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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

劈頭言解説


劈頭言に書かれている言葉は2003年のものなのですけれども、まさにぴったりと焦点が合っているのですね。今読んで解説してみてもとても示唆に富んでいると感じます。

患者さんは症状を出している時に来院されることが多く、症状に振り回されていることが多いわけです。そのような状況にある患者さんに対して、その症状の原因や身体全体の状態を説明することによって、どれほど深い治療を行うことができるのかということは、治療家に任されているわけです。多くの場合、治療家も患者さんと同じように症状に振り回され、治るということを症状が取れるということと同義とし、治効を競ったりします。

この劈頭言は、そのような医学世界からの離脱を宣言しているものであるとも言えます。もっと深く人間全体を見ていきませんか、その方が東洋医学のありようとして真っ当なのではありませんかと、そういう風に言っているわけですね。
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劈頭言から総論まで

「一元流鍼灸術の門」の劈頭言をしばらくぶりで読み合わせしました。

劈頭言から総論部分へは、無から有を生じるようなスリリングな展開となっています。無から有を生じる、見えないところから見えるところに導かれる、無言から有言に転化する、無知から智に、闇から光にその一歩を進めるということは、ほんとうにスリリングなことです。臨床というのはこれを一から行っていることなんですね。

東洋医学というよりも東洋思想といった方が良いのかもしれませんが、宇宙を生きたままありのままに観る方法を一元流鍼灸術は提示しています。それによって、古人が《黄帝内経》を作り上げて人間の生きとし生ける状況を表し得たと同じような視点で、現代人の身体に学び、今目の前に生きている人間の生きとし生ける状況を表現できるようにしていこうとしているわけです。

冒頭のこの総論部分はその方法論を述べた部分で、理解したと思ったときには新たな穴蔵に入り、理解できないというときには新たな光明を見出す可能性の中にいるといった類の文章となっています。

実践を通じて深く身につけていく他ない言葉なのです。
診断地点は、全身の生命の縮図



kさんが書かれている、「肝木の身体観と難経鉄鑑の六十六難の図(杉山流の行灯の図も)は同じものである」「どれも生命を観て描いたものだから」という言葉はとても大切です。

kさんがいわれているとおり、「どこに焦点を当てて表現するのかで、図も違ったものに見えるけれど、見ているものは生命で、すべての図の元である、」ということなのです。

生命を観るということは、私たちは日常的な臨床で行っていることです。それをどのような角度から捉えなおしていくのか、ということが、生命を構造的に観ていくということの意味です。

時代によってもっとも大切なものがなにかということが変化してきたということは、二つ前のお話しで述べています。すべては気一元の生命についての話であり、一人ひとりが臨床で捉えている生命そのものの解説です。その中で、それぞれの古人が重視しているものが異なるため、語り方が変化し、それを図にしたものが異なってくるわけです。


そして、このことに気が付くためには、図を見ても図に囚われていてはいけない。図を離れて一つの生命である人間を見、その気一元の生命を見ることのために図を利用するという視点が必
要である。ということになります。生命が先、図が後。生命が先、言葉は後からつけたものということです。生命を見ようとし、見えた生命を表現するために工夫されたものが言葉であり図である。そうでなければいけない。ということです。言葉はとても自由なので、言葉の中身を理解できないまま言葉だけ伝承されたりすることが往々にしてあります。リアリティーのない、魂のない言葉が、真実の叫びの隣にそびえていたりします。読者はその壁を乗り越える必要があります。

「生命を見ようとし、見えた生命を表現するために工夫されたもの」ということから今回より具体的なものとして、脉診の話をすることとなりました。生命を見るというと観念的になりがちですので、脉を診るということに置きかえていったわけです。

一元流鍼灸術では、四診における診断地点を、全身の生命の縮図であると考えています。今回の話で出てきた、脉処もその一つです。背候診における背部、腹診における腹部、経穴診における十二原穴、尺膚診における尺膚、舌診における舌も、いわば小さな気一元の場所として捉えているわけです。

それぞれに表現における特徴はありますが、気一元の場所であるからこそ、先人が診断地点として遺してくれている。そう考えているわけですね。
武漢肺炎のこともあり、遠方であることもあって、実際に参加す
るのはどうもという方もおられると思います。

けれども、この勉強会は、実際にあって行う部分と、メイリング
リストに参加して行う部分との二本立てとなっています。ですか
ら、どちらか片方への参加―メイリングリストを読むだけの参加
でも大丈夫です。ほんとうは書き込みもしてほしいところではあ
ります。そこは敷居が高いのかもしれません。

メイリングリストしか参加できないけれどどうしようと迷われてい
る方がおられるようでしたら、遠慮なく参加してください。得るも
のはきっと多いと思います。
医学は人間学である


東洋医学は生きている人間をありのままに理解するための技術であると私は考えています。このことについて1989年に『臓腑経絡学ノート』の編集者序として以下のように私は書いています。

『医学は人間学である。人間をどう把えているかによって、その医学体系の現在のレベルがわかり未来への可能性が規定される。また、人間をどう把え人間とどうかかわっていけるかということで、治療家の資質が量られる。

東洋医学は人生をいかに生きるかという道を示すものである。天地の間に育まれてきた生物は、天地に逆らっては生きることができない。人間もまたその生長の過程において、天地自然とともに生きることしかできえない。ために、四季の移ろいに沿える身体となる必要がある。また、疾病そのものも成長の糧であり、生き方を反省するよい機会である。疾病を通じて、その生きる道を探るのである。』と。

この考え方は今に至るも変わらず私の臨床と古典研究とを支えています。

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