■生命力を充実させ、免疫力を高める
鍼灸師が鍼や灸をしてその部位に気を集めるということは、生命力を充実させることの始まりとなります。そこに気を集めるわけですから、鍉鍼における感応や、手当てによる気の重層化もまたこの充実させることの始まりとなります。気という言葉は、生命力に置きかえることができます。相手に興味を持って、手を当てるという、手当てに伝統医学は始まっています。その部位に生命力を積み上げることによって、生命力を充実させることによって、あるいは生命力の流れを良くし、あるいはものとしての生命力を充実させ、あるいは余分なものを排泄できるようにする、その過程が順調におこるようにしているわけです。
生命力が充実して、この蓄積と排泄とが、バランスよく行われていくと、腎を充実させていくことができます。この過程のことを好循環と呼んでいます。
生命力が低下していくと、捨てるべきものが捨てられなくなり、蓄めるべきものが蓄められなくなります。ここには、邪気が蓄積していくという方向性と、生命力が弱っていくという方向性とがあります。生命力が衰え、邪気をより溜め込みやすくなるというこの状況を、悪循環と呼んでいます。悪循環がさらに慢性化してできた体内における産生物のことを、東洋医学では「内生の邪」と呼んでいます。
内生の邪は、生命力が衰えることによって溜まりはじめます。
生命力が活発である状況とは、西洋医学では代謝がよい状態とも呼びます。
陳旧化した生命=邪気を排出することが基本的には【瀉】です。
新鮮な生命を摂り入れること(食事や空気)が基本的には【補】です。
生命力が弱ってくると、この分離がうまくいかなくなります。そのため、排便後の疲れが出たりします。排便とともに生命力も排出してしまうのですね。排便後に横になり休憩しなければならないような人は、危険な状態にあるということになります。
内生の邪を発生させないように、生命力を蓄積することが、養生の極意です。
活発な代謝を行いながら、【大】蓄め
活発な代謝を行いながら、【敏】感度を高め
活発な代謝を行いながら、【密】内(生命力)外(邪気)の別を明確にする
このことが生命力を充実させていくこととなります。
伝統的な東洋医学で生命力を充実させる基本と考えられている「五臓のバランスをとる」ということの中身は、この補瀉をバランスよく行うための考え方であると言えます。
「生命力が充実していれば邪気が入ることはない」という東洋医学の言い方はまさに、五臓のバランスをとって内部の生命力の充実を図ることこそが、外邪を受け付けず、内生の邪を発生させない、あるいは内生の邪を排泄するための、生命力の側の備えが大切であるということを述べているものです。
これがすなわち、東洋医学における免疫の発想の基本となるものです。
〔注:■内生の邪
内生の邪にも、その性質によってさまざまな種類があるということが、東洋医学では報告されています。いわゆる内風・内寒・内暑・内湿・内燥・内火がそれで、さらに深く慢性化していくと、痰や瘀血となります。一時的に弱った生命力が内生の邪を発生させ、その内生の邪によって、慢性的な弱り、悪循環に入っていくと考えているわけです。このあたりについては、『一元流鍼灸術の門』の病因の部分の249pから「内生の邪」として書かれています。その初期段階のことを一元流鍼灸術では、「風邪の内陥」と呼んでいます。〕
― 補瀉一体論 終わり
鍼灸師が鍼や灸をしてその部位に気を集めるということは、生命力を充実させることの始まりとなります。そこに気を集めるわけですから、鍉鍼における感応や、手当てによる気の重層化もまたこの充実させることの始まりとなります。気という言葉は、生命力に置きかえることができます。相手に興味を持って、手を当てるという、手当てに伝統医学は始まっています。その部位に生命力を積み上げることによって、生命力を充実させることによって、あるいは生命力の流れを良くし、あるいはものとしての生命力を充実させ、あるいは余分なものを排泄できるようにする、その過程が順調におこるようにしているわけです。
生命力が充実して、この蓄積と排泄とが、バランスよく行われていくと、腎を充実させていくことができます。この過程のことを好循環と呼んでいます。
生命力が低下していくと、捨てるべきものが捨てられなくなり、蓄めるべきものが蓄められなくなります。ここには、邪気が蓄積していくという方向性と、生命力が弱っていくという方向性とがあります。生命力が衰え、邪気をより溜め込みやすくなるというこの状況を、悪循環と呼んでいます。悪循環がさらに慢性化してできた体内における産生物のことを、東洋医学では「内生の邪」と呼んでいます。
内生の邪は、生命力が衰えることによって溜まりはじめます。
生命力が活発である状況とは、西洋医学では代謝がよい状態とも呼びます。
陳旧化した生命=邪気を排出することが基本的には【瀉】です。
新鮮な生命を摂り入れること(食事や空気)が基本的には【補】です。
