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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

東洋医学の先人たちへの恩返し

古典を読むということは、自分の意見の歴史的な位置づけを得ることができます。これによって、自分の意見を学問のレベルに引き上げることができるわけです。

今、臨床の場という古典発祥の地に立つことによって、東洋医学の中核である臓腑経絡学を磨き上げ書き換えていこうとすることが、東洋医学の先人たちへの一元流鍼灸術による恩返しとなります。
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■経穴名に沿って経穴があるのではなく、経穴に名前が付いている

学校や素人は、この経穴がこの疾病に効果があるという言葉を信じて勉強を積んでいきます。けれども、実際に患者さんにあたると、経穴を見つけることができません。それは経穴名が体表に書いてあるわけではないためです。あたりまえのことですが。このあたりのことを乗り越えようとして経穴を探す方法が工夫されてきました。けれどもそれは体表を機械的に計測して当てはめるもので、経穴そのもの(沢田健先生のいわゆる生きて働いている経穴)を見出すための鍛錬ではありません。そのため中医学などでは体表に触れて経穴を探すこともせず、頭の中で作られた位置に基づいた場処に処置することとなっています。

会話を成立させるためあるいは情報を残すためにはその場処(体表の一点)を指し示す名前が付いていなければならず、その名前が同じ場所を指していることを前提として(特に近代は)経穴学が発展してきました。どの経穴はどのような疾病に効果があるといういわゆる特効穴治療などもこの過程で研究され、その記録が積み重ねられてきたものです。

けれどもこのての勉強を積み重ねているうちに忘れてしまうことがあります。それは、体表を観察することによって初めて、経穴の一点を手に入れることができるという単純な事実です。「名前がつけられる以前からそこに存在していた経穴表現を見出すこと」ここに古典を越えて事実そのものに立脚することのできる鍼灸師の特徴があります。体表観察こそが今生きている古典である身体を読み取るための武器であるということ、この事実を認識することから一元流の学は始まっています。


◇質疑

> 勉強会の実習で、いつもペンで印をつける経穴(陥凹・ゆるみ・
> 腫れなど)は、「生きて働いている経穴」ということなのでしょ
> うか?
>
> それはテキストにある「反応の出ている経穴」と同じものでしょ
> うか?


そうです。

> また、印をつけられない経穴は何なのでしょう?

微細な反応なので見えにくい経穴です。


> いま私の手元にある『経穴マップ』という本によれば、WHOの
> 国際標準で全身には361穴の経穴があるとのことであります。
> これは経穴の名前が361あるということで、誰でも常に361
> の経穴があるということではないわけでしょうか?

誰でも常に361の経穴があるということではありません。そのよ
うな標準化というのは無意味だということを言っています。

これはいわば、国家における町の数を数えるようなものです。体調
や状況生活習慣によって反応が出ている経穴の数も状況も変化しま
す。生命を取り扱うということはそのようなことです。国家におい
て町は生命の結節点ですが、時代によって地理によって状況によっ
て数も状況も大きく変化します。それと同じことです。

場を、面としてとらえる。その中の焦点を一点に定められる場合そ
れが経穴となり、そのあたりを指し示している経穴名を使用してそ
の位置を指示する。といった感じで経穴の探索を執り行います。

阿是穴は多くの場合経穴の正位置からの変動という発想で把えます。
そしてその変動には意味があるだろうと思います。足裏や手掌など
は古典で指示されている経穴名が少ないので、その位置が分かりや
すいように新しい名前をつけて呼ぶようにしています。

名前に存在が付いているのではなく、存在に名前が付いている件

書物になると、何穴は何に効くという書き方しかできません。そしてそれを読んだ人々は、なるほどツボっていうのはそんなに効くものなのか、と驚いてその何穴がどこにあるのか探し始めます。

でもその前に気づくべきです。体表に経穴名は書いていないということに。何穴を初めて使った人は、ただ体表観察をしていただけだということに。そこで経穴を探り当て、その位置の目標として名前をつけたに過ぎないということに。

ですから大切なことは体表観察です。どのようなものをツボとするのか。そこをまず押さえていきましょう。

次に理解すべきことは、経穴に治療効果があるのではないということです。経穴は身体の一部のごく一点にすぎません。その経穴がどのような作用をその身体に及ぼすのかということには本来、個人差があるべきです。

人間の構造がよく似ているから、その体質やその時の状況を考えもせずに、現れているかどうかもわからない何穴が何の病に効くと信じてそのツボを動かすという、その発想そのものがナンセンスであるということに気がつく必要があります。

そのために個別具体的な人間把握の方法―弁証論治があるわけです。

一元流鍼灸術では、あるがままのものをあるがままに観て、あるがままそれを理解する、この弁証論治の方法を提供しています。
言語を超えた理解を!

