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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■鍼を通じて邪気が出る


> > | わたしの記憶している瀉についての実例は、伴先生が患者さんに鍼を
> > | したとき、鍼から邪気が出ていくのを感じ取ることができたという
> > | 衝撃的な例だけで、しかもそれすらも、患者さんの生命力にとっては
> > | 補であると思うので、瀉についての考えがほぼ無いということに…。
> >
> > この時、「生命力にとっては」という言葉を付与してし
> > まっているので、その場において生じた瀉すなわち邪気が出て
> > いくこと、の概念が飛んでいます。
>
> えーと…経穴という場から、全身の生命力という場に変えてしまった、
> ということでしょうか?うーん…(-_-;)

そういうことです。

局所的には、邪気が排泄される「瀉」が成立している、ということをよく考えると、その小さな場においても実は、邪気が排出されているから生命力が補われたことになっている。とも言えます。

それは全身の生命力にとっても当然、補、となるわけです。瀉が身体に行われることによって、補となる例です。

そしてこの同じ状況を逆の方から考えると、鍼を置くことによってただ邪気がその鍼を通じて出ただけではなく、鍼を置くことによってその部位に生命力を集めて、邪気を追い出すことを推進したという可能性もあります。

これは、経穴という小さな場の生命力を補うことによって、瀉が成立した、と言えるかもしれない例となります。
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■問:瀉法なんてないのでは?


治療はそもそも、生命力をより充実させるために行いますし、よほど極端な強刺激にしない限り(もしくはものすごく気虚の深い人でない限り)は、ほとんどが補になるのでは?と考えています。(どのくらいの刺激が生命力にとって助けになるのか、または妨げになるのかは、その人のそのときの許容範囲によって変わりますよね?)

わたしの記憶している瀉についての実例は、伴先生が患者さんに鍼をしたとき、鍼から邪気が出ていくのを感じ取ることができたという衝撃的な例だけで、しかもそれすらも、患者さんの生命力にとっては補であると思うので、瀉についての考えがほぼ無いということに…。

なので「補瀉」と、まるで「補」と対であるかのように書かれている「瀉」についての考えを持ち合わせていないから、「補瀉論」を考えようにも途方に暮れてしまうのだと気づきました。

このあたりの壁を、どのように乗り越えたらよいのか、伴先生にアドバイスをいただきたいのです。よろしくお願いしますm(_ _)m



...■答:伴 尚志


| 治療はそもそも、生命力をより充実させるために行いますし、
| よほど極端な強刺激にしない限り(もしくはものすごく気虚の深い人で
| ない限り)は、ほとんどが補になるのでは?と考えています。

そう考えています。

どこから瀉すなわち生命力を破壊することになるのかは、「手術とその予後」「交通事故」「交通事故や大けがなど死にいたる打撃」「武器や拳による怪我」などをも参考にして考えるべきかと思っています。


| (どのくらいの刺激が生命力にとって助けになるのか、または妨げに
| なるのかは、その人のそのときの許容範囲によって変わりますよね?)

その通りに考えています。

これは、外邪が身体を丈夫にするか弱らせるかということと同じ発想になります。そしてこのことはまさに、スポーツが身体を丈夫にするのか破壊するのかということに通じていきます。テキスト『一元流鍼灸術の門』260pの「鍛錬と疾病」が参考になるでしょう。

『 鍛えることと病むことの違いは紙一重の差しかありません。

鍛えるということは基本的にはより強い身体を獲得しようとする決意の下に、自身の身体を建設的に破壊することです。もしそれが全身を問題にせず部分に対してのみ行われるようであれば、そこにアンバランスが生じます。より強い健康を獲得しようとしているにもかかわらず、それが得られないばかりか身体を壊してしまうという事態に及ぶ可能性があるわけです。これはなぜなのでしょうか。

それは中心となる軸である器を鍛えることをおろそかにするためです。目の前にある結果をあせりすぎて中心を強くすることを忘れているためです。中心を強くするとはどういうことかと申しますと、自身の中心がいずこにあるのかということを意識し、そこに意識を集中することによってその核の部分の生命力を高めるということです。 』


| わたしの記憶している瀉についての実例は、伴先生が患者さんに鍼を
| したとき、鍼から邪気が出ていくのを感じ取ることができたという
| 衝撃的な例だけで、しかもそれすらも、患者さんの生命力にとっては
| 補であると思うので、瀉についての考えがほぼ無いということに…。

