのは、官学となり、科挙(官僚登用のための
国家試験)のための学問となって、新しい発想が生まれにくくな
ったためではないかと私的には考えています。

これは、中医学という名前での東洋医学の教科書化に似ていま
す。言葉を積み重ねる段階では、それまでのあらゆる学問を参
考にしつつ用心深く新しい言葉を作っていくわけです(朱子)。そ
れが教科書になってしまうと、その言葉の改革、磨き上げでは
なく、正しい理解と正誤判定がそこに入ってしまいます。いわば
科挙を通るための言葉が生じるわけです。無知を楽しむ余裕を
なくし、結論を追い求め、自分自身の心で感じ頭で考える前に、
答えを捜してしまうわけです。点数をつけられ評価されるため、
本当には理解していなくても記憶して解答を出していくという能
力が求められるためです。そしてそのような人が合格し、高級
官僚への道を歩むこととなります。

自己陶冶を通じて得た気づき―智慧を磨き上げて作った言葉
の群れが、知識に変化し、伝統として定着していく。それが官学
としての朱子学のあり方になったのではないかと思います。


自粛警察はまさにその礼から法への流れの途中に起こるもの
す。そして法としての言葉がしっかりできあがると、自由を求め
るへそ曲がりが発生してくるということもまた、人のありようなの
かもしれません。


このあたりの社会における生命のありさまを芸術的に表現する
と、「守」「破」「離」ということになるかも。

官学としての朱子学を「守」り科挙が行われた。

それを基盤にして「万物一体の仁」に気づいた王陽明には、朱
子学を突破する力があった(破)。

江戸時代にはさらに、聖人そのものになるための学問の側面が
強くなり、論語を通じて孔子自身に触れようとした人々が生まれ
た。ここにおいて朱子学が新たに自己陶冶の学問である古学と
して生まれ変わった(破から離へ)。

支那の聖人の道ではなく日本の古人の心に直接触れるという、
古学と方法としては同じだが、目的を異にする国学という学問
の流れが起こった(離)。

という感じでしょうか。

〔注:ここではひとことで儒学と呼んでいますけれども、漢代の儒
学と宋代の儒学と神大の儒学ではその内容がとても大きく異な
ります。
そして、江戸時代に儒学に括られるものは、官学である朱子学
と、民間から発生した学問である伊藤仁斎の古学、その弟子筋
にあたる荻生徂徠の古文辞学、朱子学と陽明学との折衷の学
問などさまざまに分類されています。
けれどもここに触れることは繁雑になりますので各自調べてみ
てください。〕


> 「朱子学のその後」みたいな陽明学も禁止してたのですか?
> それは意外でした。それは少し臭いですね…。

陽明学は、朱子学の理解から出ていますが、王陽明の悟りを基
本として、朱子学が実戦的なものになっています。

朱子学が人民を管理するための官僚のための学問であるのに
比し、自らの心情に立脚するなど自己陶冶に努める側面が強い
ものです。


伊藤仁斎の古学は論語研究から始まります。ただ、論語を言葉
として読むだけではなく、実際に孔子がそこで何を思い感じ考え
ていたのかというところまで、探究しています。ここが大切なとこ
ろとなります。

古学ではいわば、孔子という聖人の心に近づくために、自分自
身の心に照らしながら『論語』を学んでいったわけです。一元流
鍼灸術でよく使われる言葉で表現するなら、言葉を越えて孔子
そのものに肉薄しようとした儒学、それが古学であるということ
になります。

当然その過程で、自己の心の有様を点検するという行為が入り
ます。そして自己を改革することによって聖人の心に近づこうと
するわけです。

そういう角度で論語という書物を読んでいたわけです。

古学の創始者である伊藤仁斎は、朱子が集め解釈した儒教の
オーソドックスな書物を、リアルな自己に照らしつつ読み直して
いったわけです。

この同じ作業を伝統医学において行うということが、一元流鍼
灸術がおこなっていることであり、目標としているところです。中
医学という古典を集めた観念的な言葉で語られた書物を、治療
というリアルな世界のなかで読み直していこうとしているわけで
す。


