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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

古典は月を指す指にすぎない


真理はここにあると指さす、その指が古典です。

人は、不安の中に生きているので、思わずその指に飛びついて、真理はここにあると語り継いでしまいます。真理はここにあると、指さされている対象こそが大切なのに、指にそのまま飛びついてしまうのです。指は目の前にあり、形になっているので飛びつきやすいためでしょう。

そしてさらには、真理はここにあると指さしている指の指し方に興味を示す人々が出てきます。
彼は語ります、「本当の指さし方はこのように、右から左に大きく流すようにして、ぴたっと位置を決めて指すものだ」と。「古人もそのように指さすことによってこの真理をつかんだのである」と。

そのようにして、真理を指さす、指さし方が定められた。その際には大いなる会議までもたれて、賢者たちが侃々諤々の大議論を行ったりもします。

あるものは左から右に指さすべきだといい、そこには陰陽の理があると根拠づけました。

あるものは天地の関係の中から天上をまず指さした後に、大きく振りかぶるように地を指すようにすること。それこそがここにある真理を指さす指のあり方であると述べました。

あるものは、真理というのは変化するものであるのだから指さす場合にもその指は止めるべきではなく動き続けているものでなければならないとしました。そしてついには真理を踊る踊りが披露されることとなりました。彼は「動きの中にこそ真理がある」と、その指の動きを定義づけ、無駄のない動きとはいかにあるべきかという研究を続けることとなりました。

このようにして、膨大な真理の「指さし方の研究」が何千年にもわたって行われ、古典として積み重ねられてきたわけです。先人の知恵と呼ばれるそれらは、偉大なる古典の集積として崇められることとなりました。勉強家の古人の中には、その「指さし方」の書物を副葬品として、死後甦った後にも勉強できるようにと、埋葬させたものまでいました。

21世紀の現在、彼の墓が発掘されてその埋葬物が出てきました。偉大なる古典の原典が出現したと大いに「指さし方」の学会を湧かせることとなったそうです。「指さし方」の原典が判明した!と。


「真理」はその隣でいつ僕を見てくれるのだろうとじっと待ち続けました。けれども、学会はそれどころではありませんでした。なにせ、世紀の発見がそこにあるのですから、真理などかまってはいられません。

輝ける真理、生命そのものが「いま、ここ」にある。それにもかかわらず、生命そのものを見ることをせず、その真理の横でまるで真理から目をそらすように指さし方の研究に励んでいる学者が大量に存在しているのはのは、なぜなのでしょうか。

これは、最初に真理はここにあると指さした者の罪なのでしょうか。それとも賢人と呼ばれた人々が、実は指先を集めるだけで、真理などには興味もなかった、その愚かさによるものなのでしょうか。


ある人は、仏典が積み上げられなければ釈迦の悟りは伝わらなかったと言いました。仏典が伝わらなければ仏教は伝来していないと信じているのです。はて、仏典がなければ真理はなかったのでしょうか?それなら仏典など一冊も存在していない時代に生きて修業していた釈迦は、決して真理に到達することはなかったということなのでしょうか。

真理が見つけられたと伝えられた時、無上の覚りがこの人生の中にあると伝えられた時、あなたはどうするでしょう。その言葉を聞きにいくでしょうか。その指さし方を眺めにそこに行くのでしょうか。それとも自らの「真理を求める力」を用いて、自らのいのちに真正面から向かい合うのでしょうか。

私たちは一人一人がこの「いのち」の真理の上に立ち、それによって生かされています。ここを掘ること。今ここに存在している私たちのいのちを探究すること。これが真理へのただ一つの道です。それ以外に真理を探究する道は存在しないのです。
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■言葉の指す向き

言葉、というものは恐ろしいものだと思います。
読む言葉、語る言葉に、指す言葉。
武士道における言葉は発するものの内側に肉薄する言葉でした。
他者に対するものではなく、己に対する諫言。

