....弁病について
今回の読み合わせは、267ページの弁病から、291ページの弁証論治の最後まで行いました。初版の時に書いていた内容と、第二版で書き加えた内容とが少しづつ違っていて、我ながら興味深く読み進みました。
「弁病」という概念についての問題意識は初版の時からあったため、記載が簡略になっています。目の前にいる患者さんを一人の人間とみるところから東洋医学は始まるはずなのに、病気で分類してしまうなんて西洋医学みたいなことをしてもいいのだろうかという疑問があったわけです。
けれども、弁病そのものは隋の『諸病源候論』を持ち出すまでもなく、東洋医学の伝統の一角をなすものです。また、伝統的な治療法を参考にする場合、これは避けて通ることのできないところでもあります。
けれども弁病をするということには大きな欠点があります。それは、人間をみるのではなく疾病をみている、疾病のカテゴリー分けの中に人間を落とし込んでしまう危険がある、ということです。
中医学ではこのカテゴリー分けが発達して、証候鑑別診断学となって大きなウェートを占めています。そしてこれは、病気をカテゴリーに分けて症状を押さえ込むという意味での治療効果を高めようとしている西洋医学と連携しやすい部分になっています。
けれども一元流鍼灸術では、この疾病のカテゴリー分類の中に人間を入れ込んでいくことから徐々に離れ、「弁病」ではなく、人間を観る、そのための弁証論治をする、というところに現在、着地しています。さまざまな疾病を起こしている―あるいは起こす以前の―人間の生命状況に、より着目しているわけです。
だからといって、病んでいる部分をみることをまったくしなくなっているわけではありません。そのことは、290ページの「八、弁証論治」の中に「弁証は主訴に対して行います。ここには、主訴と全身状態の変化とが関連しているか否かという鑑別が非常に重要なものとなります。」という形で述べられています。これは、実は、疾病治療という観点から私が書いた、おそらく最後の言葉です。
一元流の弁証論治は、人間理解のために行われるものであって、主訴の理解のためにあるわけではない。主訴は、患者さん本人が気にしているかもしれないけれども、実は、患者さんの身体をよくする契機となるものであるかもしれず、また問題の中心にあるものではない可能性もあるから、主訴にこだわりすぎてはいけない。という地点に現在では着地しており、より全体的な観点から弁証論治を定めることを行っています。
症状をとるのが治療の目標ではなく、生命力を高めることが治療の目標である。そのためにその患者さんの全体を理解しようとするものが弁証論治の目的であると考えているわけです。
今回の読み合わせは、267ページの弁病から、291ページの弁証論治の最後まで行いました。初版の時に書いていた内容と、第二版で書き加えた内容とが少しづつ違っていて、我ながら興味深く読み進みました。
「弁病」という概念についての問題意識は初版の時からあったため、記載が簡略になっています。目の前にいる患者さんを一人の人間とみるところから東洋医学は始まるはずなのに、病気で分類してしまうなんて西洋医学みたいなことをしてもいいのだろうかという疑問があったわけです。
けれども、弁病そのものは隋の『諸病源候論』を持ち出すまでもなく、東洋医学の伝統の一角をなすものです。また、伝統的な治療法を参考にする場合、これは避けて通ることのできないところでもあります。
けれども弁病をするということには大きな欠点があります。それは、人間をみるのではなく疾病をみている、疾病のカテゴリー分けの中に人間を落とし込んでしまう危険がある、ということです。
中医学ではこのカテゴリー分けが発達して、証候鑑別診断学となって大きなウェートを占めています。そしてこれは、病気をカテゴリーに分けて症状を押さえ込むという意味での治療効果を高めようとしている西洋医学と連携しやすい部分になっています。
けれども一元流鍼灸術では、この疾病のカテゴリー分類の中に人間を入れ込んでいくことから徐々に離れ、「弁病」ではなく、人間を観る、そのための弁証論治をする、というところに現在、着地しています。さまざまな疾病を起こしている―あるいは起こす以前の―人間の生命状況に、より着目しているわけです。
だからといって、病んでいる部分をみることをまったくしなくなっているわけではありません。そのことは、290ページの「八、弁証論治」の中に「弁証は主訴に対して行います。ここには、主訴と全身状態の変化とが関連しているか否かという鑑別が非常に重要なものとなります。」という形で述べられています。これは、実は、疾病治療という観点から私が書いた、おそらく最後の言葉です。
一元流の弁証論治は、人間理解のために行われるものであって、主訴の理解のためにあるわけではない。主訴は、患者さん本人が気にしているかもしれないけれども、実は、患者さんの身体をよくする契機となるものであるかもしれず、また問題の中心にあるものではない可能性もあるから、主訴にこだわりすぎてはいけない。という地点に現在では着地しており、より全体的な観点から弁証論治を定めることを行っています。
症状をとるのが治療の目標ではなく、生命力を高めることが治療の目標である。そのためにその患者さんの全体を理解しようとするものが弁証論治の目的であると考えているわけです。