生命力が弱ってくると、この分離がうまくいかなくなります。そのため、排便後の疲れが出たりします。排便とともに生命力も排出してしまうのですね。排便後に横になり休憩しなければならないような人は、危険な状態にあるということになります。
内生の邪を発生させないように、生命力を蓄積することが、養生の極意です。
活発な代謝を行いながら、【大】蓄め
活発な代謝を行いながら、【敏】感度を高め
活発な代謝を行いながら、【密】内(生命力)外(邪気)の別を明確にする
このことが生命力を充実させていくこととなります。
伝統的な東洋医学で生命力を充実させる基本と考えられている「五臓のバランスをとる」ということの中身は、この補瀉をバランスよく行うための考え方であると言えます。
「生命力が充実していれば邪気が入ることはない」という東洋医学の言い方はまさに、五臓のバランスをとって内部の生命力の充実を図ることこそが、外邪を受け付けず、内生の邪を発生させない、あるいは内生の邪を排泄するための、生命力の側の備えが大切であるということを述べているものです。
これがすなわち、東洋医学における免疫の発想の基本となるものです。
〔注:■内生の邪
内生の邪にも、その性質によってさまざまな種類があるということが、東洋医学では報告されています。いわゆる内風・内寒・内暑・内湿・内燥・内火がそれで、さらに深く慢性化していくと、痰や瘀血となります。一時的に弱った生命力が内生の邪を発生させ、その内生の邪によって、慢性的な弱り、悪循環に入っていくと考えているわけです。このあたりについては、『一元流鍼灸術の門』の病因の部分の249pから「内生の邪」として書かれています。その初期段階のことを一元流鍼灸術では、「風邪の内陥」と呼んでいます。〕
― 補瀉一体論 終わり
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■充実した生命力とは
東洋医学における免疫は、生命力を充実させる、ということにおかれています。
生命力を充実させるということはどういうことかというと、代謝を良くしながら、生命力の根源である腎気を充実させるということになります。
生命力の根源である腎を充実させるとはどういうことかというと、他の四臟(心・肺・脾・肝)のバランスが取れる状態を保ち、本人の生命力に少しゆとりをもたせるということです。それによって初めて、腎が充実していくことができるためです。他の四臟(心・肺・脾・肝)といいますけれども、単に数字の四としてバランスが取れているかいないかということではありません。脾であれば良く消化し消化したものを排泄したり吸収したりし、肺であれば外衛(体表)の生命力を充実させて外敵から身を守りながら呼吸を淡々と行い、心であれば他臓の調和の上に立って生命力の輝きを発揮し、肝であれば諸蔵の弱さを補いながら、過度に動きすぎないといった、それぞれの役割を十分に果たしていなければなりません。それはまさに、肝木の身体観から眺めたダイナミックな生命のバランスがとれていなければならないということになります。
そのようなバランスが取れているとき、腎は全身のバランスの中心となり、生命力を貯蓄していく余裕ができてくるわけです。
代謝を良くすること、全身の生命力のバランスを取っていくこと、その結果として生命力の貯蓄としての腎を充実させていくということ。これが生命力を充実させていく基礎となります。このことを、古くから述べているため、東洋医学は未病を治す医学であると呼ばれています。そしてこれはすなわち、養生の目的でもあるわけです。
この章ではこのことについて、もう少し深く触れていくことにします。
さて、それでは、生命力が充実しているということを、二つの側面から検討していきます。
その一つは、生命の活力を上げるということであり、もう一つは、生命力の器が充実しているということです。これは、「もの」としての生命力が充実しておりかつ、「動き」としての生命力が活発に保たれていることが、生命力が充実していく上で必要であるということを意味しています。
この「動き」の側面を、敏感さと鈍感さというものさしでみていきます。いわば変化の速度を測るものさしです。そして「もの」の側面を、大きさと小ささというものさし(量)と、粗さときめ細かさ(質)というものさしでみていきます。形となっているものの質と量とを量るわけです。
これらの問題については、テキスト『一元流鍼灸術の門』の第二章「一元」に、「器」の盛衰として詳細な考察が書かれています。
書物では30ページから52ページまで。
WEBでは、
http://1gen.jp/1GEN/1GEN01.HTM 総説
http://1gen.jp/1GEN/1GEN02.HTM 一元の器
http://1gen.jp/1GEN/1GEN03.HTM 誕生
http://1gen.jp/1GEN/1GEN04.HTM 成長
