東洋医学の勉強法
東洋医学の勉強を始めていくうえでたぶん一番最初の障壁は経絡経穴を記憶することではないかと思います。ことに経穴は体表の位置を指示する点の名前ですので、記憶しにくく指し示しにくいものです。一度これをしっかり記憶するようにすると、少しは東洋医学に足を突っ込んだ感じになります。
一元流鍼灸術のテキストでは今の時点でまとめることのできる東洋医学の人間観の最前線をみることができます。東洋医学には深い伝統があります。これはまっすぐ前進してきたものではなく、松の木の根のように、さまざまな場面で頭を打ちながら右へ左へ匍匐前進してできあがってきたものです。言葉が重ねられて複雑になっているように見えるそのもっとも基礎にあるものが、人身は一小天地であり、宇宙と人とが相応関係にあるという概念です。そして、その宇宙をより詳細にバランスよく理解していくために陰陽五行論があります。
このあたりの詳細は、テキスト『一元流鍼灸術の門』の総論部分に書いてあります。ここが基本です。臓腑経絡学は今の時点で咲いている花となります。勉強会では弁証論治を行ない続けることによって、さらによりよい人間理解を進めることができるように悪戦苦闘しています。この悪戦苦闘が勉強会の生命であって、現代の臓腑経絡学の構築に役立つものであると考えています。
一元流鍼灸術では気功を含めて神秘思想に足を踏み込むことはありません。個人的な趣味で行なうことに対してどうこう言うことはないのですが、自己の内部に中心を築き、自己を安定させるという方向に治療も個人の修養も向けていきますので、あたりまえに今ある自分を受け入れるというところに身を置き、神秘的な能力を得るというあたりと関係を絶っています。
一元流では、禅を用いたりもしますけれどもこれは心身の脱落のため、すべてを手放すためであり、何かを身につけるためではありません。心も体もお掃除を基本とし、その当たり前の人間を理解し、治療するための人間理解の方法を提供しているわけです。
勉強会の場は月一回会場を借りて行なわれるオフ会と、この日々のメイリングリストです。眺めるだけではなく質問することなどを通じて参加することが大切です。ことに基本的なところで疑問を持つというのは初心者にしかできないことですので、遠慮なく発言していってください。
東洋医学の勉強を始めていくうえでたぶん一番最初の障壁は経絡経穴を記憶することではないかと思います。ことに経穴は体表の位置を指示する点の名前ですので、記憶しにくく指し示しにくいものです。一度これをしっかり記憶するようにすると、少しは東洋医学に足を突っ込んだ感じになります。
一元流鍼灸術のテキストでは今の時点でまとめることのできる東洋医学の人間観の最前線をみることができます。東洋医学には深い伝統があります。これはまっすぐ前進してきたものではなく、松の木の根のように、さまざまな場面で頭を打ちながら右へ左へ匍匐前進してできあがってきたものです。言葉が重ねられて複雑になっているように見えるそのもっとも基礎にあるものが、人身は一小天地であり、宇宙と人とが相応関係にあるという概念です。そして、その宇宙をより詳細にバランスよく理解していくために陰陽五行論があります。
このあたりの詳細は、テキスト『一元流鍼灸術の門』の総論部分に書いてあります。ここが基本です。臓腑経絡学は今の時点で咲いている花となります。勉強会では弁証論治を行ない続けることによって、さらによりよい人間理解を進めることができるように悪戦苦闘しています。この悪戦苦闘が勉強会の生命であって、現代の臓腑経絡学の構築に役立つものであると考えています。
一元流鍼灸術では気功を含めて神秘思想に足を踏み込むことはありません。個人的な趣味で行なうことに対してどうこう言うことはないのですが、自己の内部に中心を築き、自己を安定させるという方向に治療も個人の修養も向けていきますので、あたりまえに今ある自分を受け入れるというところに身を置き、神秘的な能力を得るというあたりと関係を絶っています。
一元流では、禅を用いたりもしますけれどもこれは心身の脱落のため、すべてを手放すためであり、何かを身につけるためではありません。心も体もお掃除を基本とし、その当たり前の人間を理解し、治療するための人間理解の方法を提供しているわけです。
勉強会の場は月一回会場を借りて行なわれるオフ会と、この日々のメイリングリストです。眺めるだけではなく質問することなどを通じて参加することが大切です。ことに基本的なところで疑問を持つというのは初心者にしかできないことですので、遠慮なく発言していってください。
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学びの遅速
学ぶ速度には、遅速があります。遅い人は風景が良く見えます。速い人は次の世界に早くたどり着きます。
勉強会としては、遅い人と速い人と両方いると、その幅が広がります。しっかりとゆっくりと歩いてくれている人は、今、その場所で、誰も気がつかなかった発見をすることがあります。先導者の言うことをはいはいと聞いて素直に歩いていく人よりも、その言葉が身についている場合があります。