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中医学は論理的か
ある書籍で、中医学は論理的で日本医学は非論理的であるという言葉を読んでびっくりしました。日本における経絡治療と呼ばれる鍼灸集団に論理というものが存在しないということには異論はないなのですが、中医学も言葉が多いだけで論理的な整合性はありません。
ここで中医学と呼んでいるのは、現代中医学すなわち上海から外国人教育のために始まった教科書的中医学について論じています。とはいっても天津の中西医合作は、より論理性が乏しいものです。上海を越えるものはおそらく、北京中医研究院あたりの弁証論治派となるのでしょうが、おそらくそれは中医学界ではマイナーな部類に入るでしょう。
なぜ、教科書的な中医学が非論理的であるかというとそれは読めばわかります。と言ってしまえばおしまいなのですが、基本理論である元気論・陰陽論・五行論についての記載はあるのですが、それが基本理論であるにも関わらず、また、中医学は理論によって構成されている部分が多いにもかかわらず、治療理論にまで反映されていないからです。
すなわち、基礎理論は基礎理論で述べました。古典に記載してあるとおりです。それを前提としているかどうかは別としてその応用である治病理論も述べました。歴史的にたくさんの解釈と治療法がありまんべんなく取り上げておきます。弁証論治に際しては、八綱弁証・衛気営血弁証・六経弁証・五臟六腑弁証などを適宜組み合わせて使ってください。そこには法則はありません。臨床家の勘によります。といった具合なのです。このどこから論理を導き出すことができるのでしょうか。
医学は患者の性急な要請すなわち「今この痛みかゆみをなんとかして欲しい」という思いによって堕落しあるいは導かれてきました。けれどもしかし《黄帝内経》はその患者の思いを乗り越えて初めて成立したものなのではないでしょうか?だからこそ未病を治す、すなわち患者の全生命状況を把握する中から治療方法を導いていくという観点が成立たのではないでしょうか。
後世の臨床家の多くはその全体観を理解できず、そのような広大な構想を持った医学から、単なる治療技術のみを抽出して伝えてきました。現代でも何の症状に効くツボは何ですかという発想しかでき得ない「治療家」がたくさんいます。
我々は何を学ぶべきなのでしょうか。それは、どのように人間を把握するのかという方法論と人間観なのではないでしょうか?
そのような人間観の把握において、中医学はまったく欠格しています。なぜなら、中医学の指導思想はどうしても毛沢東をつなぎとするマルクス主義的機械論を乗り越えることができないからです。中医学の狭さは、この機械論あるいは唯物的な人間観にあるということを理解し、用心すべきでしょう。中医学はその本来の発生において、古来から連綿と続いている東洋医学を裏切っているものだからです。
ある書籍で、中医学は論理的で日本医学は非論理的であるという言葉を読んでびっくりしました。日本における経絡治療と呼ばれる鍼灸集団に論理というものが存在しないということには異論はないなのですが、中医学も言葉が多いだけで論理的な整合性はありません。
ここで中医学と呼んでいるのは、現代中医学すなわち上海から外国人教育のために始まった教科書的中医学について論じています。とはいっても天津の中西医合作は、より論理性が乏しいものです。上海を越えるものはおそらく、北京中医研究院あたりの弁証論治派となるのでしょうが、おそらくそれは中医学界ではマイナーな部類に入るでしょう。
なぜ、教科書的な中医学が非論理的であるかというとそれは読めばわかります。と言ってしまえばおしまいなのですが、基本理論である元気論・陰陽論・五行論についての記載はあるのですが、それが基本理論であるにも関わらず、また、中医学は理論によって構成されている部分が多いにもかかわらず、治療理論にまで反映されていないからです。
すなわち、基礎理論は基礎理論で述べました。古典に記載してあるとおりです。それを前提としているかどうかは別としてその応用である治病理論も述べました。歴史的にたくさんの解釈と治療法がありまんべんなく取り上げておきます。弁証論治に際しては、八綱弁証・衛気営血弁証・六経弁証・五臟六腑弁証などを適宜組み合わせて使ってください。そこには法則はありません。臨床家の勘によります。といった具合なのです。このどこから論理を導き出すことができるのでしょうか。
医学は患者の性急な要請すなわち「今この痛みかゆみをなんとかして欲しい」という思いによって堕落しあるいは導かれてきました。けれどもしかし《黄帝内経》はその患者の思いを乗り越えて初めて成立したものなのではないでしょうか?だからこそ未病を治す、すなわち患者の全生命状況を把握する中から治療方法を導いていくという観点が成立たのではないでしょうか。
後世の臨床家の多くはその全体観を理解できず、そのような広大な構想を持った医学から、単なる治療技術のみを抽出して伝えてきました。現代でも何の症状に効くツボは何ですかという発想しかでき得ない「治療家」がたくさんいます。
我々は何を学ぶべきなのでしょうか。それは、どのように人間を把握するのかという方法論と人間観なのではないでしょうか?