http://1gen.jp/1GEN/1GEN05.HTM 成熟
http://1gen.jp/1GEN/1GEN06.HTM 生命の森
http://1gen.jp/1GEN/1GEN07.HTM 老化
http://1gen.jp/1GEN/1GEN08.HTM 死
に至るページとなります。
さて、代謝が活発に行われている状態というのは、このものとしての器が敏感に動いて、その大小、粗密の状態を変化させていく、速度が速いということを意味しています。子供の頃はより速く、年老いていくと遅くなっていくということは良く言われることです。けれどもここには個人差が非常に大きいということもまた、事実です。
安定した器がありながら変化(代謝)が速いことこそ、東洋医学の目指す健康な状態です。鍼灸師は生命力のバランスをとるということを考えて治療します。バランスをとるということは、生命力が安定しているということです。バランスを崩しているからその生命には問題が起こる。バランスが取れていれば多くの問題は自然に解決していく。そういう発想です。
理解しなければならないことは、速度が速いすなわち代謝が速いということは、バランスを崩しやすいということにつながります。また逆に、崩したバランスを手早く取り戻しやすい、安定した状態に戻しやすいとも言えます。変化の速度が速いわけです。このため、代謝がよいということを身体を新鮮な状態に保つキーワードとする場合もあります。
しかしその逆に、体調を崩しやすくさまざまな症状に悩まされている人は、この敏感な人に多いということになります。敏感な人は多病ですが、生命力が弱いわけではありません。鈍感な人は無病ですが、生命力が充実しているわけではありません。病の多寡、症状の有無で、個々人の生命力の充実度を推し量ることはできないのです。
外界や内界への対応が速く正確にでき、その器が十分に大きいにも関わらず、密度が充実している状態が、生命力のもっとも充実している状態です。これは、代謝が良くても、過敏にはならず、倒れない器の大きさを持ち、内部が充実している状態であると言い換えることができます。
冒頭にも述べましたが、この生命力が充実しているということが、免疫力が充実しているということであると、東洋医学では言えます。けれども外邪が強い場合には、いかに充実した生命力を持っているとしても、免疫の砦は傷られて、病むときは病み、死ぬときは死ぬということになります。
東洋医学における免疫は、生命力を充実させる、ということにおかれています。
生命力を充実させるということはどういうことかというと、代謝を良くしながら、生命力の根源である腎気を充実させるということになります。
生命力の根源である腎を充実させるとはどういうことかというと、他の四臟(心・肺・脾・肝)のバランスが取れる状態を保ち、本人の生命力に少しゆとりをもたせるということです。それによって初めて、腎が充実していくことができるためです。他の四臟(心・肺・脾・肝)といいますけれども、単に数字の四としてバランスが取れているかいないかということではありません。脾であれば良く消化し消化したものを排泄したり吸収したりし、肺であれば外衛(体表)の生命力を充実させて外敵から身を守りながら呼吸を淡々と行い、心であれば他臓の調和の上に立って生命力の輝きを発揮し、肝であれば諸蔵の弱さを補いながら、過度に動きすぎないといった、それぞれの役割を十分に果たしていなければなりません。それはまさに、肝木の身体観から眺めたダイナミックな生命のバランスがとれていなければならないということになります。
そのようなバランスが取れているとき、腎は全身のバランスの中心となり、生命力を貯蓄していく余裕ができてくるわけです。
代謝を良くすること、全身の生命力のバランスを取っていくこと、その結果として生命力の貯蓄としての腎を充実させていくということ。これが生命力を充実させていく基礎となります。このことを、古くから述べているため、東洋医学は未病を治す医学であると呼ばれています。そしてこれはすなわち、養生の目的でもあるわけです。
この章ではこのことについて、もう少し深く触れていくことにします。
さて、それでは、生命力が充実しているということを、二つの側面から検討していきます。
その一つは、生命の活力を上げるということであり、もう一つは、生命力の器が充実しているということです。これは、「もの」としての生命力が充実しておりかつ、「動き」としての生命力が活発に保たれていることが、生命力が充実していく上で必要であるということを意味しています。
この「動き」の側面を、敏感さと鈍感さというものさしでみていきます。いわば変化の速度を測るものさしです。そして「もの」の側面を、大きさと小ささというものさし(量)と、粗さときめ細かさ(質)というものさしでみていきます。形となっているものの質と量とを量るわけです。
これらの問題については、テキスト『一元流鍼灸術の門』の第二章「一元」に、「器」の盛衰として詳細な考察が書かれています。
