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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

見えること判ることを積み重ねる


勉強会に参加していて、どーも何をやっているのかわからない。
他の人々は見えているらしいんだけれども、自分にはどうしてもよくわからない。わからないからますます熱心にそこに注目するんだけれどもやっぱりわからないという悪循環をおこしている人がいます。

これ、もったいないですね。

見えないこと判らないことは、積み重ねられません。修練を積んでいる人にできることが、初心者にすぐできるわけもなく、修練を積んでいる人に見えることが、初心者にすぐ見えるわけはないんですね。

また、その人の体質や人生経験によって見やすいこと見えにくいことがあったりもします。

ですから、判ることを確認していく、見えるものをどう解釈していくのか自分の頭で考えていく。そのように心を定めることが大切です。

そのようにすると、見える範囲が少しづつ増え、見え方が少しづつ深くなります。

「人間がそこに生きている」という基本的なことが見えない人はいません。その人間を少しだけ詳しく見ていく。腹があり背があり、生きてきた歴史がそこに刻まれている。そのあたりから少しづつより詳細に、「確実に」見える範囲だけを集めて、その人をより深く理解していくわけです。

そこに借り物ではない人間理解の端緒があります。確実なところを集めてそこから理解を深めていく。そこから借り物ではない臨床への道が開けていきます。

これがより誠実な治療家になっていくための、第一歩であり、いつでももっとも大切な基本的な歩み方となります。この誠実さを踏み外さないように、日々の臨床のルーティーンの中に埋没しないようにしましょう。
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患者さんの身体を読む


病因病理を考えるということは、そこに存在している患者さんの身体を読むということです。古代において、人は小宇宙として捉えられ、天文地理を眺め感じ読み取ることを通じて、人身の不可思議を相似的に把握しようとしました。天文地理という大宇宙と人身という小宇宙の双方ともに同じ法則があるに違いないと考えることは、生かされている奇跡を神の恵みに違いないと感じ取ることのできる人間にとっては当然のことでした。

身体の秘密を知るということはまさに宇宙の神秘を知ることに他ならなかったわけです。


一元流の弁証論治は、この古代人の把握方法を再構成したものです。


1、四診をして情報を集めます。

2、四診の情報を、五臓の弁別として五に分けてみて、その全体像を把握しやすくします。

3、弁別された情報を、病因病理の観点からひとつの生命の流れに寄り添うような形で統合し、その人の生命の有様を明らかにしていきます。

4、見えてきたものの中心を記述するのが弁証項目で、治療法を記述するのが論治項目としています。治療法は個別具体的に繊細になりますので、初期段階でその流れを治療指針として記載しておきます。患者さんにできることも治療法の一種で養生法でもあります。これを生活提言として記載します。

このようにして見、このようにしてその修復方法―治療方法の概略を明らかにしていくわけです。

実際の治療経過を通じて本当に患者さんを理解できているのかどうか。それを再検討するための材料が、このようにしてできあがるわけです。
知を探究する覚悟


知を探究する際に覚悟がいるということは一体何を意味しているのだろうと、私自身にいま問うています。

知を探究するということは、与えられた情報そのもののなかから知恵をそのまま引き出す行為となります。これはフィールドワークをする研究者と同じような姿勢です。存在の声に耳を澄ましそれを聞くようにする、というテキストの言葉は、このことを意味しています。真実(知)を探求するということはいつの時にも自分の考えを棚上げにして存在の声を聴くことを優先する、その覚悟が必要となります。

これは自分を汚している「知識」を少しづつはぎ取っていく行為であるとも言えます。自分を汚している「知識」と表現していますけれども実は、知識や常識というものは、現在の自分自身を規定し、ある意味で護ってくれているものです。知を探究し続けるためにはそのような保護着を手放す勇気を持つ必要があります。覚悟と私が述べたものはこの勇気のことをも意味しています。

探究が続いていくにしたがって恐怖や疲労からこれまでの常識にすがるということはよくあることです。そのような逃げを打たず探究を続けていくことを選択すること選択し続けることもまた覚悟ということになります。

ことに生死の研究というのは深い宗教的理解を必要とするものです。途中で探究を止めると、傲岸不遜な宗教家になりかねません。どこまでも謙虚にあり続けなければ、知の底―すべてに通じる知の道―を見つめ続けることはできないものです。

知の探究というのは、自分が知らないことを探究しているわけですけれどもそれは実は、本当の自分自身を捜し出すー洗い出すーということでもあります。そういう意味で知識の汚れを払い自分自身の本来の姿に立ち返るというふうに表現したりもします。そう。これが汝自身を知れという言葉の真の中身です。