そのような人間観の把握において、中医学はまったく欠格しています。なぜなら、中医学の指導思想はどうしても毛沢東をつなぎとするマルクス主義的機械論を乗り越えることができないからです。中医学の狭さは、この機械論あるいは唯物的な人間観にあるということを理解し、用心すべきでしょう。中医学はその本来の発生において、古来から連綿と続いている東洋医学を裏切っているものだからです。
中医学からの離脱のために
では臨床家が古典を研究して書いたものは読む必要がないのでしょうか。黄帝内経とその研究書、傷寒論とその研究書、難経とその研究書などはどのように読めばよいのでしょうか。
中医学にこのような研究書がダイジェストとしてまとめられて呈示されています。また現存する原書の多くも出版されています。けれども、そこには統一された人間観が実はないため、考えれば考えるほど混乱してしまいます。それにもかかわらず、中医学がその言葉の多彩さによって教育機関に取り入れられたため、矛盾した言葉のままに、試験において正誤が定まるという事態が生じてしまいました。
古典の解説書を読みこんでいってもっとも喜びの深いことは、この、中医学の常識あるいは決めつけから脱出できるということでしょう。古典と格闘した人々は皆なそれぞれに悩み、苦闘し、あるいは自分を信じ励まして、新たな解釈を生み出して臨床に応用していったのだ、ということが理解できるためです。けれどもこれは実は、勉強することそのものを目標とはしてこなかった臨床家であれば、直感を働かせてあたりまえにやっていることだったりもします。まじめに勉強した人ほど、この既成概念の解体作業に苦労します。このような自己解体作業をするときに、多くの古人の格闘が励ましになるわけです。
古典というと、《黄帝内経》《傷寒論》《難経》あたりのことを指すのでしょうが、「古典を学ぶ」という場合にその範囲となるのは、それらの古典と格闘してきた臨床家や学者たちの解釈、試行錯誤の歴史を学ぶということになります。それが中医学を勉強してきた者にどのような衝撃を与えうるかというと、中医学の教科書的一般常識の転換、発想の自由度の確立、決め付けからの解放が得られるということになるでしょう。
ただ、これは、人間そのものをきちんと観ていこうとする姿勢の中から、古典と対決していた人々の言葉から得られるものであって、これを得るところまで学ぼうとすると、大変な労力が必要となります。
中国は文の国です。文というのは飾りという意味で、虚飾を内包しています。言葉で飾るわけですね。実態に即していないことも、言葉で飾ってごまかしてしまう。中医学を深く学んでいくと、そのような事態に直面することになります。増補を重ねている『証候鑑別診断学』などはその典型です。これは実は、古典についても言えます。一つの発想を得るとそれを基にして論理展開させ、世界のすべてを語ってしまおうとする傾向があるわけです。
臨床の場というのは実は、古典発祥の地です。それは古代であっても現代であっても同じことです。古代人が、古典を今から書き上げて千年後の人を驚かせようぜ、なんて思って書いていたわけではないと思います。これは重要なことだから忘れないように書き留めておこう、これまで聞いたこともないようなことだけれども、どうもこちらが本当っぽい。いちおう書き記して後人の参考に供そう。こんな日々の積み重ねが発酵して、陰陽五行論と経絡理論とでまとめられ、黄帝内経みたいな理念的な書物になっていったわけです。
じゃぁ、現代人の我々は、どうすればいいのでしょうか?まさに古典発祥の地である臨床の場に立ち、何を手がかりに患者さんにアプローチしていけばいいのでしょうか?実はそのあたりの腹の括り方、まとめ方を書いたものが《一元流鍼灸術の門》です。ここにはいわば、古典のエッセンスが入っています。そしてそれは、今、古典となっても恥ずかしくないものを書いていこうとする者に、発想法と手段とを提供しているものです。
では臨床家が古典を研究して書いたものは読む必要がないのでしょうか。黄帝内経とその研究書、傷寒論とその研究書、難経とその研究書などはどのように読めばよいのでしょうか。