書物では30ページから52ページまで。
WEBでは、
http://1gen.jp/1GEN/1GEN01.HTM 総説
http://1gen.jp/1GEN/1GEN02.HTM 一元の器
http://1gen.jp/1GEN/1GEN03.HTM 誕生
http://1gen.jp/1GEN/1GEN04.HTM 成長
http://1gen.jp/1GEN/1GEN05.HTM 成熟
http://1gen.jp/1GEN/1GEN06.HTM 生命の森
http://1gen.jp/1GEN/1GEN07.HTM 老化
http://1gen.jp/1GEN/1GEN08.HTM 死
に至るページとなります。
さて、代謝が活発に行われている状態というのは、このものとしての器が敏感に動いて、その大小、粗密の状態を変化させていく、速度が速いということを意味しています。子供の頃はより速く、年老いていくと遅くなっていくということは良く言われることです。けれどもここには個人差が非常に大きいということもまた、事実です。
安定した器がありながら変化(代謝)が速いことこそ、東洋医学の目指す健康な状態です。鍼灸師は生命力のバランスをとるということを考えて治療します。バランスをとるということは、生命力が安定しているということです。バランスを崩しているからその生命には問題が起こる。バランスが取れていれば多くの問題は自然に解決していく。そういう発想です。
理解しなければならないことは、速度が速いすなわち代謝が速いということは、バランスを崩しやすいということにつながります。また逆に、崩したバランスを手早く取り戻しやすい、安定した状態に戻しやすいとも言えます。変化の速度が速いわけです。このため、代謝がよいということを身体を新鮮な状態に保つキーワードとする場合もあります。
しかしその逆に、体調を崩しやすくさまざまな症状に悩まされている人は、この敏感な人に多いということになります。敏感な人は多病ですが、生命力が弱いわけではありません。鈍感な人は無病ですが、生命力が充実しているわけではありません。病の多寡、症状の有無で、個々人の生命力の充実度を推し量ることはできないのです。
外界や内界への対応が速く正確にでき、その器が十分に大きいにも関わらず、密度が充実している状態が、生命力のもっとも充実している状態です。これは、代謝が良くても、過敏にはならず、倒れない器の大きさを持ち、内部が充実している状態であると言い換えることができます。
冒頭にも述べましたが、この生命力が充実しているということが、免疫力が充実しているということであると、東洋医学では言えます。けれども外邪が強い場合には、いかに充実した生命力を持っているとしても、免疫の砦は傷られて、病むときは病み、死ぬときは死ぬということになります。
■気虚と気滞は一体
生命には気虚と気滞としかないし、気虚があれば気滞となりやすく、気滞があれば気虚になりやすいということは常々、一元流鍼灸術では述べられていることです。気虚と気滞とは、言葉としては別の言葉なのですが、実は生命力の状態を二つの方向から表現している言葉に過ぎません。
気虚気滞という言葉を別の言葉で表現するならば、気の濃淡、生命力の陰翳、などという言葉となるでしょう。すなわち、絶対的な気虚や絶対的な気滞というものは生命にとっては存在せず、気の濃淡のある生命力の陰翳のみが実際にはそこにあるだけなのです。森を散歩しているときに、陽射しがあるとそれを陽と呼び、葉によって陽射しが遮られるとそれを陰と呼ぶようなものです。同じ森の時によって変化する表情を、陰陽という言葉で呼び、気虚気滞という言葉で呼んでいるだけのことです。
気虚気滞という言葉を、気の2種類の状態と考えてしまうところから、虚実論の迷妄が始まっています。虚実転変する状況にあることを理解することができないのに対処方法を固定してしまうところから、補瀉論の迷妄が始まっています。まさに作られた言葉に踊らされて、実体を見失うということが、陰陽五行論と同じように、ここでもまた起きているわけです。
さて、全身の気虚気滞の状態を眺め診るために弁証論治はおこなわれます。そしてそれを調えるために、一点の経穴を通じて鍼灸師は処置を行います。身心という大きな気一元の世界の気の濃淡を眺めながら、現れている経穴の意味を考えて選穴し、処置を行い、気の偏在を調えようとするわけです。「気の偏在を調えることが治療の本義」であるという思想が、ここには実は隠されています。
人の生命力は、自分でバランスを取る―取り戻す強い力があります。鍼灸師が実は失敗してバランスを崩すような処置を患者さんに行ったとしても、それに対する反発力が起こって、かえって、患者さんの強い生命力が自らの力でバランスを取り戻すという場合も非常に多いわけです。