この同じ言葉が、他者に向けられたとき、それは他者を支配し傷つける刃となります。
けれどもそれが己に向けられたとき、己を磨く砥石となります。

この二者の差は歴然としているものです。

道徳を説くものの醜さは、己に向けられるべきこれらの言葉を他者に向けて発して、他者を支配しようとするところにあります。

己に向けられたものの美しさは、自身の切磋琢磨の目標としてこれらの言葉を用いるところにあります。

己に向けた言葉を他者に向けぬようくれぐれも注意していきたいものです。



■己と他者


さてそれでは、己と他者とを区別する行為は道を行ずる者の行為であろうか、という疑問がここに生じます。

道を行ずるということは、自他一体の理の中に自らを投与するということでもあります。そこに、あえて他者を設けて自らと分け、道を説かずにおくという行為があり得るのでしょうか。

ここに実は、自らの分を定めるという意識が働くこととなります。

教育者として自らを定めるのであれば別ですが、道を行ずる者は先ず第一に己を極めることが義務となります。そしてこの己を極めるという行為は一生継続するものです。その行為の合間に他者を入れる隙などは実はあり得ませんしあってはならないことだと私は思います。

ところが、学ぶものには語る義務が生ずる、後進を導く責任が生ずる。そこを道を行ずるものとしてどのように乗り越えていくかということが、ここで問われていることです。

そしてそれは、他者として彼らに道を語るのではなく、自らの内なる者として、同道の者として、己自身に対すると同じように道を究める努力をともにする。このことを提示する。ということでしか有り得ないと私は考えています。



■違和感の大切さ


違和感は、自身の常識と他者の常識との間の違いによって起こります。

常識というものはそもそもその人生における自身の姿勢を決定付けているもの。いわば、ものの見方考え方の基本です。

違和感を持つということは、自分自身の常識に不安を持つということです。ここにおいて初めて、自身の概念の殻を打ち破って、他者との出会いが始まるわけです。自身の常識を疑うことによってはじめて、新たな世界がその視野に開かれることとなるわけです。

教育というのは、他者による洗脳です。これは言葉を換えると、新たな世界観を提示し修得させるということになります。

現行の教育機関において、その多くが言葉を使って行われているため、教育の基本として言葉が優位となりがちです。すなわち言葉を多く持っていることが教育者の能力とされがちなわけです。

けれども臨床家になるための教育は、そういうものでは実はありません。事実を観、それをどのように表現して他者の発した臨床の言葉とつなげて理解しなおしていくのか。このことを通じて、より深い正確な臨床へと自身の行為をつなげていこうとする。この過程を修得するということがポイントとなります。
古典を読むということ 弁証論治を作成するということ

一元流鍼灸術では文字で書かれている古典を読むことも大切にしています。けれどもその読み方には特徴があります。

以前触れましたが、究極の古典は目の前の患者さんの言葉化される以前の身体です。ですから、古典を読む時に念頭に置かなければならないもっとも大切なことは、目の前の患者さんの身体をどのように理解するのか、ということです。そのための道具として、先人が同じように目の前の患者さんの身体を理解しようとして、ひもとき綴ってきた古典を使用するわけです。

そのような姿勢に立つとき大切なことが、古人の視点に立ち返るということです。この古人の視点とは何かというと、天人相応に基づく陰陽五行論です。気一元の観点から把握しなおした陰陽と五行という視点を明らかにしない限り、古人の位置に立ち、古人とともに古典を形作る共同作業を担うことはできません。

ですから一元流鍼灸術のテキストではまず、「気一元の観点に立った陰陽と五行の把握方法」について語られています。


何かを解釈する際に基本的に大切なこととして、何を解釈しようとしているのか、その対象を明らかにする必要があります。ことに「天人相応の関係として捉えうる人間の範囲」とは何かということを規定しなければ、天人相応の関係を持つとすることが何を意味しているのかということや、気一元のものとして捉えるということが何を意味しているのかということを理解することはできません。

「場」の中身を陰陽の観点から五行の観点から把握し治すその前に、その場の状態―包括的な傾向を把握しておく発想が必要です。そのことを「器の状態」としてテキストでは述べています。生きている器の状態の動き方の傾向を把握しようとするわけです。その変化の仕方の傾向をどのように把握するのかという一段高い観点がテキストでは述べられています。それが、器の敏感さ鈍感さ、器の大きさ小ささ、器の脆さ緻密さという三方向からの観点です。テキストではこれを、人の生成病老死に沿って解説しています。陰陽と五行で把握するものは実は、そのような傾向を持つ器の「中身」の状態について考えているわけです。