中医学にこのような研究書がダイジェストとしてまとめられて呈示されています。また現存する原書の多くも出版されています。けれども、そこには統一された人間観が実はないため、考えれば考えるほど混乱してしまいます。それにもかかわらず、中医学がその言葉の多彩さによって教育機関に取り入れられたため、矛盾した言葉のままに、試験において正誤が定まるという事態が生じてしまいました。
古典の解説書を読みこんでいってもっとも喜びの深いことは、この、中医学の常識あるいは決めつけから脱出できるということでしょう。古典と格闘した人々は皆なそれぞれに悩み、苦闘し、あるいは自分を信じ励まして、新たな解釈を生み出して臨床に応用していったのだ、ということが理解できるためです。けれどもこれは実は、勉強することそのものを目標とはしてこなかった臨床家であれば、直感を働かせてあたりまえにやっていることだったりもします。まじめに勉強した人ほど、この既成概念の解体作業に苦労します。このような自己解体作業をするときに、多くの古人の格闘が励ましになるわけです。
古典というと、《黄帝内経》《傷寒論》《難経》あたりのことを指すのでしょうが、「古典を学ぶ」という場合にその範囲となるのは、それらの古典と格闘してきた臨床家や学者たちの解釈、試行錯誤の歴史を学ぶということになります。それが中医学を勉強してきた者にどのような衝撃を与えうるかというと、中医学の教科書的一般常識の転換、発想の自由度の確立、決め付けからの解放が得られるということになるでしょう。
ただ、これは、人間そのものをきちんと観ていこうとする姿勢の中から、古典と対決していた人々の言葉から得られるものであって、これを得るところまで学ぼうとすると、大変な労力が必要となります。
中国は文の国です。文というのは飾りという意味で、虚飾を内包しています。言葉で飾るわけですね。実態に即していないことも、言葉で飾ってごまかしてしまう。中医学を深く学んでいくと、そのような事態に直面することになります。増補を重ねている『証候鑑別診断学』などはその典型です。これは実は、古典についても言えます。一つの発想を得るとそれを基にして論理展開させ、世界のすべてを語ってしまおうとする傾向があるわけです。
臨床の場というのは実は、古典発祥の地です。それは古代であっても現代であっても同じことです。古代人が、古典を今から書き上げて千年後の人を驚かせようぜ、なんて思って書いていたわけではないと思います。これは重要なことだから忘れないように書き留めておこう、これまで聞いたこともないようなことだけれども、どうもこちらが本当っぽい。いちおう書き記して後人の参考に供そう。こんな日々の積み重ねが発酵して、陰陽五行論と経絡理論とでまとめられ、黄帝内経みたいな理念的な書物になっていったわけです。
じゃぁ、現代人の我々は、どうすればいいのでしょうか?まさに古典発祥の地である臨床の場に立ち、何を手がかりに患者さんにアプローチしていけばいいのでしょうか?実はそのあたりの腹の括り方、まとめ方を書いたものが《一元流鍼灸術の門》です。ここにはいわば、古典のエッセンスが入っています。そしてそれは、今、古典となっても恥ずかしくないものを書いていこうとする者に、発想法と手段とを提供しているものです。
中医学は東洋医学にはなり得ない
現在私の勉強内容は、一元流鍼灸術のゼミでの一元流鍼灸術の研究の他に、サブコースでの腹診の研究、個人としての刺絡の研究に入っています。(2010年当時)
このブログの副題にも書いてありますが、中医学は決して東洋医学を代表するものにはなり得ません。なぜかというと、東洋医学的な人間観を中国共産党は持ち得ないためです。
私は二十年以上中医学の勉強をしてきましたが、その初期のころ60年代の文献には必ず初めに毛沢東万歳という文章が掲載されていました。文化大革命のころで、ここで殺害された学者もたくさんいました。立派な内容の書籍で、この時期に刊行が途絶えたものがあります。
文化大革命は毛沢東が行った中国文明に対する殺戮行為でした。これは現在進行しているチベット文明・ウィグル文明・モンゴル文明に対する抹殺行為と通底するものです。
ここで歴史は断絶し、共産党が許容する中医学がはびこることとなりました。
共産党の人間観は、唯物史観であり個人主義思想です。これは儒教や道教や仏教を核とした東洋の一体思想とは異質のものです。