私どもは何を学ぼうとしているのでしょうか。何を形作ろうとしているのでしょうか。

中医学を学ぼうとしているわけではありません、経絡治療を学ぼうとしているわけではありません、漢方医学を学ぼうとしているわけではありません、東洋医学を学ぼうとしているわけではありません。

そうではなく、目の前にいる人間をよりよく見てよりよい治療を施すにはどうすればいいか、ということを学びたいわけです。

ということは、まず第一に、目の前にいる人間をどのように理解すればいいのか悩む必要があります。それがなければまず初発の心が起こりません。この道を続けていくことができません。もし人間に興味がないのであれば始めからこの道に入らないことです。

次に、どのようにすれば理解できるのだろうかという悩みに入ります。現代では医学というと西洋医学が主流ですので、それを学ぶのも一つの手です。解剖を学び生理を学びます。その精緻な分析的な手法に感動します。

けれどもそれで人間を捉えることができているのだろうか、本当にそれでいいのだろうかと悩みます。不自然な感じがするし肉体は救われるのかもしれないけれども心は救えないかも。病気は診ているかもしれないけれども人間を観てはいないのではないだろうか。そもそも人間を観るというのはどういうことだろう。

そこで東洋医学の一元的な人間観に出会うわけです。人と宇宙とを対応させて考えており、人間は小さな宇宙であるという。陰陽という物差し五行という物差しを使って、その宇宙をさまざまな角度から観ようとしているらしい。これって美しいかもと。

そこで勉強を始めます。すると、思いのほか大量の知識の集積の前に戸惑います。多くの言葉を記憶しなければそこに書いてあることを理解することすらできません。まじめな人はそこで苦労していく決意を固め、いわゆる東洋医学用語を定義しそれを使って表現する方法を学びます。そして古人の言葉を理解しその解説までつけられるようになります。そのような作業を続けて数十年が過ぎたころ運が良ければ再度深い迷いにはまり込むことにななります。

言葉は取りあえずわかったような気がするけれども、目の前の人間理解は進んでいるのだろうか。評価し分析することはできるようになっている気がするのだけれども、本当に理解しているのだろうか。と。


存在そのものへ、存在そのものの理解を、と思う時、実は言葉は邪魔なだけだったりします。言葉を通じて古人と対話し、言葉を通じて他者と対話することはできるわけですけれども、言葉以前に存在している人間そのものは言葉を格拒して〔注:きっぱりと拒絶して〕そこに存在しているのです。それをどう損壊しないようにありのままに把握していくのか。それが陰陽五行論の基本的な発想であったはずです。それなのに、いつの間にか陰陽の定義 五行の定義にはまり込んで、陰陽五行という自在な物差しの使い方がわからなくなってしまっています。定義された言葉がまるで存在そのものと自分の目の間に大きな黒い雲となって広がり、存在そのものが見えなくなってしまっているような感じです。

言葉はとても強いものなので、非常に危険です。言葉の危険のもっとも大きなものは、表現してしまうと理解できたような気がすることです。名前をつけてしまうとそれをわかったような気になってしまう。多くの言葉が積み重なっていると深い理解がそこにあるような気になってしまう。そして言葉という腐葉土の中で一生を終えることとなるわけです。

さて、一元流鍼灸術では、その言葉を使って勉強していくわけです。けれども、スタッフがいつも気をつけていることは、言葉におぼれない、言葉に踊らされない、存在そのものを理解しようとする姿勢を中心として言葉を理解し発しているということです。ですからまだ言葉を知らない初学の方々であったとしても、おかしいと思うことは積極的に発言していただくことで、スタッフの理解が進み一元流鍼灸術もさらに進歩していくことができます。

一元流鍼灸術の良さは実にここ、存在に対する謙虚さ、にあるわけです。

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