無理に納得することは汚れをもう一つ分厚く付けてしまうことになります。それをせず、風に揺らぐ葦のごとく知に向けての希求を諦めずにい続けること。これが覚悟であり大切なことであると私は思います。
無知であることを知る


無知の知という言葉は、自分自身のおろかさ無知に対する徹底した自覚を指しています。自分自身が無知無能暗愚であることをしっかり自覚するところに初めて、学びが入る精神的なゆとりが生じます。

東洋医学を行じていく中で、草創の古人とわれわれ現代人とのどこが一番異なるのだろうかと思ってみると、これはもう、無知に対する徹底した自覚が我々には足りないということに尽きると思います。無知を自覚すること。そこに知への渇仰が産まれます。この知への飢えと渇きが、多くの気づきへの道を切り開いてくれます。

私どもは、学問・書籍・試験などを通じて、あまりにも多くのことを記憶してしまいました。この、言葉が充満している世界は、それなりに頼りになるものではあるわけですけれども、実は、実際の世界と肌触れ合うスリル・新鮮さを失わせてもいます。いわば、冒険を恐れるあまり世界に開く心を失った現代人が、ここに魑魅魍魎のように巣食っているといった具合になっているわけです。

この時にあって、すべての虚飾を剥ぎ取りリアリティの中に、無知の闇を恐れず、六感を研ぎ澄まして、獣のように棲むという覚悟が、われわれには必要です。
太極図―陰陽五行の使い方


周濂溪(1017年~1073年)が採用し、宋学の基礎的な宇宙観とされた太極図は、宋学―朱子学の基本とされ、朱子(1130年~1200年)によって解説が付されています。(『近思録』)

伊藤仁斎(1627年~1705年)の古学においてはこれは観念的であるとして採用されませんでした。けれども『一元流鍼灸術の門』においてはその総論で、これを採用しています。それは存在の構造を古人(宋代、日本の平安時代末期の人ですが・・・)がどう考えていたのか示すものとして便利だからです。いわゆる、陰陽五行論を採用し、気一元の生命であるる人間の、内的なバランスを観るのに便利なためです。


『一元流鍼灸術の門』の中では言葉の発生における聖人の姿勢について述べられています。まさにこれは、たとえるならば脉状という不可解なものに直面して混乱している鍼灸師が採るべき、一筋の姿勢です。

言葉にする以前に存在そのものを感じとろうとする(無極)。脉を診ようとする。

その感じとっているものには括り―形状があることを意識する(場の設定―太極)。脉には診るべき位置や形状があることを意識する。

気一元の場を設定し、それをより明確に意識して言葉で表現しようとする。その際に、陰陽の観点、五行の観点を意識することによって、言葉の意味を明らかにし(理)、診ている脉状(気)をバランスよく表現しようとする。

それが言葉の発生の原点であり、現在においても活用することのできる、生命の表現方法であると言える。そう一元流鍼灸術では提案しているわけです。

この無極から太極への意識の移動、それにともなって起こってくる言葉の発生の流れは、現代哲学における現象学の(メルロポンティやカールポパーやマイケル・ポランニーなどが挑戦し、栗本慎一郎が『意味と生命』の中でまとめている)「言葉の発生についての疑問」に呼応しています。言葉以前に存在している概念(!)である暗黙知と、その顕在化すなわち言語化。がどのように行われているのかというきわめて内省的な検討作業が、この脉を診るということと脉を表現するということひいては、四診を行うという作業全般につながっているものです。(ここ、勉強を深めたい方のために哲学者の名前を列挙しておきました。臨床的には関係ありませんので読み飛ばしてください。)


「生命」という「気一元の場」を二五の観点から見直していくという発想は、「揺らぎ変化し続けている一」たる生命のバランスを診ていこうとする際、とても便利な方法です。この二五の観点(陰陽五行の観点)が観念論に堕さないギリギリの位置がどこにあるのかということが、『一元流鍼灸術の門』では示されています。それは、気一元の観点から離れないということです。五が集まることによって気一元の場を構成しているのではなく、一(気一元の場)を観るために二五の概念(すなわち陰陽五行)を使用しているということです。


そしてまた、この五の相互関係が、相生相剋論における五角形の五では「ない」という点も重要です。

『素問』の中でももっとも古い『太陰陽明編』やギリシャ医学(ユーナニ医学すなわち十八世紀ドイツ医科大学で学ばれていた、西洋医学における伝統医学)でも使われていた四、すなわち東西という横の陰陽関係、南北という縦の陰陽関係の二次元の線。そしてその竪横の「むすび」である中心に加えられた一点。それらを合計した五こそが、あるがままに場を捉える際の数になります。これが一元流鍼灸術における五の中身となります。

ここを基本として四診の方法・弁証論治の方法・処置方法までを一貫して解説しているものが『一元流鍼灸術の門』であるということになります。

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