この時、「生命力にとっては」という言葉を付与してしまっているので、その場において生じた瀉すなわち邪気が出ていくこと、の概念が飛んでいます。


中医学でよく言われる補瀉の概念は、生命力を補うことが補であり、邪気を瀉すことが瀉である。というものです。

鍼を邪気があると感じた経穴に刺した、ということは、その経穴の生命力に対しては補法になります。全身の他の部位から生命力が集まってくることによって、その経穴から邪気の排出が行われたということだけでなく、邪気がすでに集まっている経穴に導管として鍼を入れた感じです。ですからそこには、手技としての補法や瀉法はありません。

きちんと観察する鍼灸師さんであればこのような、邪気が鍼を通じて流れ出るあるいは吹き出すという状況を経験されていると思います。私の場合は経穴に触れてみて、邪気があると感じた深さに鍼尖を触れさせ置鍼することによって、そこにあった邪気が鍼を通じて出てくるという経験です。手をかざせば、患者さんにもわかる強い邪気です。

このような経験をしていると、中医学における「生命力を補うことが補であり、邪気を瀉すことが瀉である」という言い方と、それに続いて述べられている補瀉の手技についての記載は、「変だな」と感じるわけです。

また、頭をこんこんと叩くと瀉法になるという常識を持っている鍼灸師さんもいます。これは、脉状が弦になるからというのがその理由に挙げられたりします。けれどもよく考えてみると、頭をこんこんと叩かれると具体的にむかつきます。けれどもそのことが身心におよぼす影響としては、生命力が縮こまって弱くなるというよりは、むかついて反発することによって、生命力はかえっておおいに伸張することになるのではないでしょうか。これは、施術者に向けられる言葉や態度となってでてきたりします。叩かれて鬱屈するということは生命力が弱まるのではなく、より強い生命力が発動することにつながる場合が多いわけです。ですからこれは瀉法と呼ぶよりも、かえって大いなる補法と呼ぶべきである、と言えるでしょう。脉状の弦はこの場合、鬱屈している状態、圧縮された生命力の状態を示していると考えています。


思うのですが、外科手術も生命力にとっては補法ということになります。しかし、それはその後の手当―養生がしっかり管理されているからそうなるのであって、腹を開けて臓腑あるいは内生の邪を切り出したり、その部位の調整をするという行為が、補法であるとは考えにくいです。そのままにしておくと死んでしまいますから。

そのあたりも考慮に入れつつ、虚実補瀉を考えなければいけないのではないかと思っています。


| なので「補瀉」と、まるで「補」と対であるかのように書かれている
| 「瀉」についての考えを持ち合わせていないから、「補瀉論」を
| 考えようにも途方に暮れてしまうのだと気づきました。

外界からの刺激という観点から考えるなら、刀傷やピストルで撃たれるということは、即座に生命を奪うものであり瀉法ということになるでしょう。殺人拳なども瀉法として開発されているということになります。


軽い怪我であれば修復痛と共に以前よりその部位が丈夫になるということがあります。先ほどの頭コンコンで鬱屈するのと同じで、補法として作用するということが多いでしょう。

けれども、刀傷が深くてじわじわと生命力を痛めつけることもまたあります。昔の傷がまだ痛む、あるいは(生命力が衰えてくることによって)古傷がまた痛み出した、みたいなやつですね。
.■補瀉一体論


補瀉一体論 目次


はじめに
問:瀉法なんてないのでは?
答:伴 尚志
鍼を通じて邪気が出る
補瀉の手技などない
気の濃淡を調える
補は瀉なり、瀉は補なり
補瀉と日常生活・養生は同じ
生命力の観点から補瀉を考える
気虚と気滞は一体
充実した生命力=代謝を上げ免疫力を高める



...■はじめに


ことの始まりは、補瀉についての話をメイリングリストで読んでいた会員から、瀉法って何だろう、実際には瀉法なんてないのではないか?という疑問が上がったことによります。
自然な問いだったので、そのまま何も見ずに答えているうちに議論が拡大していきました。