もし東洋医学を理解しようとするのであれば、諸子百家を学び、儒教を学び道教を学ばなければなりません。歴史的には仏教もその影響を東洋思想に与えていますので、これも学ぶ必要があります。
また、日本においては、仏教徒が中心となって医学を導入してきましたので、その人間観が日本の東洋医学には深く反映されていると見ないわけにはいきません。
日本に入ってくると、仏教も儒教もすこぶる日本的なものとなります。仏教は禅に昇華され、儒教が武士道に昇華されます。その根底には神道があるということもまた、当然理解される必要があります。
自らの汚れを祓い清めることによって「存在そのものへ」と肉薄していきそれを理解しようとする神道。このような神道があったために、仏教の本質、儒教の本質が浄化されて日本に取り入れられることができました。日本の各々の道の懐の深さは、このようにしてできあがってきたのです。
現在私の勉強内容は、一元流鍼灸術のゼミでの一元流鍼灸術の研究の他に、サブコースでの腹診の研究、個人としての刺絡の研究に入っています。(2010年当時)
このブログの副題にも書いてありますが、中医学は決して東洋医学を代表するものにはなり得ません。なぜかというと、東洋医学的な人間観を中国共産党は持ち得ないためです。
私は二十年以上中医学の勉強をしてきましたが、その初期のころ60年代の文献には必ず初めに毛沢東万歳という文章が掲載されていました。文化大革命のころで、ここで殺害された学者もたくさんいました。立派な内容の書籍で、この時期に刊行が途絶えたものがあります。
文化大革命は毛沢東が行った中国文明に対する殺戮行為でした。これは現在進行しているチベット文明・ウィグル文明・モンゴル文明に対する抹殺行為と通底するものです。
ここで歴史は断絶し、共産党が許容する中医学がはびこることとなりました。
共産党の人間観は、唯物史観であり個人主義思想です。これは儒教や道教や仏教を核とした東洋の一体思想とは異質のものです。
もし東洋医学を理解しようとするのであれば、諸子百家を学び、儒教を学び道教を学ばなければなりません。歴史的には仏教もその影響を東洋思想に与えていますので、これも学ぶ必要があります。
また、日本においては、仏教徒が中心となって医学を導入してきましたので、その人間観が日本の東洋医学には深く反映されていると見ないわけにはいきません。
日本に入ってくると、仏教も儒教もすこぶる日本的なものとなります。仏教は禅に昇華され、儒教が武士道に昇華されます。その根底には神道があるということもまた、当然理解される必要があります。
自らの汚れを祓い清めることによって「存在そのものへ」と肉薄していきそれを理解しようとする神道。このような神道があったために、仏教の本質、儒教の本質が浄化されて日本に取り入れられることができました。日本の各々の道の懐の深さは、このようにしてできあがってきたのです。
■日本の東洋医学と、大陸の東洋医学との違い
支那大陸における東洋医学と日本における東洋医学とは、原典はほぼ同じであるにもかかわらず大きく異なります。
その理由は、大陸においては受験儒教に墮した朱子学が学問すなわち人間理解の中心概念となったのに対して、日本では自己陶冶とリアリズムを探求した禅による自己省察が人間理解の中心となったことにあります。
この違いは、江戸時代に流行した日本の書籍が医学の全体観を把握できるような小冊子であったのに対して、清代に支那大陸において流行したものが、百科全書的な大部のものとなっているという違いとなり大きな差となって表れています。
全体観を把持する中から「ほんとうにこれはそうなのだろうか」と検討していく日本の東洋医学に対して、古人の記載を網羅しそれを辞書のように引いて症状に治療をあてはめてい治療を施していく大陸の東洋医学の差が、ここに生じてきます。
このおおいなる差異は現在でも続いています。
弁証論治を数多くの弁証の型に当てはめることから考えはじめようとする「証候鑑別診断学」に邁進する中医学と、全体観を重んじ病因病理を個別具体的に考えていこうとする一元流鍼灸術の違いが、もっとも端的な差となります。
■中医学は東洋医学にはなり得ない
現在私の勉強内容は、一元流鍼灸術のゼミでの一元流鍼灸術の研究の他に、サブコースでの腹診の研究、個人としての刺絡の研究に入っています。(2010年当時)