ちなみに、『養生訓』(1712年刊)を書いた貝原益軒(1630
年~1714年)が、晩年、自身の儒学思想をまとめるまで、気
一元論に触れることができませんでした。正学である朱子学の
圧力があったためです。
福岡藩のような江戸から遠い地域であっても、官僚の学問にそ
のような圧力があったわけです。


> 伴先生の論文「日本型東洋医学の原点 」に出ていた、林羅山という人が
> そのあたりの黒い思惑に関係しているのでしょうか?

林羅山は、幕府の威光を借りて朱子学を正統な学として広めよ
うとしただけだと思います。

〔注:ここからは、人民を統治するための学問である、あるいは
そのように利用された朱子学の内側からの解説となります。〕

平和というのは秩序があるということを意味しています。そして
秩序のなかには、人々がその地位におけるあるべき姿(理)で
存在している(気)という自覚が必要です。自分のノリを越えず、
他者を傷つけないという、「社会の相互関係における養生」のよ
うな節制が、そこには必要となります。

戦国時代―下克上なんでもありの自由な世界から、秩序ある平
和の世界への大転換の思想の基礎を、徳川家康は朱子学のな
かに見出したとも言えるでしょう。

朱子の著書を読んでみると、彼がいかに謙虚で、いかに丁寧に
学問を築いているかということが理解できます。孔子が戦国時
代に平和のあり方を希求した世界を構築したように、儒教は秩
序というもののあり方を、仁すなわち愛とその表現としての礼の
側面から、構築していったものです。

自分自身を戒めるための礼という側面が、あるべきあり方とい
う理念が構築されることによって、他者をも縛る法になり徐々に
強制力を持つようになるのは、現代社会でも同じことです。

自身の身を守ると同時に他者をも罹患させまいという道徳的な
要請であったマスクの使用や罹患後の謹慎(礼)が、いつのま
にか法で強制されるような事態になっていく(法)ようなものです。


ただその根本にある思いは、現代的な言葉でいえば愛に基づく
平和な理想社会を作り上げたいという願いであったということは、
確認しておきたいと思います。



ここで学ぶことは一つの種です。
この種は、気づきによって成長していきます。

この種を成長させるコツは、
固定観念にとらわれずに観、
固定観念にとらわれずに聴くということです。

固定観念にとらわれないということは難しいことです。
固定観念にとらわれないと思うことそのものが固定観念になりえますから。

そのため、固定観念にとらわれないということを別の言葉で、
気づく、と呼びます。

何かに気づくとき、心はジャンプします。
その心のジャンプが、
歓喜とともに、
光明を、
その心に射し込ませます。
そして、それは、その人の世界が一段階広がることにつながります。

このような気づきを重ね重ねていくことによって、
いつの間にか人を診れるようになります。

気づくということができるということは、
奇跡です。
そして、この奇跡は、
自身が無明の中に存在しているからこそ、
起こりえるものであるということを、
よく理解していただきたいと思います。
無明の中にいるありがたさ、
これが「無知の知」と呼ばれるものの正体です。

無知であることを恥ずることはありません。
それを早く自覚することによって、
早く気づきの種が育ちます。

無知であることを恥ずることはありません。
無知であることを知り続けることで、
人は始めて、
いつまでも気づきの歓喜の光の中に
立つことができるのですから。

皆さんは学ぼうと決意されてここに集まりました。
学ぼうと決意されているということは、
自分が無知であるということを知ることができている、
光明への扉を叩いているということを意味しています。
その初心を忘れずに、
その謙虚さを忘れずに、
患者さんの身体に対し、
古典を読み込み、
臓腑経絡学を点検し
磨き上げていただきたいと思います。

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