勉強会は、誰もその足を引っ張ることもできませんし、頭をぬきんでることもできません。参加している人がそのまま勉強会の外的な広がりであり内的な深まりだからです。その総体がその勉強会の器となるわけです。
そのような勉強会の中で学んでいく上でもっとも大切なことは、自分自身の速度より早く歩かないこと。一つ一つ納得できるまで、諦めずに考え続けることです。
学ぶ速度には、遅速があります。遅い人は風景が良く見えます。速い人は次の世界に早くたどり着きます。
勉強会としては、遅い人と速い人と両方いると、その幅が広がります。しっかりとゆっくりと歩いてくれている人は、今、その場所で、誰も気がつかなかった発見をすることがあります。先導者の言うことをはいはいと聞いて素直に歩いていく人よりも、その言葉が身についている場合があります。
勉強会は、誰もその足を引っ張ることもできませんし、頭をぬきんでることもできません。参加している人がそのまま勉強会の外的な広がりであり内的な深まりだからです。その総体がその勉強会の器となるわけです。
そのような勉強会の中で学んでいく上でもっとも大切なことは、自分自身の速度より早く歩かないこと。一つ一つ納得できるまで、諦めずに考え続けることです。
「揺らぎ」という概念は、とっても大切です。どの場所においても。言葉が打ち立てられる背後に、ゆらゆらした「実体としての生命」があるということを意識すること。
言葉はどんなに誠実に語られているとしても、「実体としての生命」の一部を切りとって提出されたものであるということを理解すること。
大切なことは言葉ではなく、それを通じて見通している「実体としての生命」そのものであるということ。
いつも言葉に掬い取ることができない「実体としての生命」が背後にはあるということ。
このことはとても大切なことです。古典を読む上でも、学ぶ上でも、四診の記録を読む上でも、忘れてはならないことです。
そしてその「実体としての生命」がもつ、揺らぎ、あわい、あいまいさが、感応を呼び起こし、自己の成長の幅となり、他者とつながる「むすび」となり、新たな生命を生み出します。
「清濁を併せ呑む器の大きさ」ということが大人(たいじん)の見本としてよく言われます。これは、自分自身の生き方や方針はあるとしてもそれを横に置いておいて、異見をきちんと聞き体験できる懐の深さを持てるひとものことを意味しています。そこまで己を捨て真実に着く覚悟をもてるように、自分自身を磨き上げているわけです。だから大人(たいじん)なわけです。これは揺らぎのもっとも深く大きい、あるべき人の状態を示しているとも言えます。
言葉はどんなに誠実に語られているとしても、「実体としての生命」の一部を切りとって提出されたものであるということを理解すること。
大切なことは言葉ではなく、それを通じて見通している「実体としての生命」そのものであるということ。
いつも言葉に掬い取ることができない「実体としての生命」が背後にはあるということ。
このことはとても大切なことです。古典を読む上でも、学ぶ上でも、四診の記録を読む上でも、忘れてはならないことです。
そしてその「実体としての生命」がもつ、揺らぎ、あわい、あいまいさが、感応を呼び起こし、自己の成長の幅となり、他者とつながる「むすび」となり、新たな生命を生み出します。
「清濁を併せ呑む器の大きさ」ということが大人(たいじん)の見本としてよく言われます。これは、自分自身の生き方や方針はあるとしてもそれを横に置いておいて、異見をきちんと聞き体験できる懐の深さを持てるひとものことを意味しています。そこまで己を捨て真実に着く覚悟をもてるように、自分自身を磨き上げているわけです。だから大人(たいじん)なわけです。これは揺らぎのもっとも深く大きい、あるべき人の状態を示しているとも言えます。
拘わってはいけない微細なものとは何か
拘わってはいけない微細なものとは、全体観を持たずに「それ」を見て判断するということです。
全体観とは何かというと、一の把握ということです。
存在するものはすべて微細なものです。けれども、その小さいものには小さいなりの「ありよう」特徴を持っています。
テキストの「陰陽五行の使い方」のところで述べたように、その対象を一括りのものとして把握しても良いのか否か、ここをしっかりと見定めることができないと、妄想を構築することとなります。
妄想と思い込みは、自分の頭の中でやっている限りはたいして迷惑にはならないわけですけれども、人を指導したり、治療をしたりする段になると非常な迷惑を与えることとなります。
妄想という言葉を用いると、「そんなものは持っていない」と答える人がほとんどでしょう。けれども、この言葉を「こだわり」と変えてみると、それを持たない人はほとんどいません。こだわりがある時にはそこに充分に疑いの目を向け注意深く歩む必要があります。