このブログの副題にも書いてありますが、中医学は決して東洋医学を代表するものにはなり得ません。なぜかというと、東洋医学的な人間観を中国共産党は持ち得ないためです。
私は二十年以上中医学の勉強をしてきましたが、その初期のころ60年代の文献には必ず初めに毛沢東万歳という文章が掲載されていました。文化大革命のころで、ここで殺害された学者もたくさんいました。立派な内容の書籍で、この時期に刊行が途絶えたものがあります。
文化大革命は毛沢東が行った中国文明に対する殺戮行為でした。これは現在進行しているチベット文明・ウィグル文明・モンゴル文明に対する抹殺行為と通底するものです。
ここで歴史は断絶し、共産党が許容する中医学がはびこることとなりました。
共産党の人間観は、唯物史観であり個人主義思想です。これは儒教や道教や仏教を核とした東洋の一体思想とは異質のものです。
もし東洋医学を理解しようとするのであれば、諸子百家を学び、儒教を学び道教を学ばなければなりません。歴史的には仏教もその影響を東洋思想に与えていますので、これも学ぶ必要があります。
また、日本においては、仏教徒が中心となって医学を導入してきましたので、その人間観が日本の東洋医学には深く反映されていると見ないわけにはいきません。
日本に入ってくると、仏教も儒教もすこぶる日本的なものとなります。仏教は禅に昇華され、儒教が武士道に昇華されます。その根底には神道があるということもまた、当然理解される必要があります。
自らの汚れを祓い清めることによって「存在そのものへ」と肉薄していきそれを理解しようとする神道。このような神道があったために、仏教の本質、儒教の本質が浄化されて日本に取り入れられることができました。日本の各々の道の懐の深さは、このようにしてできあがってきたのです。
支那大陸における東洋医学と日本における東洋医学とは、原典はほぼ同じであるにもかかわらず大きく異なります。
その理由は、大陸においては受験儒教に墮した朱子学が学問すなわち人間理解の中心概念となったのに対して、日本では自己陶冶とリアリズムを探求した禅による自己省察が人間理解の中心となったことにあります。
この違いは、江戸時代に流行した日本の書籍が医学の全体観を把握できるような小冊子であったのに対して、清代に支那大陸において流行したものが、百科全書的な大部のものとなっているという違いとなり大きな差となって表れています。
全体観を把持する中から「ほんとうにこれはそうなのだろうか」と検討していく日本の東洋医学に対して、古人の記載を網羅しそれを辞書のように引いて症状に治療をあてはめてい治療を施していく大陸の東洋医学の差が、ここに生じてきます。
このおおいなる差異は現在でも続いています。
弁証論治を数多くの弁証の型に当てはめることから考えはじめようとする「証候鑑別診断学」に邁進する中医学と、全体観を重んじ病因病理を個別具体的に考えていこうとする一元流鍼灸術の違いが、もっとも端的な差となります。
■中医学は東洋医学にはなり得ない
現在私の勉強内容は、一元流鍼灸術のゼミでの一元流鍼灸術の研究の他に、サブコースでの腹診の研究、個人としての刺絡の研究に入っています。(2010年当時)
このブログの副題にも書いてありますが、中医学は決して東洋医学を代表するものにはなり得ません。なぜかというと、東洋医学的な人間観を中国共産党は持ち得ないためです。
私は二十年以上中医学の勉強をしてきましたが、その初期のころ60年代の文献には必ず初めに毛沢東万歳という文章が掲載されていました。文化大革命のころで、ここで殺害された学者もたくさんいました。立派な内容の書籍で、この時期に刊行が途絶えたものがあります。
文化大革命は毛沢東が行った中国文明に対する殺戮行為でした。これは現在進行しているチベット文明・ウィグル文明・モンゴル文明に対する抹殺行為と通底するものです。
ここで歴史は断絶し、共産党が許容する中医学がはびこることとなりました。
共産党の人間観は、唯物史観であり個人主義思想です。これは儒教や道教や仏教を核とした東洋の一体思想とは異質のものです。
もし東洋医学を理解しようとするのであれば、諸子百家を学び、儒教を学び道教を学ばなければなりません。歴史的には仏教もその影響を東洋思想に与えていますので、これも学ぶ必要があります。