虚実補瀉については実はテキスト『一元流鍼灸術の門』の第十章 実戦編316p~321pにかけて詳細に述べられています。ホームページではここhttp://1gen.jp/1GEN/1802/SENKETU.HTM#12ですね。まとめとして「要するに、虚実補瀉という言葉は、一元流鍼灸術においては、「弁証論治によって患者さんの身体を把握し、それに沿って全身の経穴の反応を診ることによって選穴し、選穴された経穴に対してその経穴の形状に応じた処置を行う。」ということに換言されます。」という言葉で終えられています。

とても丁寧に描かれているので今、さらに言葉を重ねる必要はないかとも思います。けれども、勉強会で話題になってまだ理解できていない人、理解したくない人もいるようだったので、話の流れに沿って言葉を重ねていったわけです。別の角度からの虚実補瀉のお話しとして、お役に立つのではないかと思い、ここに『補瀉一体論』として、まとめてみました。
無明のただ中に立つ

無明―何もわからない見えない闇のただ中に、生きる意志と見続ける眼差しだけをもって立つ、これが毎回その臨床の場で行われている患者さんとの出会いです。そしてこのことは、古典を読み解く時にも、何かを真剣に理解しようとする時にも実は、背後で働いている姿勢であり、決意です。その存在を「見たい」「理解したい」「考えたい」と思う、その初発の気持ちが決意を伴い現れているわけです。

好奇心―これでは他人事のようで冷え冷えとします。愛―その通りかもしれません、親の子に対するような思い、これを愛というのであればよりしっくりとします。慈悲―黄帝内経にはそう書かれています。黄帝が衆生の苦しみを見て慈悲の心を起こしたために医学が生まれたと。信仰―造物主である神への愛が、作り出されたものへの興味の源泉となり、ついには西洋科学思想の基盤となりました。

同じ初発の動機を、真剣な眼差しを、私たちは持っているでしょうか。


「問う」ということの真剣さが「答え」を産み出します。「問い」の中には「答え」が潜んでいます。

真剣に問う、という姿勢を私たちは持っているでしょうか。世界を当たり前のこととして、何気なく生きているのではありませんか?

何も問うことのない者には何の答えも与えられることはありません。そこにあるものはただ、怠惰な現実を遂行させる曖昧模糊とした惰性的に流れる時間だけです。


真剣に問うことなしに答えを探し求め、言葉の檻の中に安住してはいませんか?

東洋医学の長い伝統のほとんどは、そのような営為の積み重ねでした。

無明のまっただ中に立つことへの恐怖が、慈悲によって紡ぎ出された言葉にすがらせ、その言葉を衣服のようにぶ厚くまとって自信のなさを補強してきたのです。その言葉は時に、自身よりも無知な他者を裁くことにまで使われることとなりました。


答えを探す者には答えは与えられず、真剣に問う者に答えが与えられます。答えだけを探す者にとっては、答え探しは一つのゲームであり言葉遊びとなり得ます。それに対して存在をかけて真剣に問う時、そこには生命が響き合うような答えが用意されています。


人生の客としてふるまい、自分の檻の中に住んで、与えられたメニューを選ぶように言葉を身にまとうことは、自分の檻を補強しているにすぎません。自分自身を闇の中に閉じ込めているその檻を補強しているにすぎないのです。

心のどこかでは檻から出ようと泣き叫んでいるのに、すでに忘れたはるか昔には自由になることを望んで泣き叫んでいたはずなのに、実際に行ってきたことは自身を閉じ込めるための檻の補強であり、新たな言葉もその檻に新たに塗られるペンキにすぎないなんて、何というパラドックスでしょうか!

その檻から出る方法は実はあるのです。自分自身の存在をかけて真剣に問うこと、自身に問いかけ続けること。そこで湧き起こる答えに素直に耳を傾けることです。それこそが「道」に入る端緒となります。


もともと東洋の思想を読むということはそういうことでした。自身の行為を通じてその尊敬する古典と対決しながら、自分自身の心の位置を確かめ確かめ磨き続けていくことによって、自身を成長させていく。これが古典を読むということでした。

ところがいつの時代からか、古典がただ記憶するための言葉となり、試験に出る古文となって、自らの魂をかけて古人と対決する姿勢を失わせてしまいました。それがいわゆる学問となって大学を支配する段となるとすでに、古典はただ文字の羅列となり学者は文字を正しく読み解くものとしての価値しか持たなくなりました。

その同じことが今、東洋医学でも起きているのではありませんか?中医学という名の古人の言葉をまとめたものが学問として輸入されて、それを症状に対して適用することによって処方が決まり配穴が決まるという、何という観念的な!何という安易な!そんな行為が行われているのではありませんか?これがいわゆる学問としての東洋医学となっているのではありませんか?


