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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

臨床の場は古典発祥の地


鍼灸をやっていく上で古典を学ぶということをどのように位置づけるかということは、「どういう鍼灸をしたいのか」で、答えが出てきます。東洋医学的な観点から身体をどのように把握するのか、ということに関心のない鍼灸師にとっては、古典など必要ありません。指の感覚を鍛えて後は営業に徹するというのがその目的に沿っているでしょう。

これに対して、あくまで東洋医学的な観点から身体を把握し治療を行いたいという鍼灸師であれば、ではその東洋医学的な観点とは何か。その立ち位置はいずこにあるのか、と問い合わせるためだけにでも、古典を読むことは必要になります。

その際にもし、東洋医学そのものがその当時の人間観を基にした観察によって成立しているということに思い至るならば、読む必要のある古典とは、古代の人間観を記載している哲学書や宗教書になるでしょう。これはすなわち、諸子百家を学ばなければならないということになります。

東洋思想が揺らぎながらもゆるぎなく立っていた時代、東洋医学は東洋思想の人間観を土台にしていました。

その思想の主流としては朱子学、儒教ということになります。宋代にできた儒教である朱子学は、その当時の古典である春秋戦国時代の書物を体系的にまとめなおしたものですから、東洋医学の古典である黄帝内経の人間観もこれを基にすれば理解しやすいのではないだろうか、とあたりをつけています。この朱子学の基となった太極図の解釈が、一元流鍼灸術のテキストの中で述べられているのは、そのためです。

このような人間観を基盤として、身体感覚を磨き、経絡を発想し適用し臓腑と経絡との関連を考え、天人相応の観点に立って不足を補いながら生きて働いている人体の構造を体系化したものが、まさに「黄帝内経」です。

この中の臓腑経絡に関する体系化は古代人が纏め上げた東洋医学的人間観の中核となるもので、一元流鍼灸術の柱の一つです。

しかし臨床の場は、古典発祥の地そのものです。ですから今、新たに書きとめられる症例報告は、それ自体が古典となっていきます。古典となすべく臨床を積み重ねていくわけです。

古典を臨床の場で読むためには、東洋医学的な人間観が真実か否かその前提を確認しつつ格闘し検証する作業が必要となります。そして、その結果自らの血肉となった人間観を手にして再度、患者さんを把握していくわけです。
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一元流鍼灸術を行う覚悟


一元流鍼灸術を行うためには覚悟が必要だと、Oさんは言われていました。その時は私もその通り「そうですね」とお返事していましたけれども、その裏にある思いはOさんとは違う可能性があるので一言しておきます。

Oさんが語った覚悟というのは、最初から最後まで一元流の流れでやりきらないと一元流鍼灸術になっていかない、といった切羽詰まったものを感じました。それに対して私が思う覚悟というのは、やり始めようとする意志のことを言っているだけです。やり始めようとする気持ちを決めさえすればできる、決めなければ何もできないという程度のことなのです。

Y先生を見ているとわかると思いますけれども、一元流鍼灸術というのは自由自在なものです。型の基本は、患者さんをよく観て理解しようとする意志を持ち続けること、それだけです。

患者さんの気の濃淡を調える方法には、鍼灸を使うのも良いし、温めた石を使うのも良いし、指だけでやっても良いし、アロマや宝石でも良いし、言葉かけだけでやっても良いわけです。自身の得意を見つけ出し、それを患者さんをよりよく観よりよく理解しながら、よりよい方向へ調えていけばいいわけです。

そして次の段階として、気の方向性をつける場合に、できるだけ中心をおろそかにしないようにする、気海丹田を充実させることに心を払うということになります。

症状について考えるときには、それが全身の問題なのか部分だけの問題なのかという判断がもっとも大切です。全身と部分の関係の軽重を測った後に、今回Sさんが言われていた下肢痛の治療などが乗ってくるわけです。
学ぶ姿勢:二態