ほんとうに問題となることは、拘わるべきところにこだわり拘わるべきでないところにはこだわらないという鑑別が難しいというところにあります。そのため、熱心に生きている人ほど、目の前にぶら下がっている言葉にこだわり、目の前に現れた人にこだわります。これが肯定的なことであればまだよいのですが、否定的な自分自身の心を痛めるようなことにも拘わる人までいるわけです。
「正しさ」それはどこにあるのでしょうか。
実はそのことがもっとも問題となることであり、解決の難しいことです。東洋の伝統においてはこのもっとも基本的な心の位置は、自己肯定に置きます。自己肯定する時の自己とは何かというと、今存在している自分自身を受け入れるところから始まり、子孫への愛情を基本とします。今存在している自分自身は毎瞬変化し成長するものですから、どこに向かって成長しているのかということが大切です。この方向性を定めているものが四書の中の「大学」です。いわゆる「修身 斎家 治国 平天下」というものがこれで、言葉を換えると「自分自身と同じように隣人を愛する」ということであり「自分を大切にしながら公に奉仕する」という精神です。この公=自己の範囲が、「大学」においてはその成長レベルに従って変化すると述べられています。実は、これを小人である我々自身に当てはめて語る時には、まさにいわゆる「足るを知る」「今ある自分の位置に感謝を捧げそれを喜ぶ」ということとなります。
言葉を換えると、今、我々がなすことのできるただ一つの正しいことは「感謝する」ということであり、「感謝する」心で歩むことへの拘りこそが、拘りの中心でなければならないということです。それはまた。「今、この喜びの中にい続けなさい」という指示ともなるわけです。
そこに心の中心を置き、そこから眺めて遠いものが、拘わってはいけない微細なものです。ここに心の中心を置いたままの状態で眺めた時に、遠くの微細な目に見えないもは大切ではなく、今 目に見えているそれそのものがまずは大切なことなのです。このことを一元流鍼灸術では、「見えたこと解ったことを積み重ねる」と表現し実践項目としています。
拘わってはいけない微細なものとは、全体観を持たずに「それ」を見て判断するということです。
全体観とは何かというと、一の把握ということです。
存在するものはすべて微細なものです。けれども、その小さいものには小さいなりの「ありよう」特徴を持っています。
テキストの「陰陽五行の使い方」のところで述べたように、その対象を一括りのものとして把握しても良いのか否か、ここをしっかりと見定めることができないと、妄想を構築することとなります。
妄想と思い込みは、自分の頭の中でやっている限りはたいして迷惑にはならないわけですけれども、人を指導したり、治療をしたりする段になると非常な迷惑を与えることとなります。
妄想という言葉を用いると、「そんなものは持っていない」と答える人がほとんどでしょう。けれども、この言葉を「こだわり」と変えてみると、それを持たない人はほとんどいません。こだわりがある時にはそこに充分に疑いの目を向け注意深く歩む必要があります。
ほんとうに問題となることは、拘わるべきところにこだわり拘わるべきでないところにはこだわらないという鑑別が難しいというところにあります。そのため、熱心に生きている人ほど、目の前にぶら下がっている言葉にこだわり、目の前に現れた人にこだわります。これが肯定的なことであればまだよいのですが、否定的な自分自身の心を痛めるようなことにも拘わる人までいるわけです。
「正しさ」それはどこにあるのでしょうか。
実はそのことがもっとも問題となることであり、解決の難しいことです。東洋の伝統においてはこのもっとも基本的な心の位置は、自己肯定に置きます。自己肯定する時の自己とは何かというと、今存在している自分自身を受け入れるところから始まり、子孫への愛情を基本とします。今存在している自分自身は毎瞬変化し成長するものですから、どこに向かって成長しているのかということが大切です。この方向性を定めているものが四書の中の「大学」です。いわゆる「修身 斎家 治国 平天下」というものがこれで、言葉を換えると「自分自身と同じように隣人を愛する」ということであり「自分を大切にしながら公に奉仕する」という精神です。この公=自己の範囲が、「大学」においてはその成長レベルに従って変化すると述べられています。実は、これを小人である我々自身に当てはめて語る時には、まさにいわゆる「足るを知る」「今ある自分の位置に感謝を捧げそれを喜ぶ」ということとなります。
言葉を換えると、今、我々がなすことのできるただ一つの正しいことは「感謝する」ということであり、「感謝する」心で歩むことへの拘りこそが、拘りの中心でなければならないということです。それはまた。「今、この喜びの中にい続けなさい」という指示ともなるわけです。
そこに心の中心を置き、そこから眺めて遠いものが、拘わってはいけない微細なものです。ここに心の中心を置いたままの状態で眺めた時に、遠くの微細な目に見えないもは大切ではなく、今 目に見えているそれそのものがまずは大切なことなのです。このことを一元流鍼灸術では、「見えたこと解ったことを積み重ねる」と表現し実践項目としています。