それに対して一元流鍼灸術で行われていることは、ほんとうの古典とするべきものは目の前の患者さんの身体であると見極め、その古典を読む真剣さにおいて古人と我々との差はないのだと心を定め、古典である患者さんの身体と対決することです。ここにおいて文字で書かれている古典もその生命をまったく新しいものとして賦活することができるでしょう。そしてこの位置にいることによって初めて、我々がこの現代において古典を書き始めることができるようになるのです。

東洋医学の伝統を踏まえたうえで、そのような自己を鍛錬していくことこそが、東洋医学の基礎を作り上げた古人への恩返しとなります。この恩返しを通じて蘇った東洋医学は、これからも人類の健康に奉仕し続けることができることでしょう。
劈頭言について追記


昨年最後に、劈頭言の解説をした文章をアップしました。『一元流鍼灸術の門』の劈頭言、これを知らない人もいると思いますので、全文を以下に掲載しておきます。


「 ここに一つの流派の名を立てようとするのは、奇を衒うものにあらず。ただ、東洋医学の大道を行ずる鍼灸術を述べんとするのみ。

なんとなれば、現行の鍼灸師は、その多くが東洋一元の観点を忘れ、患者の述べる疾病に追われ、あるいは西洋医学の症候名に追われて、鍼灸を枝葉末節の道具となして、あるいは按摩の代わりとし、あるいは、対症療法的民間療術の一派としてなんなんとす。

我、ここに東洋医学の大道に帰り立ち、生きとし生ける一元の生命の流れに組せんとするものなり。

そは、一元とは何ぞや。それは、生命を一体のものと喝破する観点なり。

もとより生命は一体のもの、一体の生命の大いなる流れの中に人は生き病み老い死す。東洋医学の出発の基礎であるこの大いなる生命観に立ちて、未病を治すすなわちいまだ疾病の徴候の現われる以前から、健康を増進し、より良い人生を活力をもって生きる、その手助けとなる医療を行ぜんとするものなり。 」


気一元の観点というものを知らないまま理解できないまま、東洋医学をやり続けている鍼灸師さんは非常に多くいますので、この言葉を掲げています。また、『一元流鍼灸術』という会の名前を理解できる人は、この名前を見るだけで、一瞬のうちに東洋医学の本質を大悟できるだろうと考えています。

けれども、勉強会に長年参加している人の中にも未だ、この基本を理解できていない人はたくさんいます。そのような人ほど、何の症状にはどの経穴が効果があるなどとして、治験を誇り、その背後に弁証論治らしきものを付してみたりさえするのです。

症状と経穴反応とが対応しているという妄想は、おそらく鍼灸師の宿痾なのでしょう。宗教といってもいいかもしれません。伝統的にこのような記載がなされ、経穴学としてまとめられてさえいます。ほんとうに根深い病です。

劈頭言では、その鍼灸師の持つ知的な病を超えるべきではないかと述べているわけです。生命そのものを見、生命の傾きに従って、経穴反応は出ている。現在呈している症状がもっとも重要で問題のある生命の指標なのでは「ない」のではないですか?と問うているわけです。四診をしてみるなら、生命力にとってより重要な問題があることが抉り出されることがあります。それこそが生命力にとってより問題の「ある」喫緊の課題なのです。そのため、生命を見る医学、生命の医学として、この劈頭に提言しているわけです。

ここまで述べてもなお、どの症状にはどの経穴が効くのでしょうかとか、この症状にこの経穴は効くよ絶対だよなどと吹聴する人は出てくるでしょう。読者は少なくともそのような人は、東洋医学の半可通、鍼灸宗教に盲従する徒としてスルーされることをお薦めします。まさに鍼灸師の持つ毒がここにあります。注意してください。

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