生命が日々動いている場の状態を説明する際、その場=器の傾向を把握しておくことは、生きている生命の弁証論治をしていくうえで欠かすことのできないことです。この基礎の上に立つことによって初めて弁証論治を考えるという行為が成立するということを、一元流鍼灸術では明確にしています。


「場」の中身を陰陽の観点から五行の観点から把握し治すという行為はこの基礎の上に成立します。それは現在の気の濃淡の傾向を静的に分析するといった傾向を持ちます。その中でのバランスの崩れを時間の流れという動きの中から捉えていくわけです。


一元流鍼灸術で現在着々と積み重ねられている、このような基礎に立った弁証論治は、現在の目の前にある古典である患者さんの身体をいかに理解するのか、理解したかということを明らかにしているものです。積み重ねられた古典の情報を用いますけれども、実は今目の前にある患者さんを理解する、理解しようとするその熱が言葉になっているにすぎないとも言えます。

ですから、古典が時代とともに発展し変化してきたように、弁証論治も現時点でできあがった人間観や病理観を固定化し執着するものとしてはいけません。解釈はいつも仮の姿です。より真実に向けて、より実際の状態に向けて、弁証論治は深化し発展し続けなければならないものであると覚悟してかかるべきです。

このようにして初めて、次の時代に残すべき古典の原資を提供することができるわけです。


ですから一元流鍼灸術で古典を読む時、この同じ熱で古典が書かれているとして読んでいます。そのようにすると、文字に踊らされて綴られているにすぎない部分や、論理的な整合性を求めてまとめられたにすぎない部分や、とりあえず資料として収録されたにすぎない部分などが見えてきます。

古典を大切に思っていますので、その原資料を現代的な視点で解釈しなおしたり改変したりはしません。より書き手の心の奥に潜む情熱に沿うように読み取っていきます。読み取る際には私心をなくしてただ読みます。けれども、読み取ったものに対しては厳しい批判の眼差しを向けます。読み取る際には私心をなくしてただ読み取り、読み取ったものに対しては厳しい眼差しを向けるというこの姿勢は、実は我々が弁証論治を作成する際に自分自身に向ける眼差しと同じです。

これはすなわち一元流鍼灸術で古典を読むということなのです。
古典を読み身体を読む心

鍼灸医学は、東洋思想に基づいた人間学にしたがって人間を見つめ、それを通じて、その生命医学・実証医学としての体系を作り上げてきました。

この基本とは何かというと、観ることです。観て考え、考えてまた観る。事実とは何かということを観る、とともにその底流に流れる生命原理について思いを尽す。その無窮の作業の果てに、現在古典として伝えられている『黄帝内経』などの書物が出来上がっているわけです。

鍼灸師としての我々はそれらの書物を基にしてふたたび無窮の作業の基となっている実態、古典を古典としてあらしめたものそのものである、目の前に存在する人間そのものに向かっていくわけです。そして、どうすればよりよくそれを理解できるだろうか、どうすればその生命状況をよりよい状態へと持っていくことができるだろうかと探求していくわけです。


古典というものは、いわば身体を旅するための地図の役割をしています。時代によって地域によって違いはあります。けれどもその時代その地域において、真剣に人間を見続けたその積み重ねが、現在我々が手にすることのできる資料として言葉で残されているわけです。これはまさにありがたいことであると思います。

深く重厚な歴史の積み重ねは、東洋医学の独壇場ともいえるでしょう。けれどもその書物の山に埋もれることなくそれを適宜利用していけるような人材を作るということが、学校教育に求められることです。外野としての私は、その支援の一つとして、中心概念をここ「一元流鍼灸術の門」に明確にしているわけです。それが気一元として人間を見るということと、その古代哲学における展開方法としての陰陽と五行の把握方法であるわけです。


古典という地図には読み方があります。身体は時代や地域によって異なります。現代には現代の古典となるべき地図が、実は必要となります。現代の人間観、宇宙観にしたがいながらも、目の前に存在している人間を観ることを徹底することによって、はじめて古典を綴った古人とつながることができます。そして、現代には現代の古典が再び綴られていくこととなるでしょう。これこそが澤田健先生の言われた、「死物である書物を、活物とする」技となります。


思えば、古典を読むという際の白紙の心と、身体に向かう際の白紙の心とは同じ心の状態です。無心に謙虚に、対象をありのままに尊崇する心の姿勢が基本となります。

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