学ぶ姿勢には二種類の方向性が大きく分けてあります。
一つは外に求めること、もう一つは内に求めることです。

外、の種類には、古文献などの文献・実験・師事などがあります。
内、というのは、自身の内なる叡智に照らし合わせることです。
この内なる叡智は、仏性とも言います。

東洋思想を学ぶ者は、そこに古代の聖人の叡智を学ぼうとします。叡智に触れ感動した経験が、学ぶ動機になるのです。古文字を解き明かし難解な言葉の意味をこれも古人の解釈などを参考にしながら読み解いていく果てに、自身も解釈を書いてみたりします。古人が本当に言いたかったのはこれではないのかとか、このあたりの言葉の解釈は明確にしにくいので後人に託させていただきますなどと述べ連ねるわけです。そうして、正確な古人の言葉を蘇らせようとします。よくある学問の方法です。

これに対して、聖人は書物など読まなかったではないかという批判とともに、自らの内なる叡智を直接的に摸ろうとする学び方があります。あるいは書物を契機として、あるいは師匠の言葉を契機として、自らの内なる叡智=仏性を洗い出していく作業を行うわけです。

考えてみると前者の文献学的な積み重ねのもともとの動機も実は、自身の内なる叡智と学びたい東洋思想とが感応しあったことからその厖大な努力が始まっています。けれどもいつの間にかその感動は失われて、言葉が、学問が、おうおうにして日常の作業と同じように積み重ねられていきます。

けれども時々気がつくのです。欲しかったのは叡智であると。そして学んでいる理由はその叡智を探しているのであると。気がつくべきなのです。最初にあった感動は、外なる叡智と自身の内なる叡智の感応であったということに。儒教が宋学あるいは朱子学としてまとめ直された理由はここにあります。玉石混淆の古典を、内なる叡智に従って彫刻し直し、後進が自身の叡智を磨きやすいよう道を整えてくれたわけです。


東洋医学の学び方も実は同じです。秘伝はないか、有難い言葉はないか、と求め続けるのは外を求め続けているのです。けれどもそれが秘伝であるか否かということは自身の内なる叡智に問わなければ実はわかりません。そこで信用できそうな師について学ぶわけです。いわば今、自分自身が持っている器をいったん棚上げして、治療家になるために再生しようとしているわけです。

けれども患者さんを目の前にしたとき、同じ智の方法は通用しないということがわかります。秘伝を求めるという夢遊病のような世界から目が覚めてみると、目の前に患者さんが現実として存在している。それは自身の内なる叡智を表現する場となります。その時にあたって、叡智を磨くことを怠り言葉を追い求めていた者たちは迷い出すしかありません。何も手を下せない。病名をつけてもらわなければ何も手を下せないのです。


これに対して叡智を磨いている者たちは、今、知っていること理解していることを、患者さんの身体を通じて統合するという作業ができます。これが、自身の器を知り、その自身の器の内側を搗き固めるという作業であり、内なる叡智を磨くという行為となります。

一元流鍼灸術でお伝えしていることはこの、統合の技術なのです。
【学ぶ】とは。自らの変革に向けて肚を括るということです。
  求道の初心を自己に問い、
  気づきに従ってそれまでの自分を手放していくということ
  自分の内的変化へのアプローチ。覚悟。
  胆田を練るという覚悟を決めることが大切です
  この段、朱子学における居敬の心を定めることになります
  学ぶの基本は完全なる自己の白紙化による完全な受容です

【見る】とは。与えられたものを受けとるだけではなく、
  感応に従って触手を伸ばしていくということです。
  感応が見る場所を決めるわけですが、
  その自覚によって見る行為が磨かれていきます。
  選択が頭で行なわれれば迷いが産まれますが、
  胆田で見ることによって、見ることが気づきになります。
   この段、朱子学における窮理の方法を具体化しているものです。
  見るの基本は白紙の自己に映っているものを自覚することです。

【処置する】とは。握ったものを基礎として他者に届けることです。
  積極的な自他の出会いはここに始まり、
  再度、気づきの循還に帰していきます。
  このようにして人と出会い、
  このようにして人と交わり、
  このようにして人生を作っていきます。
  処置するの基本はあるがままの交わりです。

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