その自力回復の力を越えて患者さんを傷つけることができるなら、その患者さんの生命力を傷ることができると言えます。それは、武道における殺人拳や、武器による損傷や、さまざまな事故などの場合に限られますから、鍼灸治療における微細な手技によって患者さんの生命力を損なうことができるわけでは、基本的にありません。
生命には気虚と気滞としかないし、気虚があれば気滞となりやすく、気滞があれば気虚になりやすいということは常々、一元流鍼灸術では述べられていることです。気虚と気滞とは、言葉としては別の言葉なのですが、実は生命力の状態を二つの方向から表現している言葉に過ぎません。
気虚気滞という言葉を別の言葉で表現するならば、気の濃淡、生命力の陰翳、などという言葉となるでしょう。すなわち、絶対的な気虚や絶対的な気滞というものは生命にとっては存在せず、気の濃淡のある生命力の陰翳のみが実際にはそこにあるだけなのです。森を散歩しているときに、陽射しがあるとそれを陽と呼び、葉によって陽射しが遮られるとそれを陰と呼ぶようなものです。同じ森の時によって変化する表情を、陰陽という言葉で呼び、気虚気滞という言葉で呼んでいるだけのことです。
気虚気滞という言葉を、気の2種類の状態と考えてしまうところから、虚実論の迷妄が始まっています。虚実転変する状況にあることを理解することができないのに対処方法を固定してしまうところから、補瀉論の迷妄が始まっています。まさに作られた言葉に踊らされて、実体を見失うということが、陰陽五行論と同じように、ここでもまた起きているわけです。
さて、全身の気虚気滞の状態を眺め診るために弁証論治はおこなわれます。そしてそれを調えるために、一点の経穴を通じて鍼灸師は処置を行います。身心という大きな気一元の世界の気の濃淡を眺めながら、現れている経穴の意味を考えて選穴し、処置を行い、気の偏在を調えようとするわけです。「気の偏在を調えることが治療の本義」であるという思想が、ここには実は隠されています。
人の生命力は、自分でバランスを取る―取り戻す強い力があります。鍼灸師が実は失敗してバランスを崩すような処置を患者さんに行ったとしても、それに対する反発力が起こって、かえって、患者さんの強い生命力が自らの力でバランスを取り戻すという場合も非常に多いわけです。
その自力回復の力を越えて患者さんを傷つけることができるなら、その患者さんの生命力を傷ることができると言えます。それは、武道における殺人拳や、武器による損傷や、さまざまな事故などの場合に限られますから、鍼灸治療における微細な手技によって患者さんの生命力を損なうことができるわけでは、基本的にありません。
■補瀉一体論 8 生命力の観点から再度補瀉を考える
生命力の観点から補瀉を考えるということは、どういうことなのでしょうか。
たとえば食事を摂るということは、身体にとってもっとも基本的で大切なことです。それが足りなければ生命力は弱り、過剰になっても生命力は弱ります。ちょうど良く食事を摂ることが大変難しいということは特に、気虚―生命力の弱さを経験されている方々の深く自覚するところでしょう。
基本的な生活の中でも基本的な、食事を摂ることにおいてさえ、その摂り方によって、生命力を養う方向に働く場合と、削ぐ方向に働く場合とがあります。入浴においても、入浴後に元気になる方もいれば、疲れが出てしまう方もいます。便通がつくということにおいても、便通後すっきりする方もいれば、便通があることによって疲れてしまいしばらくトイレから出てこれないとか、便通のあと少し寝て体力を回復する必要があるという方がいます。生命力にとってはいわゆる生理的な課題でさえ、それをクリアーすることが、生命力を養う方向に働くのか生命力を削ぐ方向に働くか、わかれるものなのですね。このことは、日々の臨床の上でも気をつけるべき、とてもたいせつなこととなります。
生命力の観点から補瀉を考えるということは、どういうことなのでしょうか。
たとえば食事を摂るということは、身体にとってもっとも基本的で大切なことです。それが足りなければ生命力は弱り、過剰になっても生命力は弱ります。ちょうど良く食事を摂ることが大変難しいということは特に、気虚―生命力の弱さを経験されている方々の深く自覚するところでしょう。
基本的な生活の中でも基本的な、食事を摂ることにおいてさえ、その摂り方によって、生命力を養う方向に働く場合と、削ぐ方向に働く場合とがあります。入浴においても、入浴後に元気になる方もいれば、疲れが出てしまう方もいます。便通がつくということにおいても、便通後すっきりする方もいれば、便通があることによって疲れてしまいしばらくトイレから出てこれないとか、便通のあと少し寝て体力を回復する必要があるという方がいます。生命力にとってはいわゆる生理的な課題でさえ、それをクリアーすることが、生命力を養う方向に働くのか生命力を削ぐ方向に働くか、わかれるものなのですね。このことは、日々の臨床の上でも気をつけるべき、とてもたいせつなこととなります。