また、日本においては、仏教徒が中心となって医学を導入してきましたので、その人間観が日本の東洋医学には深く反映されていると見ないわけにはいきません。
日本に入ってくると、仏教も儒教もすこぶる日本的なものとなります。仏教は禅に昇華され、儒教が武士道に昇華されます。その根底には神道があるということもまた、当然理解される必要があります。
自らの汚れを祓い清めることによって「存在そのものへ」と肉薄していきそれを理解しようとする神道。このような神道があったために、仏教の本質、儒教の本質が浄化されて日本に取り入れられることができました。日本の各々の道の懐の深さは、このようにしてできあがってきたのです。
東洋医学と中医学
東洋医学はその歴史の淵源をたどると、支那大陸に発生した思想風土に立脚していることが理解できます。
そしてそれは道教の成立よりも古く、漢代の黄老道よりも古い時代のものです。
現代日本に伝来している諸子百家は、春秋戦国時代という、謀略を競う血腥い戦乱の世に誕生しているわけですけれども、東洋医学の淵源もその時代に存在しています。
もちろん、体系化されていない民間療法的なものはいつの時代のも存在したことでしょう。それらが体系化され、陰陽五行という当時考えられていた最高の宇宙の秩序に沿って眺め整理しなおされたのが、戦国時代の末期であろうということです。
それに対して中医学は、現代、それも1950年代にそれまで存在していた東洋医学の文献の整理を通じて国家政策としてまとめあげられました。そしてそれは、毛沢東思想というマルクス主義の中国版をその仮面の基礎としています。
それまで延々と存在し続けてきた中国の思想史、ことに儒教と道教を毛沢東思想は排撃していますから、中医学は実は根本問題としての人間観において、東洋医学を裏切るものとなっていると言わざるを得ません。
東洋医学を深めれば深めるほど、実は毛沢東思想とは鋭く対立するものとなります。また、中国共産党がその共産主義を先鋭化させればさせるほど、東洋医学と乖離していくこととなります。現代は、その相方があいまいな位置にあり、臨床の名の下で基本的な人間観を問うことなく対症療法に励んでいる、いわば、医学としての過渡期にあると私は考えています。
このような中医学を越え、人間学としての東洋医学を再度掌中に新たにものするために私は、支那の古代思想に立ち返り、さらには、それを受容してきた日本と、その精華である江戸の人間学に着目しています。東洋医学をその根本に立ち返って見なおそうとしているわけです。
東洋医学はその歴史の淵源をたどると、支那大陸に発生した思想風土に立脚していることが理解できます。
そしてそれは道教の成立よりも古く、漢代の黄老道よりも古い時代のものです。
現代日本に伝来している諸子百家は、春秋戦国時代という、謀略を競う血腥い戦乱の世に誕生しているわけですけれども、東洋医学の淵源もその時代に存在しています。
もちろん、体系化されていない民間療法的なものはいつの時代のも存在したことでしょう。それらが体系化され、陰陽五行という当時考えられていた最高の宇宙の秩序に沿って眺め整理しなおされたのが、戦国時代の末期であろうということです。
それに対して中医学は、現代、それも1950年代にそれまで存在していた東洋医学の文献の整理を通じて国家政策としてまとめあげられました。そしてそれは、毛沢東思想というマルクス主義の中国版をその仮面の基礎としています。
それまで延々と存在し続けてきた中国の思想史、ことに儒教と道教を毛沢東思想は排撃していますから、中医学は実は根本問題としての人間観において、東洋医学を裏切るものとなっていると言わざるを得ません。
東洋医学を深めれば深めるほど、実は毛沢東思想とは鋭く対立するものとなります。また、中国共産党がその共産主義を先鋭化させればさせるほど、東洋医学と乖離していくこととなります。現代は、その相方があいまいな位置にあり、臨床の名の下で基本的な人間観を問うことなく対症療法に励んでいる、いわば、医学としての過渡期にあると私は考えています。
このような中医学を越え、人間学としての東洋医学を再度掌中に新たにものするために私は、支那の古代思想に立ち返り、さらには、それを受容してきた日本と、その精華である江戸の人間学に着目しています。東洋医学をその根本に立ち返って見なおそうとしているわけです。